2019年3月22日金曜日

精神(スピリット)補足

先日、精神(スピリット)について書きました

今更、精神の事なんて、と思われる方も多いと思いますが、
実はこれ、かなり重要なのではないかと、
書いているうちに思いました

それで、少し補足を書きますね
(書き終わってみたら、補足どころではなくなりました(^o^;)

先日は、精神と意識と心の違いについて触れましたが、
この3つはそれぞれ切り離せる別のものという訳でもなく、
どこからどこまでが意識で、
どこからどこまでが精神、
というようにきっちりと線引きをして分けられるものではありません

それらは複雑に混じり合い、
相互作用しているからです

それでもなお、
意識、心、精神のそれぞれが持つ味わい、エネルギー的様相は明らかに違っています

意識、精神はより魂に近く、
心はよりパーソナリティに近いと言う事もできるでしょう

よく、精神性が高いとか低いとか言いますね

皆さんも、直感的に、他の人に対してそう感じる事があると思います

それは、
精神が高い人と、低い人がいるということでしょうか?

私は、そうではないと思っています

本来の精神そのものに、
高低や貴賎はありません

あの人の精神は優れていて、
この人の精神は劣っているなどと、
そういう事はありません

精神は、誰のも素晴らしいものです

ただ、
精神性が高いという人は、
精神性が低いという人と比べた時、
より、魂に近いところにいる、
という事ではないでしょうか

魂に近いゆえに、
その現れである精神性がより強く発現されている、という事です

魂の精神とパーソナリティが調和し、
統合されていればいるほど、
その人の精神性が高くなるのです

自分自身の精神が何か、
すぐによくわかる人は、
すでに魂が現れ始めています

それに反して、
精神?何の事だかよくわからない、
心ならよくわかるという人は、
まだ魂が眠っていて、
パーソナリティだけで生きている人と言えます

さすがに、
心もどれの事だかさっぱりわからない、
という人は、
このブログ自体を読むことは決してないでしょう

自分の心がよくわからない、
という表現はよく聞きますが、
それは、心自体がどれかわからないという意味ではなく、
心の中で、本当はどう感じているか、
何が正解なのかよくわからない、
という意味ですね

ですから、
ほとんどの人は心が何かを知っているはずです

ちょっと話は逸れますが、
ハートの側面に働きかける際、
ハートがよくわからないという人が案外多くいます

その場合のハートは、
厳密に言えば心とは微妙に違うものなのですが、
道の初期の段階では、
ほぼ同じものとしての理解で十分です

それにも関わらず、
ハートがよくわからないという人は、
おそらく、
心の中からそのエッセンスだけを抽出して取り出そうとする、
最初から高度な事をしようとして、
かえってわからなくなっているのだと思います

最初は、
子どものように無邪気に、
嬉しさや寂しさなど、いろいろな感情を感じているところを感じればいいのです

ハートのエッセンスを感じるためには、
クリアなアウェアネスや深いビーイングの要素が絶対的に必要となります

そのため、
それはかなり霊的進化が進んでからになります

では、思考と心は同じなのか、違うのか?

これは、広義の心では同じであり、
狭義の心では違うものと言えるでしょう

知的な側面が強い人の場合、
0か1か、
黒か白か、
という思考回路が強いケースが多く、
どちらでもない場合、
あるいはどちらでもある場合、
よくわからないという結論になってしまいがちです

直観的な理解を磨いて行く必要がありますが、
直観は、
知性だけではなく、
ハートとアウェアネス(気づきと洞察力)、
それとある程度のビーイングのコンビネーション、
そして、
クラウンチャクラが開いている事、
そうですね、本当の直観のためには、
丹田のチャクラも開いている事が要求されるでしょう

この社会を生き抜くためには、
思考の力は頼りになったでしょうが、
霊的進化の道を歩む場合は、
それだけ突出させては、かえって邪魔になってしまいます

これまでの人生、
何を重要視して、どう歩んで来たか、
それも問われる事になります

精神というのは、
思考や感情や行いの方向性を決定するものです

例えば、
自分の心の中に、
「あの人が妬ましい」というネガティブな思考と感情が起きたとします

その時、
あなたの心の中では、何が起こりますか?
あなたは、どうしますか?

その感情そのままに、
何の疑問も差し挟まずに、
相手にぶつけ、
相手の足を引っ張ろうと画策しますか?

それとも、
その感情や考えがぐるぐる回るのを止められなくても、
どこかで、
「こんな事思ってちゃだめだ」
「こんな気持ち、嫌だ」
と、自分で自分を判断していますか?

