2015年12月31日木曜日

火の儀式

大変な年だった今年のもろもろを、全て浄化し尽くすために、「火の儀式」を行いました
全てを焼き付くす不動明王の炎
今、地球の上で起こっているさまざまな事
人類が蓄積してきたさまざまなカルマ
それらが浄化されますようにと祈りを込めて、薪一本いっぽん、マントラを唱えながら
不思議なもので、とっくに忘れていると思っていた不動明王の真言が、自然に口をついて出てきました
口から出てくる真言が途中から光明真言に変わったのも、意味があるのでしょう
でも、最後は、新しい生命を産み出すドラゴンの炎になりました
年明けまで、後15分です
来年も、さらなる進化を❗

2015年12月25日金曜日

鉱物採取の旅♪ ~白亜紀の化石編~

九州5日目、最終日は、天草へと渡りました

目指すは、「恐竜の島」と呼ばれている御所浦島の隣の無人島です(*´ω`*)

白亜紀の恐竜の骨が発見されたことで有名になったのが、御所浦島ですが、
御所浦島に限らず、天草諸島一帯に白亜紀の地層が隆起しているため、
そこらじゅうでアンモナイトなどの化石が発掘できるそうです♪

御所浦島までは橋が架かっていて、車で行けますが、
目指す無人島には橋が架かっていないので、
樋島から海上タクシーで向かいます♪

そう、船!(∩´∀`)∩

ちょっと冒険チックです♪

干潮前後しか発掘ができず、この日の干潮時間の関係で、夜明け前に樋島を出発です

海上タクシーは、樋島の中川さんという方の「昭丸」号(∩´∀`)∩


ほんのりと空が白み始めた頃、釣り人と一緒に船に乗り込みます

釣り人を途中の岩場で降ろし、船は目指す無人島へと走ります
思った以上に高速です♪

ずっと以前、御蔵島にイルカに会いに行った時、
小舟で海に出て、船酔いして撒き餌した(;´Д`)経験がある私は、
酔い止めに「朝鮮ニンジン」のドリンクを飲んで行きましたが、
そのかいがあったのか、海が凪いでいたからなのか、
全く酔う気配もなく、とても快適に海の上を走る船を楽しむことができました(∩´∀`)∩

30分ほどで、目的の島に到着です
空はすっかり明るくなっています


その島のどこもかしこも白亜紀の地層が出ているそうで、
隊長いわく、とにかくどこでも地層の土を剥いで割ってみれば、何かが出る、とのこと

白亜紀の地層の上に立っていると思うだけで、
なにやらうれしくなりました♪


早速、隊長たちが掘ったポイントらしき場所に行くと、
こんな感じの崖?がずっと連なっています

バールで地層の土を剥ぎ、ハンマーとタガネで割っていきます

うーん、確かに結構な頻度で何かが出てきます(´艸`*)

でも、アンモナイトとかサメの歯ではなく、
何か虫っぽいような、よくわからないものです( ̄ー ̄)

土はボロボロと簡単に剥げるので、次々に割っていきます

途中で、海岸のごろ石の中から、貝の化石を見つけました


でも、隊長に確認すると、これは比較的新しい化石で、白亜紀のものではないとのことでした( ;∀;)

アンモナイト出ないかなー
サメの歯、出ないかなー

そう期待して次から次に割って行きましたが、
出るのはよくわからない小さな虫っぽいのばかり( ̄ー ̄)


こんな風に、土が丸く層になって堆積しているようなものがたくさんありました
海底の水の流れの関係で、こういう風に丸く堆積していったのでしょうか?

