2020年4月30日木曜日

GW Online Retreat のお知らせ

直前のお知らせになりましたが、
5月3日より、スカイプでのOnline Retreatを開くことにいたしました

下記、詳細です

皆さまのご参加をお待ちしております

***

2020年4月26日日曜日

「トータルパス」霊的進化と人間性の成熟の「道」第一章 目覚めの地図 「3つの柱」と「5つの身体」魂(Me)とは

目覚めの地図
「3つの柱」と「5つの身体」

「魂(Me)」とは

 「魂」とは、「真の自己」という意味ですが、この言葉は、スピリチュアルの世界で使い古され、様々なイメージが貼りつけられてしまっています。多くの場合、"自分らしくある”というレベルの、まだパーソナリティの範囲内での深化、もしくは純化の状態を表しています。
 真にこの次元を超えてはいず、超えていたとしてもせいぜい5次元止まりの場合がほとんどです。そういった人達が言う事、関心がある事は、"いかにこの人生が良くなるか”"この人生の中でいかに幸せになるか”であり、大抵、"あなたはそのままでオッケー”とか、"あなたは光の存在だよ”とか、"ワクワクする事をしよう”、"自分を愛する”、"アセンション”、"愛と調和の世界がやって来る”、"ハートに従おう”、などなど、とても耳に心地よい事をさかんに主張しています。
 また、人生のあらゆる出来事の「意味」を求め続け、自分の人生の「意味づけ」に価値を見出し、熱心にそれを追い続けます。
 ホワイト・ブラザーフッドやプレアデスなどの、固有の名前を持ち、肉体を持たない存在達とのチャネリングやメッセージを伝える人達も同じレベルの進化を表しています。
 彼らも、魂という言葉をよく用い、それを実現することを最大の目的としていますが、自分の人生のストーリーを追求するという範囲から出る訳ではなく、そのストーリーそのものからの解脱にはほとんど触れません。「魂になってごらん!そうしたら、人生が今と違って素晴らしいものになるよ!」と言う訳です。つまり、自分はスクリーンに映し出されている映画の主人公であり、その主人公がいかにブラッシュアップし、愛と幸せを実現し、神秘的な体験をしていくかについて、多くを語っているのです。自分は映画の登場人物ではなく、本当はその映画を観ている鑑賞者だ、という事にはあまり触れません。
 そして、そういった人たちがよく言う事に、「善」と「悪」の存在がいる、ということがあります。神とサターンですね。そして、自分は「善」、もしくは「光」の側で、「悪」、もしくは「闇」の勢力と戦っている、と言います。つまり、そういう人たちは、まだそういう世界に住んでいる、ということです。そして、「光」を選択するように、「ポジティブ」な側だけを選択するようにと言います。
 世間で見受けられるスピリチュアルな世界では、そういった類のメッセージがあふれています。

 それが無意味だとかレベルが低いとか否定している訳では決してなく、 それでも人にとっては大きな進化であり、貴重なメッセージであることに変わりはありません。そういう教えを必要としている人たちがより多く存在している、という事です。

 人には、それぞれの段階があります。例えば、産まれたての赤ん坊がいれば、幼稚園生、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、青年、中年、老人と、いろいろな歳の人がいるように、霊的進化の段階も、若い人もいれば、高齢の人もいる、ということです。幼稚園生が大学生と比べて、悪いわけでも低い訳でもないことは、明瞭ですね。ただ、若いだけです。

 ですから、私たちはそういった教えを否定するつもりは一切ありません。自分にふさわしい段階の教えに惹かれるのは、当然の事ですし、それが必要な事です。

 ただ、気をつけなければいけない事は、そういった多くの教え、特に耳障りのいい事をさかんに言っている教えの中には、人類より低い性質の存在からのものが結構たくさんある、という事です。彼らは、真の教えと見間違うほど、内容的には同じようなことを言いますが、心地よい言葉で人を惹きつけ、支配しようとします。こういう場合は、教えている人そのものに依存させようとしたり、崇めさせようとしたりする事が多いので、そこをよく見極めるようにしてください。

 そして、重要なことは、そこで言われている「魂」が、完全な「魂」の実現を表している訳ではない、ということを、知っておく必要があるということです。
 私たちの教えの中で言う「魂」は、もっと広大で透明なものであり、さらに精妙で高次のものです。

 「真の自己」もいくつかの層があるのですが、それについては、次の部以降で詳細に書いていきます。

 完全な「魂」を知るためには、「魂」の次元を超えて、「神性」の次元へと到達する必要があります。おそらく、それを直接知った人は、世間にあふれるスピリチュアリティによって植え付けられた「魂」というイメージとは全く違うことに驚くでしょう。
 私たちは、「魂」という言葉を便宜上使いますが、それを定義したり、そのイメージを語ることはあまりしません。というのも、その植え付けられたイメージによって、人がそれそのものを見逃してしまうからです。「魂」を知るためには、何のイメージもなく、そこにあるものを純粋に知ることができなければなりません。完全に無垢で純粋な認識が必要とされるのです。

 そのためには、単に「ワクワクすること」をしたり、「ポジティブ」でいたり、あるいは、呼吸に集中したりマントラを唱える瞑想などをやるだけでは、全くもって十分ではありません。
 もっとダイレクトで有効な瞑想を行い、また、繊細な感受性と透明で高い知性を磨いていく必要があります。そして、シンプルなマインドと赤子のような無垢さを備える必要もあります。人生を通して自分の中に積み上げて来たものを、全て捨て去ることができなければなりません。完全に開くことと、明け渡すことが絶対的に必要となります。

