先ほどのブログで、
私が障碍者を「絶対的にケアの必要のある人」と見ていると書きましたが、
それはあくまでも今の時点では、ということであることを、
付け加えておきます
私の目標は、
私たち「支援員」が必要なくなることです
障碍の程度やその特質によって、それは大きく異なりますが、
少なくとも、私が関わっているB型支援の福祉施設に通っているような人たちに関しては、
いつか、私たち「支援員」がいなくても、
社会の中で彼らが十分に安全に幸せに生きていけるようになること、
それが私の願いです
そのためのまずの目標として、
彼らが施設を自治で運営していけることです
あくまでも全て彼らのペースで、
彼らの都合で、
彼ら同士、コミュニケーションを図り、
仕事の相手先との交渉もし、
仕事の段取りもし、
仕事をし、
施設の管理もし、
問題が起きれば彼らで相談し合い、
解決していく
今の社会のように、効率を優先したり、
利益をあげることを優先するのでは、
もちろん、その可能性は低くなってしまいますが、
そうでなければ、
それだけの力を彼らは持っているのです
実際には、組織を運営していくための支援や、
多少の交通整理としての支援が必要な時もあるでしょうが、
基本的には、
その中身に関しては、
彼らが主導で進めていくのです
それがもっと進めば、
プチ福祉施設が社会のあらゆるところに存在するようになること、
言い換えれば、社会そのものが福祉施設になっていくこと、
そして、それと同時に、
彼らも彼らなりの社会の中で生きていく方法をもっともっと見出し、
自らを表現していく力をつけていけるということです
極端な言い方をすれば、
彼らを健常者に近づけようとするのではなく、
社会が彼らに近づいていくということです
彼らに寄り添い、ともに生きていく社会です
そういった社会は、私たちにとっても幸せで楽しい場になると思います
そのためには、
経済第一優先の経済信仰が終わり、
内面の豊かさ、霊的な発展が優先される社会が実現される必要がありますが、
この先、人類はそちらに向かって進まざるを得なくなると思います
そのために、
彼らから教わること、受け取ることは本当にたくさんあります
本当は、そのために彼らという存在がいるのではないかと、
密かに思っている私です
ですが、
この私の目標に対して、
今の段階で、
同じ職場で同意を得られるのは良くて一人か二人でしょう
大半は、
「そんなの無理に決まってるでしょ!」と、
一言下に却下するでしょう
社会は厳しいものだ!それを彼らも知らなくてはならない
それこそが彼らのためだと信じて疑わない職員が多いのです
まだまだ、それが現実です
知的障碍というと、
読み書きが不得手だったり、
計算ができなかったり、
形の認識力に欠けていたりなど、
そういった知的な面における未発達さや、
感情的な未発達、
また、
むしろその敏感過ぎる感受性のためと、
それを表現する方法がわからないために、
人とのコミュニケーションにおいて難しさを感じることなどが特徴ですが、
実際には、
それに精神障碍が重なっているケースが多く、
そのあり方はより複雑になっています
私が関わっている中で感じたことは、
これはあくまで、軽度の障碍の方のケースですが、
その人の障碍の特性そのものより、
両親に「受け入れられているか」どうかが、
集団の中でトラブルとなる行動や現象の現れに大きな影響を与えているということです
両親に受け入れられて、
十分に愛情を受けている人の場合、
障碍の程度、質にかかわらず、
穏やかで、他の人からも愛される傾向が強く、
障碍があることを親が本当には受け入れていない場合、
不安定になりがちで、
深刻な場合は精神障碍を伴い、
非常に不安定で攻撃的になり、
他の人たちとトラブルを起こす傾向が強いのです
もちろん、
単純に親の愛という問題ではなく、
その周りの環境や、社会の体制など、
本当に様々な要因がありますし、
親となった方々は、どの方も、
その社会がもたらす重荷を背負い、
精一杯にできることを果たされているのは確かなので、
その親御さんを責めるつもりは全くありません
ただ、少しでもその点に関して、
お互いに心を開いて話し合ったり、
少しでもその重荷を降ろしてあげられたらとは思うのですが、
それすらなかなか難しいというのが現状です
自分の子どもに障碍があるとわかった時、
それを受け入れるのは、
口で言うほど簡単なことではないでしょう
どれほど、そのご両親たちがこの社会の中で、
「いっぱいいっぱい」になっているか、
深い胸の内で、どれほど傷ついているか、
それは痛いほど伝わってきます
五体満足で、健常の子どもですら、
私たちの多くは、そのあるがままを受け入れたりしません
障碍があろうとなかろうと、
本当にあるがままを「受け入れられている」子どもは少ないでしょう
それ以前に、
あるがままの自分を受け入れることがどれだけ難しいか
やはり、
一人ひとりがそこから地道に取り組んでいくしかないのだと思います
2016年7月27日水曜日
障碍者施設での事件によせて
今朝、神奈川の障碍者施設で、前代未聞の悲しい事件が起こりました
犠牲になられた存在の魂が安らぎを得られること、
ご家族、ならびに関係者の方々の悲しみが少しでも癒されるよう、
祈りを捧げたいと思います
この事件は、犯人である元職員の男性の個人的問題に終わらず、
人間というものの深層を見て行く上で大きなきっかけになると思うので、
ここで取り上げることにしました
人間の霊的進化の上で、
この事件は自分自身の内側を見て行くための大きな示唆を与え得るものです
普段、知的障碍者の施設で働いている者としても、
本当に彼らが彼らでいられる社会になってほしいという思いとともに、
私自身も、自分の内側に深く問うてみたいと思います
そもそもがあり得るはずもない命を否定し奪うという手段を取ったことは言うまでもなく、
体力ある26歳の青年といえど、
包丁やナイフで45人もの人を刺し続けていける体力と気力とモチベーションの持続は、
尋常ではなく、
何らかの精神の異常状態や、あるいは何らかの憑依などがあったかもしれませんが、
ここで取り上げるのはそういった面ではなく、
彼が投げかけた問いそのものです
「産まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障碍者は果たして人間なのでしょうか?」
そう、彼は問いました
彼の結論は、「人間ではない」というものでした
また、彼の結論は、「回りを不幸にする存在である」というものでした
それに対して、憤りを感じたり、
「私はもちろん人間だと思うわ!」と簡単に答える人は多いでしょう
もちろん、その答えは明らかです
でも、自分の生活がそのケアのために犠牲にならざるを得なくなった時、
自分がまさにその関係者になった時、
心の底の底から、
自分と全く同じ人間なのだと、
一人の尊厳ある人間存在なのだと、
一点の疑いも、ごまかしもなく、
彼らと、その尊厳を本当に尊重して接し続けることができるでしょうか?