ボージーストーンに似ていたので、ボージーストーンも何かが核になって転がって、
こういう風にできたのかもしれないな、と思いました(*´ω`*)

かれこれ4時間近く、剥いでは割り続けていたでしょうか

ハッと気が付くと、海岸に潮が満ちてきた時の印に置いておいた流木すれすれまで、
潮が満ちてきていました

これ以上満ちると、途中の道が沈んで、船着き場に戻ることができなくなってしまいます(;´Д`)

焦って収穫物をまとめ、船着き場へと引き返しました

船に乗れなかったら、野宿です(;´Д`)
冬、凍え死にます
飛行機にも間に合わず、東京に帰れません

ギリギリ、危機一髪のところでした

ちょっと、ハラハラしました( ゚Д゚)

そんな状態だったので、虫っぽいのの写真を撮る余裕もありませんでした( ̄ー ̄)

虫っぽい化石だけをゴロゴロと持ち、
船着き場の近くで、のんびりとお弁当を食べながら船が来るのを待ちました



時間指定通り、12時に中川さんが迎えに来てくれて、
さすが日本だなー、と感心しつつ、
また樋島に向けて海を走りました



予想以上に、海の上を走るのは気持ちいい♪
すごく、自由な気持ちになります

なんだか、海の上を自由自在に走り回る天草の民、
まさに海洋民族、って感じで、ああー、すごくいいなあ♪(*´▽`*)

こういう暮らし、すごくうらやましくなりました

今まで知らなかった世界です(*´ω`*)



島々を照らす神々の階段が、祝福を送ってくれているようでした(*´ω`*)

アンモナイトもサメの歯も採れなかったけど、
知らなかった世界も知ることができ、
わくわく、とても楽しい経験でした(∩´∀`)∩

中川さんと船です♪


とても優しい方でした
お世話になりました♪
ありがとうございました(∩´∀`)∩

収穫物を段ボールに詰め、宅急便で送る準備をひとしきり

さて、後は帰るのみ
空港へと車を走らせます

途中で、車エビの養殖場があり、
生きた大きな車エビ6匹を1400円でゲット(*^^)v
2匹おまけにつけてくれました
超、お買い得~♪


こうして、九州鉱物採取の旅は終わりました

スモーキーも化石も収穫物は少なかったけど、
それだけ、何回も地道に根気よくやる必要のあること、ということでしょうし、
私の中の「やってみたい」気持ちも満たされ、
何かがちゃんと収束してくれた旅でした(*´ω`*)













鉱物採取の旅♪ ~スモーキークォーツの編~

先月終わりから今月初め、またもや行ってまいりました、九州!


って、まだ、夏の九州の聖地巡礼の旅はアップしていませんでしたね(^^;
それはまた、そのうちゆっくりと♪

で、今回は夏の旅行の時に台風でできなかった、
スモーキークォーツの採取のリベンジに行ってまいりました~(^0^)/
& 天草での白亜紀の化石採取です♪

今回はお金がないので、極貧旅行です
なんと、熊本までの飛行機代、約3500円!!
ジェット・スターというところの超格安チケットで行ってまいりました(*^0^*)

安い理由はいろいろあるのですが、
そのひとつは、早朝、もしくは夕方、成田からの出発だということ
しかも、空港の駅に着いてから、出発ロビーまで、約15分は歩くこと
そして、荷物は7キロまで!
座席も選ぶと別途料金がかかる
建物も倉庫レベル
機内も座席も狭い・・・・などなど
でも、九州まで3000円代だなんて、ありがたいこと♪

でも、最寄の駅から”始発”に乗らないと間に合わない!
ゆったりリムジンバスで行く予定が、電車の乗り継ぎで成田に向かいます

無事に飛行機に乗り、約1時間半の空の旅♪
富士山がとても素晴らしかったです

富士山を過ぎたあたり、
眼下の雲に虹が!



そして、かわいいパッチワークのような田畑♪


そんな短い空の旅を終え、無事に熊本空港に到着
レンタカー屋さんで”隊長”と待ち合わせ、
初日は南阿蘇に向かいます

”隊長”というのは、私がヤフオクで「まりも水晶」を落札した時の出品者で、
その「まりも水晶」も自分で採取したという、鉱物採取の達人です♪


これは隊長が採取した「まりも水晶」ですが、
「まりも水晶」というのはクーク石(クーカイト)がまりものように丸くなって水晶の中に入っているもので、とってもかわいいんです♪

隊長採取のものは市場で見るものより透明度が高く、
隊長コレクションの中には国宝級とも言える素晴らしいクラスターがゴロゴロとあり、
もう、それはそれはよだれものです(´艸`*)

また、隊長が天草で採取した白亜紀のサメの歯は、ヤフオクで8万~10万円で取引されていました!