 それゆえ、自分の人生のストーリーにまだ大きな関心があり手放せず、それをいかに素晴らしいものにしていくか、そのために瞑想しようと思っている段階の人では、無理が生じます。本当には何も手放せず、明け渡せないからです。いかに自分が人生のストーリー、もしくは、○○○子、×××男という今の名前の自分、つまりパーソナリティに固着しているか、気づくことができないからです。何が問題なのかすら、本当には見えないのです。

 ですから、この教えは、今の人生の問題がまだたくさん残っていたとしても、マインドでは「この人生、もっとましにならないかな」と思っていたとしても、「もう、人間としての人生はやりつくした」「もう、十分」というある種の感覚を、深いところで持っている人に向けてのものなのです。つまり、もう延々と長い道のりを歩いて来た老人のためのものなのです。(まあ、今の実際の老人で本当にそういう意味で老成している人は少ないですが。)それは、この人生での年齢は関係ありません。

 「魂」に還りたい。「本当の家に還りたい」そういう内側からの強い思いが生じて来ているかどうか。
 人によっては、最初、ただ「真理」を知りたい、という、純粋な思いとして感じる場合もあるでしょう。
 真の変容という段階に達した時、何らかの内側からの激しい思いが生じます。それこそがまさに、「魂」からのアラームです。

 そういった人たちには、前述したような世間にあふれるスピリチュアリティになんとなく違和感を感じたり、物足りなさを感じる場合が多いと思います。また、形骸化している既存の宗教にも物足りなさを感じることでしょう。

 私たちの教えである霊的進化の「道」の最終地点の一つは、完全な「魂」もしくは「私(Me)」を実現するということです。
 簡単に「私はいない」と結論づける教えは、その「私はいない」状態を体験しているのは誰なのか?それを認識しているのは誰なのか?という、その体験者そのものを見逃しています。
 この全ての体験者こそが、最も神秘的な存在であり、最も私たちにとって意味のあるものです。なぜなら、この体験者がいなければ、体験も宇宙も何も存在し得ないからです。何も起こりえないからです。

 もう一つは、その「魂」を通して、原初の原因である無限で全てなる「神性」へと拡大し、ひとつとなり、溶け去っていくことです。それが真の「ワンネス」であり、「ホールネス」です。「魂」はそこで、完全に休息し、消え去りますが、ごく微細な体験の認識だけは残ります。でなければ、その状態であることを知ることすらできないからです。
 この「神性」への拡大には、聖なる母に包まれた安堵や愛の体験など、いくつかの段階がありますが、私たちが知る最終地点は、「不可知」の領域へと拡大することです。それは、体験を超えた体験です。
 「不可知」とは、「知ることができない」ということです。あまりにもとてつもなく、膨大で広大で把握することができない、ということです。何か、途方もないものを体験していることだけはわかりますが、体験しているものが何なのか、途方もなさ過ぎて、把握できないのです。まさに、「畏怖」を体験します。
 その領域に、人はずっととどまることはできないでしょう。その領域に留まると、肉体をずっと維持していることができないからです。なので、真にその最終地点へと完全にシフトした時、そう長くないうちに、肉体は死を迎えると言われています。そして、人は永遠に、「神性」とひとつになり、その中でさらに拡大し続けていくのでしょう。

 これらの体験こそが、真に人を満たします。特に、「魂」との出逢いは、最も打ち震える体験です。
 でも、これらの体験は切り離すことはできません。先も書いたように、「神性」を体験している「魂」という体験者に気づかずにいることはできますが、そこに「魂」がいなければ、「神性」そのものがそこに現れることも、それを知ることもできません。

 ですから、この2つの側面が、両方とも必要なのです。
 「魂」によって、どこまで到達するかの違いはあります。「ブループリント」という言葉で表すように、「魂」が決めている到達点があります。そこに達すると、「完結感」を感じます。でも、そこから先に行けないということではありません。
 そして、霊的進化には終わりがありません。なぜなら、「神性」は無限だからです。そこへの拡大に、終わりはありません。ただ、肉体を持った人間としての最終地点はあります。でも、「魂」としての進化に終わりはありません。
 

山菜の力

伊豆の家は山の中にあるので、
近くでいろいろな山菜が採れます♪

この時期は、
筍(たけのこ)、蕗(ふき)、蕨(わらび)、芹(せり)、蓬(よもぎ)、こごみ
などが採れます
庭には、明日葉が自生しています
近くには、クレソンが自生しています

昨日の昼食は、芹蕎麦

夕食は、

明日葉、蓬、こごみ、ネギ坊主の天ぷら


蕗の煮物


筍ご飯と筍のお吸い物でした♪

採りたての山菜をたっぷりいただいたら、
身体が軽い!

エネルギーが軽いんです!

緊急事態宣言で、このところずっと世間のエネルギーを受けて妙に重苦しく、
だるかったのですが、
それがすっきりとしたのです♪

やっぱり、Wildのエネルギーはいいですね♪
軽い!