偽善ではなく、
意志の疎通の全く取れない、
排泄も自分でできず、
こちらの思うようには決して動いてくれない相手に対した時、
きれいごとではすまない、
自分の弱さを突き付けられるのです
「人間ではない」と結論づけた彼は、
そのまま彼自身の弱さを表出しています
「そういう人たちだからね」と片づけるのもまた、
問題から目を反らすための逃げにしか過ぎません
あるがままの彼らの姿を、その有り様を、
本当に認め、受け入れ、尊重しているのでしょうか?
本当に、そういう彼らを、
彼らのその姿そのままに愛しているのでしょうか?
本当に、彼らとともにいて、
幸せでいられるでしょうか?
皆さんは、何をもって、
自分自身が人間であるということのよりどころにしているのでしょうか?
人間であるということは、
どういうことなのでしょうか?
私の友人に、知的障碍のある娘さんを持っている人がいます
その人の言葉で、私が生涯忘れ得ない言葉があります
「自分より先に子どもが逝くと、ホッとするんだよ」
「最後まで、自分で見守れて良かったね、って、障碍者の親同士は話しているんだよ」
その言葉は、ものすごい衝撃でした
私にとっては、子どもが先に逝くことだけは絶対に起こらないで欲しい、というのが、
親の当たり前の気持ち、
唯一の絶対的な願いだと思っていたからです
「自分より先に死んで欲しい」というのが、障碍者の親の本音であり、
それが彼らの愛なんです
自分の死後、子ども達がちゃんと生きていけるのか、
不幸な目に合わないか、
困ったり、苦しい思いをしないか・・・・・
そう、心配しているのです
もちろん、それだけではない
その言葉を聞いた時、
その裏にあるたくさんのたくさんの複雑な思いを受け取りました
それだけ、この社会では、
障碍者の親であるということは、
それだけで大きな重荷を背負ってしまっているのです
ホッとするのは、
その重荷を降ろせるからなのです
もちろん、そうでない親御さんもたくさんいらっしゃるでしょう
障碍を持つ存在たちから、
たくさんの愛とたくさんのギフトを受け取ったという方もたくさんいるし、
私も、その一人です
一緒にいて、「幸せ」を感じられるのです
パワーを、元気をもらえる
彼らは、決して、「回りを不幸にするだけの存在」などではないのです
彼らという存在の本当に素晴らしい側面を見て行ける人もたくさんいます
現場で働いている職員の多くは、
だからこそ、働き続けているのだと思います
「えーっ、人間じゃないよ、天使だよ!」と、言い切ってしまえる人もいるかと思います
これからはますます、そういう人が増えていくと思います
それでもなお、
本当に「同じ人間」として心底見ているのか・・・・
そのハードルは案外、高い
その疑問は、私自身にも言えることです
私は、「絶対的にケアすべき相手」として見ている
「絶対的に保護すべき相手」として見ている
もちろん、彼ら一人ひとりの意志や思い、願いを尊重し、
それを少しでも汲み取り、その実現の手助けをしたいと思う、
「手助けすべき相手」として見ているのです
それは愛と言えますが、
でも、同時に、同等の、対等な相手として見ているのかというと、
そうではない、ということです
本当に、一人の対等な人間として、
相手を尊敬していけるのか・・・
このハードルは結構高いのです
そういう、一人ひとりの本音が、
社会を形づくっていくのだと思います
ただ、「ひどい事件だ」と片づけるのではなく、
ただ心を痛めるのではなく、
まして他人事と見るのではなく、
ぜひ、この機会に、
自分自身の本音と語り合ってみてください
正しい答えはなくていい
お決まりの答えもいらない
ただ、自分自身の本音と触れ合う
そこからこそ、
本当の変化が生まれてくると思います
犠牲になられた存在の魂が安らぎを得られること、
ご家族、ならびに関係者の方々の悲しみが少しでも癒されるよう、
祈りを捧げたいと思います
この事件は、犯人である元職員の男性の個人的問題に終わらず、
人間というものの深層を見て行く上で大きなきっかけになると思うので、
ここで取り上げることにしました
人間の霊的進化の上で、
この事件は自分自身の内側を見て行くための大きな示唆を与え得るものです
普段、知的障碍者の施設で働いている者としても、
本当に彼らが彼らでいられる社会になってほしいという思いとともに、
私自身も、自分の内側に深く問うてみたいと思います
そもそもがあり得るはずもない命を否定し奪うという手段を取ったことは言うまでもなく、
体力ある26歳の青年といえど、
包丁やナイフで45人もの人を刺し続けていける体力と気力とモチベーションの持続は、
尋常ではなく、
何らかの精神の異常状態や、あるいは何らかの憑依などがあったかもしれませんが、
ここで取り上げるのはそういった面ではなく、
彼が投げかけた問いそのものです
「産まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障碍者は果たして人間なのでしょうか?」
そう、彼は問いました
彼の結論は、「人間ではない」というものでした
また、彼の結論は、「回りを不幸にする存在である」というものでした
それに対して、憤りを感じたり、
「私はもちろん人間だと思うわ!」と簡単に答える人は多いでしょう