すごいですよね~♪


一度鉱物採取をしてみたいというのが夢だった私は、
ヤフオクで知り合ったのをこれ幸いと、
その方に鉱物採取の案内を頼み込んだ、という訳でした(*´ω`*)

鉱物採取隊のガイドなので、”隊長”とお呼びすることに(*´ω`*)

ヤフオクなどというスピリチュアルな世界とは関係のない所を通じて知り合った訳ですが、
蓋を開けてみれば、
その”隊長”もバリバリのスピリチュアルな方で、
すでに「ハートの悟り」の体験をされているだけではなく、
その体験中にその体験をも手放してさらに深みへ向かうという、
本当に真摯な探究者であり、
マリア様ともつながりのある方なのでした(*´ω`*)

やはり、何かの縁で導かれたとしか思えない出逢いでした

とても優しい、素敵な方です♡

本当は、その大好きな「まりも水晶」の採掘をしてみたかったのですが、
「まりも水晶」が採掘できる坑道はすでにコンクリートで塞がれて入れないとのことで諦め、
代わりにその近くの大崩山というところでスモーキークォーツが採取できるというので、
そこへの案内をお願いしたという訳です

さて、まずは南阿蘇に向かう途中にある宝来宝来神社に寄りました
宝くじに当たるご利益があるという、平成にできたその神社は、
まあ、霊的にどうのこうのというより、
お金のご利益をテーマにしたテーマパークのようでした(;´Д`)



詳しくはググっていただくとして、



この大岩が、宝くじに当たる霊験高らかと言われている岩です
岩の裏手に、ロト6とナンバーズ3,4の数字を占うルーレットがあったので、
一応、やってみました(∩´∀`)∩

試しに、その数字で先日、生まれて初めて宝くじなるものを買ってみましたが、
ざんねーん!!
見事にはずれ!でした( ̄ー ̄)

でも、この神社の境内にある建物は全て、
ご利益で宝くじに当たった方々の寄付で建てられたものだそうで、
それなりのご利益があるのかもしれません

やっぱり、「試し」とか言ってるようじゃ、宝くじの神様は微笑んでくれないんでしょうね(;´Д`)

さて、次は生きている白と金の蛇がいるという阿蘇白水龍神権現という神社にお参り
やっぱり、金運です(*^^)v

本堂でその蛇様にお参りすると、半強制的に紙幣のお賽銭をあげることになり、
なんだかなー、という感じでしたが、
さすがに生きている白と金の蛇は美しく、迫力物でした

その時はエネルギーも何もさほど感じられませんでしたが、
先日、諸事情により、結構な大金が手元に来るという(まあ、父の遺産ではありますが)流れとなり、もしかしたら、これらの神社のご利益があったのかも?(;´Д`)
まあ、入ったと言っても、そのまま出て行っちゃうんですけどねー( ̄ー ̄)

その後、白川水源、倶利伽羅大滝などを廻りましたが、
長くなるので割愛~


さて、2日目は、いよいよ大崩山のスモーキー採取です♪

曇り、一時雨、もしくは雪の予報をぶっとばし、
朝5時に出発した私たちは、
雲ひとつない快晴を呼び込み、
気持ちも高らかにいざ、大崩山に!!


地元の人たちは、タケノコ大のスモーキーを持っているとか、
中にブルーのトルマリンの入ったタケノコ大のスモーキーもあったとか、
20センチくらいのシトリンだとか、
隊長の相棒がスイスのスモーキークラスの超透明な質の高いクラスターを掘り当てたとか、
隊長も20センチ位のダブルポイントのほとんどモリオンに見えるような深い色のポイントを見つけたりとか、
そんなすごい話を聞いていた私たちの期待は大!


