2016年11月1日火曜日

肉体の振動数を上げる

今年の気象などの異常ぶりには、
ガチガチに鈍くなっている人はともかく、
多くの方が何かしらの不調を感じているのではないでしょうか

アマテラス系であるからかどうかはわかりませんが、
とにかくお日様の光がないと生きていけない私にとっては、
この長雨に続く長雨には本当に参ります

いつもなら、もうしおしおに萎れて、
すっかり生気を失っていたでしょうが、
ここのところの私は、
ちょっと違います(*´ω`*)

今年後半に入ってからのテーマが、
「肉体の振動数を上げる」
というものでした

寄る年波もあり、
去年あたりから肉体の翳りが激しく、
あまりの体調の悪さ、
それに加えて、
右膝の痛みと、リウマチの疑いが浮上

そういった肉体の不調に非常に引っ張られて、
エネルギーがどうしても落ちてしまうため、
「これは肉体自体の振動数も上げていかないとならないな」と思うようになりました(*´ω`*)

私が歩んできた「道」において、
やはりどうしても「肉体」は二の次になってしまいがちでした

もともと、私の「肉体」に対する態度は非常に悪く、
全くケアをすることなく、
「ついてこいやーっ!」とばかりに、
酷使しまくってきました(-ω-)/

「肉体」の声には全く耳を貸さず、
本当に動けなくなって始めて、
「休む」ということをするだけではなく、
「道」に入るまでは、
「肉体」に向かい合うことを避けてきたのです

そんな状態ですから、
もちろん、「肉体」は悲鳴をあげ、
様々な症状を起こし、
死の淵に2回ほど行きましたし、
一応、癌なども体験しました(・∀・)

「道」に入ってからは、
そんな「肉体」に向き合い、
どうにかこの「肉体」を産まれた時の完全な状態に戻して、
きれいにしてから死ねたらと思い、
西洋医学ではなく、
自らの治癒力で戻していけるよう、
様々なことをしてきました

その浄化の過程で、
死の淵まで行き、癌にもなったのですが、
(それらそのものが、まさに浄化のプロセスでした)
自分の中で「まだ完全に悟ってないから死なない」という、
妙な安心感があったため、
いずれの場合も恐怖は全くありませんでした(*´ω`*)


そんなこんなで、
自分なりに精一杯「肉体」に向き合い、浄化し、
無事に悟りも得ることができましたが、
痛めに痛めつけてきた「肉体」が元に戻るには、
まだまだ、といった状態でした

また、
私の母は「病気辞典」のような人で、
救急車に乗った数知れず、
切った貼ったの数知れず、
患った病気の数知れず、
いまや薬で身体ができているんじゃないかという位の有様ですが、
遺伝的な体質や気質の問題だけではなく、
どうも、私に課せられていたのは、
母の患ったのと同じ病気を患い、
それを対処療法である西洋医学に頼っている母とは違う方法で浄化し、
そのカルマ自体を浄化していく、ということであったようです

そのため、今まで、
母の患ったのと同じ病気(複数)を、
本当に大変な思いをして経過してきました

もう、これ以上病気を背負うのは勘弁願いたい(;´Д`)

それなのに、ここにきて、またしても母と同様、右膝が悪くなり、
母ならず、祖母の罹ったリウマチの疑いまで出てきたとあっては、
これまで行ってきた方法だけではなく、
何か根本的に変えていかなければならないのではないか、と
思ったのです

今までは、
治癒力という観点や浄化やヒーリングという観点から「肉体」に働きかけてきて、
もう十分に浄化し癒し、十分に自己治癒力は高いにも拘わらず、
私の「肉体」の問題は去らない

何が足りないのか・・・
何が根本的に違うのか・・・

そう思うようになった時に、
「肉体」の振動数自体を上げていく、
という道が私の前に現れたのです♪

「肉体」の振動数が低いと、
どんなに意識が高い振動数に至っても、
どうしても、その低い振動数の「肉体」に引きずられてしまうのです

自己治癒力や浄化力が高いということは、
ある意味、いい波動だということであり、
振動数が高いと言うこともできるのかもしれませんが、
「肉体」の振動数自体を上げていくということは、
何かもっと根本的なことであり、
何かもっと精妙なところのもののようです

意識と「肉体」をもっと同調させる、
と言い換えることもできるかもしれません

それは、
いわゆるヨガをしたりして、
肉体を柔軟にし、整えるというだけのことでもないようなのです

真のヨガを極めたことがないのでわかりませんが、
何かもっと質が違うことのような気がします

いわば、
肉体を構成している物質を、
光の振動数まで上げていくということです

今でも、私の身体の中では、
霊的な眼で視える内なる光は輝いていますが、
それだけではなく、
肉体そのものも光になっていく、ということです


どうすれば、
それが可能になるのか・・?