もちろん、その答えは明らかです
でも、自分の生活がそのケアのために犠牲にならざるを得なくなった時、
自分がまさにその関係者になった時、
心の底の底から、
自分と全く同じ人間なのだと、
一人の尊厳ある人間存在なのだと、
一点の疑いも、ごまかしもなく、
彼らと、その尊厳を本当に尊重して接し続けることができるでしょうか?
偽善ではなく、
意志の疎通の全く取れない、
排泄も自分でできず、
こちらの思うようには決して動いてくれない相手に対した時、
きれいごとではすまない、
自分の弱さを突き付けられるのです
「人間ではない」と結論づけた彼は、
そのまま彼自身の弱さを表出しています
「そういう人たちだからね」と片づけるのもまた、
問題から目を反らすための逃げにしか過ぎません
あるがままの彼らの姿を、その有り様を、
本当に認め、受け入れ、尊重しているのでしょうか?
本当に、そういう彼らを、
彼らのその姿そのままに愛しているのでしょうか?
本当に、彼らとともにいて、
幸せでいられるでしょうか?
皆さんは、何をもって、
自分自身が人間であるということのよりどころにしているのでしょうか?
人間であるということは、
どういうことなのでしょうか?
私の友人に、知的障碍のある娘さんを持っている人がいます
その人の言葉で、私が生涯忘れ得ない言葉があります
「自分より先に子どもが逝くと、ホッとするんだよ」
「最後まで、自分で見守れて良かったね、って、障碍者の親同士は話しているんだよ」
その言葉は、ものすごい衝撃でした
私にとっては、子どもが先に逝くことだけは絶対に起こらないで欲しい、というのが、
親の当たり前の気持ち、
唯一の絶対的な願いだと思っていたからです
「自分より先に死んで欲しい」というのが、障碍者の親の本音であり、
それが彼らの愛なんです
自分の死後、子ども達がちゃんと生きていけるのか、
不幸な目に合わないか、
困ったり、苦しい思いをしないか・・・・・
そう、心配しているのです
もちろん、それだけではない
その言葉を聞いた時、
その裏にあるたくさんのたくさんの複雑な思いを受け取りました
それだけ、この社会では、
障碍者の親であるということは、
それだけで大きな重荷を背負ってしまっているのです
ホッとするのは、
その重荷を降ろせるからなのです
もちろん、そうでない親御さんもたくさんいらっしゃるでしょう
障碍を持つ存在たちから、
たくさんの愛とたくさんのギフトを受け取ったという方もたくさんいるし、
私も、その一人です
一緒にいて、「幸せ」を感じられるのです
パワーを、元気をもらえる
彼らは、決して、「回りを不幸にするだけの存在」などではないのです
彼らという存在の本当に素晴らしい側面を見て行ける人もたくさんいます
現場で働いている職員の多くは、
だからこそ、働き続けているのだと思います
「えーっ、人間じゃないよ、天使だよ!」と、言い切ってしまえる人もいるかと思います
これからはますます、そういう人が増えていくと思います
それでもなお、
本当に「同じ人間」として心底見ているのか・・・・
そのハードルは案外、高い
その疑問は、私自身にも言えることです
私は、「絶対的にケアすべき相手」として見ている
「絶対的に保護すべき相手」として見ている
もちろん、彼ら一人ひとりの意志や思い、願いを尊重し、
それを少しでも汲み取り、その実現の手助けをしたいと思う、
「手助けすべき相手」として見ているのです
それは愛と言えますが、
でも、同時に、同等の、対等な相手として見ているのかというと、
そうではない、ということです
本当に、一人の対等な人間として、
相手を尊敬していけるのか・・・
このハードルは結構高いのです
そういう、一人ひとりの本音が、
社会を形づくっていくのだと思います
ただ、「ひどい事件だ」と片づけるのではなく、
ただ心を痛めるのではなく、
まして他人事と見るのではなく、
ぜひ、この機会に、
自分自身の本音と語り合ってみてください
正しい答えはなくていい
お決まりの答えもいらない
ただ、自分自身の本音と触れ合う
そこからこそ、
本当の変化が生まれてくると思います
2016年7月20日水曜日
海
このところ、体調がよろしくなかったので、
ただいま、伊豆の白浜に浄化に来ています♪
白浜までは、小1時間かかり、
もっと近くに浜はいろいろあるのですが、
やっぱり、この広さ、
この砂の白さ、
この水の綺麗さは、
白浜ならではです(*´ω`*)
子どもの時から、よく行っていた砂浜は、
千葉の九十九里、
日本の三大砂丘のひとつだったので、
やっぱり、海はこの広さがないとね(*´ω`*)
基本的に波が怖いので、
足が届かないところまでは到底行けませんが、
それでも、ゆらゆらぷかぷかしているだけで、
本当に気持ちがいいですヘ(≧▽≦ヘ)♪
ふわわ~✨
太陽の光も、
海風も、
最高です(*´ω`*)
2016年6月21日火曜日
エゴの私と純粋な私
よく、霊的進化のプロセスにおいて、ほとんどの指導者が、〔私〕という意識を放棄しなさいと言います
また、ある霊的系統においては、悟りを「私がいなくなる」ことだと言明しています
でも、私たちの教えでは、「私」が目覚めることこそ悟りであるとしています
この違いは、どこから発生するのか?