大崩山は、宮崎の高千穂の隣の日之影町というところから、
1時間位、どんどん山奥に入っていったところにあります

登山としても、結構有名のようですが、
私たちが行くのは一般の登山道ではありません

かつては採石場の車が行き来したと思われる、
今は打ち捨てられ、瓦礫だらけの荒れた道をたどり、
中腹にある石英の採石所跡に向かいます



ところどころ、道が途切れているので、
案内人がいなければ、とてもじゃないけど辿り着けません

途中、川べりの岩の崖をロープでよじ登ったりして、
結構な”登山”でした(-ω-)/

隊長の足で50分で行くところを、
私たちは1時間半かかって、ようやくたどり着きました





こんな感じで、30メートル四方位のところに、岩場があり、
そこらじゅうにゴロゴロと岩が転がっています



写真ではよくわかりませんが、全ての岩という岩に、小さな水晶のクラスターがついている、
と言っても過言ではない位、水晶だらけです♡

そのためだと思いますが、
最初はクラクラとする位、エネルギーの高いところでした(*´▽`*)
水晶取るのもいいけど、それより、
「ここに住みたい!」と思ったほど♪

岩の割れ目にちょこっと顔を出しているクラスターは、たまらなくかわいい♪


岩という岩に、こんな風に小さなクラスターがのぞいています♪



こんな感じの岩がゴロゴロと無数に♪

クラスターがキラキラと太陽の光に反射して、
本当にきれいでした♪

とはいえ、私たちの目当ては、大きめのポイント!

かつて石英を採取する際に岩を爆破していたので、
その爆破の際に割れて飛んだスモーキーのポイントが土の中やがれきの下に埋もれているので、
それを三又のクワで掘って探すのです(∩´∀`)∩

わくわくわくわく♪

隊長やパートナーさんは、着いてすぐに小さなポイントを見つけていきます

私も、最初に掘り出した土の中から、3センチ位の透明度の高いポイントを見つけました♪

「わーい♪」(∩´∀`)∩

この調子でどんどん見つかるのかと思いきや、
それっきり・・・・・

掘っても掘っても、
出てくるのは1センチにも満たない極小ポイント・・・

1時間半の荒れた山道をクワを持って登った私たちは、
2時間も掘らないうちに体力が底をつき、
クワを投げ出して、ウロウロとそこらを探し回る作戦に変更(;´Д`)

隊長いわく、「人間って、ことごとくみんな同じ行動するんですねー!」

でも、すでにのべ数百人が目を皿のようにして探し回った後の地面には、
極小ポイントがほんのわずかあるばかり・・・

上の写真のように、岩の間の小さなクラスターなら五万とあるのですが、
また荒れた山道を持って帰ることを考えると、
3つ4つ持って帰るのが関の山。

なにせ、岩は重い
いうまでもなく( ̄ー ̄)

大きな岩の中には、まだまだスイスクラスの大きなクラスターや、
ポイントも眠っている潜在性は無限にあるものの、
岩を割るにはハンマーとタガネ程度では歯が立たない

ドドドドッと工事現場で使っているような大きな電動ドリルを持ってこなければならず、
最小の発電機でも40キロとのこと

とてもとても担いで歩いて来るなんでできません( ̄ー ̄)
誰か、自分で歩く発電機、発明してください

それでも、たとえ極小でも、自分で見つけた水晶は、
たまらなくいとしい♡

普通なら、目もくれないようなものばかりですが、
とてもきれいに見えます(*´ω`*)


これが、今回の収穫物です♪

たぶん、一番上の段の左から3番目のが、私が最初に見つけたもので、
質で言えば今回の最上の収穫物でした(*´ω`*)
うふふん♪

それよりもっと大きいもの達は、隊長が1メートル以上、土を掘って見つけたものです
さすがです!( *´艸`)