まだ、明確にその方法に出会った訳ではありませんが、
そう思い始めた頃、
そこに向かっていくためのある方法に出会いました♪

長くなるので、
続きは次のブログにて!















2016年8月15日月曜日

プログラミングとインナーチャイルド ~深層心理(潜在意識)へのワーク~

スピリチュアルな進化の「道」において、
ダイレクトに真我を目覚めさせることと、自我であるパーソナリティを浄化させることは、
両輪の輪のようにどちらも重要な要素だ

たとえ瞑想で非常に深い境地に達しても、
自分の心理のパターンに捕らわれたままであることはよくあることだ

そうすると、社会の中で人生に戻ったとたんに、
その低い振動数に引っ張られてしまい、
地上にフックされ続けてしまう

それらは同時に行っていくのがいいが、
実際には、I Amが少なくともある程度は目覚めていないと、
パーソナリティの浄化は本当の意味では成しえない

というのも、
パーソナリティに完全に糊付けされ、
それと同化してしまっている状態では、
どうしようとそれに巻き込まれざるを得ないからだ

そのため、
私たちのワークでは、
まず、I Amを目覚めさせていく

そして、それがある程度安定化してきた生徒さん達には、
自然とパーソナリティの浄化に向かうタイミングがやってくる

自分のマインドで本当に起こっていることを、
内観し、洞察していくことが始まる


さて、
では、パーソナリティの浄化、内観、自己洞察といっても、
何をどのようにしていけばいいのか?

何をどのように見ていくのか?

何をどのように深め、
何をどのように癒し、
何をどのように解放していくのか?

それにはたくさんの要素があるし、
たくさんの切り口がある

深層心理学的アプローチもあれば、
近年流行り始めたシンクロニシティや「流れ」などという、
人生の裏側にある真の意味を深く洞察し、
人生そのものをポジティブに生きていくアプローチの仕方もある

最近では、もっと新しいものも現れているかもしれない

実際には、
それらが総合的に機能していく

重要なのは、
それを行っていくという意図を強く持つことだ

それは、どんな方法を取ろうと、
魂のブループリントに沿うことであり、
その意図を持つことで、
恩寵の力が働き始める


とはいえ、
何の知識もない中でそれらを行っていくのは、
実際には不可能だろう

それらを理解するための一歩として、
まずは基礎的な深層心理のしくみについて書こうと思う




その一つの大きな要素が、
「プログラミング」というものだ
「条件付け」とも言う

まず、私たちという存在は産まれた時点で、
ある意味、「白紙」ではあるが、
実際には「カルマ」によってある鋳型が形成されている

「下塗り」と言ってもいいし、
「フィルター」という言い方もある

それは、産まれた時点である特定の振動数を内側に持ち運んでいるということだ

だが、それは何も悪い意味だけではない

それは、実のところ、
魂の特質を、ある意味反映しているからだ

もちろん、通常「カルマ」と言う時、
ネガティブな意味合いで、それらを何世にもおいて持ち運んでいることを言うが、
それはコインの裏表のように、
魂の特質がネガティブな方向に現れてきているものとも言えるのだ

言い換えれば、
魂の本当の「望み」に関係しないものは、
持ち運びようがないのだ

たとえば、
愛を実現したい魂は、
愛に餓えている、というように

だから、
「カルマ」というものも、
実はポジティブな意味合いがあるのであり、
毛嫌いする必要はないことを忘れないで欲しい

むしろ、「カルマ」がわかれば、
そこから魂の特質を見出すことができる

それは、魂の「チャレンジ」なのだ

が、
もちろん、その「カルマ」に引きずられているだけでは、
進化は起こらない

さて、
その「鋳型」を下地剤として、
私たちは産まれてから育つ環境によって、
およそ3歳までにほとんどのプログラミングをなされ、
およそ7歳までにほとんどの心理パターンができあがる

プログラミングというのは、
コンピューターのように、
ある外界からの刺激、情報などのインプットに対して、
いつも特定のアウトプット、つまり反応を起こすよう、
固定化されていくということだ

