2023年7月11日火曜日

「魂への聖なる道」第8章「5ステート」第3話「内側の世界」


久しぶりのアップです

「魂への聖なる道」第8章「5ステート」第3話「内側の世界」です

下記に、原稿を貼っておきますので、

ご参照ください


*********

 

悟りのための教え、覚醒のための教えである「トータル・パス」の教えの概要について、

「魂への聖なる道」と題して、

このyoutubeの場をお借りして、

少しずつお伝えしていっているシリーズです

 

今日は、第8章「5ステート」の第3話、「内側の世界」になります

 

パートナーさんの原稿を待っていたら、なんと半年以上過ぎてしまいました

大変お待たせして申し訳ありませんでした

その間に、3年間私たちを束縛していた社会的現象も変化を迎え、

新しい時代への価値観の転換もいろいろ身近に感じられるようになってきました

もう、目に見える形で変わってきたともいえますね

 

皆さんの多くも感じられていることと思いますが、

第2次世界大戦後の高度成長期時代から、バブルを経て、令和の時代に移行する間、世間一般的に重要視されてきた、物質的な豊かさやお金、権力を得ることが成功、勝ち組だという価値観、それを今ちょっと思い浮かべて感じてみてください

何か、ものすごく古―い感じがしませんか?

本当に前時代的ですよね

今の自分が感じている感覚からしたら、一体、何に今まで囚われていたんだろう、って、悪夢から目が覚めたような感じがしていませんか?

まあ、私たちの場合は、20年以上前に真剣に霊的進化の道に入った段階で、それらでは本当に幸せになることはできないということを体験的にすでに思い知らされていて、だからこそ、真の幸せを目指して霊的進化の道に入ったわけですけれども、社会全体での価値観はそれらに支配されていたと言えますよね

でも、それが完全に目に見えて変わってきたのを感じます

まだまだ、惰性で囚われ続けている人も多いとは思いますし、慣習的にそう思ってしまう事も多々あるとは思いますが、

エネルギー的にはもうすでに転換が完全に終わっていて、今年はこっち側にすでにかなり進んできているって感じます

この数年間は、まず、止まっていた車のエンジンをかけて、ギアをローに入れて、って感じで、いよいよアクセルを踏んで車が動き出した、って感じですね

ぐんぐん、加速されていますね

5月に梅雨入り、6月に台風が次々に押し寄せてきたり、豪雨が続いているのも、とても象徴的ですね

 

肉体も、それに向けてエネルギー調整されつつあり、

理由のない体調不良が続いていたり、大病をして大きなカルマ落としをされた方も多いのではないかと思います

台風の被害も心配ではありますが、雨や風は邪気を祓ってくれます

龍神の働きとも言えますね

災害に合われた方々の事は本当に心配ではありますが、

雨や風に、たくさんの古いものを祓ってもらいましょう

 

もし、台風や地震などの災害を怖いと感じられている方がいらしたら、

その恐れを、嫌だ嫌だ、怖い怖いと、嫌がる恐れではなくて、畏怖の畏の畏れに変容させてみてください

私たちの体が異常になると熱を出したり、身体にとって危険なものが入ってくれば吐いたり下痢になったりして排泄するように、生命体としての地球も、自浄力を持っています

私たち人間の利己的な欲望のエネルギーや、ネガティブなマインドのエネルギーが蓄積すれば、当然、それらを祓い清めようとするでしょう

それを防ぐためには、やはり私たちが地球や自然に対して、畏怖の心を忘れずに、それらとひとつになって、感謝を捧げることしかありません

 

実は、ちょっと前の話になりますが、GWのリトリート期間、ここ、伊豆地方は地震の危険が非常に高まっていました

公私含めていろいろな方面の方々が、口を揃えて5月3日に伊豆地方に大地震が起こるという警告を発していました

まさにその3日の朝に、リトリートのワークの一つとして、海にアーシングしに行ったのですが、驚いたことに、浜辺にウミガメの遺骸がうちあげられていました

伊豆でウミガメを見るのは初めてでしたが、これはまさに地震の前兆だろうと思い、アーシングをした時に、地鎮もしてきたんですね

地鎮って、地を鎮めると書きますが、鎮めるといっても、何か悪いものを封印したり、荒ぶるものを鎮めようとするといった意味合いのものでは全くありません

むしろ、地というのは、本来の姿はおのずと全てと調和しているものです

私が行った地鎮というのは、ただ、地とつながり、その偉大なエネルギーに包まれて、その聖なるハートのエネルギーに満たされて、その意図にただただ感謝を捧げる、といったものでした

それこそが祈りです

私は、これが一番だと思っています

人間のマインドで、汚れた大地を清めてあげようとか、歪んだエネルギーを元に戻してあげようとか思う事自体が傲慢であり、私たちはただただその偉大なエネルギーの中で生かされているちっぽけなものだということを知り、ただただ感謝する、という方が、本来のバランスを取り戻し、調和を生み出すと思っています

そんな事わからなくても、ただ、淡々と浜辺のゴミを拾ったり、神社とかでも落ちた葉っぱを掃き清めたりするだけの方が、変な光やエネルギーをおろしてみたり、浄化しようという傲慢なマインドで何か儀式したりするより、よっぽど本当にその場を清める力は強いと思います

そんな風にして、ただただ自然に、満ち溢れる感謝を捧げた結果、そのおかげかどうかはわかりませんし、因果関係があるのかどうかもわかりませんが、伊豆地方での地震は起こりませんでした

 

そのように地球とつながって感謝を捧げる事を、ぜひ皆さんにもやってみていただきたいと思います

それでも心配な方は、家や地域に意識の結界をはっておくといいですね

 

 

さて、この半年の間に、パートナーさんの教えも一段と進み、具体的な言語化も進んできたようです

楽しみですね

それでは、本題に入っていきましょう

前回は、外側の世界について、お話ししましたね 

外側の世界は「諸行無常」で「一切皆苦」です

常に物事は移ろいます 

この理により、この世界には「不変」が存在しません 

不変が存在しないため、私たちは、絶対的正義、つまり、変わることのない正義を持つことができず、

そのため個人個人の正義が生まれてしまい、これによって、人は自分の正義を貫くため、自分のアイデンティティを守るため争うことになります 

そして、問題なのは、人はみな自分が正しいと思っているということなのですね 

 

自分の正義、これはその人にとって、曲げることのできないルールです 

もし、これを曲げてしまったら、その人は自分の正義に反することを行うことになり、それは絶対的な自己の否定となり、存在する指針を失ってしまいます 

だからこそ、人は、この自分の正義を貫こうとするのです

つまり、自分を立証するために、人は自分の正義を貫こうとするんですね 

これが私たちが生きている世界です

 

そして、こんな世界の現状に気がついた、ほんの一部の人々、この世界というのが、生きることが苦しい場所なんだと気がついた人々が、ここから抜け出す方法を探し始め、模索し始めました

この行為を私たちは「探究」と呼びます

 

この探究は、大きく2つの方向にその意識が向けられました 

一方がこの我々が住む世界です 

この世界の有り様を客観的に感じ見ることが、この世界の何が苦しみを生み出しているのかの探究が始まります 

その概要は前回お話したことが、その骨子となります

 

これと並行して、もうひとつの方向に私たちの意識は向きます

私たちの内側で何が起こっているのか? 