何か、
当たり前だけど本来の正しい方向に、
気もちも考えも身体も、
すっと自然になっていくような感じです

なんだか、
悩みがなくなる、って感じで、
すごくシンプルになる

大地にグラウンディングするからでしょうか

グラウンディングと言っても、
ずっしりという感じではなく、
風にそよぐ草の葉のように、
軽やかで明るい

普段から、無農薬無化学肥料の自家栽培野菜を食べているのですが、
野生の植物にはかないません

食べ物の影響って、
本当に大きいですね

普段どんなものを口にしているかで、
エネルギー的に規定されてしまっているのかもしれません


今回のウィルス騒動も、
地球の意思もあるのかな、などと思ってしまいます

ウィルスとも、地球の野生の植物、生き物とも、
共存できる範囲のシンプルな生き方を提示されているように思えてなりません

ウィルス騒動のおかげで、
2月半ばから伊豆にこもりっきりになったため、
ゆっくりと腰を落ち着かせて、
庭や畑や家の手入れに日々が過ぎ、
収入はないものの、
ようやくずっと念願だった暮らし方が実現しています♪

毎朝、花たちひとつひとつに目を配りながら水をやり、
苗作りに、種を蒔いた野菜や花たちの芽が出るのを毎日楽しみにし、
大工道具を振り回しながら、少しずつイメージが形になっていくのを楽しむ日々は、
本当に豊かで、
今、世界の多くの人がつらい思いをしているのに、
こんなに贅沢な暮らしをしていていいのだろうかと思うほどです

豊かさとは何か

今回のことで、
多くの人が自分にとっての本当の豊かさは何なのかを見出すのではないか、
と思います





2020年4月19日日曜日

「トータル・パス」霊的進化と人間性の成熟の「道」 第一章 霊的進化の「道」 目覚めの地図 人間存在とは 3つの柱

目覚めの地図

人間存在とは

多層的で多次元的な存在

 私たち人間存在というのは、多層的で多次元的な存在です。一般的な人の目で見える肉体から、目に見えない幾層ものエネルギー体で成り立っています。一言で肉体と言っても、エネルギー体が幾層もあるように、そこには骨格から筋肉、血液、そして骨髄液からホルモン、あるいは細胞、遺伝子、そしてそれらの物質を構成している原子、素粒子の層にいたるまで、多種多様な層を持っています。それはフラクタル構造であり、ミクロな粒子の世界からマクロな外的宇宙に至るまで、この顕現された世界に貫いている原理です。 
 ミクロからマクロまで、数限りない層に亘って存在しているのが人間という存在であり、通常、肉体と言っているのは、そのある部分を切り取って、便宜上肉体として認識しているだけの話です。この霊的進化の「道」では、肉体以下の層に触れることはせず、通常認識されているものとしての肉体として話を進め、主に肉体より高次のエネルギー体を探究していきますが、どこかで、このミクロの宇宙とつながっていくかも知れません。
 
 というのも、ミクロの宇宙を探究している現代の先端物理学である超ひも理論があります。それは、銀河や宇宙など非常に大きなものを理解するための一般相対性理論と、原子や素粒子という非常に小さなものを理解するための量子力学を統合したものですが、その中で、宇宙のある真理が理論上発見されているからです。
 
 一般相対性理論というのは、重力波という重力を表す理論であり、量子力学というのは、強い力の1つ目である原子の内部で陽子と中性子を結び付けている力、2つ目である光、電気、磁力を生み出す電磁気力、そして放射性崩壊を司る弱い力を表しています。原子の崩壊から星の誕生まで、宇宙の全ての現象は、これらの4つの力の相互作用によって生み出されています。物質の最小の単位が粒子ではなく、極めて小さな振動するエネルギーの糸であるとした時、初めて数学的矛盾を抱えることなく、それらを理解できるようになりました。それは、輪ゴムのように伸び縮みし、両端のある、振動している小さなひもです(輪ゴムのように閉じているひももあります。グラビトンという重力を司るひもです)。
 そして、超ひも理論は、10次元を必要とします。空間の3次元と時間の4次元、そこにさらに小さく畳み込まれた(より近く微細な領域に入っていくと現れて来る)6つの次元があり、その10次元で、振動する極小のひもが働いているというものです。数学的計算により、10次元まで微細なところに行った時初めて、数学的矛盾がなくなるのでしょう。
 さらに、その超ひも理論は進化し、M理論が生み出されました。そこでは、振動するひもだけではなく、膜のようなものが現れ、その膜に振動するひもの両端が結び付けられているというものです。この宇宙全体がその膜の上にあり、それははるかに大きい高次の空間の中にあると言います。膜は、11次元の世界で、それを内包する広大な空間は、さらに高次の次元です。今、物理学はここまで来ています。それは、今の段階では実験で証明することのできない領域であり、理論にとどまっていますが、霊的進化によって体験的に理解されることに極めて近づいていることがわかります。この量子力学は、ミクロの世界を理論的に数学的に探究して到達したものです。

 要するに、本当はどこを切り取って探究しても、それはある真理へと到達するということです。例えば、電子と陽電子のように、全ての粒子には必ず反粒子が存在し、それらが次々に生まれたり消えたりしながら移り変わっていくダイナミックな世界を創り出しています。それは明らかに二元の世界であり、無から有、有から無へと絶えず生成と消滅を繰り返している存在のあり方を表していると言えます。

 また、量子力学の中では、人間が観察して初めて量子が粒子性を持つか、波動性を持つかが決定されるというものがあります。つまり、量子が元々そこに存在しているから、人間がそれを認識するのではなく、人間が認識して初めてそこに存在する、ということです。言い換えれば、人間の意識なくして、物質はそこに存在しないということです。
 また、量子力学では、量子テレポーションというものが発見されています。ペアとなる2つの量子を遠く離れた場所に置き、片方の量子を観察した瞬間、遠く離れたもうひとつの粒子に影響を与えるということが実験で立証されています。光の速度を超える速さで、何かが伝達されている訳です。つまり、人間の意識が、量子を存在させ、また、遠方にいる量子に影響を与えるということです。ここから、この宇宙というものは、人間が認識しようがしまいが、元々ここに存在するのではなく、人間の意識によって瞬時に作られているということが導き出されます。