それらは、3つ児の魂100までというように、
およそ3歳までに基礎は固められ、
およそ7歳までにそのバリエーションが完成されると見ていいだろう

私たちは、7歳の時にやっていたことと同じことをずっと繰り返しているのだ


「鋳型」は、
プログラミングの方向付けをするものと言ってもいいだろう

たとえば、
Aという刺激、もしくは情報、感覚、体験というインプットに対して、
Xというアウトプットをプログラミングするか、
Yというアウトプットをプログラミングするかは、
その「鋳型」の振動数によるし、
そもそもが、
Aというインプットをより強く引き付けるか、
それともBというインプットをより強く引き付けるかも、
その「鋳型」による

そうして、
各自ユニークなプログラミングを形成していく

だが、
それに使う「想念」や「感情」という諸要素は、
いたって「集合的」なものだ

つまり、普通「私の考え」「私の気持ち」と思っているが、
それらは「集合的」なプールから拾い集め、引き寄せたものに過ぎない

そのため、
実はパーソナリティそのものが「非個人的」と言うことも可能なのだ

「非個人的」で「集合的」な「想念」や「感情」という積み木を、
プログラミングに従って組み合わせた積み木細工が、
パーソナリティだと言っても過言ではない

だから、そこに「実体はない」というのだ


さて、ここで、もうひとつの観点から見て行こう

そのプログラミングの過程において、
私たちは人間として自然に備わっている、ある基本的な「欲求」を満たしていこうとする
(トランスパーソナル心理学)

その基本的な「欲求」とは、
1、「生理的欲求」・・・・・・・生存のための欲求。空気、水、食物、睡眠など生存可能な環境を満たす欲求
2、「安全・安心の欲求」・・安全で安心して生きること、保護されることへの欲求
3、「所属と愛の欲求」・・・愛されること、ある特定の家族に所属し、その中で愛され、居場所があることへの欲求
4、「承認欲求」・・・・・・・・自分が周りの人から承認され、尊敬されることへの欲求
5、「自己実現の欲求」・・自分がなりたいもの、やりたいことの実現への欲求
そして、
6、「自己超越の欲求」・・自己を超越した大いなるものへ到達する、至高体験、悟りへの欲求


私たちは育っていく上で、
1~5までの基本的な欲求を満たそうとするが、
その環境において、
必ずしもその欲求が満たされるとは限らない

ほとんど全員が、
どこかで何かの欲求が完全には満たされないまま、
大きくなっていく

完全には満たされなくても、
まあまあ、そこそこ満たされていけば、
私たちは大きく損なわれることなく、
自然に成長を遂げていくことができる

だが、
何かの欲求がどこかで大きく損なわれると、
その欠損を抱えたまま、
人は成長していかざるを得なくなる

その場合、
人はその欠損が起きた地点をそのまま抱えていくことになる

それが「インナーチャイルド」と言われているものだ

先に述べたが、
およそ3歳までに、これらの欲求のうち何かが大きく損なわれると、
その損なわれて傷つき、縮こまった時の年齢のまま、その状態のまま、
ずっと内側深くに凝り固まってしまうのだ

大きく開いた穴を、そのまま内側に隠し持つことになる

それは、傷ついたちっちゃな子どものまま、
成長できずに、
内側で暴れ続け、
人をコントロールし続けていく

そこで欠損したものをどうにかして周りの誰かから手に入れようと、
あがき続けることになる

その手口は大人になるほど巧妙になっていくかもしれないが、
深く突き詰めて行けば、
「~が欲しい!~が欲しい!」と欲して、
駄々をこねていることにちっちゃな子どもと変わりはない

まあ、現代の日本に生まれ育った人であれば、
1の生理的欲求や2の安全・安心の欲求が大きく損なわれることはあまりないが、
育児放棄や虐待の体験がある人は、
その1や2の欲求すら満たされないままである可能性が高い