私がいなくならなければならないのか、私がいなければならないのか?
言葉だけで見れば、真逆で、矛盾しています
混乱してしまったり、どちらかが間違っていると考える方は多いでしょう
実は、本当の意味において、そこに違いはないのです
というのも、放棄すべき〔私〕とは、エゴとしての、言い換えればパーソナリティとしての〔私〕であり、目覚めさせるべき「私」とは、魂、主体そのもの、全ての純粋な体験者だからです
そこをごちゃ混ぜにすると、訳がわからなくなります
とはいえ、では、それらを明確に区別できるかというと、実は、初めの段階ではできません
というのも、パーソナリティの〔私〕と魂の「私」は同じところにいて、パーソナリティの〔私〕にも、ほのかに主体である「私」が現れているからです
では、どう識別していけばいいのか?
パーソナリティの〔私〕には、絶えず何かが付着しています
思考や感情、感覚といったマインドが付着しています
そのため、〔私〕の後に必ず何かの助詞がつきます
〔私〕は~
〔私〕の~
〔私〕に~
〔私〕こそ~……etc‥
〔私〕の~
〔私〕に~
〔私〕こそ~……etc‥
なので、〔私〕とその後に続く思考や感情と切り離すことができません
あるいは、私、私、と主張する〔私〕
それらの〔私〕が現れているときに、その〔私〕を掴まえようとしてみてください
向きを変えて、その〔私〕を掴まえようとしても、するりと逃げてしまったり、ボーッとして、その〔私〕は掴まえることができません
にも拘わらず、その〔私〕は常にうっすらと現れていて、思考や感情と付着し、空を覆う雲のように人を圧迫し、人はその感覚に窒息状態になっています
なので、それを感じようとすると、頭が煮詰まるような、圧迫感すら感じます
無意識にそれから逃れるために、人はテレビや映画を観たり、スポーツに勤しんだり、あらゆることをしています
でも、時折、ほんの時折、人はそれと違うものを体験することがあります
白昼夢の途中でハッと我にかえったその瞬間、ほんの一瞬だけ、何か違う味わいのものを体験します
空白のように、まるで、雲が一瞬晴れて青空が覗くように、人は主体である「私」の透明さを体験します
山で、急に視界が開けて、下に広がる景色が目に飛び込んできた時に、同じ体験をしたことのある人もいるでしょう
でも、それらはほんの一瞬で、気づく間もなく、人はたちまちまた思考に巻き込まれていきます
そのような〔私〕は、非常に潜在的であり、無意識で、マインドにベッタリと糊付けされたまま、不透明で、自己中心的で、主張が激しく、狭苦しいものです
言うなれば、偽りの私です
そういった〔私〕は放棄すべきものです
次元を超えて、ある境地に到達した人は、その状態から一時的に解放されるため、「私がいない」という結論に達します
そして、「全ては、ただ起こっていること」と結論づけます
でも、それは性急な結論です
では、その「私がいない」ことを体験しているのは、誰でしょう?
なぜ、そこに誰もいないのに、「私がいない」ことがわかるのでしょう?
ただ起こっていることを見ているのは誰なのでしょう?