 これは、人間の意識が宇宙の創造主であるという、霊的進化によって得られる体験的理解と合致します。また、創造が11次元で起こり、さらにそれを超えた次元という広大なものの中に内包されている事も、合致します。この量子力学で言う広大な空間が、霊的進化における「神性」の次元です。ただ、それは単なるひとつの次元という意味合いではなく、全ての次元を内包する、途方もなく広大で無限のとてつもないエネルギーの何かです。それは、人間の意識を超えているため、人間に認識することはできません。
 さらに、M理論と霊的進化の合致する点は、まさにその「振動」と「膜」にあります。創造が起こる時、つまり、「無」からある「振動」が起こり、あるラインを超えて物質として「顕現」する時、まず、ばーっと「フィールド」ができ、そこに次々に顕現していくのを体験します。人によっては、その「フィールド」を「スクリーン」、まさに「膜」として体験するのです。

 創造を生み出す力は何なのか?原子と原子を結び付けて物質を創り出している力は何なのか?
 創造が起きる原初の原因、もしくは力は、人間の意識であり、そして物質として形をそこに顕す力は、愛のエネルギーなのです。意識は父なる神であり、創造主であり、「在れ」と発令するものです。愛は母なる神であり、量子と量子をひきつけ合い、結び付け、形成すものです。ただし、意識といっても、創造主である意識の次元は、通常私たちが認識している意識の次元とは全く異なります。といって、全く別のものでもありません。通常感じている意識のコアである純粋意識のさらに奥深くへ入っていった時、創造主である次元へと辿り着きます。

 人間という存在は、その最小の振動するひもである層から、その創造を内包する最大の「神性」の層に亘り、広く存在するものです。それを全て体験的に理解していくことが、霊的進化です。一般的な意味合いで私たちが存在しているのは、この物質化の次元である地上という3次元、もしくは、時間を入れた4次元の世界です。そこから、11次元を超えたさらに先まで拡大していくことが、霊的進化です。



 


2020年4月17日金曜日

My Little Sacred Garden ~リトリートのための春の花たち~





緊急事態宣言により、GWのリトリートも中止にいたしました

その代り、Online Retreatを開催すべく、
現在、詳細を検討中です

決まり次第、お知らせをアップしますので、
ぜひ、ご参加ください






さて、
リトリートに向けて、
私の小さな聖なる庭(My Little sacred Garden)やベランダに、
たくさんの花たちを植えていました

リトリートの場のエネルギーはとても重要です
ハートを開くためにも、
花の持つエネルギー、そのバイブレーションは非常に役立つので、
毎年、リトリートの際には皆さんが花とともに過ごす時間を持てるよう、心がけています

今年は、GWリトリートが中止になったため、
動画で今の花たちの姿をお伝えしたいと思い、
YouTubeにアップしました

どうぞ、お楽しみください♪


2020年4月13日月曜日

「トータル・パス」 霊的進化と人間性の成熟の「道」 第一章 はじめに

はじめに

霊的進化とは、
人がその存在の本質に向かって進化していくことです。

人間という存在は多層的で多次元的であり、
進化とは、そのより深い層、高い次元へと到達し、
それを体験し、「知り」、それを体現することです。

そして、
最終的に、
全ての原初の原因である「神性」の中へと拡大し、溶け去っていくことです。

それが、
本来の家に還るということです。


この地上の平均的な人が「自分」であると認識しているのは、
その表層であり、物質的次元により近い次元での存在です。

それがいわゆる肉体を持ったパーソナリティとしての存在であり、
「私は〇〇という名前である」
「私は日本人である」
「私は女性である」
「私はそそっかしい」
「私は教師である」
「私は中肉中背で丸い顔立ちをしている」
「私が一番大切に思っているのは家族」
などなど、
特定の名前や姿かたちや性格を持ち、
何を所有していて何を所有していないか、
何ができて何ができないか、
こういう指向、嗜好、性格、価値観、思想を持ち、
これこれこういう人生のストーリーを歩んできた、
などなど、あらゆる飾りや内容物と結びつけられた、
自己イメージとしての自分です。

そして、
そういう自分のどこが好きでどこが嫌だとか、
そういう人生のストーリーのここが問題だとか、
あくまでも、
その表層に表れ、表層で起きていることにだけ、
意識が向き、関心を持ち、
そこだけで生きています。

要するに、
この肉体とその自己イメージが自分だと思っています。

簡単に言えば、「これが自分だ」と思うことを、
「自己同一」と言います。

「自分」という自意識を、
肉体や自己イメージと強く結びつけているのです。

それを、肉体や自己イメージとの自己同一と言います。

そして、
自分の中に沸き起こる思考や感情に対しても、
「自分はこう思っている」「自分はこう感じている」と、
自己同一しています。

思考や感情に完全に糊付けされて、
それらが自分だと思っています。


霊的進化とは、
その表層の自分との自己同一から離れ、
もっと奥にある、その本質、そのコアへと近づき、
それそのものになっていくことです。

そのコアである存在は、
「神性」と常に一体である、
「愛」そのものであり、
精妙で、
霊的な「光」の存在です。

この教えにおいて、
それを「魂」と呼ぶこともあります。

この「魂」の実現が、
霊的進化の2つの柱のうちの一つであり、
「愛」の実現であり、
「創造主」としての意識の実現です。

もう一つは、
その「魂」を通り、
その「魂」を明け渡すことで、
全ての原初の原因である無限で不可知の神性の中に溶け去っていくことです。

それは、
「神性」の実現です。

それは、
体験を超えた体験です。
というのも、
何を体験しているのか、あまりにも膨大すぎて「知ること」ができないからです。

「魂」の完全なる実現と、「神性」の実現は、
同時に起こりますが、
この2つは明らかに違うものです。

過去の教えから現存する教えの中で、
この2つを明確に認識している教えはあまり見当たりません。

もしかすると、
原始キリスト教ではあったかもしれませんが、
今は失われてしまっています。

仏教においては、
もしかすると「仏性」と「仏」として認識しているのかもしれません。

それは例えて言えば、
「ひとつの波」と「大海」のようなものです。

それらは切り離されていず、
同じものでできていますが、
「ひとつの波」は「大海」すべてを現わしている訳ではなく、
単に、一瞬沸き起こった「大海」の一部分でしかありません。