過剰もまた、欠損と同じ結果をもたらす

適切でない限り、それは何らかの欠損という形になって残る

3となると、もっと微妙になってくるだろう

食事や睡眠など、最低限のことは保障されていても、
その家庭の中で居場所があるとは限らない

4ともなれば、かなりの人が満たされないままだろう

ありのままの姿を、すっぽり受け入れてもらって愛されたという実感の持てる人は、
そう多くはないだろう

人は「しつけ」と称して、
否定され続けることが多いからだ

あなたはあなたとしていることを許されず、
周りの大人や社会にとって都合の良いように、
条件付けされていく

そして、そのように欠損した欲求は、
小さな錘のように、
人を引っ張り続ける

いつもいつも愛を求めては得られず、
いつもいつも認められたくても認められず、
人はその体験を強化し続けていく

いつもいつも、
同じパターンに嵌まり込む

それは、
内なる子ども、インナーチャイルドがその人を支配し続けるからだ

インナーチャイルドが、
人を強烈にプログラミングしていく

それは、周りの環境という外側と、
インナーチャイルドという内側から来る二重のプログラミングだ

それに人は振り回され続ける

そして、満たされなかったものが、
誰か他の人によって満たされる期待は、
残念ながら叶うことはない

そのインナーチャイルドを内に持ったまま大人になった人を、
「アダルトチルドレン」という

よく、「地雷を踏む」と言うが、
何か大きな反応が起こる時、
反応しているのは、そのインナーチャイルドだ

だが、強烈なインナーチャイルドを持っているからといって、
自己実現や自己超越の欲求に辿り着けないわけではない

むしろ、そこでのどうやっても満たされない苦しみが、
私たちを自己実現や自己超越の欲求へと駆り立てることがある

その強いモチベーションとなりうるのだ

だから、この「インナーチャイルド」も、ネガティブな側面だけではない

それもまた、神へと向かうための、魂の「チャレンジ」なのだ

それらが、
私たちの心理を形づくっている大きな要素となっている




私たちが「進化」への「道」で成していく浄化のワークは、
このプログラミングを外し、
インナーチャイルドを癒し、成長させていくことだ

それは、
本当の素のあなた自身を顕していくことだ

それは、
抑圧されたあなた自身に「イエス」ということだ

それは、
あなたの中の、小さな子どもの生の叫び声を、
あなた自身が直接に知るということだ

そして、その小さな子どもを抱きしめ、
愛し、認め、
開いた穴を塞ぐことができるのは、
あなた自身に他ならない

















2016年8月1日月曜日

ふぅちゃんが来た!

一昨日、うちにふぅちゃんがやって来た



ふぅちゃん、ってのは、犬である
トイ・プードルとマルチーズのミックス犬

本名はフリンらしい
なんでも、ミランダ・カーとオーランド・ブルームの息子の名前がフリンなので、
それをつけたらしい
一瞬、「不倫?」と驚いた(;´Д`)
ということで、このフリンちゃんも4歳の男の子

娘夫婦が飼っている犬だが、
家を建て直すに当たり、
その間、うちで預かることになったのだ(;´Д`)


これがまた、
見た目の通りのやんちゃ(;´Д`)

かまって、かまってちゃんである
ぱたぱたぱたぱた、気ぜわしいことこの上ない

 おトイレとおすわりのしつけはきちんとできているが、
後は大いに甘ちゃんで育っている

初日に、お客様用新品の高級毛布をボロボロにしてくれた(T_T)/~~~

トイレマットと、タオルも1枚、犠牲にしたあげく、である

4歳になるのに、
じゃれて甘噛みが激しく、
時に痛い位噛んだり、
「う~っ」と威嚇の声を出す

威嚇を止めると、
ともすれば噛みつく
怪我をするほどではないが、
これはマズい

人間にしたら、ちょうど30歳くらいらしいが、
まだまだ、落ち着いていない、
永遠の2歳児、という感じだ

おトイレも、できてはいるが、
1日に10回くらい、シートにして、
シートを替えてないと、
シートではないところでしてくれる

まあ、それは犬のせいではないので責められないが、
しょっちゅうシートを取り替えるだけでも相当の手間・・・

早く、朝晩のお散歩で済ませてくれるようになるといいが、
小型犬でオスだから、しょっちゅうするのが生態なのだろうか・・・

以前飼っていた中型犬のミックスは、
何も教えなくても、子犬の時からお散歩の時しかトイレはしなかったし、
おとなしく、ちゃんと言うことは聞いていたので、
犬って、そんなものだと思っていた

しかも、
うちには猫のにゃあがいる


図で言えば、こんな感じ

自分のエサは残しても、
にゃあのエサが気になる

にゃあのことも気になり、遊んでほしくて、
回りをウロウロ

もちろん、にゃあの方が圧倒的に強い

「しゃーっ!」の一声で、
速攻、退散だ

とにかく、
これはしつけをし直さないことには、大変過ぎる(;´Д`)

娘たちが昨日帰ってから、
昨日、今日、と大混乱だ|д゚)

にゃあも、通常との違いにとまどい、
いろいろ大変である

基本的には自由にしてあげるのが好きなので、
そうしようと気軽に考えていたが、
とんでもなかった(;一_一)

まあ、ふぅちゃんの方も、いきなり環境が変わって興奮しているのもあったのだろうが・・・

小型犬、ってのは、
こんなにも大変だとは・・・

リトリートまでに、
なんとかしないと困る

ということで、
しつけ開始!