あるいは、
その感情や考えを手放そうと、
努力しますか?

後者になればなるほど、
精神が発現していると言えるでしょう

精神が、
感情や思考の暴走を止めるのです

人間である以上、
そしてこの二元、すなわち好き嫌いの両極が存在する次元に生きている以上、
真にそこから解脱しない限り、
二元である感情や思考を無くす事はできませんし、
どちらか一方の極だけを取る事もできません

ポジティブがある以上、ネガティブがあります

光がある以上、闇があります

でも、
瞬間、瞬間、
どちらを選択するかは、
私達自身です

思考や感情がどうしても駄々をこねて、
どうすることもできずに、
その言いなりになってしまう事もあるでしょう

自我は、自己主張や自己満足のためにはその方が都合いいからです

でも、
精神が健全に存在していれば、
どこかで居心地が悪く感じ、
自分の中で罪悪感となって残ります

その僅かな居心地の悪さ、
違和感、罪悪感に、
敏感であるようにしましょう

そして、
精神の指し示す方向性に、
自我も沿っていくよう、
浄化し、
努力していきましょう

少し前にブームになったスピリチュアルムーブメントにおいて、
「ありのままに」
「自分を受け入れる」
「自分を愛する」
あるいは、
「わくわくする事を」
といったものが溢れていました

それらは、もちろん真実でもあると同時に、
浅い理解で行うと、
かえって自分の精神を痛みつけていく、
ということを知ってください

もし、あなたがあなたのネガティブな感情の「ありのまま」暴走してしまえば、
それは相手も自分も傷つける結果となるのは避けられないでしょう

そういう感情がある事を受け入れる、認める事と、
そのままに暴走する事は全く違う事です

実は、本当に認められたら、
その感情は穏やかになるか、
消えてしまいます

今や「自分好き」の一見ハッピーな人達もたくさんいます

でも、その人達の知っている「自分」は、
ごく表層の、
影としての自分でしかありません

それは、見たくないものを見ないようにしているだけなのかも知れません

あるいは、
精神がまだ全く眠っているか、です

「わくわく」も、
「楽(らく)」と勘違いしている人が多く見受けられます

実は、
魂の選択は、きつい事、しんどい事、大変な事が多いです
成長のためですから、当然の事と言えるでしょう

精神が発現している人は、
きついのがわかっているのに、
わざわざきつい方を選択してしまいます

それでいいのです

それなのに、
きついのはわくわくしないから、と、
楽な方を選択し続けてしまうと、
心の奥底に、
たくさんの不純物が知らず知らずのうちに溜まり、
ある時、苦しくて苦しくて仕方なくなります

その時に気づければいいですが、
「わくわく」信仰にハマっていると、
さらに深みに入り込み、
精神は痛手を負っていきます

そうなると、
本当の魂に近づく事が困難になってしまうでしょう

そもそも、
精神がすでに発現している人は、
それらの教えの浅さ(教えそのものは深くても、それを伝える人の理解の浅さ)をすぐに見抜けるでしょう

確かに、
それらの教え、特に「わくわく」は、
深刻で重くなりがちな人生や、
ガチガチの信条や教義に固められた不自由な霊的修行、
「無我」の誤解から生じた強烈な自己否定の歴史に、
風穴を開け、
ある種の自由さと軽やかさ、
そして自己愛をもたらしてくれました

魂本来は、
自由で軽やかで、愛そのものです

その恩恵は素晴らしいものでしたが、
それだけでは先に進めなくなってしまうでしょう

このブログを読まれるような方は、
もっと先に行こうとするはずです

それには、
あなた自身の精神に注目し、
その声に耳を傾ける事が必要です

精神を指標とするためには、
「わくわく」より、
「楽しい」より、
何があなたを本当に「勇気」づけるか、
何があなたの「底力」を発揮させるか、
何があなたの「可能性」を引き出すか、
何があなたの背筋を伸ばし、「しゃんと立たせる」か、
何があなたをより「大きくする」か、
何があなたをより「豊か」にするか、
何があなたを本当に「完結」させるか、
それを見極めてください

それらこそ、
実行し、実現した時に、
本当に「楽しく」、「魂が打ち震え」、
「満たされる」のだということを、
知ってください

目先の楽しさに惑わされないでください

精神が、
それが何かを、
何を選択すべきかを、
何をすべきかを、
教えてくれます

精神とは、
まさに「神」の「精(エッセンス)」なのです

あなたが、
あなたの精神と共にあることを










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