場所によって、ここらはシトリンが多く、ここらは薄い煙水晶、ここらは色が濃い・・・
などと、色合いに違いがありました

シトリンには、まるでアクアオーラのように、緑や金銀に輝く皮膜のかかった美しいものもありました♪

現地で、太陽光の元で見る石たちは、別格の美しさでキラキラと輝いていました

画像でお見せできないのが残念・・・( ;∀;)



歩き回る体力も尽きたので、ランチタイム♪

パートナーさんが最近凝り始めた山グッズで作った、温かいランチ♪
お腹に染みわたりました~

この日は本当に太陽の光が強く、
気持ちいい一日でした


実は、私が三又クワを持って岩の上に立っているところを、
隊長が下からスマホで撮影してくれたのですが、
太陽を背にしていたため、頭がすっかり太陽の光の中に入ってしまい、
頭の部分は光しか映っていず、身体とクワだけシルエットで写り、
それは上の画像のように、まるで光輝く太陽の頭を持った神のような姿になり、
しかも三又クワがシバ神の持っている「トリシューラ」と言う三又の鉾のように写っていて、
まさに岩の上に「シバ神」降臨!という面白い画像になったのです( *´艸`)

シバ神のトリシューラは、こういうの

「シバ神」の画像検索結果

三又クワは、こういうの

「三又くわ」の画像検索結果
角度によって、シルエットはトリシューラそっくりに(^.^)


その場で隊長がその画像を私のスマホに送ってくれたのですが、
山の上で圏外だったため送れず、
では、後で、ということになったのですが、
その後、隊長がそのスマホを川の中に落としてしまい、
太陽の「シバ神」は幻の画像となってしまいました(;´Д`)
うう~っ、アップしたかったー(>_<)

さて、ランチ後もしばらく掘ってはみたものの、
大した収穫もなく、
下山することに

パートナーさんの「岩は置いていきなさい!」という言葉は聞こえないことにして、
リュックの中にクラスター付きの岩を4、5個詰め、
ずっしりと重いリュックを根性で担ぎ、
来た道を下って行きました

途中、スライダーのような川がありました(*´▽`*)


夏にでも、数日キャンプして、川遊びしながら水晶掘りすると楽しそう♪

後少しで車を停めたところに到着、というところで、
急に隊長が服をまさぐりながら、なんとも妙な顔をしました( ゚Д゚)

どうしたんだろう?と思ったら、
「スマホがない( ゚Д゚)」

パソコンを持たず、スマホひとつでヤフオクの出品から何からやっている隊長・・・

すでに時は4時半

後、30分位で日が沈んでしまいます

戻って探してくるという隊長にヘッドランプとストックを渡し、
私たちはかえって足手まといになるので車で待つことに

そういえば、川べりの崖のロープを降りる時、
私が降りるのを助けてくれていた隊長が岩で足を滑らせておっとっと、となった時に、
「ぼちゃんっ」って音がしてたな

石ころが川に落ちた音かと思ったけど・・・
降りるのに必死になっていたから、何が落ちたかまでは見えなかったけど・・・

それとも、採石場で最後に隊長、岩をガンガンやってたから、
その時に岩の間に落ちたかな?

後は、ずっと隊長の後をついていったから、落としたらわかると思うけど・・・

などと話しながら待つこと1時間

山はすっかり闇に包まれ、ちょっと心配になってきたので、
途中までお迎えに行くことにしました

でも、ものの数百メートルも行かないうちに、
ヘッドランプの灯りが見え、
隊長が戻って来ました

スマホは見つからなかったものの、
暗い中、往復で1時間とは、すごすぎ

しかも、川も採石場もグルグル回ってよく探したとのこと
しかも、隊長、ぶかぶかの長靴・・・

私たち、登山靴で往復3時間・・・

うーむ
隊長と私たちのこの差はなんだろう?( ̄ー ̄)