それこそが、魂としての「私」であり、その知性なのです
その「私」は、私という純粋な感覚そのものですが、一般的な人がいつも感じている〔私〕より、晴れ渡る空のように、果てしなく広がる宇宙の虚空のように、はるかに透明で、開けていて、振動数が高いため、私、という感じでは感じないかもしれません
そのため、伝統的な教えにおいては、純粋意識という表現でそれを表したりしています
そう、純粋な、自-意識なのです
あらゆるマインドから切り離して、その中心でそれらを見、体験している「自意識」、それが真の「私」です
本当にそこに誰もいないのであれば、そこには何も起こりません
究極的な見地から言えば、実は、誰もいず、何も起こってはいません
そこには、何の体験もありません
でも、神のリーラと言われる、この創造の中においては、体験があり、その体験者がいるのです
そして、その「私」こそが、神へと至る通路そのものなのです
だからこそ、その「私」は目覚めさせるべきものであり、放棄すべきものなどではないのです
というよりも、それが人の本性であるがゆえ、放棄のしようがないのです
その、微細な「私」が目覚めること、違う言い方をすれば、その「私」に目覚めること、それが人間として最高の到達点なのです
ただし、神へと至るためには、その通路である「私」を神へと明け渡していかなければなりません
魂である「私」だけが、真の明け渡しとは何かを知っています
それそのものが叡知だからです
マインドの〔私〕は、それが何かを知らず、あらゆる意味で無知なままです
その違いを理解し、性急な結論で終わらないように
私たちは、何かとてつもなくポジティブなものに向かって、進化しているのです
2016年6月20日月曜日
ババジの言葉
「日々の生活を完全に愛しながらも、無執着であること」
1970年から1984年の2月まで、インドのヘラカンを中心に顕現していたヘラカン・ババジの言葉です
ババジとは、シヴァ神の直接の顕現であり、
人間としての輪廻転生を経て神なる次元に到達した存在ではなく、
また、ダライ・ラマのように、同じ魂が違う肉体に転生してくるような存在でもなく、
肉体の死を体験しないまま、
ある時代、時代に、
特に人類が大きな変化や進化を迎える時期に、
突然肉体を持って出現し、
人々を導き、光を目の当たりに示してきた存在です
その、一番最近の出現が、
このヘラカン・ババジです
その教えは、まさに私たちがアジズとフーマンから受け取り、
シェアしている教えと、なんら違うものがなく、
改めて、この「道」がシヴァの道であることがわかります
そのヘラカン・ババジの言葉の中に、
冒頭の言葉がありました
この言葉で、
自分自身の生活が、なぜ今あるようにあるのか、
わかりました
社会での仕事を持ち、
普通の人たちとさほど変わらない生活をし、
普通の人たちとさほど変わらない感覚を持ち、
石とか花とか素敵なアンティークの家具や雑貨を見るたび、
「欲しい~っ♡」とか叫んでいる物欲まみれの私を見て、
友人が時にこう言います
「物欲あるのに、本当に悟ってるの?」
その疑問は、
悟る=清貧になる
悟る=欲がなくなる
という、悟りへの一般的なイメージから来ているのでしょう
もし、
「何か自分の中の欠損を埋めるために、これが必要」とか、
「私の身を飾り立てるために、これが必要」とか、
「私を大きく見せるために、これが必要」とか、
「安心、安全のため」とか、
何かそういったところ、
空いた穴を埋めるためとか保身とか自己顕示とか自己証明とか補償とか、
何かの代替だったり、
背後にそういった何らかの原因のあるところから、
その物欲が来ているのなら、
私は悟っているとは言えません
エックハルト・トールの著書の題名のように、
悟ると非常にシンプルになりますが、
それは、清貧ということとはちょっと違います
私は、それらを買い、身の回りに置いた時、
いつもそれを見るたびに「幸せ~♡」と豊かになりますが、
幸せになるために、
豊かになるために、それらを買う訳ではありません
何もなくても幸せだけど、
何もなくても豊かだけど、
あったら、それらとともにある幸せ、豊かさを、
分かち合うことができます
私は、シンプルにそれらが大好きなのです
それらに、美と、そして神秘を感じるのです
それらは、まさに友人なのです
それらは、美しく、純粋な友人たちなのです
そして、それらとともに、美しい空間と、
楽しい人生を演出していくことができます
そして、それで他の人たちも楽しませられることが、
大きな喜びとなります
でも、それらに執着はしていません
それらを手に入れるためにあくせくしたり、
手に入らないことでひどくネガティブな感情を体験することもありません
失えば悲しかったり、寂しかったりもしますが、
失うことへの恐れはありません
また、私には、
畑をやったり、
庭仕事をしたり、
家を改築したり、
やりたいことも山ほどあります
そのために、日々忙しく、
修験道の修行のごとく、
走り続けているような日々を送っています
もちろん、
手間暇をかけた花や野菜が鹿や猪に食べられてしまったりすれば、
かなりがっかり、心も折れかけますが、
そこでやめてしまうこともなく、
また性懲りもなく、手間暇をかけて作業をしていきます
忙しい中、味噌を作ったり、ジャムを作ったり、梅干を作ったり、
今度は家のどこそこに手を入れようとか、
何か霊的進化に貢献するような楽しいイベントを思いついたり、
絶え間なく何かやることを企んでいます( ̄▽ ̄)
そういう、やりたいことが尽きない私を見て、