何故私たちは苦しいと、悲しいと感じるのかを探究し始めます 

この内側の世界のことを、私たちは「エネルギーの世界」と表現します

 

外側が物質の世界であるなら、内側は物質として顕現していない世界です

この物質として顕現していないものを「エネルギー」と呼ぶことにしたのです

私たちが言うエネルギーの世界、その中でも特に注目し、探究するのが私たち自身です

 

貴方には「思考」や「感情」、「記憶」や「判断」、2つ以上の物事を比較し何が良いか選ぶ事ができます 

これらは物質でしょうか? 物として思考を手に持つ事ができるでしょうか? 

貴方の記憶を物質として取り出し、お皿に乗せることはできるでしょうか? 

感情や判断は? 貴方の意識は? 意思は? 

神の愛の側面である「最愛なる者」が与えてくれる暖かな充足した感覚は?

 

この様な物を私たちはエネルギーと表現します 

そして、肉体とは別にある、貴方のエネルギーの身体も、ですね

 

これを読んでいる現在のあなたは、おそらく内側の世界やエネルギーの身体をまだはっきり認識する事ができないでしょう

 

これが、覚醒に向かう上で一番厄介な問題となります

物質、例えばボールでも犬でも、あなたはそれを見たり触ったりすることで認識できます

「ほら、あそこにいる毛の生えた4本足でワンワン吠えているのが犬だよ」と示されて、「あ~あれが犬なんだ」と認識できます

 

では、エネルギーの世界はどうでしょう

実際あなたはエネルギーの身体を持っています

というか、あなたがエネルギーの身体なのですが、私たちは「犬」のようにそれを指差し、これがそうですと指し示すことが出きません

なぜなら、それは物質ではなく目に見えないエネルギーだからです

 

しかし、たしかにそこにはエネルギーの身体が存在します

例えば輪廻転生が本当にあるなら、肉体が滅しても、そこには肉体から離脱したあなたが存在しているはずで、その肉体から離脱したあなたが、受肉して新たな生を生きるのですから

 

この肉体から離脱したあなたのことを、正確にはそのより純粋なエネルギーですが、それを日本では「魂」と呼びます

あなたは、肉体とおなじようにエネルギーの身体を持っています

正確にはエネルギーの身体そのものとして、あなたは存在しています

 

ですが、これは確かなメソッドに基づいてワークしたとき、初めてそれを体験として認識できるものです

イメージや空想ではなく「体験」として、ですね

 

さて、ここでは、まずエネルギーの身体があることを理解しましょう

あなたの「喜び」は物質ですか? あなたの「苦しみ」は物質ですか?

 

私たちは以前「5つの状態」5ステートについて話しました

肉体、思考に無意識に巻き込まれている状態、感情に無意識に巻き込まれている状態、知性に無意識に巻き込まれている状態、純粋な状態

これらは、肉体以外はすべてエネルギーの状態についての話です

よって、覚醒のワークに入る最初は、この「エネルギーの身体として(私)」を認識、つまり「エネルギーの身体として(私)」を体験することからスタートし、エネルギーの身体を認識し体験することで初めて覚醒のワークが始まります

 

それでは、肉体以外のエネルギーやエネルギーの身体について、お話ししていきましょう

 

まず、肉体の内側の層として、エネルギーの身体があり、それは肉体をエネルギーの側面として感じた時に認識体験できるもので、それがあなたのエネルギーの身体です

肉体と同じように手、足、胴体、頭があります

 

では、あなたの苦しみはどこに存在しているのでしょう? 

あなたの喜びはどこに存在しているのでしょう? あなたの思考は?

 

思考とは、何でしょう? 

思考とはあなたが描き続ける動画と感情の混合物です

わかりやすく例えるなら、You Tubeのような動画とそれを見たときのあなたの感情です

動画と感情が流れ続けている状態を「思考」と言い、あなたは自分の頭の中で動画を流し、それに怒ったり、喜んだりして、さらに続きの動画を流し、またそれに怒ったり喜んだりします

ちなみにこの怒ったり、悲しんだりが「感情です」

 

また、あなたはこれらの映像を見ながら、比較や判断をしています 

こっちに行ったほうが近道だとか、これをあげたらあとでお礼がもらえるとか、比較や判断をしています

あなたのエネルギーの身体の内側には、思考という映像の流れがあり、それに反応する喜怒哀楽の感情が存在し、喜怒哀楽を生み出す比較検討を行う知性が存在します

 

例えば、あなたは「箱に入ったイチゴ」が減っていく映像を見ているとしましょう

するとこのままではなくなってしまうという判断がはいり、1個も食べる前になくなるのは嫌だと言う感情が起こり、無くなる前にイチゴを食べたいという欲求が生じます

さて、これらの欲求は誰がしているのでしょうか?

 

エネルギー体の中には、もちろん、それら映像を見ている者であり、比較検討し判断している者であり、欲している者である「あなた」が存在します

この「あなた」が、この思考や感情や知性の動きと欲求体験している本体であり、あなた自身です

そこには、「イチゴが好き」なあなたが、必ず存在します

 

そして、もう一つ、エネルギー体の中には「記憶」が存在します

実際には、エネルギー体の中にはもっと色々なものが存在します 

例えば「気」と言われるものや「オーラ」やなんやら、色々とありますが、我々が覚醒を目指す上で主に必要となるのは、エネルギーの身体、エネルギーのあなた自身、思考、感情、比較判断(知性)と欲求(欲望)です 

そして『最愛なるもの』です 

『最愛なるもの』も、もちろんエネルギーです

 

そして、最初の話に戻りますが、このエネルギーは、物質のように指し示して教えることができません

よって、覚醒のワークを進めるためには、今話したようなことの知識と「理解」が必要になります

あなたに「知識」と「理解」がなければ、あなたはそれに触れることも体験することもできないでしょう 

正確にはあなたはそれを体験しているのですが、知識がないため、それに意識的になれず、気づくことすらできません

あなたが「知識」と「理解」を得たなら、自分自身の内側で、その知識や理解と同じものに気が付かなければなりません

そして、あなたがそれに「気がついた」時、あなたは初めてそれを「意識的に体験」することができるのです

「知識(理解)」「気づき」「体験」が揃って初めて、あなたは内側の何かを知り始めるのです

 

さて、以上がパートナーさんからの原稿となりますが、ここでひとつ補足をさせていただきますね

 

この第3話「内側の世界」の中では、エネルギー体と、その中で起こっている思考や感情、比較判断、理解や気づき、そして意識的な体験、それら全てを「内側」としていますが、それは、ひとつは霊的進化の道を歩み始めたばかりの人たちにわかりやすくお伝えするためで、それまで「外側の世界」にしか目が向いてこなかった人たちが、霊的に進化していくためには「内側の世界」に目を向けていくことが必要だということ、そしてもうひとつは、この5ステートの教えにおいては、エネルギー体の内容物である思考や感情、比較判断などに気づいていくことが必須であるために、これら一切含めて「内側」としてお伝えしています