犬はずっと飼っていたが、
いわゆるしつけをした経験はなかったので、
ネットでいろいろ勉強してみた(*´ω`*)

まずは、犬の気持ちを理解しようとし、
愛をこめて、信頼して接し、
信頼関係を作りながら、
毅然とした態度で、
こちらがリーダーだと認識させること

ホールドスティルなどというものをやってみる
ひっくり返して抱く姿勢で、リラックスできるように
まあ、いわば、服従の姿勢だ
(まだ、暴れてほとんどできないが、10秒くらい、力を抜くことができるようになってきた)

犬は、群れる種族だから、
リーダーと認める人の言うことはちゃんと素直に、喜んで聞く(*´ω`*)

リーダーに従うことは、
犬にとってはむしろ喜びであり、幸せなことなのだろう

かわいがりすぎて甘やかしたり、
犬優先にすると、
犬の方がリーダーだと思い、
言うことを聞かなかったり、
あるいは、
自分が飼い主を守らねばと、攻撃的になったり、
負担を抱えて、ストレスが強くなったりするとのこと

実は、犬にとっても、
飼い主がリーダーの方が、
楽に幸せに調和的な暮らしが送れるのだ

飼い主の娘の旦那さんは優しい人なので、
ふぅちゃんを膝に乗っけて抱っこしていたが、
それは人間の方がリーダーとは認めてもらえない行為だとのこと

犬に席をゆずったり、
アイコンタクトを取ろうとして、
目をのぞき込むのも、
人間の方が下という態度だとのこと

なんとなく、
方向が見えてきた

半年とはいえ、
にゃあとも、調和的に暮らせるようになるといい

そして、とにかく、布団や枕をがじがじ、を止めること

威嚇を止めること

甘噛みも卒業させること

毅然と、気長に、
できたら、即褒めながら(*´ω`*)

自分の方が、犬に振り回されてちゃ、ダメだってことだ

でも、一番重要なのは、
真我にいて、真我のエネルギーを注ぎながら相手をすることか

それと、
決意♪

とはいえ、昨日は本当に大変で、
さすがにふぅちゃんには夜はハウスで寝てもらったが、
夢でも、言うことを全く聞かない悪ガキどもの先生をして、
苦労しまくってしまった(・∀・)

そして、
約1日が経過し、
ふぅちゃんもすいぶん変わってきた

「NO!」の言葉で止めることができるようになったし、
(もちろん、まだ、完全に止めるところまでは行っていないが)
自分の気の進まない場面での「ハウス!」などの言葉を聞けるようになったし、
ずいぶん、動きも落ち着いてきた

散歩も、昨夜は自由気ままだったが、
今朝はパートナーがリーダーウォークなるものを試してみた
これは、なかなか見通しが良さそうな感触だった(*´▽`*)
もちろん、まだまだだが、ふぅちゃん、筋がいいかも♪

シャンプーもおとなしくできたし、
苦手だというドライヤーも、
気持ちよさそうに受けることができた

少しは信頼してくれたのだろう(*´▽`*)

今も、私たちの邪魔はせず、
足元でぐて~っと、リラックスして寝ている
(昨日は、一日中動き回って、かまって、かまって、で、私たちも疲れ果ててしまったが)


犬の学習能力、考える力、というか、感じる力は、
やっぱりなかなかに素晴らしい♪


犬も猫も人間も、
初めての体験でお互いにとまどいながら、
お互いに模索しながら、
いい関係性が作れていったら、楽しいだろう♪

そんな風に思えるほどになった(*´▽`*)

ふぅちゃん、WELCOME!!!









