2019年1月5日土曜日

五体投地 その2 心のお掃除

3日間、五体投地を修しました

現世で生きていると、
どうしても心には小さな塵や埃が積もっていきます

何か大きな間違いを犯してしまった事ももちろんそうですが、
大きな罪を犯す訳ではなくとも、
些細な嘘をついたり、
自分に都合の良いよう、持っていったり、
わざと拗ねたりむくれたり、
相手を利用したり、操作したり、
小さな意地悪をしたり、
冷たく当たったり、
八つ当たりしたり、
誤魔化したり、
さぼったり、怠けたり、
奢りたかぶってしまったり、
人を馬鹿にしたり、
etc、etc、
……

人間、ついつい、そんな事をしてしまうこともありますね

すぐに忘れてしまうそんな小さな事も、
自分でも忘れられずに、
ずっと心に引っかかったまま引きずっている事も、
全て、潜在意識の中に書き込まれています

自分の心には、
良心とも言える、
正心(主心)と、
ついついやってしまう副心があり、
正心はいつもそんな副心を見ています

スピリチュアルな言葉で言えば、
ハイアーセルフといわゆるパーソナリティとしてのセルフですね

どちらも自分ですから、
本当はどうしたらいいか、わかっています

でも、パーソナリティとしての自分は、
どうしても自分優先、自分本位になり、
日々の中で、
小さな塵や埃を積もらせていってしまいます

五体投地は、
そんな塵埃に光りを当てて行くようなものです

五体投地をすることで、
見て見ぬふりをしてきたそれらに光りを当てて、省みる心を持ち、

心からそれらの罪や穢れを悔いて改めたいという思いを抱く

改めて修してみてわかりましたが、
五体投地とは、
神や仏に向かって身を投げ出し、
全てを洗いざらいさらけ出して、
地に額をつけて赦しを乞う事なのですね

光りを当てて行くという事は、
死んだ時に閻魔大王の前で、
生きている間の全ての所業を見せられるというのと、同じようなものなのでしょう

自分では、それらをない事にしていても、
どうにか隠そうとしていても、
全てはすでに書き込まれていますし、
今も刻々書き込まれていますし、
自分自身の正心、ハイアーセルフは全て知っている訳です

ならば、どうすればいいのか

それならば、
生きている間に、それらを省みて、
悔い改めればいい訳です

心からごめんなさいをすればいいのです

今生積もらせてしまった塵埃は、
今生、お掃除すればいいのです

家の掃除と同じで、
何十年も積もらせてしまったものは、
一日や二日ではお掃除しきれないとは思いますが、
丁寧に心を込めて拭いていけば、
埃だらけだった家もピカピカになるように、
心もやがてピカピカになるでしょう

それは、
聖人君子になれと言うのではなく、
ただ、
清らかであれ、ということです

古くてボロい傷だらけの家具でも、
ピカピカに拭いて清めてあげればいいのです

最期に裁くのは、閻魔大王ではなく、
全てをすでに知っている自分自身の正心です

心から、悔いて改める気持ちで、
身を投げ出し、額を地につけて祈る事で、
赦しの光りが射し込みます

赦された時、
正心と副心は清々しく一つになります

その時、私達はすっくと立つ事ができるのです

五体投地を修することで、
生きながらにそれができるのだと、
この3日間で教わりました

これからも、折々に修していきたいと思います

五体投地を修してみようと思われた方は、
できれば、
21日間(もしくは一日3回で7日間)、
修してみてください







2019年1月3日木曜日

五体投地〜心がきれいになる〜

年末の27日から、リトリートを行っています

リトリートのプログラムの中で、
午前中に私がリードするハートのワークの時間があります

その時の生徒さんの状態によって、必要なワークをしていくもので、
ハートに関するワークがメインではあるものの、ボディケアや呼吸法から、様々な浄化法、また高次とつながる方法等、多種多様に渡ります

今回は、古代神道における龍体文字のフトマニを用いて、言葉の音、形の持つエネルギーを受け取り、心身を整えて行く事を初めて取り入れてみました

声をたくさん発するし、
エネルギーの高い文字なので、
終わった後、とてもすっきりと整います

昨日、そのフトマニの祝詞の後、
ハートを開いていくための私オリジナルのハートの瞑想をしましたが、
非常に良いものとなりました

その後のパートナーがリードする瞑想も、
ハート全開で非常に良かったとのことでした

今朝も、さらに開いていくために、
もう一度そのハートの瞑想をしようと思っていたのですが、
なんとなく、「うーん、ちょっと違うような気もするなー」「プレイヤー瞑想でもない感じだしなー」と感じていたら、
突然、「五体投地」というガイダンスが来ました

「ええっ?!」
あまりに意外なガイダンスにびっくり❕

ここで突然、密教?!