 

ここでは言及しませんでしたが、ここでいう「内側」には、呼吸や肉体のエネルギー状態、

例えば、瞑想が深まっていく時のエネルギーの状態の変化、緊張やざわざわ落ち着きのない状態からゆったりと落ち着いた静かな状態への変化、そして、何も動かない完全な沈黙の状態への変化、今風に言えば、脳波がβ波からα波に変わり、θ波になり、Δ波になるなど、あるいはその振動数という言葉でもいいですね

あるいは、ハートの中の痛みが薄れ、至福のエネルギーで満たされていく、など、内側のエネルギー状態も含まれています

また、そわそわする感じや不快な感じ、ざらつく感じなど、身体の内側に起こる痛みや身体的な感覚なども含まれます

 

余談になりますが、これらを繊細に感じ取っていく感受性を磨いていくことも、ワークの重要なポイントになります

自分のエネルギー体で何が起こっているのか、それを微細に詳細に見て、気づいていく力ですね

何時間も何年も瞑想していても、この力が培われていなければ、どこに到達することもできません

 

で、話は戻りますが、これらは、いわば、広義の意味での「内側」ですね

違う言い方をすれば、「内側の外側」です

 

というのも、「トータル・パス」の教えに深く入るにつれ、真の「内側」とは、思考や感情、比較判断などの全ての主体である「私」のみを指し示しているのだ、という事がわかっていきます

思考や感情、比較判断などをしているのは誰か?それらに巻き込まれているのは誰か?それらを創り出しているのは誰か?ということにフォーカスしていきます

これは、いわば狭義の意味での「内側」ですね

違う言い方をすれば、「内側の内側」、もしくは「真の内側」ですね

例え肉体の内側で起こっていたとしても、思考や感情、比較判断、あるいは呼吸やエネルギー状態は、主体の次元からすれば、外側の世界で繰り広げられる事象と何の違いもない「外側」であり、それらを感じ体験している「主体」のみが「真の内側」だということです

 

教えのシーンにおいて、私たちはそのどちらもその場に応じて使います

特に、この5ステートの教えでは、エネルギー体とそのエネルギー体の中で起こっていることをしっかりと見ていくことが非常に重要なので、エネルギー体の内側という意味で、「内側」という言葉を使っています

だからこそ、初めの段階で、それらを知識として、共通理解として、知っておくことが大切であり、5ステートの詳細に入る前にここでお伝えした訳です

早く5ステートの教えの詳細を知りたいという方もいらっしゃると思いますが、後々混乱しないためにも、ここでお話したことをしっかりと共通意識として持っていただければと思います

 


2022年11月20日日曜日

「魂への聖なる道」第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」


悟りのための教え、覚醒のための教えである
「トータル・パス」の教えの概要について、
「魂への聖なる道」と題して、
youtubeの場をお借りして、
少しずつお伝えしていっているシリーズの、
第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」です

字幕をつける余裕がなかったので、
下に原稿を貼り付けておきます

第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」

さて、前回からまた数か月間が空いてしまいましたが、

夏の間、ちょっといろいろ忙しくて、何度も熱中症になりながら動き回っていたせいで、秋になってからその疲れがどっと出て、なかなか回復しないまま、今に至ってしまい、また、パートナーさんの原稿待ちという事もあって、間が空いてしまって申し訳ありませんでした

 

さて、前回のお話で5ステートの概要について話しましたが、今回はその詳細に入る前に、

パートナーさんからのリクエストによって、この世界や私たちの内側の世界について、共通理解を持ち、

真にこの教えがあなたにとって意味を持っていけるように、何回かに分けて、いくつか先にお話ししておこうと思います

一部、第一章でお話した内容とかぶるところもたくさんありますが、今回はパートナーさんからの視点というまた違った角度からのお話になりますので、より深い理解のために、お聞きいただければと思います

 

この5ステートの章に関しては、全てパートナーさんの原稿を元にお話ししますけれども、まあ、私も多少付け加えたりもしていますけれども、パートナーさんは完全なアウェアネスタイプで論理的、私はハートタイプで直感的と、全く真逆なので、いつもとはちょっと違う感じになるかもしれませんが、そんな違いもまた、お楽しみいただければと思います

 

今日は、私たちの内側そして外側がどうなっているかについてお話していくための、前段階として、

「理解」と「気づき」と「体験」について、少し、お話していきたいと思います

「体験」については、後で別の章でお話する予定だったので、少し章立ては変わってしまいますが、

ご了承ください

 

私たちがシェアする「トータル・パス」の教えを歩むためには、「理解」と「気づき」と「体験」の3つが必要になってきます。

「理解」と「気づき」と「体験」ですね

 

これら「理解」「気づき」「体験」がなければ、私たちが提供する教えは、ただの情報でしかありません

「トータル・パス」の教えを聞き、または読むだけでは、それは単にあなたの記憶域に蓄積された情報にしかなれず、昔読んだ本の内容や、昨日見たテレビや、旅行に行ったときの記憶と何も変わらない状態でしかありません

 

私たちの使う言葉に「生きた本」という言葉があります。

普通本を読むとその内容に魅了され、そこに感情移入し主人公になりきり、喜びや悲しみを主人公とともに体験し、そこに展開されるドラマを堪能します。

その時、擬似的ではありますが、あなたは何かを感じ、何かを体験しているのですね。

 

そして、精神世界、スピリチュアルな世界に特化した本のうちで、私たちが使う「生きた本」とは、

読者がそれを読むことで、精神的な進化、つまり私たちが言うところの悟りに向かうための、

擬似的な体験を与えてくれる本のことを言います

 

ですが、ここで考えてほしいのは、あなたが普通の本を読むとき、そこに描写される世界感を知らなかったら、あなたは疑似体験ができるでしょうか?ということです

 

もっと正確に言うなら、一般の本を読んで疑似体験ができるのは、そこに書かれていることを、大なり小なりすでに経験済みだからこそ、このすでに経験済みの自分自身の体験をベースに、本に書かれている内容を擬似的に体験することができるんですね

 

つまり、人に裏切られたと感じる体験があるから、あなたは本に書かれている、主人公が裏切られるシーンを想像し擬似的に体験することができるのです

 

本には良書と呼ばれるものが存在します。

良書にもいろいろな意味合いがありますが、私たちがシェアする教えを理解する上で良書と言えるのは、

今まで知らなかった感情や考え方に「気づかせてくれる」本なんですね

あなたはこういった体験があるはずです

本を読むことで、新たな角度の物の見方に気がついたり、新たな感情の発露を体験したり・・・

 

そう、この「体験」こそが、私たちがあなたにイニシエートしたいものなのです

 

新たな角度の物の見方に気がつく、それはつまり、本を読むことで「新たなものの見方」を体験できたということです 

その時あなたは「知識や情報ではなく」、その本から新たな、あなた自身を豊かにする「体験」をもらったのですね

 

知識は、単に情報の羅列で、言葉が並んでいるだけですが、もしあなたがそれらを通して「新たな体験」を得たのなら、それはあなたの血となり肉となって、あなたを一回り大きく豊かにします

 