2016年7月27日水曜日

神とのホールネス

私たちは、
真我である魂を通して、
神との一体、神とのホールネスに至ります

魂が、神へと至る通路なのです

私たちの魂が完全に目覚めた瞬間、
私たちは同時に、
神を体験します

完全なる魂の体験と、
神の体験は、
ひとつなのです

というのも、
魂は神とひとつだからです

それは、
圧倒的な体験です

地上のどんな感動的な体験も超えています

完全に揺さぶられ、
愛に包み込まれ、
神聖で新鮮なエネルギーに全てを洗い流され、
感謝と愛の涙がとめどなく流れ、
完全に満たされる

それこそが、
人を完全に満たし、
永遠に幸せにする、
体験を超えた体験なのです

でも、
それはまだある意味「生」の範囲の中で起こっている体験だとも言えます

創造と非創造の何か狭間で起きている体験

私たちが、
魂を完全に目覚めさせ、
その「私」を安全に明け渡した時、
私たちは「生」を完全に超え、
神とのホールネスへと滑り込んでいきます

魂は神の圧倒的存在、
その全体性の中へと溶け込み、果てしなく拡がり、
「不可知」の中へと入っていきます

魂はもはや何の境界も持たず、
もはや分離はなく、ひとつに溶け去っていますが、
そこには、
同時にその「不可知」の体験を「知っている」透明な魂が存在してます

魂の認識する機能が働いていると言うこともできます

だからこそ、
私たちは神を体験していることがわかるのです

それが、
魂の神秘的なところです

もし、そこに誰もいなければ、
体験そのものが生じようもなく、
「体験はない」ということになります

伝統的な「私はいない」という教えによって、
魂は否定され、
深い傷を負ってきました

魂の拡張機能であり、
まさに魂が神へと戻るために使うべきツールである、
エゴもまた、
ひどく否定され、
取り返しのつかないくらいの手傷を負っています

人類の霊的進化とともに、
今、私たちは、
非常に有効なツールであるエゴを温かく包み込み、
その傷を癒し、
魂を実現していく時を迎えています

そして、
魂を実現した者は知っています

それこそが最高の自由であり、
最高の歓びであり、
最高の幸せ、充足であると

そして、
魂を実現したものは語ります

神を










「支援員」がいらなくなること

先ほどのブログで、
私が障碍者を「絶対的にケアの必要のある人」と見ていると書きましたが、
それはあくまでも今の時点では、ということであることを、
付け加えておきます

私の目標は、
私たち「支援員」が必要なくなることです

障碍の程度やその特質によって、それは大きく異なりますが、
少なくとも、私が関わっているB型支援の福祉施設に通っているような人たちに関しては、
いつか、私たち「支援員」がいなくても、
社会の中で彼らが十分に安全に幸せに生きていけるようになること、
それが私の願いです

そのためのまずの目標として、
彼らが施設を自治で運営していけることです

あくまでも全て彼らのペースで、
彼らの都合で、
彼ら同士、コミュニケーションを図り、
仕事の相手先との交渉もし、
仕事の段取りもし、
仕事をし、
施設の管理もし、
問題が起きれば彼らで相談し合い、
解決していく

今の社会のように、効率を優先したり、
利益をあげることを優先するのでは、
もちろん、その可能性は低くなってしまいますが、
そうでなければ、
それだけの力を彼らは持っているのです

実際には、組織を運営していくための支援や、
多少の交通整理としての支援が必要な時もあるでしょうが、
基本的には、
その中身に関しては、
彼らが主導で進めていくのです


それがもっと進めば、
プチ福祉施設が社会のあらゆるところに存在するようになること、
言い換えれば、社会そのものが福祉施設になっていくこと、
そして、それと同時に、
彼らも彼らなりの社会の中で生きていく方法をもっともっと見出し、
自らを表現していく力をつけていけるということです

極端な言い方をすれば、
彼らを健常者に近づけようとするのではなく、
社会が彼らに近づいていくということです

彼らに寄り添い、ともに生きていく社会です

そういった社会は、私たちにとっても幸せで楽しい場になると思います

そのためには、
経済第一優先の経済信仰が終わり、
内面の豊かさ、霊的な発展が優先される社会が実現される必要がありますが、
この先、人類はそちらに向かって進まざるを得なくなると思います