やはり、普段からのトレーニングの差ですかね

なんて言ってる場合ではなく、スマホがないと隊長やばいです
責任も感じるし、
お世話になった隊長に恩返しの時です

翌日、久住山に行く予定を変更して、
私たちだけでスマホ探しに再び大崩山を登りましたが、
やはり見つからず( ;∀;)

川の中も下流の方までよく探したのですが、
一か所、大きな岩の横を激しい水流で流れているところだけが、
泡で白濁していて川底が見えず、
もう、あるとしたらそこしか考えられなかったのですが、
そんな水流の激しい川底にあったら見つけても駄目だろうと思ったのと、
簡単に手の届く場所ではなかったのであきらめて帰りましたが、
なんとその翌日、
隊長が仕事を休んでまた探しに行き、
川の流れを石で変えて、
まさにその場所から見つけたとのことでした(*^▽^*)

川の流れを変えるとは!!

私たちには思いつきもしませんでした!( ゚Д゚)

さすが、隊長です!!(∩´∀`)∩

かっこよすぎです!

でも・・・・
川から拾い上げてすぐに電源を入れてしまったそうです( ;∀;)

防水だったとのことで、生きてるかと思って、
入れてしまったそうです・・・

知らなかったんですね・・・濡れたら完全に乾くまで電源入れちゃダメってこと・・・

隊長ーっ(;´Д`)

データ、死んじゃいますよーっ(>_<)

私たちがあきらめずに見つけてあげてればよかったーっ(>_<)

ってことで、やっぱり、データは死んでしまったようです・・・(ノД`)・゜・。


なんていう、おまけもついたスモーキー採取でしたが、
収穫はわずかながら、
かねてからの念願が叶って、満足♡でした(*´ω`*)

隊長、ありがとうございました♡











2015年11月28日土曜日

自分のエネルギー状態

今日、知り合いのプロデューサーのIさんに連れられて、
世界最高のカット技術で完全反射するようカットされたダイアモンドを見に行ってきました

ジュエリーとしてのダイアモンドというより、
最高のパワーストーンとしてのダイアモンドです

そのパワーを完全に引き出すために、
100%光を反射させるカット技術を使い、
ダイアモンドをカットしてるそうです

以前、NHKの番組でもそのカット技術が紹介されたそうです

パワーを完全に引き出されたダイアモンドは、
パワーもヒーリング力も絶大だそう♪

まあ、なんといってもパワーストーンの王様のダイアモンドですからね(^^)

そのダイアモンドを身につけることによって、
その人のエネルギー状態が「理想的な状態」になるとのことでした

そこでは、一人ひとりの波動にあったダイアモンドを見つけるために、
EAVという、ドイツで開発された波動測定器を使って、
その人の現在のエネルギー状態と、
普段見につけているアクセサリーなどとの相性を最初に測ってくれるとのことで、
私も測定されることに(^~^)

そのEAVという波動測定器は、
ヨーロッパやロシアで医療機器として使用されているものですが、
もともとは鍼灸の経絡とか経穴の体系を元に、
ドイツのドクター・フォルという医師によって開発されたものだそうです

まあ、要するに、経穴に流れる電流を計測することによって、
その波動、つまりエネルギー状態を知る、ということですね

目に見えないエネルギーの状態を、科学的に測ることができる機器とも言えます

そこでは、そのEAVを使い、
手の7箇所のツボ(測定点)に流れている電気の速さを測ることによって、
その人のエネルギー状態を測定していました

身につけていた装身具などの金具類を全てはずして、
私も早速測定してもらいました

この2年間の異常な忙しさによる疲労の蓄積と、
ここのところの極度の日照不足とで、
かなりのヘロヘロ状態の私(~0~;



今日の晴れ渡る真っ青な空の元、
公園でいっぱいお日様の光をチャージしたものの、
完全回復には至らず、
しかも、午前中に二人に「頭の穴追い」を施した後だったので、
ひどい数値が出てきたらどうしよー(>_<)、とちょっとドキドキ