「魂」は、
「神性」と切り離されてはいませんが、
それを映し出すひとつのプリズムのようなものです。

ひとつの角度、と言ってもいいでしょう。

いかなる「魂」であろうと、
無限の「神性」の全てを現わすことはできません。

この地上に様々な教えがあり、
悟りを開いた人でも、
その教えや表現に様々な違いがあるのは、
映し出している角度が違うからなのです。

「神性」の全体を体験することができても、
それを全て「知る」ことはできませんし、
「魂」はある角度でしか、
「神性」を映し出すことができません。

ですが、
「魂」を通して、
「神性」のエッセンスが映し出されることは確かなことです。

それを理解できれば、
世界中に起きている宗教戦争も、
教えの違いによる抗争も起きないでしょう。


この教えは、
まず、「魂」を目覚めさせることから始めます。

よく、
「人はすでに悟っている」、
だから、「そのままでオッケーだ」という教えがあります。

あるいは、
輝く太陽を雲が隠しているだけだ、
だから、その雲を取り除けばいいだけだ、という教えがあります。

それは、真理の立ち位置からすれば真理ですが、
人間の立ち位置からすると、
事実ではありません。

なぜなら、
「魂」は眠りこけているからです。
太陽は、まだ東の空に上がってきていないのです。

なので、たとえ雲を取り除いても、
そこに太陽はまだありません。

たとえ心身を浄化し、
潜在意識をクリアにしたとしても、
それだけでは、
本当の意味で「魂」が現れることは、残念ながらないのです。

なんとなく、
それらしく感じることがあるかもしれませんが、
とても曖昧なものになってしまうと思います。

また、
「そのままでオッケー」と言って何のワークもせずにいれば、
今無意識である状態から何も変わることなく、
ただ無意識でい続けるだけです。

その教えの本当の意味は、
真に「私であるもの」に瞬時に悟るということです。

「私であるもの」は、ただ眠りこけているだけで、
存在していない訳ではないからです。

「魂」を目覚めさせるためには、
ダイレクトにそれにアプローチして、
エネルギー的に活性化させる必要があります。

同時に、
パーソナリティを浄化していく作業が必要になります。

太陽を昇らせ、
雲を取り払う。

その両方が必要です。


その例えによく使うのが、
シンデレラのかぼちゃの馬車です。

ちょっとオリジナルのお伽噺と違うのは、
ねずみが魔法をかけられて馬になるのではなく、
馬が魔法をかけられてねずみになってしまっている、ということです。

そして、
魔法をかけられて豪華絢爛な馬車になったかぼちゃが、パーソナリティです。

目覚めていない人の状態は、
ちっぽけなねずみが、
重たい豪華絢爛な馬車を引っ張ろうとしている状態だと言えます。

ちょっと想像してみてください。

重たい馬車はねずみの力ではコントロールできず、
どこにも行くことができません。

にもかかわらず、
人は馬車を飾り立てることにしか関心がありません。
黄金で作ろうか、
ダイヤモンドを飾ろうか・・・と、
どれだけ馬車を立派にできるかで、
人は競い合っています。
それは、物質的な所有だけではなく、
名誉や成功や人気、評価だったりします。

どんどん、どんどん、馬車は大きく重たくなり、
ねずみは押しつぶされて、ますます自由を失っていきます。

しまいには、
馬車が勝手に暴走を始め、
哀れなねずみは引きずり回されてしまうでしょう。

ねずみがちゃんと馬車を引っ張り、
行きたいところに行くためにはどうすればいいでしょう?

そう、ねずみにかけた魔法を解いて、
元々の姿に戻さなくてはなりません。

魔法を解かれて、立派な馬に戻った時、
馬は馬車を引っ張って、好きなところへ行けるでしょう。

でも、重たい馬車に馬はすぐに疲れて、
度々立ち止まってしまいます。
「もう、こんな重たい馬車なんか、捨ててしまいたい!」
「この馬車さえなければ」
そう、馬は思う事でしょう。

なので、馬車にかけた魔法も解いて、
元のかぼちゃに戻す必要があります。

そうすれば、
馬は自在に自由に、
かぼちゃを引っ張って駆けまわることができるでしょう。

でも、実はまだ先があります。

馬はまだ本当の姿を現してはいません。
時として、
かぼちゃすらお荷物に感じることでしょう。

もっと自由になりたい!