パートナーさんも、「欲深だなあ」と、
いつも笑っています
なぜ、日々の生活に対して、私がかくも欲深なのか、
ババジの言葉で、
「ああ、私は日々の生活をこよなく愛しているんだ」とわかったのです
あるレベルで言えば、
私は人間の生にうんざりし、飽き飽きし、
もう、十分、というところにいます
けれど、それでもなお、
人間としての、この日々の生活がこよなく愛おしいのです
それを自分でできる限り、豊かに美しく創造していきたい
それを皆と分かち合いたい
そう思うのです
だから、欲深になるのです
それは、執着とは違う質のものです
それは、「生きる」ということなのです
「欲」は「生きる」ということなのです
それは、むしろ愛から来ているのだと、わかりました
「日々の生活を完全に愛しながらも、無執着であること」
ババジ、ありがとう♪
なんだか、とても大きな「YES」をもらったようです♡
ヘラカン・ババジは、
生の中で、勤勉に働くことを非常に強く強調していました
それこそが、神へと至る道そのものだと説きました
神へと至ることは、
人間としての生を否定するものではないのです
行為を通してこそ、神に至るのです
あらゆる行為を神への捧げものとし、
あらゆる不浄な想念を消し去って神の御名とともに行うこと
そう、ババジは説きました
それは、外側は活発に行為しながらも、
内側は無為で静かでいることでもあります
そして、常に神に明け渡している
そして、ババジは自らそれを体現して人々に見せました
真の聖者は、ただ静かに何もせずに佇んでいるのではなく、
むしろ、精力的に働く姿を見せてくれます
今まで、この走り続ける人生は、
修験のカルマかと思っていましたが、
案外、ババジのいうところの「カルマヨガ(勤勉に働き、仕事を神に捧げる行為とすること)」カルマだったのかもしれません(*´ω`*)
でも、「その行為全てを神に捧げる」という意識が私にはありませんでした
それで、身体がついてこなかったり、
身体との不調和を作りだしていたのかもしれません
なんか不格好で、美しさに欠けるなあ、と自分でもよく感じていました
なんだか、「サザエさん」なのです
ちょうど、深いところに蓄積していた疲れが表面に現れて、
三日三晩、全身の蕁麻疹とひどいだるさで寝込んた後に、
このババジの言葉に出会いました
これからは、全ての行為を「神に捧げるもの」という意識とともに行っていこうと思います(*´ω`*)
それは、私に歓びをもたらします
どう変わっていくのか、とても楽しみです♪
ちなみに、
こどもの頃から超焚火好きだったのも、
ババジの「火の儀式」とつながりがあるのかもしれません(*´ω`*)
ということで、
今、「火の儀式」をまたどこかでやろうと、
企み中~♪
毎朝、火の儀式ができる祭壇も作ろうっと♪(笑)
1970年から1984年の2月まで、インドのヘラカンを中心に顕現していたヘラカン・ババジの言葉です
ババジとは、シヴァ神の直接の顕現であり、
人間としての輪廻転生を経て神なる次元に到達した存在ではなく、
また、ダライ・ラマのように、同じ魂が違う肉体に転生してくるような存在でもなく、
肉体の死を体験しないまま、
ある時代、時代に、
特に人類が大きな変化や進化を迎える時期に、
突然肉体を持って出現し、
人々を導き、光を目の当たりに示してきた存在です
その、一番最近の出現が、
このヘラカン・ババジです
その教えは、まさに私たちがアジズとフーマンから受け取り、
シェアしている教えと、なんら違うものがなく、
改めて、この「道」がシヴァの道であることがわかります
そのヘラカン・ババジの言葉の中に、
冒頭の言葉がありました
この言葉で、
自分自身の生活が、なぜ今あるようにあるのか、
わかりました
社会での仕事を持ち、
普通の人たちとさほど変わらない生活をし、
普通の人たちとさほど変わらない感覚を持ち、
石とか花とか素敵なアンティークの家具や雑貨を見るたび、
「欲しい~っ♡」とか叫んでいる物欲まみれの私を見て、
友人が時にこう言います
「物欲あるのに、本当に悟ってるの?」
その疑問は、
悟る=清貧になる
悟る=欲がなくなる
という、悟りへの一般的なイメージから来ているのでしょう
もし、
「何か自分の中の欠損を埋めるために、これが必要」とか、
「私の身を飾り立てるために、これが必要」とか、
「私を大きく見せるために、これが必要」とか、
「安心、安全のため」とか、
何かそういったところ、
空いた穴を埋めるためとか保身とか自己顕示とか自己証明とか補償とか、
何かの代替だったり、
背後にそういった何らかの原因のあるところから、
その物欲が来ているのなら、
私は悟っているとは言えません
エックハルト・トールの著書の題名のように、
悟ると非常にシンプルになりますが、
それは、清貧ということとはちょっと違います
私は、それらを買い、身の回りに置いた時、
いつもそれを見るたびに「幸せ~♡」と豊かになりますが、
幸せになるために、
豊かになるために、それらを買う訳ではありません
何もなくても幸せだけど、
何もなくても豊かだけど、
あったら、それらとともにある幸せ、豊かさを、
分かち合うことができます
私は、シンプルにそれらが大好きなのです
それらに、美と、そして神秘を感じるのです
それらは、まさに友人なのです
それらは、美しく、純粋な友人たちなのです
そして、それらとともに、美しい空間と、
楽しい人生を演出していくことができます
そして、それで他の人たちも楽しませられることが、
大きな喜びとなります