ではここで、これら「体験」を得るために何が必要かというと、それは「理解」と「気づき」です

これにあなたの努力と「ピンとくる閃き」が起こった時、新たな体験を得ることができます

 

では、この「理解」と「気づき」と「体験」とは何か?ということについてお話していきたいのですが、

その前にこれら「理解」と「気づき」と「体験」を得るための前提条件についてお話しなければなりません

 

先程、『一般の本を読んで疑似体験ができるのは、そこに書かれていることを、大なり小なりすでに体験済みで、それらの体験がベースにあるからこそ、本に書かれている内容を擬似的に体験することができるのです』とお話しました

 

それを、もう少しこれから話す内容に則した表現にするなら「大なり小なり、そこに書かれている世界観を知っている」からこそ想像することでき、想像することができるからこそ、あなたは新たな体験、正確には疑似体験ですが、それを得ることが出来るのです

 

つまり、あなた方が「トータル・パス」の教えを生きた物とするために何が必要かというと、

まず、私たちの教えの世界観を知る事が必要で、その世界観の中で、その世界観に沿って、理解し、気づくことで、私たちが指し示す何かの体験を得ることが初めて可能になるということです

 

世の中には「生きた本」があります

そして、私たちの教えは「生きています」

生きているからこそ、あなたに新たな体験をもたらし、それによってあなたを覚醒へと導く事ができるのです

本来であれば、Retreatにきて、顔を突き合わせて、教えを受取り、共に座るのが望ましいです

なぜなら、その時あなたの目の前には、「生きた教え」があるからです

 

では、私たちが教えをシェアする時、あなたにまず知ってもらい、理解してもらう、「トータル・パス」の世界観とは、どのようなものなのか?

 

まず、それについてお話していきたいと思います

 

前回のお話と一部かぶるところもありますが、ご自身の理解を深めるためにも、それを内側に落とし込みながら聞いていただければと思います

 

第一章で、外的宇宙と内的宇宙についてお話したことがありますが、まず、その外側の宇宙、外側の世界に関して、お話していきますね

これは、本当の世界の姿がどうであるか、という事ではなく、私たち人間が「世界とはこういうもの」と一般的に認識しているものについてです

違う言葉で言えば、「見かけの世界」ですね

つまり、普通に人が見ている世界、ですね

世界の本当の姿については、一部で少し触れてはいますが、また別の機会で詳しくお話できたらと思います

 

人が「世界」と言う時に、通常指し示しているのは、この地球であり、日本であり、各自が通う会社や学校、家族といった集団などのことを言いますね

一般的にはこれらを無自覚に「世界」と表現していきますが、それを少し細かく見ていくと、そこには宇宙があり、星々があって、その星々の一つに私たちが生きている地球があって、そこには大気と陸と海があります

海には深さがあって、そこには魚や種々雑多な生物が存在していて、陸には山があり、そこには高低差が存在し、この高低差が川を生み出します

この陸や川にも種々雑多な生物が存在しています

そして、その種々雑多な生物の一つが人類であり、私たちです

 

人類は社会的な動物と言われていますが、それは、群れを作って暮らすことを指していて、その群れには、家族、学校、クラス、クラスの中の仲の良い友達、部活、あるいは会社、部、課などなど、

もちろん、趣味の群れもありますし、敵対する群れもあります

これとは別に、土地を基準にした群れもあり、日本、アメリカなど、国と言われる群れ、さらにヨーロッパ、EUなど、国がさらに群れたものもあります

民族という群れもあり、あるいは、東京、京都など細かく分けたもの、さらにその下の市区町村などの群れもあります

これとは別に、クリスチャン、仏教徒、ユダヤ教徒など、宗教による群れもあります

またもっとも原始的な切り分けで言うと、男と女という群れもあります

 

このように、人は必ずなにがしかの群れに無意識に属していて、その群れの規律にも無意識に従っています

 

さて、このように、人々は多様な群れに属して、その群れの中で、そこの規律に従って暮らすことで、自分の居場所を確保しています

 

例えば、あなたが海外に行き、日本人として理不尽な対応を受けた時に、自分で解決できない場合、その国の日本大使館が同族であるあなたを守り、保護します

日本人という群れがあなたを守るのです

でも、あなたは同時に日本人としての規律を持ち、その行動や行い、人との接し方など、日本人としての規律を実行することが求められます

あなたがこの日本人としての規律を遵守できない場合、あなたは同族の日本人によって罰せられ、場合によってはその身柄を海外に引き渡されてしまう事すらあります

 

このように、群れとはあなたの居場所であり、あなたを守るものであると同時に、その群れの規律を守ることを求められ、これを違えた時、あなたは群れによって罰せられます

 

この群れは、先ほどあげたように、無数に存在し、それぞれ群れ独自の規律を持ちます

日本の法律、アメリカの法律、インドの法律・・・

土地ごとの生活習慣、例えば東京の通勤電車の乗り方、満員時のマナー、地方の隣近所との付き合い方、あるいは小学校のクラスのルール、あるいは仏教徒の生活のルールなどなど、似通ったものも無数にありますが、それでもなお、群れ独自のルールが厳然と存在しています

 

この、群れと独自の規律、これらがあるがために、諍いや争いが起こるのです

 

それは、群れの最小単位である個人も同じです

私には私の規律があって、父には父の規律が、母には母の、弟には弟の、という具合に、各自が独自の規律を持つが故、最小単位の人同士でも諍いや争いが絶えません

 

この規律は、後でもお話しますが、「正義」という言葉にも置き換えられます

自分が正しい、相手が間違っている、と、人は常に判断し続けています

 

同じように、私と兄、あるいは私の群れと兄の群れを比較して、そこに貧富の差が認められたり、何らかの不公平感が感じられた時、そこにも諍いと争いが起こります

 

そこには、「マウントを取る」とよく言われるように、いつでも上下関係が見え隠れしていて、人は常に優位に立とうとします

自分が上で、相手は下

優越感や劣等感、あるいはプライドを死守したり誇示したり

人は、自己のアイデンティティが脅かされるのを、ひどく怖れていて、それを守るために争います

 

まず、これがひとつ

 

それとは別の角度から、人「そのもの」についても考えてみましょう

人とはいったいどういう生き物なのか・・・

 

人は「原罪」を負っているとキリスト教では言われています

私たちもまた、キリスト教徒は異なる意味で、人は「原罪」を負っていると理解しています

 

というのも、人は生まれて以降、生きるために、食べます

自分以外の命、植物を、動物を、魚を・・・

私たちは命を維持するために、肉体を維持するために、自分が生きるために、「自分以外の他者の生きる権利を奪い、それを体内に入れること」をしています

つまり、「他者の生」を奪うことで、生きながらえているのです

 

これを、私たちは「人が背負っている原罪」のひとつと考えています

 

そして、これらのことが起こっている、まさにこの世界のことを、私たちは「物質世界」と呼んでいます

一番外側の一番粗い層の世界です

 

この世界は、なぜ、このようになっているのでしょう?