そのために、
彼らから教わること、受け取ることは本当にたくさんあります

本当は、そのために彼らという存在がいるのではないかと、
密かに思っている私です



ですが、
この私の目標に対して、
今の段階で、
同じ職場で同意を得られるのは良くて一人か二人でしょう

大半は、
「そんなの無理に決まってるでしょ!」と、
一言下に却下するでしょう

社会は厳しいものだ!それを彼らも知らなくてはならない
それこそが彼らのためだと信じて疑わない職員が多いのです
まだまだ、それが現実です



知的障碍というと、
読み書きが不得手だったり、
計算ができなかったり、
形の認識力に欠けていたりなど、
そういった知的な面における未発達さや、
感情的な未発達、
また、
むしろその敏感過ぎる感受性のためと、
それを表現する方法がわからないために、
人とのコミュニケーションにおいて難しさを感じることなどが特徴ですが、
実際には、
それに精神障碍が重なっているケースが多く、
そのあり方はより複雑になっています

私が関わっている中で感じたことは、
これはあくまで、軽度の障碍の方のケースですが、
その人の障碍の特性そのものより、
両親に「受け入れられているか」どうかが、
集団の中でトラブルとなる行動や現象の現れに大きな影響を与えているということです

両親に受け入れられて、
十分に愛情を受けている人の場合、
障碍の程度、質にかかわらず、
穏やかで、他の人からも愛される傾向が強く、
障碍があることを親が本当には受け入れていない場合、
不安定になりがちで、
深刻な場合は精神障碍を伴い、
非常に不安定で攻撃的になり、
他の人たちとトラブルを起こす傾向が強いのです

もちろん、
単純に親の愛という問題ではなく、
その周りの環境や、社会の体制など、
本当に様々な要因がありますし、
親となった方々は、どの方も、
その社会がもたらす重荷を背負い、
精一杯にできることを果たされているのは確かなので、
その親御さんを責めるつもりは全くありません

ただ、少しでもその点に関して、
お互いに心を開いて話し合ったり、
少しでもその重荷を降ろしてあげられたらとは思うのですが、
それすらなかなか難しいというのが現状です

自分の子どもに障碍があるとわかった時、
それを受け入れるのは、
口で言うほど簡単なことではないでしょう

どれほど、そのご両親たちがこの社会の中で、
「いっぱいいっぱい」になっているか、
深い胸の内で、どれほど傷ついているか、
それは痛いほど伝わってきます


五体満足で、健常の子どもですら、
私たちの多くは、そのあるがままを受け入れたりしません

障碍があろうとなかろうと、
本当にあるがままを「受け入れられている」子どもは少ないでしょう

それ以前に、
あるがままの自分を受け入れることがどれだけ難しいか

やはり、
一人ひとりがそこから地道に取り組んでいくしかないのだと思います










障碍者施設での事件によせて

今朝、神奈川の障碍者施設で、前代未聞の悲しい事件が起こりました

犠牲になられた存在の魂が安らぎを得られること、
ご家族、ならびに関係者の方々の悲しみが少しでも癒されるよう、
祈りを捧げたいと思います

この事件は、犯人である元職員の男性の個人的問題に終わらず、
人間というものの深層を見て行く上で大きなきっかけになると思うので、
ここで取り上げることにしました

人間の霊的進化の上で、
この事件は自分自身の内側を見て行くための大きな示唆を与え得るものです

普段、知的障碍者の施設で働いている者としても、
本当に彼らが彼らでいられる社会になってほしいという思いとともに、
私自身も、自分の内側に深く問うてみたいと思います

そもそもがあり得るはずもない命を否定し奪うという手段を取ったことは言うまでもなく、
体力ある26歳の青年といえど、
包丁やナイフで45人もの人を刺し続けていける体力と気力とモチベーションの持続は、
尋常ではなく、
何らかの精神の異常状態や、あるいは何らかの憑依などがあったかもしれませんが、
ここで取り上げるのはそういった面ではなく、
彼が投げかけた問いそのものです

「産まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障碍者は果たして人間なのでしょうか?」

そう、彼は問いました

彼の結論は、「人間ではない」というものでした

また、彼の結論は、「回りを不幸にする存在である」というものでした

それに対して、憤りを感じたり、
「私はもちろん人間だと思うわ!」と簡単に答える人は多いでしょう

もちろん、その答えは明らかです

でも、自分の生活がそのケアのために犠牲にならざるを得なくなった時、
自分がまさにその関係者になった時、
心の底の底から、
自分と全く同じ人間なのだと、
一人の尊厳ある人間存在なのだと、
一点の疑いも、ごまかしもなく、
彼らと、その尊厳を本当に尊重して接し続けることができるでしょうか?