もう、完全に「マイナスエネルギー状態」だろうなー、と思っていました

ところが、
実際に測定してみると、
ほぼ、「理想的な状態」とされているエネルギー状態だったのです(*^0^*)/

普通に社会生活を送っている人のほとんどが、
アグレッシブになっている「ストレス状態」だということでしたが、
私の場合、まあ、免疫力とホルモン状態にごく僅かな疲れが見られたものの、
後は完全に「理想的な状態」でした♪

これだけ疲労感を感じている時ですら「理想的な状態」であるならば、
この疲労感が抜けた時はもはや「完璧」ですよね(*^0^*)

まあ、「穴追い」をしたので、「気」が通ったのもあるのでしょうが

身につけていたブレスレットやペンダントも、
ほぼエネルギーバランスが安定していて、
「理想的な状態」に近いものでした

いや~、
よかったよかった♪

というか、
自分でも驚きました(*^0^*)

瞑想して、
目覚めた状態であるからには、
エネルギー状態が良いことは当たり前と言えば当たり前なのですが、
それが実際に科学的に立証されて驚いたのです

というのも、体調が悪い時も多々あるし、
エネルギーダウンして、
カスカスのエネルギー状態だなあ、と感じることも多々あるし、
ここ2年間は「封印状態」とでも言える状態で、
自分でも実際にどういう状態になっているのかちょっとわからなかったので、
今回、それが科学的に実証されたことが驚きであり、
とてもうれしいことでもありました♪

その後、測定してくれた人が、
私が気になるカットの中から、
私に合う波動のダイアモンドを選んでくれましたが、
一発で選ばれ(普通の人の場合、何個も試さないとならないそうです)、
そのダイアモンドを手にのせたとたん、
「歓び」のエネルギーがわっと押し寄せ、
思わず「うふふふふふふふふっ」となってしまいました

とてもパワフルでした♪

そのダイアモンドを、
金のチェーンと金の六ぼう星の台座に載せたら、完全なる「王様」のエネルギーになり、
シルバーのチェーンとシルバーの六ぼう星の台座に載せたら、
深い慈悲と愛の「マリア様」になりました(*^0^*)

そして、ぽちぽちとメレダイアがついた金のチェーンと金の普通の爪の台座に乗せたら、
「クィーン」になりました(*^0^*)

シルバーのチェーンとシルバーの普通の爪の台座では、
もっと軽いエネルギーの「天使」になりました


5種類のカットの仕方があり、カットによってエネルギー違うし、
同じカットでも、
ダイアひとつひとつエネルギーが違うし、
台座の素材と形によってもまたそのエネルギーが変わるし、
本当に面白かったです(*^0^*)

さすがに究極のパワーストーンです

あのダイアモンドが私の元にやってくるといいな♪
ぽちぽちとメレダイアがついた金のチェーンと金の六ぼう星の台座に乗せられて♪
いわば、「キング」と「クィーン」の結婚
どんなエネルギーになるのかな?

でも、「マリア様」も捨てがたいなあ(^0^)

待ってるよ~♪




あ、後、余談ですが、
今日の「穴追い」、あまりに天気が良かったので、駒沢公園に出向き、
お日様の光を浴びながらやりました

そしたら、「穴追い」をしている間、
風がとても強くなり、
リリースされたものをみんな吹き飛ばしてくれました♪

お外でやる「穴追い」、最高に気持ちいいです(*^v^*)V




(駒沢公園で拾ったPINオークのどんぐり♪かわいいでしょう(^v^))









2015年11月22日日曜日

『未知』と出会う

神性、『最愛なるもの』と直接出会うということは、『未知』と出会うということだ。
それは、今まで知らなかったものと出会うという意味だけではない。
それは、「知ることができない」ものと出会うということだ。
『不可知』と言った方がいいだろう。

それは例えば、私たちがどこか見知らぬ土地に旅し、ピラミッドや古代遺跡など生まれて初めての建造物に出会ったり、生まれて初めての食べ物や生き物に出会ったりして、その凄さに心底驚き、感嘆する、という類の体験ではない。
それは例えば、未確認物体に出会い、宇宙存在に生まれて初めて出会うような類の体験でもない。
それは例えば、肉体を持たない高次の存在に出会い、その叡智や愛に触れるという類の体験とも違う。
それらは全て、生まれて初めて出会ったものだとしても、それらの姿形、それらのエネルギーなどを、私たちは認識し、把握することができる。