「五体投地」と言えば、
もう20年以上前に、真言密教をやっている時に、授戒するために、その前の準備として、21日の礼拝行を伝授され、行ったものです

得度した僧侶が礼拝行を行う場合、
一日3回の五体投地を7日間行うそうですが、
在家の者が戒を授かる場合は、
一日3回の時間がなかなか取れないため、
一日1回を21日間行えば良いようにアレンジしてくださったものです

1回の礼拝行で、108回五体投地をします

詳しい方法は本来直接に伝授されるべきものなので、ここでは割愛しますが、
20年以上も前の曖昧な記憶を辿って、
行ってみました

さすがに身体で覚えたものは、ちゃんと身体が覚えているものですね

自然に身体が動きます

というのも、修行好きな私は、
実は21日1回やればいいものを、それを2セット行ったからなのです
すごく修行してる気になれるので、その後も、ちょくちょくやっていました(笑

さすがに頭はボケてきているので、その時に唱える言葉はちょっと曖昧でしたが、まあ、概ね大丈夫でした

久々の五体投地、
還暦を過ぎた身体、
ちょっと心臓バクバク、汗ダクダク、足元ヨレヨレになりましたが、
無事に108回終わりました

終わった後、
「あ、心がきれい」
と感じました

フトマニも、水ごりも、
「エネルギーがきれい」になる、という感じ

ハートの瞑想は、ハートが広がって、
「愛と悦びのエネルギーに満たされる」という感じ

それらとはまた違って、五体投地は
「心がきれいになる」
という感じでした

エネルギーがきれいになるのと、心がきれいになるのと、あまり違いはないと思うかも知れませんが、
言葉では説明しにくいものの、
明らかにそこには違いがあります

他の表現で言えば、「感情がきれいになる」、「気持ちがきれいになる」とも言えるでしょう

エネルギーの場合は、もっと全体的な感じです

でも、この「心がきれい」というのは、
思った以上に良い感じがしたのです

さらに具体的というのでしょうか
パーソナリティの変容にとても良いような感じです

今日は、生徒さんが初めての五体投地だったので、ちゃんとできているか見ながらだったため、自分自身の五体投地に集中していた訳ではなかったので、より詳細にわかるまではいかなかったのですが、
五体投地を修した人達がよく、
「感謝の気持ちでいっぱいになった」
「周りの人や自分の置かれている環境が心底ありがたく感じた」
と言うように、
仏に対して身体全身を投げ出し、そのみ足を頂くという行為を繰り返す事で、
「自分が」という気持ちや、
奢った気持ちが削ぎ落とされ、
自然に謙虚になるのでしょう

身体全身を使うのも、
非常に大きな意味、効果があるのだと思います

「体は心を表す」

瞑想は別として、ずっと、私達のリトリートには仏教的要素はあまりなかったのですが、
今年、こんな形で起こりました

まあ、神道と密教の合わさったのが修験道なので、どちらかと言えば修験的要素なのかも知れません

キリスト的なものと神道、修験が、
融合されていくのでしょうか

私達にとって、
キリスト的なものというのは、この次元を超えた神性の次元、そしてその体験者である魂そのものの事で、この次元とは関わりのない事なのですが、
神道、修験は、
よりこの次元におけるそれらの体現に関わっているものと捉えられます

神性の次元と、魂の次元と、この肉体を持つパーソナリティとの架け橋

伝統的なそれらの教えの中には、
それを具体的に実現させていくための有効なメソッドという宝が、
たくさん持ち運ばれているように思います

ただし、通常、伝統的な教えにおいては、
それらは肉体の次元から神性の次元へ渡るための架け橋として修しているのだと思いますが、
私はむしろ逆なのではないかと思います

パーソナリティをいくら浄化、変容しても、
それだけでは神性の次元には行けないのです

逆に、神性の次元に至っても、
パーソナリティがヘコければ、
この次元で神聖な次元を十分に体現できない

パーソナリティの底上げをしなければならないのです

そのために、伝統的な教えのそれらは、
とても役立つのではないかと思います

「五体投地」
うーん、素晴らしいです🎵






2019年1月1日火曜日

新年 明けましておめでとうございます



新しい年が始まりましたね

昨夜、0時前に、
「やれやれ、厄年が無事に終わった」とホッとしたとたん、
大型のモリオンにけっつまづいて、
足の指を痛めてしまいました

指は腫れて痛いですが、
なんだか身体はちょっと軽くなりました

こうして最後の厄落としも無事に終え
(・∀・)、
今朝は近くの海に初日の出を見に行きました

昨年までは、誰もいなかったのに、
今年は大勢の人が見に来ていて、驚きました

なんだかいいなあ、と思いました(*´ω`*)