偽善ではなく、
意志の疎通の全く取れない、
排泄も自分でできず、
こちらの思うようには決して動いてくれない相手に対した時、
きれいごとではすまない、
自分の弱さを突き付けられるのです

「人間ではない」と結論づけた彼は、
そのまま彼自身の弱さを表出しています

「そういう人たちだからね」と片づけるのもまた、
問題から目を反らすための逃げにしか過ぎません

あるがままの彼らの姿を、その有り様を、
本当に認め、受け入れ、尊重しているのでしょうか?

本当に、そういう彼らを、
彼らのその姿そのままに愛しているのでしょうか?

本当に、彼らとともにいて、
幸せでいられるでしょうか?

皆さんは、何をもって、
自分自身が人間であるということのよりどころにしているのでしょうか?

人間であるということは、
どういうことなのでしょうか?


私の友人に、知的障碍のある娘さんを持っている人がいます

その人の言葉で、私が生涯忘れ得ない言葉があります

「自分より先に子どもが逝くと、ホッとするんだよ」
「最後まで、自分で見守れて良かったね、って、障碍者の親同士は話しているんだよ」

その言葉は、ものすごい衝撃でした

私にとっては、子どもが先に逝くことだけは絶対に起こらないで欲しい、というのが、
親の当たり前の気持ち、
唯一の絶対的な願いだと思っていたからです

「自分より先に死んで欲しい」というのが、障碍者の親の本音であり、
それが彼らの愛なんです

自分の死後、子ども達がちゃんと生きていけるのか、
不幸な目に合わないか、
困ったり、苦しい思いをしないか・・・・・
そう、心配しているのです

もちろん、それだけではない

その言葉を聞いた時、
その裏にあるたくさんのたくさんの複雑な思いを受け取りました

それだけ、この社会では、
障碍者の親であるということは、
それだけで大きな重荷を背負ってしまっているのです

ホッとするのは、
その重荷を降ろせるからなのです

もちろん、そうでない親御さんもたくさんいらっしゃるでしょう

障碍を持つ存在たちから、
たくさんの愛とたくさんのギフトを受け取ったという方もたくさんいるし、
私も、その一人です

一緒にいて、「幸せ」を感じられるのです
パワーを、元気をもらえる

彼らは、決して、「回りを不幸にするだけの存在」などではないのです

彼らという存在の本当に素晴らしい側面を見て行ける人もたくさんいます

現場で働いている職員の多くは、
だからこそ、働き続けているのだと思います

「えーっ、人間じゃないよ、天使だよ!」と、言い切ってしまえる人もいるかと思います

これからはますます、そういう人が増えていくと思います

それでもなお、
本当に「同じ人間」として心底見ているのか・・・・
そのハードルは案外、高い

その疑問は、私自身にも言えることです

私は、「絶対的にケアすべき相手」として見ている
「絶対的に保護すべき相手」として見ている

もちろん、彼ら一人ひとりの意志や思い、願いを尊重し、
それを少しでも汲み取り、その実現の手助けをしたいと思う、
「手助けすべき相手」として見ているのです

それは愛と言えますが、
でも、同時に、同等の、対等な相手として見ているのかというと、
そうではない、ということです

本当に、一人の対等な人間として、
相手を尊敬していけるのか・・・

このハードルは結構高いのです

そういう、一人ひとりの本音が、
社会を形づくっていくのだと思います


ただ、「ひどい事件だ」と片づけるのではなく、
ただ心を痛めるのではなく、
まして他人事と見るのではなく、
ぜひ、この機会に、
自分自身の本音と語り合ってみてください

正しい答えはなくていい
お決まりの答えもいらない

ただ、自分自身の本音と触れ合う

そこからこそ、
本当の変化が生まれてくると思います








2016年7月20日水曜日

このところ、体調がよろしくなかったので、
ただいま、伊豆の白浜に浄化に来ています♪

白浜までは、小1時間かかり、
もっと近くに浜はいろいろあるのですが、
やっぱり、この広さ、
この砂の白さ、
この水の綺麗さは、
白浜ならではです(*´ω`*)

子どもの時から、よく行っていた砂浜は、
千葉の九十九里、
日本の三大砂丘のひとつだったので、
やっぱり、海はこの広さがないとね(*´ω`*)

基本的に波が怖いので、
足が届かないところまでは到底行けませんが、
それでも、ゆらゆらぷかぷかしているだけで、
本当に気持ちがいいですヘ(≧▽≦ヘ)♪

ふわわ~✨

太陽の光も、
海風も、
最高です(*´ω`*)