馬がその封印を解き、
本当の姿を現した時、
それはペガサスになるのです。

翼の生えたペガサスこそ、
完全な「魂」の現れです。

ペガサスは、
もはやかぼちゃからも自由になり、
空へと駆け上っていくことができるのです。


まさにこのお伽噺と同じプロセスを、
「魂」へと向かうワークの中で辿っていくことになります。

表層のパーソナリティとの自己同一という魔法を解き、
真の自分自身を目覚めさせ、
そこにシフトします。

一方で、
余計なもので膨らみに膨み、歪みに歪んだパーソナリティを浄化し、
シンプルにし、素のパーソナリティを取り戻していきます。

ただ、ここで気をつけなければいけないことは、
それはパーソナリティを操作するという意味では全くないという事です。

よく、悟った人は穏やかだから、穏やかでいようとする人や教えがあります。
穏やかなのは、単なる結果であり、
人によっては、もっとアグレッシブになる可能性だってあります。
そのため、逆に常識に当てはまらないマスターをまねて、
「いかに変であるか」を演じようとする人さえいます。

悟った結果を真似し、パーソナリティを操作することは大変危険で、
むしろ悟りから遠ざける効果しかありません。

パーソナリティの浄化と、パーソナリティの操作とは全く違う事であることを、
よく理解することが必要です。


この、ダイレクトに真の自分を目覚めさせることと、
パーソナリティの浄化は、
両輪の輪で、
どちらも欠かすことのできないワークです。

肉体を持って生きる以上、
ここで生きるための機能としてのパーソナリティを完全に無くすことはできません。

パーソナリティはそもそも悪いものではなく、
問題は、それが必要以上に飾り立てられて、
重く膨らみあがっていて、そして、
それと自己同一化している、ということなのです

パーソナリティが問題なのではなく、
真の「あなた」がまだいない、ということが問題なのです。

いるのかいないのかわからないようなちっぽけなねずみをペガサスに、
豪華絢爛な馬車をかぼちゃに・・・


完全な「魂」が実現した時、
パーソナリティも人生のストーリーも、
「魂」とは「全く関係していない」ことがわかります。

それらが、
ただ、そのはるか遠く、離れたところで流れている映像に過ぎないことがわかります。

実際に、大きな距離があります。

なぜなら、
全く次元が違うからです。

全く触れることができないほど、
それらはかけ離れています。

「魂」は、
何の障りもなく、
ただ、ただ、
制限のない「愛」の放射です。

つきることのない「歓喜」の放射です。

その放射に対象はなく、
同時に全てが対象です。

それが、
あなたであるものの、
真の姿です。

そしてまた、
あなたは全ての人の意識がひとつであること、
そのひとつの意識こそがこの世界を創造しているのだということを知ります。

あなたは、
「愛」であり、
「創造主」でもあるのです。

あなたは、
「創造の神」であり、同時に「人間」です。

その統合のプロセスの中で、
人間性の成熟が進んでいきます。

それらの懸け橋をしているのが、
「自我」「エゴ」の役割なのですが、
それについては、もっと長い説明が必要なので、
それぞれの本文の中で詳しく触れていきます。

この、「創造主」は「神性」そのものではありません。

「創造主」という意識の次元で、
この顕現された世界が創造されますが、
「神性」はそれを包含しながら、
それに一切関わらず、
完全に超越している次元、
次元という表現ですら当てはまらない不可知の領域です。

そこでは、何も起こっていません。

よく、「神の夢見」「神のリーラ」と例えられるように、
「創造の神」の次元で、創造はホログラムのように、
瞬時に多層的に、
その神意識のひとつの発令とも言える、
あるいは意識のひとつのゆらぎともいえる、
ある言葉、つまりあるバイブレーションの発動によって、
起こされています。

原初の意思と表現することもできるでしょう。


その「創造主」の次元を超えて、
全ての源へと帰還し、「無」の虚空へと消え去る。

それは、
量子力学で言う「対生成」「対消滅」であり、
真空の中で絶えず粒子と反粒子が発生し、
即座に合体して消滅する、
つまり、
瞬時に無(エネルギーの海のようなもの)から二元、あるいは対極の有が生じ、
瞬時に合体して無へと帰するということです。

その瞬時の意識のまどろみ、
それを私たちは人間の生として体験しているのです。

そして、
「神性」へと、その「無」へと回帰する時、
実はそれこそがとてつもない悦びの爆発なのです。

その爆発こそが、
ビックバンであり、
原初の意思の発令なのではないか。

そうして、
ビックバンと回帰が瞬時に繰り返され、
絶え間なく創造が起こっているのではないか。

それを知る時こそ、
人間としての「神性」の中への最大の拡大に至る時なのでしょう。


では、次回から、
霊的進化のプロセス、
「目覚めの地図」について書いていきます。








2020年4月9日木曜日

「トータル・パス」 霊的進化と人間性の成熟の「道」序章

「トータル・パス」

この教えは、
真の自分自身に目覚め、
この二元の世界を超えて、
魂の全体に出逢い、
愛を実現し、
その魂を通して、
神性と一体になる霊的進化の「道」です

この宇宙の創造主としての真のあなた自身に目覚める「道」です

この次元から解脱し、
輪廻転生から解脱し、
全ての原初の原因である無限の神性に溶け去っていく「道」です

それらをトータルに実現した時、
私たちは肉体を持った人間として到達できる最大の神性への拡大へと達します

それは、
内的宇宙への旅です

私たちの内側に無限に拡がる内的宇宙、
神聖で真正なる無限の神性の中への、
拡大の旅です

また、
それは自己探求の旅です

「私」という存在の奥深くへと、
その存在の真のコアへと、
その存在の真の姿へと、
次元を上昇して出逢っていく旅です

同時に、
私たち人間は、
人間としての生を成熟させ、
完結させていきます

どんなに霊的進化を遂げても、
人間性が未熟であれば、
それは偏った成長に過ぎません

よく、スピリチュアルなシーンで見かけるのは、
単純な「わくわく」や、
好きなことをやる、
自分を好きになる、などですが、
それらももちろん大切ですが、
まだちょっと幼い段階と言えます