なぜ、神がこのような原理でこの世界を創られたのかを、私たちは預かり知ることはできません

でも、この世界のそういった原則については、体験に基づいて、理解することができます

 

私たちは、こういう生命システムの世界に存在していることを、まず、よく理解しておいてください

 

そういったシステムで構築された世界であるからこそ、仏陀は「諸行無常」であり、「一切皆苦」と説いた訳で、これをよく理解しておくことが、道を歩む上で非常に大切になってきます

 

この「諸行無常」と「一切皆苦」についてお話していきたいと思いますが、その前に、なぜ、この「諸行無常」と「一切皆苦」がこの世界で存在できるのかをお話しておこうと思います

 

それは、ある意味、ここに地球が存在できることの説明でもあるのですが、

実は、「空間」「時間」「物質」、この3つが全ての始まりとなります

 

正確に言うなら、これらを存在せしめる「大いなる者」の意思があるからこそ、これらが動き始める訳なんですね

 

つまり、最初に「最愛なるもの」の意思があった

それは、「思い」と言う事もできます

 

最初に、神の思い、つまり、意思があった

その後、空間が生まれ、時が流れ出し、物質が顕現しました

 

空間がなければ、時間は流れることができず、物質も存在することができません

空間ができると、時間が流れ始めます

 

時間が流れなければ、物質は顕現できません

時間が流れない時、時間は固まったままなので、そこは凍結した動きのない世界になってしまい、

物質が現れることができません

 

よって、空間ができ、時間が流れ始めた後、物質が現れます

 

これが、私たちが存在する宇宙の成り立ちです

 

ここで、「時間」について少し考察していきましょう

 

時間とは何か?

皆さんは何を思い浮かべますか?

時計でしょうか?

1時だったり、6時だったりと、時計の針が進みます

朝日が昇って、もう一度昇るまでを一日と定め、これを24に分割し、24時間の一日ができました

そして、太陽の周期を観測し、一年を決めました

でも、実は、これは時間ではありません

人が、太陽の周期を観測して、それに基づいて決めた単位のことです

そう、単位です

単位は時間ではありません

 

時間とは何でしょう?

 

実は、時間とは、「常に変化し続ける状態」を指し示す言葉なんですね

「常に変化し続ける様」のことを、「時間」と呼びます

 

この、「変化し続ける様」の事を「諸行無常」と言ったのですが、変化し続けることが「諸行無常」ではないんですね

世の中を「諸行無常」たらしめるものは何か、それが、「移ろいゆく時」、つまり、「留まることなく、常に変化し続ける」ことこそが、世の中を「諸行無常」たらしめている、と言っているんです

 

ちなみに、Wikipediaでは、「諸行無常は、仏教用語で、この世の現実存在は全て、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことを言う。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象を指し、「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。」とあります

 

では、ブッダはなぜこの諸行無常を教えの前面に出したのでしょう

今日の仏教を語る上で最も大切な言葉の一つとも言われる、この「諸行無常」

「この世に起こる事一切は、常に変化し、不変なるものはない」ということの、一体何が問題なのでしょう?

 

もし、この世に「不変なるもの」があったら、それが存在したなら、この世界はどうなるでしょう?

古き過去から、永遠の未来まで変わることのないものが存在したなら、それは古き過去から、永遠の未来にわたって、唯一絶対の指針となるでしょう

 

そう、今私たちが住むこの世界には、未来にわたって変わることのない決まりや指針が存在しない、ということなんです

 

例えば、少し極端な例ですが、「人を殺すことは悪いことでしょうか?良いことでしょうか?」

約200年前の江戸時代、武士の敵討ちは「汚名をそそぐ」行為ですし、例えば親の仇を打つことは立派で称えられる行為でしたから、当時の幕府の対応は別にしても、庶民は拍手喝采です

ヨーロッパの貴族では、手袋をぶつけて殺し合いをしました

ローマ時代、剣闘という名の殺し合いがショーとして開催され、とても好評だったと言います

それでは、戦争ではどうでしょう・・・?

 

でも、現代の日本では、人を殺すことは大罪となっています

同じ行為でも、時代や場所、その時の背景や環境によって、意味合いや評価が異なってきます

 

なぜ、そのようなことが起こるのか

それは、「過去から未来にわたって変わることのない教え」が存在しないからなんですね

もし、このようなものが存在したなら、そこに「人殺しは大罪である」と書かれていたなら、

過去から未来にわたって、どこであろうと永遠に人殺しは大罪なのです

 

では、この永遠不滅、変わることのないものが存在しないために、この世が諸行無常で全てが移ろっていってしまうことの、一体何が問題なのでしょうか?

 

それは、「過去から未来にわたって変わることのない教え」が存在せず、人がすがりつく永遠不滅の決まりが存在しない、ということなのです

そのために、その時、その人によって、各個人の正義が変わってしまうのです

また、不変の教えがないため、私とあなたの正義も異なってしまうのです

 

十人十色とは、良く言ったもので、十人いれば、十人分の考え方があり、正義があり、それは十色というように、皆異なっているのですね

 

私たち個々人の正義は異なります

そして、あなたの正義は、一生同じですか?

この世界では、あなた自身が移ろうのですから、あなたの正義も移ろいます

どんどん、変わっていきます

 

あなたと私の正義が異なるから、誰一人として同じ正義を持つものはいないから、人と人は争います

各々の正義が違うのですから、自分の正義を貫こうと、それを押し付けようと、争いが起こります

 

「個人」が一番小さな単位です

兄弟、家族、民族、学校、クラス、会社、宗教、男、女、全ての群れも、それぞれ異なる正義を持ちます

兄と弟で、A社とB社で、キリスト教と仏教で、臨済宗と曹洞宗で、日本と他国で、皆、異なる正義を持っています

異なる正義を持つがゆえ、争いが起こります

 

人々が、このことをちゃんと理解していたなら、もう少し、世界は穏やかだったかもしれません

でも、人々は、「自分の正義こそ絶対」と、誰もが思っています

 

私たちが住むこの世界には、不変のものが存在しないため、各々が別々の正義を掲げ、自分の正義を受け入れない相手と争う場となってしまっています

これが、「諸行無常」の指し示すものです

 

なんとなく、おわかりいただけましたでしょうか?

 

そして、「一切皆苦」

これは、一切のもの全てが苦しみである、ということです

 

私たち人間は、社会性の動物です

つまり、他者と触れ合いながら生きていく種であるということです

朝起きてから寝るまで、通勤通学の周りの人も含めると、一体何人と触れ合っているのでしょう

その各々が、皆異なる正義を持っているのです

 

あなたと誰かの間に何か起これば、人は自分の正義を振りかざして戦闘に入るのです

良かれと思ってやったことでも、相手の正義に叶わなければ争いになります

 

どうでしょう?

そんな武器を持ち出すような大げさな戦闘ではなくても、小さな諍いやすれ違い、不平不満は日常茶飯事ではないでしょうか?

ネガティブな言葉という武器や、批判的で攻撃的なオーラやエネルギーは、誰しもが日常的に無意識に発しているのではないでしょうか

 

また、先に言いましたが、私たちは他の生命を殺し摂取しなければ、体を維持できない種族なのです

常に、何かの犠牲、何かの苦の上に、私たちの命は成り立っています

そんなこと、弱肉強食なんて当たり前のこととして、誰しもが知っていますよね

誰しもが頭ではよくわかっています

でも、これを本当によく見たことがあるでしょうか?

