とても衝撃的で、心に強く残る写真を送ってくださいました
北朝鮮のミサイル発射、ISの行動、阿部内閣の取ってきた政策など、
世界は今、あるひとつの方向へと進んでいるかのようです
言葉を尽くして、戦争反対、世界平和と言うよりも、
その送ってくれた1枚の写真の方が、はるかに多くのことを私たちに伝えてくれます
私もこれを周りの方々にシェアしたいと思い、
ブログへの転載の許可をお願いしたところ、
快諾してくださいましたので、
遅くはなりましたが、ここに転載させていただこうと思います
以下、その方のメールからの転載です
* * *
この写真は、Joe O'Donnell(ジョー・オドンネル)
カメラマンだった人物が、1945年(昭和20年)
です。場所は原爆被爆直後の長崎でした。
O'Donnell という名前からして、
たと思われますが、
享年85歳で、死因は脳出血だったとのことです。
氏が亡くなった後、夫人がこの写真を長崎市に寄贈し、
料館に展示することに決定したということが当時少し話題になりま
写真では、
す。かつての日本の町や村では、
のは、ごくありふれた風景でした。
少年が背負っている幼児は、
りませんが、実はそうではないのです。少年は、原爆症なのか、
いは栄養失調なのか、ともかく亡くなってしまった弟(たぶん)
き場に来て、多くの遺体を焼却している現場で、
ころなのです。
以下は、
したときの回想インタビューからの引用です。
<引用開始>
佐世保から長崎に入った私は、
いマスクをかけた男達が目に入りました。
穴のそばで作業をしていました。
に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
にかけて、幼子を背中に背負っています。
んでいる子供の姿は当時の日本ではよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
き場にやってきたという強い意志が感じられました。
き場のふちまで来ると、
ん坊はぐっすり眠っているのか、
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
持つとゆっくりと葬るように、
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、
どけない頬を赤く照らしました。
その時です、
付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
何度見ても涙が出てくる写真と回想です。
これを撮影した氏は、1946年にアメリカに帰国後、
トハウス付のカメラマンとしてトルーマン大統領を始め、
した。そして、
ネガのままで自宅のカバンにしまい込んで封印していたのだそうで
この1枚をはじめ、
1989年に米国内の反核運動に触発されてかばんを開けた時でし
年、アメリカで原爆写真展を開催しましたが、
での展示は、
にもありそうなことです。
その後、1995年に、封印を解いた写真を使った写真集「
(小学館)を日本で出版しました。でもその時は、
ませんでした。
写真の中の、足に浮腫がみられ、
兄の少年は、その後どんな人生を歩んだのか、
ですが、ついに果たせなかったと聞きます。
私の世代は、こうした悲惨を伝聞ではありますが、
ざるを得なかったこととして捉えることが、
けに、こうしたこととまったく縁遠い、後に続く世代の人々に、
に伝えるかという大きな責任を負っています。
残された人生の中で、
「戦争反対」などと言うことは、「火事反対」
ないことだと、
たが、私の理解はまったく異なります。
私が「戦争反対」と言う時、それは「火事反対」ではなくて、「
っているのです。戦争は決して自然発生的な災害ではありません。
人々によって、意図的に引き起こされる「放火」なのです。
躍起になって活動する勢力が必ず存在します。
1930年代の日本を思い返しますと理解しやすいと思いますが、
ようとする時にも「慎重論」や「拡大すべきでない」
国民や言論人、政治家、外交官が確かに存在していました。
は大衆を煽って、批判者を徹底的に押さえ込み、
や風俗、
皇国史観という反知性主義イデオロギーが国民全体を戦争協力一色
いきました。そして結果はあの悲劇でした。
つらく重いことばかりを申し上げて本当に申し訳ありませんでした
だけを書きたくはなかったのですが、
として生きている現在、
まだまだ元気で生きなければという思いを強くしております。
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