よく「ハートの声を聞く」と言いますが、
幼い段階では、
本当のハートの声と、ハートで起こる感情の声とを聴き分けることができず、
ころころと変わる感情の声に従ってしまいます

そういった事に関しては、
本文の中で詳しく書いていきますが、
このように人間性がまだ未熟な場合、
霊的探究も、浅いものになってしまいかねないか、
あるいは、
霊的進化だけが進んで、
逆にスピリチュアル・スーパー・エゴを作り出し、
優越感を持ったり、傲慢になったりしてしまい、
それがかえって最後の大きな障壁になってしまいます

一方で、
人間としてどんなに成熟しても、
霊的探究に意識的でなければ、
それもまた偏った成長に過ぎません

霊的進化という土台がなければ、
人間として本当に成熟することはありませんが、
もし、
霊的進化に無意識、もしくは無関心であれば、
実相であるこの次元に捉えられ続けたまま、
無限なる広大な虚空へと旅立つことはできません

霊的進化を遂げ、
人間として成熟した時、
私たちは真にこの次元から解脱します

それは、
熟れた果実が自然に枝から離れ、
ぽとんと地に落ちるようなものです

人間性の成熟とは、
完全な人間になるという意味では全くありませんが、
子どもの無垢さ、純粋さと、
老賢人のような深い智慧とを併せ持つような、
シンプルでありながら洞察に満ち、
魂からの発露がその人の内側からにじみ出ているような、
そんな印象を受ける事ができるものでしょう

私たちは、
自分自身の内側で起こることを、
誠実に正直に常に見つめていきます

霊的進化と人間性の成熟と完結、
そのどちらもないがしろにはできず、
私たちはその両面から働きかけていきます

それは、
両輪の輪なのです

だからこそ、
この教えはトータルなのです

この教えは、
明確な地図と、
そこを歩んでいくための誰にでも実践可能な具体的な方法と、
ダイレクトなアプローチ、
そして、
この「道」を歩んできたからこそわかる、
様々な落とし穴についての理解も持っています

この教えは、
今生で輪廻転生を終えたい人のためにあります

この次元を本当に超えたい人のためにあります

自らを、
神性に投げ出す段階にある人のためにあります

そのため、
自分自身での、
たゆまぬ日々の実践と、
自己洞察と、
教えを受け取る素直さ(スペース)が要求されます

というのも、
教えのある段階に到達すると、
自分自身の自我に直接向き合わなければならなくなるからです

非常に明確ではありますが、
簡単で楽な道だとは決して言えないでしょう

ふわふわキラキラしたスピリチュアルなイメージを好む方や、
「引き寄せの法則」など、この次元での何らかの利益や成功、幸福を求めている方や、
教師やマスターのパワフルな、あるいは愛に満ちたエネルギーや、
カリスマ性やサイキックなパワーを求めている方や、
霊能者のように自分の未来を占って示してくれることを望んでいる方や、
あるいは、スピリチュアルな先生に自分を認めてもらうことを求めている方や、
楽して、ショートカットで悟りたいと思っている方や、
自分自身を「悟り」という最高の栄誉で飾りたい方などには、
あまり向いていない教えだと思います

けれど、
何も特別な存在ではない、
ただの一般市民の私たちが、
社会生活を営みながら、
この「道」によって到達できた事こそが、
この教えの正当性を証していると思います

この教えは、
私たちが誰かから教わったものをそのまま踏襲しているものでもありません

もちろんベースとして、
私たちが修行時代に受け取って来たもの、
そのエッセンスは変わらずにありますが、
ガイダンスという、
宇宙の叡智から直接に開示されてきたものでもあります

そのため、
教え自体が進化していきます

この教えは、「宗教」でもありません
私たちを信頼する必要はありますが、
「信仰」する必要も、崇め奉る必要もありません

私たちは対等だからです

私たちはいかなる組織も作りません
組織は、
それそのものの本質がヒエラルキーだからです


でも、
教えに対してオープンでいること、
聞く耳を持つこと、
素直でいること、
愚直に自分で日々実践することは必須です

もし、あなたの中が自分の意見や他の教師たちの教えでいっぱいだったら、
この教えが入る余地がないからです

といっても、
霊的進化に対する知的な理解は非常に重要です

たくさんの先達の本や教えについて話されたものを読み聞きし、
基本的なことを理解したり、
知性を磨いていくことは重要な要素です

でも、
それ以上に重要な事は、
「体験」です

私たちは、知識だけをシェアしようとしているのではありません

あなたにもたらそうとしているのは、
まさに「体験」です

あなたの、「内的体験」です

あなたがあなたに向かい、
あなたを直接に「体験」すること
あなたを通して、神性を「体験」すること

「悟り」とは、
あなたの知的理解と体験的理解が合致、統合することです

あなたという「存在」の本質を、
体験的に「知る」ことです

では、
次回から、具体的にその教えの内容について、
順次書いていこうと思います


















2020年4月4日土曜日

これから

先月28日、
「全てのエネルギーが変わった」
と感じました

エネルギー的には、
明るい清らかな方向へとチェンジしています

精妙なところで、
全て生まれ変わったような感じです

すっきり、軽いです




それでも、
この実相の世界でその変化が起こるには、
タイムラグがあります

ちょうどその頃の先週末、
東京で新型コロナウィルスの感染拡大防止のために、
外出自粛の要請が出されました

その前の学校の臨時休校から、
日本でもようやく新型コロナへの認識が高まってきましたが、
この、外出自粛の要請によって、
かなり急速に進み、
そして、志村けんさんの訃報と、
その遺族による「遺体に会うこともできない」など、
具体的な状況がメディアで流されたことによって、
一気に国民の意識が変わりました