でも、それらに執着はしていません
それらを手に入れるためにあくせくしたり、
手に入らないことでひどくネガティブな感情を体験することもありません
失えば悲しかったり、寂しかったりもしますが、
失うことへの恐れはありません
また、私には、
畑をやったり、
庭仕事をしたり、
家を改築したり、
やりたいことも山ほどあります
そのために、日々忙しく、
修験道の修行のごとく、
走り続けているような日々を送っています
もちろん、
手間暇をかけた花や野菜が鹿や猪に食べられてしまったりすれば、
かなりがっかり、心も折れかけますが、
そこでやめてしまうこともなく、
また性懲りもなく、手間暇をかけて作業をしていきます
忙しい中、味噌を作ったり、ジャムを作ったり、梅干を作ったり、
今度は家のどこそこに手を入れようとか、
何か霊的進化に貢献するような楽しいイベントを思いついたり、
絶え間なく何かやることを企んでいます( ̄▽ ̄)
そういう、やりたいことが尽きない私を見て、
パートナーさんも、「欲深だなあ」と、
いつも笑っています
なぜ、日々の生活に対して、私がかくも欲深なのか、
ババジの言葉で、
「ああ、私は日々の生活をこよなく愛しているんだ」とわかったのです
あるレベルで言えば、
私は人間の生にうんざりし、飽き飽きし、
もう、十分、というところにいます
けれど、それでもなお、
人間としての、この日々の生活がこよなく愛おしいのです
それを自分でできる限り、豊かに美しく創造していきたい
それを皆と分かち合いたい
そう思うのです
だから、欲深になるのです
それは、執着とは違う質のものです
それは、「生きる」ということなのです
「欲」は「生きる」ということなのです
それは、むしろ愛から来ているのだと、わかりました
「日々の生活を完全に愛しながらも、無執着であること」
ババジ、ありがとう♪
なんだか、とても大きな「YES」をもらったようです♡
ヘラカン・ババジは、
生の中で、勤勉に働くことを非常に強く強調していました
それこそが、神へと至る道そのものだと説きました
神へと至ることは、
人間としての生を否定するものではないのです
行為を通してこそ、神に至るのです
あらゆる行為を神への捧げものとし、
あらゆる不浄な想念を消し去って神の御名とともに行うこと
そう、ババジは説きました
それは、外側は活発に行為しながらも、
内側は無為で静かでいることでもあります
そして、常に神に明け渡している
そして、ババジは自らそれを体現して人々に見せました
真の聖者は、ただ静かに何もせずに佇んでいるのではなく、
むしろ、精力的に働く姿を見せてくれます
今まで、この走り続ける人生は、
修験のカルマかと思っていましたが、
案外、ババジのいうところの「カルマヨガ(勤勉に働き、仕事を神に捧げる行為とすること)」カルマだったのかもしれません(*´ω`*)
でも、「その行為全てを神に捧げる」という意識が私にはありませんでした
それで、身体がついてこなかったり、
身体との不調和を作りだしていたのかもしれません
なんか不格好で、美しさに欠けるなあ、と自分でもよく感じていました
なんだか、「サザエさん」なのです
ちょうど、深いところに蓄積していた疲れが表面に現れて、
三日三晩、全身の蕁麻疹とひどいだるさで寝込んた後に、
このババジの言葉に出会いました
これからは、全ての行為を「神に捧げるもの」という意識とともに行っていこうと思います(*´ω`*)
それは、私に歓びをもたらします
どう変わっていくのか、とても楽しみです♪
ちなみに、
こどもの頃から超焚火好きだったのも、
ババジの「火の儀式」とつながりがあるのかもしれません(*´ω`*)
ということで、
今、「火の儀式」をまたどこかでやろうと、
企み中~♪
毎朝、火の儀式ができる祭壇も作ろうっと♪(笑)
2016年6月19日日曜日
味噌仕込み
ようやく、今年のお味噌の仕込みが終わりました
本当は、1月の大寒の時に仕込むのがいいのですが、
今年はなにやら例年をしのぐ忙しさで、
6月にまでなだれ込んでしまいました
一番、蒸し暑くてカビカビ君たちが元気な時なので、
どうしようかと思いましたが、
そう言っているといつまでもできないので、
思い切って実行!
去年は大豆2キロ分しか作らなかったので、
今年は「売ってもいいしね」、と、張り切って10キロ分に挑戦( `ー´)ノ
しかーし、
それは無謀な試みでした( ;∀;)
例のごとく、伊豆にいると寝坊の私たち、
12時から大豆を蒸し始めました
なにせ、普段使いの圧力釜しかありません
3個の圧力釜を総動員して、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もはや、苦行です
後は、これに紙を被せて、ようやくできあがり!!
けど、まだ半分残ってる・・・・・(;´Д`)
ので、プラスチックの樽を出してきて、
それにも詰めていきました
合計、3樽のできあがり~♪
はああ、夜の10時までかかりました(;´Д`)
でも、つぶす時も、混ぜる時も、詰める時も、
「美味しくな~れ♪」とマントラを唱えながらやったので、
きっとおいしいお味噌ができてくれるでしょう( ̄▽ ̄)
=今年の反省=
大豆は5キロでいい
(ちーん)
本当は、1月の大寒の時に仕込むのがいいのですが、
今年はなにやら例年をしのぐ忙しさで、
6月にまでなだれ込んでしまいました
一番、蒸し暑くてカビカビ君たちが元気な時なので、
どうしようかと思いましたが、
そう言っているといつまでもできないので、
思い切って実行!