そして、これを本当に自覚できた時、あなたは何の苦しみも感じないでいられるでしょうか?

 

このシステムに本当に自覚的になった時、私も本当に大きなショックを受けました

 

これらを称して「一切皆苦」と言います

 

これが、私たちが存在している世界なんですね

 

そして、この世界のことを「物質世界」とか「外側の世界」と言います

 

「物質世界」とか「外側の世界」というものが存在するということは、それに対する「エネルギーの世界」「内側の世界」が存在します

 

これらの世界は、まだ「内側の暗闇を見ている自分」を体験的に理解できていない方は、正確にこれらを理解することはできないと思いますが、まずは、情報として、知識として頭の中に蓄えておいてください

 

「理解」と「気づき」と「体験」の「理解」を得るためには、この情報がなければ到達できません

 

もし、あなたが車を全く知らなかったら、スピードを出すことの危険性について話しても正確な理解に向かうことはできないでしょう

もし、あなたが「人と車が写っている写真」を見たことがあったら、その大きさから、車の危険性を少し理解できるでしょう

もし、運転したことがなくても、車を実際に見たことがあり触れたら硬いことを知っていたなら、スピードを出しすぎることの危険性をより理解できるでしょう

理解するためには、知識が不可欠です 

そして気づきと体験も、しかりです

 

「理解」と「気づき」と「体験」につては、また後日お話します

 

次回は、理解のもととなる「私たちの世界観」という情報の続きになります

 

今日、外側の世界、物質世界についてお話したので、次回、「内側の世界」についてお話していきたいと思います

 


2022年8月14日日曜日

「魂への聖なる道」Ⅷ「5ステート」第1話


「魂への聖なる道」第8章「5ステート」第1話です

魂の5つの状態、もしくは段階についてお話しています

8

「魂の5ステート」

 

第1話

前回の第7章で、意識(アウェアネス)、ハート、ビーイングという魂の3つの質についてお話してきました

 

パーソナリティという表層の存在としてだけ生きているところから、最奥の魂が目覚め、まさにその魂として、私たちが生きていけるようになるために、この「トータル・パス」の教えでは、基本的にはその3つの質を目覚めさせていくための瞑想やワークをしていくことになります

 

つまり、その3つの側面から入っていって統合させていく、ということが、基礎になります

 

ですが、「トータル・パス」の教えでは、魂をもうひとつの切り口から捉え、それを通してワークしていくことも行っています

それが、「5ステート(五つの状態)」です

 

以前の動画、「教えの全体像」や前回の中では、「五身体」という言葉を使っていましたが、「五身体」という言葉を使うと、一般的な「五身体」と思って混乱してしまったり、「身体」という言葉を使うと、その「身体」を探そうとしてしまったりする危険性があるため、いろいろ検討した結果、「ステート」という言葉を使うことにしました

ステートとは、状態のことです

一般的な無意識の状態から、純粋な魂の状態に至るまで、5つの状態があります

これは、段階と言うこともできます

 

魂の3つの質で、それぞれには層がある、という事も少しお話しましたけれども、この「5ステート」というのは、その「層」という切り口から魂を捉えている、あるいは振動数という切り口から魂を捉えている、と言ってもいいかもしれません

 

これは、私たち自身がワークしてきた過程や、私たちが生徒さんに教えてきた過程において、宇宙から主にパートナーさんに開示されてきた教えであり、従って、そのリードも、主にパートナーさんの方が行っています

 

というのも、実際に道に入り、瞑想をし、ワークをしていく中で、アウェアネスが目覚め、徐々にハートが開き、徐々にビーイングも深まっていきます

そうして、瞑想している時は非常にいい状態で、ある程度純粋な魂が現れている状態になっていきます

でも、そうであるにも関わらず、日常に戻れば、やっぱり苦しみがある

道に入る前に比べれば、はるかに楽だし、ベースにはいつも至福があるのもわかるようになっていきます

 

でも、日常生活に戻れば、やっぱり自分の思考に苦しんでいるのがわかるんですね

自分の感情に揺さぶられ、痛みに押しつぶされそうになる

苦しみが、完全には消えないんです

 

ある程度、魂が目覚め始めても、思考や感情の引力というのはとても強くて、どうしてもそれに引っ張られてしまうんですね

 

というのも、魂が目覚めても、まだ完全にそれにシフトしていずに、魂とパーソナリティとをいったりきたりしている状態だからなんです

 

魂を完全に見失うことはもはやありませんが、「我」というものを完全に超え、誰それという個人としてのアイデンティティが落ちない限り、つまり、パーソナリティとしてのセンターも完全に魂にシフトしない限り、思考や感情というパーソナリティの側に容易に引き込まれ、相変わらず苦しみが続くわけなんですね

 

なので、魂に完全にシフトするために、私たちはどうしても、自分の思考や感情、マインドそのものにワークしていかないとならなくなる訳です

 

私たちも、最初はひとつひとつの思考や感情にワークし、ひとつひとつの元になっているものを取り除いていくという作業をしてきました

もちろん、それは、ある程度必須ではあります

あまりにそれらが重くて、あまりにそれらの力が強いと、魂自体の目覚めが促されないからなんですね

でも、それをいくらやっても、やるほどに楽にはなっていき、魂も目覚め始めていきますが、思考や感情自体を完全に超えることができないんですね

その元になっている、プログラムを超えることができない

ある段階に来ると、行き詰ってしまう

何か、薄い一枚のベールが脱げないでいるような状態です

 

また、生徒さん達も、日常の中で一つ一つの思考や感情にワークし、それを自力で掘り下げてその大元にたどり着く、という事が実際にはなかなか難しくてできない

そういう事が続き、どうしたら瞑想中だけではなく、日常においてもいい状態にもっていけるのか、パートナーさんの探究が始まった訳です

 

そして開示されてきたのが、「5ステート」なんですね

 

3つの質をベースとして魂が現れても、完全にそこにシフトするためには、5ステートのワークが必須になってきます

 

それでは、「5ステート」について、お話していきたいと思います

 

私たちという存在には、肉体、思考体、感情体、知性体、マナ体、という5つの層、段階があります

 

まず、肉体以外は、全てエネルギー体です

 

躰を物質として感じた時に体感するのが「肉体」です

通常、一般的な人が躰と思っているものですね

 

そして、躰をエネルギーとして感じた時に体感するのが「エネルギー体」です

 

エネルギー体は1つしかなく、人がエネルギーとして知覚、つまり感じることができる躰は、常にエネルギー体1つのみです

 

よく、エーテル体とかアストラル体とかメンタル体とかいうと、あたかもそれぞれ別々のエネルギー体があるように思ってしまいますが、エネルギー体はあくまでも一つです

つまり、私たちの言う思考体、感情体、知性体、マナ体というのも、あくまでも一つのエネルギー体です

 

このエネルギー体の状態には段階があって、次のようになります

 

その前に、ひとつよく理解しておいていただきたいことがあるのですけれども、それは、目覚める前の私たちの状態っていうのは、どういう状態なのか、という事ですね

 