(志村けんさんはじめ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りしています)

東京では、
外出自粛の期間に大雪になって足止めされるなど、
日本の神々が守るためにがんばってくださっていると思いました

翌日の大気は清々しく、相当に浄化されたのだと思います
(その後も雨が続き、空気は本当にきれいになっています)

でも、エネルギー的には軽くなっているのに、
何か身体が重くだるく、
変な感じでした

志村けんさんが亡くなった後、
さらにそれがひどくなっていきました

そして、
この感じは以前にも経験したことがあるのを思い出しました

2011年、3月11日から数日間です

あの時も、
全く変な感じで、
身体もマインドも全く働かず、
何もできない状態で数日が過ぎました

あの大津波の際は、
私自身も予想していなかった大惨事が目の前で(モニターを通してですが)繰り広げられたため、
私自身がショック状態に陥っていたということもありましたので、
もっとインパクトの大きなものでしたが、
今回感じたものは、
それと同じような質を持っていました

最初は、妙にだるいのはコロナの症状か?ついに?とも思いましたが、
3.11の時の感覚と似ていたので、
世間の人々のエネルギー状態と関連があるのだろうと思いました

私は「逆エンパス」なので、
今回は予想していたにも関わらず、
私自身は伊豆で籠っているにも関わらず、
どうしても他の人たちの集合的なエネルギーをキャッチして、
身体は影響を受けてしまいます

今回の新型コロナに関しては、
最初から大きな危機感を感じ、
どうなっていくのか予測もできていたため、
少しでも回避をと思っていましたが、
残念ながら、事態はその予測通りになっていっています

これから起こっていく世界の大変動の、
幕が切って落とされた、とでも言いましょうか・・・

コロナや食糧問題、経済だけではなく、
政治的な事に加え、
地球規模、宇宙規模の変動も起きてくる可能性は非常に高いです

実際には、
一昨年辺りまでが「序章」で、
去年から「第一章」に入った感じです
今年、来年辺りで、
かなりのスピードで展開していくことでしょう

でも、クライマックスはもうちょっと先だと思います

これは、恐怖や不安を煽ったり、脅したりするためではなく、
むしろ逆に、
何が起きても慌てないよう、
心構えし、備えておいて欲しいからです

心理的物理的に準備万端でいれば、
事は好転し、
被害も少なく、場合によっては完全に回避できるからです

「そうならない」という意志やイメージを持つことも、
ポジティブな変化をもたらすでしょう

何より、
その大きな変動の中で、
常に自分自身を保ち、
神性とつながっていて欲しいからです

のほほんと何も知ろうとせずに、
自分自身の潜在意識へのワークもせずに、
日常の目先の事だけにかまけていることが、
一番危ういのです


今、
新型コロナの感染、症状自体もありますが、
それだけではない、命に関わる経済の危機が大きく懸念されています

私個人も、
1月終わりから、
いくつかの個人セッションや個人リトリート以外の仕事を全て休んでいるため、
ほとんど収入がない状態が2か月以上続いています

でも、
こうなる前から、
4月からは瞑想とヒーリング、石屋さんの方に専念していこうと思っていたので、
コロナの影響によって伊豆の自宅に籠らざるを得ないのは、
とても好都合となりました

この3年間、忙しさのあまり、
全く手の入れられなかった庭や花の手入れや、
畑の手入れ、家のリノベーションに時間をかけることができ、
今日も一日花の手入れで、
ものすごく幸せな時間を過ごすことができました

特にうれしかったのは、
3年間ほぼ放置で瀕死状態だったバラ達の世話がようやくできたことでした♪






私個人にとっては、
「もう余計な仕事はしなくていいよ」と、
ようやく宇宙からもお許しをもらえたようで、
毎日せっせとやりたいことにかまけています

もう一つ面白いのが、
今回、都市封鎖やこれからの食糧難に備えて、
お米を中心にかなりの備蓄をしたのですが、
(自分たちだけではなく、いざという時に他者も助けられるように・・・マスクも、早めに買ってあったので、無くなって困っている人にあげることができました)
収入がないにも関わらず、
かなりの出費になってしまいました(;´Д`)

でも、その金額の大半が、
臨時にある人からの返済が入り、まかなえたのです

で、私の持ち出し負担額が、結局8,000円ということになったのですが、
やはり返済というか、
まだいただいていなかったセッションのお金とスカイプセッションのお金、
ちょうど8,000円が昨日振り込まれました(*‘∀‘)

ということで、
結局、備蓄分、滞りなく、まかなうことができました

いつも、こうやって必要なお金は入って来るのですが、
いつもぴったりなのが面白いところです

もうちょっと余分があっても私は構わないんだけどなー、って思うんですけどね(*´ω`*)

また、今までどうしても抵抗があってできなかったスカイプセッションでしたが、
(意外とシャイなんで、電話とかスカイプとか苦手なんです(^_^;)
対面は逆に何の抵抗もないんですけど)
今回のコロナで都内に行くことができなかったため、
どうしてもスカイプでやるしかなく、
やってみたら意外と大丈夫で、
エネルギー的にも対面とほぼ変わらずにできたので、
これからはスカイプセッションもやっていこうと思いました♪

これから、世界の状況は、とても深刻な状態を通過していくと思いますが、
一方で、
今までのシステムややり方が否応なく使えなくなり、
誰しもがシンプルな生き方や、
本当に必要な事、
本当にやるべきことに向かわされていくのではと思います

さて、
ということで、今まで伸ばし延ばしになっていた、
「トータル・パス」の教えの内容をブログにアップしていくという事に、
そろそろ着手していこうと思っています

(ようやく!(/_;)