去年は大豆2キロ分しか作らなかったので、
今年は「売ってもいいしね」、と、張り切って10キロ分に挑戦( `ー´)ノ
しかーし、
それは無謀な試みでした( ;∀;)
例のごとく、伊豆にいると寝坊の私たち、
12時から大豆を蒸し始めました
なにせ、普段使いの圧力釜しかありません
3個の圧力釜を総動員して、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし、
蒸して、つぶし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もはや、苦行です
やってもやっても、大豆が減らない!!
特大の野菜洗い用の桶を買ってきて、
水にひたしておいた大豆
一体何回戦、蒸してはつぶしたでしょう・・・・( ;∀;)
もう、外は真っ暗です・・・
夜の8時過ぎに、ようやく蒸してつぶす作業が終わりました(はーっ=3
8時間、延々と蒸してはつぶす作業に没頭しました
10キロの大豆は、多過ぎでした( ;∀;)
さて、ようやく麹と塩の出番です
まず、塩切麹を作ります
麹は、自然栽培の玄米で作った生麹を20キロ!
去年、白米麹と玄米麹の両方を作ったのですが、
玄米麹のおいしいこと!!!
もちろん、白米麹もおいしいのですが、
玄米麹の方が、
味がスキッとしていて張りがありしっかりしていて、なんだか、透明感もあるのです
なので、今年は玄米麹一筋!
うちのレシピは大豆の2倍の麹を入れる、超豪華♪な配合です
麹だけで「3万円」・・・( ;∀;)
塩は、クジラの繁殖地として世界遺産に登録されているメキシコの海で採れた塩
そんな素敵な海のお塩なのに、
うれしいことに、日本の会社で販売していて、値段が安いんです(*´▽`*)
塩は大豆の半分なので、5キロ
それらを混ぜ合わせます
量が多いので、半分ずつ、えっちらおっちら
それに、つぶした大豆を混ぜていきます
よく混ざったら、空気が入らないようにボールにして、
味噌樽にバシッと投げつけるように詰めていきます
樽は、熱湯で殺菌した後、
焼酎を吹きかけておきました
大豆5キロ分、半分でご神木樽はほぼいっぱいになってしまいました(;´Д`)
味噌の上を塩で薄く覆い、その上からサランラップで覆い、内蓋をして、
重しの石を乗せます
けど、まだ半分残ってる・・・・・(;´Д`)
ので、プラスチックの樽を出してきて、
それにも詰めていきました
合計、3樽のできあがり~♪
はああ、夜の10時までかかりました(;´Д`)
でも、つぶす時も、混ぜる時も、詰める時も、
「美味しくな~れ♪」とマントラを唱えながらやったので、
きっとおいしいお味噌ができてくれるでしょう( ̄▽ ̄)
=今年の反省=
大豆は5キロでいい
(ちーん)
今年も無事に産卵しました♪ 天然記念物のモリアオガエル
今年もなかなか来ないなあと心配していましたが、
昨年と同じく、6月13日の夜、第一号の産卵が(*´▽`*)♪
雨の夜中、「ココココ」と鳴き声がしていたので、
「あ、来てるなあ」と期待していたのですが、
期待通り、翌朝見ると、ふんわり卵が♪
普通、モリアオガエルは森林に囲まれたきれいな水のあるところで産卵します
うちのスイレン鉢は、それに比べると、めちゃ小さくて、替えることもない水なのに、
なぜか気に入ってくれて、毎年産卵してくれて、
本当にうれしいです( `ー´)ノ
えさとなるボウフラは五万といますからねっ
ひとつのスイレン鉢に二つ分のおたまじゃくしはさすがに多過ぎるのではないかと思うので、
孵ったら半分は蓮鉢に移してあげようと思います
鳴き声は毎日聞こえても、
なかなかその姿を見せてくれることのないモリアオガエル
(東伊豆町HPより)
こんな感じの子です
吸盤が大きいのが特徴
鳴き声が「ココココ」と、かわいいです♪
昨年と同じく、6月13日の夜、第一号の産卵が(*´▽`*)♪
そして、遅れること3日、16日の夜に、もうひとつ増えていました(*´▽`*)
雨の夜中、「ココココ」と鳴き声がしていたので、
「あ、来てるなあ」と期待していたのですが、
期待通り、翌朝見ると、ふんわり卵が♪
普通、モリアオガエルは森林に囲まれたきれいな水のあるところで産卵します
うちのスイレン鉢は、それに比べると、めちゃ小さくて、替えることもない水なのに、
なぜか気に入ってくれて、毎年産卵してくれて、
本当にうれしいです( `ー´)ノ
えさとなるボウフラは五万といますからねっ
ひとつのスイレン鉢に二つ分のおたまじゃくしはさすがに多過ぎるのではないかと思うので、
孵ったら半分は蓮鉢に移してあげようと思います
鳴き声は毎日聞こえても、
なかなかその姿を見せてくれることのないモリアオガエル
(東伊豆町HPより)こんな感じの子です
吸盤が大きいのが特徴
鳴き声が「ココココ」と、かわいいです♪
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