目覚める前の平均的な人の状態っていうのは、意識のエリア、頭の中に「自分が存在せず」「思考以外に留まる場所がない」ため、無条件に思考に巻き込まれています

ぐるぐるぐるぐる、常に頭の中に無意識に思考が沸き起こり続けていて、その思考に乗っ取られている

 

あるいは、常に頭の中で無意識におしゃべりしている

 

そして、思考に伴って、感情が常に揺れ動いています

あるいは、ネガティブな感情を感じると、思考もそれに伴ってネガティブな思考が沸き起こります

そのように、常に思考と感情がお互いに影響し合いながら、ごちゃまぜに体の中を駆け巡っていて、人は無意識にそれらに巻き込まれています

 

ほんのひと時、フラットで思考も感情もない静かな状態が訪れるかもしれませんが、梅雨の合間の日差しのように、瞬く間にまた厚い雲に覆われ、あっという間にまた思考と感情の織り成すドラマに引き戻されてしまいます

 

自分自身をよく観察すればすぐにわかることですが、

まず、これをよく理解しておいてください

 

そして、実は、それ自体が、その思考と感情の織り成すドラマに巻き込まれているその状態こそが、苦しみなんですね

 

ここでもうひとつよく理解しておいていただきたいのは、思考そのもの、感情そのものは、たとえそれがポジティブなものであろうとネガティブなものであろうと、それ自体は良くも悪くもない、ということです

ネガティブなものもポジティブなものも、単にひとつの同じエネルギーの両極に過ぎませんし、それらは人間の持つ機能の一つに過ぎません

そして、それらこそ、私たちに与えられた素晴らしいツールなんですね

それは、両極であるここを体験するためのツールでもあり、それを使ってここを脱して神性へと帰るためのツールでもあるんですね

何かを理解するために、あるいは何かの問題を解決するために、意識的に思考することはとても重要です

知的理解がなければ、悟りもあいまいなものになってしまいますし、それを誰かに伝えることもできません

感情がなければ、生きることは何の豊かさも味わいももたらしてくれません

魂や神性の質を感情レベルで体感することもできません

なので、それらは実は私たちがここで豊かに生きていくために神が与えてくれた素敵なギフトなんですね

でも、真の自分自身がいないために、それらに無意識に巻き込まれ、それらに主導権を完全に譲り、それらの暴走を許し、それらに支配され続けることは、いうまでもなく大きな大きな問題です

それは、正気の沙汰とは言えないんですね

 

そう、思考や感情そのものが悪いのではなく、それらに無意識に巻き込まれ続けていることが問題であって、それこそが苦しみの原因なんですね

 

そして、自分がその中で苦しんでいるということ、それが自覚できている人は、実はそこを脱する出口の扉にすでに手をかけている、ということです

ほとんどの人は、自分が苦しんでることにすら、無意識的でしょう

苦しいとは思っていても、それは、ネガティブな思考や感情のせいだと思い、そのネガティブな思考や感情は全て、外側の環境や状況が原因だと思っている

あいつが悪い、こいつのせいだ、お金がないから、何がないから、何々ができないから、こんなとこに生まれたから、こんな性格だから・・・って具合にね

 

でも、本当は、外側の環境や状況が原因なのではなくて、また、おのおのの思考や感情が原因なのでもなくて、無意識的に思考と感情に巻き込まれ続け、そこから脱する手筈を持たないだけではなく、巻き込まれ続けていることにすら無自覚である、ということが原因なんですね

 

それをよく理解して、念頭においておいてください

というのも、それが理解できていなければ、この「5ステート」のワークの意味がちゃんと理解できないからなんですね

 

では、それを踏まえた上で、エネルギー体の段階についてお話していきますね

 

1のステートというのは、今お話しした、まだ肉体の次元にいる一般的な人の状態で、まだ、いかなる段階であろうと、エネルギー体の認識を持っていない状態です

 

第2のステートは、エネルギーでできた思考体です

 

思考体という表現がいいかどうか、今まだ検討中ではあるのですが、このエネルギー体は、無自覚、無意識的に思考に巻き込まれているけれども、この「思考に巻き込まれる」という事にワークできる状態です

つまり、思考とある程度の距離が持てる、そして、思考に無意識に巻き込まれることを超える、ということにワークする状態です

 

第3のステートは、エネルギーでできた感情体です。このエネルギー体は、無自覚、無意識的に感情に巻き込まれているけれども、この「感情に巻き込まれる」という事にワークできる状態です

つまり、感情とある程度距離を持てる、そして、感情に無意識に巻き込まれることを超える、という事にワークする状態です

 

第4のステートは、エネルギーでできた知性体です。

このエネルギー体は、比較、判断に無自覚、無意識的に巻き込まれている状態で、この「比較、判断に巻き込まれる」という事にワークできる状態です

つまり、思考や感情の元である比較や判断と、ある程度距離を持てる、そして、「比較や判断」に無意識に巻き込まれることを超える、ということにワークする状態です

 

第5のステートは、エネルギーでできたマナ体です。

マナ体は、あらゆるものに巻き込まれることから離脱し、純粋に「今」にとどまっている状態です

つまり、純粋な魂にいる段階で、「純粋な私」を除く、全ての自己同一化から解放された状態です

同時に、完全にそこへのシフトが起こった状態でもあります

ここに至るまでは、純粋な魂と、「自己イメージプログラム」の間を行ったり来たりしています

「自己イメージプログラム」については、また別途詳しくお話していきます

 

私たちは、この段階を第1ステートから第5まで、ひとつずつクリアしながら上がっていきます

この順番を変えたり、スキップすることはできません

 

各ステート、各段階の詳細については、第2話以降でお話していきますが、その前にひとつ、もう一度繰り返しておきますが、私たちがエネルギー体と言う場合、前述した第2の思考体からマナ体に至るまで全て含んだ躰の事を言います

つまり、肉体以外、全て一つのエネルギー体だということです

私たちという存在は、エネルギー体に他ならないんですね

 

エネルギー体というのは、目に見える肉体という物質に対して、目に見えないエネルギー的な存在のことを言いますが、ただ、物質もある特定の振動数のエネルギーであることに変わりはないので、厳密に言えば、肉体も含めて全てエネルギー体ということになります

 

ですが、通常、私たちがエネルギー体と言う場合、思考体からマナ体、そしてさらに神性とひとつの状態に至るまでの事を言います

つまり5ステートをとおしてマナ体に至った後、さらなる本当に秘密の最後の偉大なジャンプがあります。

この物質世界と私を通して行きつけるのがマナ体であり、これをアートマンといいます。この物質世界と、そこに存在する「私」を超えた時、ブラフマン、つまり真の神性へと至ります。

 

さて、「トータル・パス」の教えの道を歩む上で、実際のワークは最初にお話ししたように、魂の3つの質をベースとして進んでいきますが、生徒さんによって、あるいはその段階によって、この「5ステート」という切り口から攻めていく場合が多いです

 

というより、この「5ステート」のワークが必須になります

 