空にはまだ雲が残っていましたが、
隙間があって、そこから初日の出が顔を見せてくれました

今年はまだまだ、
遮るものが残っていて、
ちらっとしか光が顕れないのかな、
と思いましたが、
それでも十分に太陽は力強く、
とても神聖でした

晴れ渡っていたら、
大島から登る太陽が見られるのですが、
それも素晴らしいでしょうが、
意外と雲がある日の出も、
刻々と変わる、
雲との色と光のコラボレーションは、
人の手では決して描き出せない芸術以上で、
本当に美しくて、好きです


上の雲に隠れた後の、大島に降り注ぐ
黄金色の神々の階段が、
素晴らしく荘厳でした

今年は、元号が変わるという、
大きな変化がありますね
しかも、生前退位という特殊な形で行われます

昨年12月23日、誕生日のスピーチで、
天皇陛下がこれまでの天皇としてのご自身の旅について、涙声も交えながら語られました

そのお姿から聞こえて来るのは、
天皇という日本の象徴として生き、
歩むことへの、
一人の人としての深い探求と苦労でした

象徴という言葉は、天皇を、
絶対的な神と等しい責任ある権威者から、
理想の国民代表へと変えたのかも知れません

一方で、
天皇家代々に伝わる、それこそが本質である
国そして国民を守り育むための祭儀を、
滞りなく行わなければなりません

天皇に即位する際の大嘗祭において、
実際に神が天皇に降ろされ、
それ以前とそれ以降では、
天皇自身のエネルギーが全く変わると言います

その時初めて、
本当の意味で天皇になるのでしょう

国皇ではないのです
天の皇なのです

にもかかわらず、
国民代表に過ぎない天皇は、
神とつながった絶対的な権威者としても
生きられず、かと言って、
ただの国民としても生きられない

在位中に象徴と変わった昭和天皇ともまた
違う葛藤がそこにあっても、
不思議ではないでしょう

前例がないのです
自分で模索するしかない

それを受け入れ超えて来られた天皇陛下に、
悔いも、
不条理さを感じる事もないのでしょうが、
生前退位、そして譲位を選ばれたところに、
天皇陛下の最後の抵抗、
心の叫びを感じ取るのは、
私だけでしょうか

昭和という激動の時代から、
平成という元号の名の如く、
戦争のない平和な時代を天皇として生き、
国民を見、
直接相まみえ、
国民に姿を晒しながら、
国民の一人であった皇后を選び、
その皇后もともに表舞台に立たせ、
支え合って、
歩んで来られた

そして最後は、
上皇ではあるものの、
天皇としての任を譲り、
一人の人間として生きる事を選ばれた

それは、
まさに非常に象徴的であると言えますね

終戦を迎え、
マッカーサーと対面した昭和天皇は、
「自分の命はどうなってもいいので、その代わりに国民の誰一人も飢えのない生活を送れるように約束して欲しい」と言われたといいます

自分の命を差し出す事で示した
昭和天皇の矜持

それに深く感動したマッカーサーは、
昭和天皇を心から尊敬し、
日本への対応を変えたと言います

昭和天皇の人としての本当の胸の裡を、
聞いてみたかったと思います

それらの時代を経て、
それらの天皇の生き方を経て、
次に在位する天皇は、
どういう時代を生き、
どういう生き方を見せてくれるのでしょうか

皇太子は、私とほぼ同年代、同世代です

平成天皇より、より自由に、
より積極的に、
一人の人として生きる事を模索したとしても、
不思議ではありません

でも、それは、
絶対的でたった一人しかいなかった
神としての顕現者、それを託された者が、
国民とさほど違いが無くなるという事を
象徴するという事かも知れません

つまり、逆に言えば、
国民一人ひとりが神の顕現者になっていく
という時代の到来を象徴する、
という事かも知れません

今朝、伊豆の本当にマイナーで小さな海辺に、
思いがけず大勢の人が初日の出を拝みに訪れた
という事も、
太陽が顔を出した瞬間、
喜んで手を叩く人もいましたが、
後は本当に皆静かに、厳かに佇んで、
初日の出を待ち、見ていたということも、
その象徴かも知れません

聞こえるのはシャッターの音だけ

これが日本人だなあ、と思いました

静かでいられるのは、
厳かでいられるのは、
誰かと一緒にいても、
一人で日の出と向かいあえるのは、
心の中で神聖さを知っているからです

心の深くに、
太陽を神と崇める精神が宿っているからです

日の出も美しかったですが、
人々も美しかったです


今年、自然現象は、
ますます激しく動いていくかも知れません
同時に、
世界情勢も激しく動いていくかも知れません

でも、
平和ボケ、国民総おバカ化と言われた時代から
皆目が覚めつつあるように思います

今朝、大島に降り注いだ黄金の光のように、
私達一人ひとりの荘厳さが、
地上に降り注ぐようになるといいですね