もちろん、アウェアネス、つまり、意識のエリアの主体を目覚めさせることは、どのタイプにとっても非常に重要ですし、それ無しではいつまでたっても感情や思考に巻き込まれ続けて、結局道に迷ってしまうため、私たちの教えでは、いかなる場合も、まずこれを目覚めさせていきます

 

これが目覚めて初めて、真のスピリチュアルな道のスタートラインに立ちます

 

「5ステート」という道筋を通る場合でも、まず頭のエリアの「自分自身」が目覚めて初めて、それ以降のステートにワークができるようになる訳です

 

頭のエリアの「自分自身」が目覚めていず、この段階における思考の元となる「自己イメージプログラム」と自己同一している限り、「自己イメージプログラム」とそこから派生する思考に巻き込まれ、「自己イメージプログラム」に支配され続けてしまいます

 

そんな状態で、思考体を超えていくことはできないんですね

 

なので、私たちはまず、意識のエリア、頭の中の「自分自身」を目覚めさせていきます

 

そして同時に、自分の思考や感情に意識的になること、これがとても重要になっていきます

 

頭の中の「自分自身」が目覚めた時、私たちは自然にそれらに意識的になります

でも、そうなる前は、どうしても意識的になるという努力が必要です

でなければ、私たちはただ白昼夢の中でさまよい続けてしまうだけだからです

それが、無明という状態です

 

また、無意識に思考や感情に巻き込まれているということは、自分の中のゴミをだだもれに辺りに巻き散らかしているのと同じです

自分の思考や感情に責任を持つことすらできないどころか、実は周りに責任持ってくれ~、お前が何とかしてくれ~と、他者に押し付けている状態です

 

いつまでもそうではなくて、自分のゴミは、自分で処理できるようになるといいですよね

 

さて、今日は5ステートについてざっとお話してきましたが、では、実際にどのようにそれらのワークをしていくのか、など、詳細については、また別の機会でお話したいと思います

 

ここでひとつ皆さんにお話ししておきたいのですが、この5ステートという教えは、まさに進化し続けている教えであって、今後微妙に変化していく可能性があります

というのも、この教えの開示を受けているパートナーさん自身が第4のステートにいて、そのワークをしている最中であり、ここを超えて、完全にマナ体にシフトして、完全にそこまでの全体像をとらえた時に、新たな開示が降りてきて、様々な変化が生じるかもしれないからです

また、どういった用語を使うのが最もふさわしいかも、その時期、その時期で変わっていくと思います

 

教えは、ある意味、生き物です

時代にそぐわない、死んで固定化した教えは、そこに真実はあるものの、形骸化し、ドグマとなり、本当の進化をあまりもたらしてはくれません

なので、この5ステートの教えも、ある意味、この時代に降りてきた、今まさに進化しつつある教えであることをご了解ください

 

魂が目覚めても、この「自己イメージプログラム」は続き、第4のステートを超えて、そこから完全に脱しない限り、魂とその「自己イメージプログラム」を行ったり来たりして、魂に完全にシフトすることはありません

魂の目覚めを教える教えは数多くあると思いますが、目覚めた後、なおもその真の解脱を目指して道は続くということについて言及している教えは他にあまりないのではと思います

 

では、今日のお話はこれくらいにして、今日はまず、肉体とエネルギー体って、実際に皆さんがどう感じているかっていうことについて、少し、探究していきたいと思います

 

まずね、肉体ですね、実はこれは対面でのワークの中でやっていきたいことなんですが、

まずね、皆さん普通にこの身体っていうのを感じてみてください

肉体、見て、ま、普段感じているものですね

 

で、これは本当にすごく微妙なことです

 

では、眼を閉じて

 

そして、まず、自分の右手の親指を感じてみてください

 

これをやった時に、何人かの方っていうのは、ここ、思考で、右手の親指をここでイメージして、これを感じようとするんですね

 

イメージしてしまう、親指を

 

で、イメージすること自体はいいんですけれど、イメージするっていうよりは、

実際に肉体の右手の親指を感じてみてください

 

そうするとなんか、人によっては右手の親指がびりびりしたような感じがしたり、

なんか、ほわーっと温かくなったような感じがしたり、いろんな風に感じると思います

 

そして、その右手の親指をずーっと感じ続けていくと、そこに実際にエネルギー体があるのがわかるようになっていきます

 

右手の親指を感じられたら、それでは次に、右手全体を感じてみましょう

 

右手全体を感じられたら、右腕全体を感じていきます

 

そうしたら今度は同じように、左腕全体を感じていきましょう

 

では、ここでちょっと一旦、眼を開けてください

 

ちょっと、手を振って

 

で、まずね、何か目の前にあるもの、なんでもいいです

 

それを、いつものように、ただ、取ってください

 

取りますね

 

その感覚をよく覚えておいてください

 

次にもう一度、眼を閉じて

 

先ほどと同じように、右腕全体を感じてみてください

 

その右腕のエネルギー体を感じられたら、そのエネルギー体の感覚を失わないように、

ゆっくりと目を開けて

 

右腕のエネルギー体の感覚を残したまま、

そして、そのエネルギー体の腕が、さっきと同じものを取ってみてください

 

なんとなく・・・さっきね、ぱっと物質的に取った時と、

エネルギー体で取った時と、なんとなーくでいいです、なんとなーく、感じが違うのがわかりますでしょうか

 

こういった感じで、自分の中のエネルギー体っていうのを、徐々に感じていけるようにします

 

では、もう一度眼を閉じて

 

もう一度右腕全体を感じて

 

左腕全体も感じて

 

では、今度は胴体も感じて

 

胴体を感じられたら、右足のエネルギー体を感じて

 

右脚を感じられたら、左脚も感じて

 

左脚を感じられたら、頭も感じて

 

頭も感じられたら、今度は、あなたの全体を感じます

 

それが、あなたのエネルギー体です

 

人によっては、これを感じるのが難しい人もいるかもしれません

 

でも、おそらく、これを感じること自体はそう難しくないと思います

 

問題は、そこにとどまり続けられるかどうか、です

 

あなたがこのエネルギー体にとどまる時、あなたはあなたの内側にとどまります

 

まだ最初は、留まることは難しいと思います

 

もし、瞑想中に留まることが難しい場合、まだ、あなたの中にビーイングの質が耕されていないことが多いです

 

あなたが緊張状態にあると、あなたの身体全体を感じることが難しくなります

 

なので、下腹への深い呼吸を続けて、リラックスした状態で、ソフトに身体全体を感じていきます

 

そして、身体全体のエネルギー体を感じられたら、穏やかに、それとともに、ただ、いる

 

中には、あなたの中のエネルギーが回りだすのを感じる人がいるかもしれません

それは、とてもいい兆候です

 

あなたは、あなた自身のエネルギー体とつながり、

あなた自身のエネルギー体によって、満たされていきます

 

お鈴

 

ありがとうございました

 

今日もまた、皆さんとこの場を共有できたことに感謝をして

 

では、次回、「5ステート」の詳細についてお話できればいいのですが、ちょっと言語化するのにもしかするとパートナーさんね、時間がかかってしまうかもしれませんので、

もしかすると次回は次の章に移っていくかもしれません

ちょっとそこね、その時の状況によって変わっていきますので、ちょっとその点、ご了承ください

 

では、また