だが、神性と直接出会う時、私たちはそれを認識し、把握することができないのだ。
それは、体験を超えた体験だ。

絶対的な静けさの中で、完全に明け渡した時に、それは起こる。

ハートは完全に開き、実際の胸も、普段では肉体的にありえないほどに広がり、天に向かう。

ほんのわずかに、知性の機能が体験していることを認識する以外、あらゆる機能が停止したかのようだ。

それは、良いも感動も衝撃も畏怖も何も全て超え、至福すらもエクスタシーすらも超えている。

何も感じていないようにすら言える。
かろうじて、知性がわずかにその『未知』を体験していることを認識しているだけだ。

私たちは、ハートを通して神性の愛のエネルギーに満たされ、至福や悦びやエクスタシーを体験するが、それすら、神性の声を聞き、その息を感じているに過ぎない。

神性と顔と顔を合わせて、直接に出会うということは、それら全てを超えている。

それは何か、全く質の違う、次元の違う体験だ。

私たちは、それを体験し、そこに溶け去ることはできるが、それを知ることはできないのだ。

それは、完全に人間のマインド、人間の機能を超えている。

そして、その時初めて、私は「完成した」と感じられた。

どんなに至福に満ち、エクスタシーに酔いしれ、どんなに『最愛なるもの』の愛に包まれて涙し、その度にすっかり洗い流され、その度に新しく生まれたように感じようと、何かまだ完成されていないという感覚があった。

人間存在として、最大の拡大に到達して初めて、「完成した」と感じられるのだ。


―――――2011年9月 伊豆にて

「私が私であること」の歓び~「私」の秘密 その4

「行為に集中して、私がいなくなり、行為だけが起こっている」状態について、
それはまだ「悟り」ではないということを前に書きましたが、
それに関してもうひとつ書こうと思います

よく、踊り子が踊りを踊っていて、踊り子がいなくなり、踊りだけが起こっている、
という例えが使われます

その例えを使って書いてみますね(^.^)

目覚める前の人が踊りを踊り始めます



最初は、踊りと踊っている自分との間にはまだ分離があり、
時として、手の動きや体の動き、足の動きを感じたり、
時として、「こう踊ろう」「もっと激しく!」「もっとセクシーに♡」「こんなのはどう?」「わあ、楽しい♡」「ノリノリの音楽だわ♪」などと思いながら、踊ることを楽しんだり、
時として、踊っている自分に意識を向けて、「うまく踊れているかしら?」「どう見えているかしら?」などと思ったりしています
注意が、自意識、身体の動き、外側の音楽、周りの風景など全てに向き、それらの間を行ったり来たりしています
身体の動きも、ある程度意識的です


そのうち、どんどんと踊りにのめりこんでいくと、
そういった思考も全て消え去り、
何も考えずに、身体が音楽と一体になったように、
何も意識せずに身体が自由に勝手に動き出し、
踊りと一体になります

その感覚に完全に酔いしれているとも言えます

今時の言葉で言えば、「ゾーンに入る」って感じでしょうか(*´ω`*)

その段階で、「私がいなくなった」と感じることができます

これは、前にも書きましたが、
正確には踊っている人が消えたわけではなく、
自意識へと引き戻されることから一時的に開放され、
踊りと一体になっている状態です

もはや注意が特定の焦点を持たず、
意識は非常に集中していますが、
どこか外側の一点に集中というより、
むしろ拡散しているとも言える状態です

意識そのものが中心で集中しているのです

そこから、意識は特定の焦点を持たずに拡散しています

それが意識的な「私」が現れているということです

それに気づいた時、
踊りから、中心であるその「私」そのものにシフトした時、
何が起こると思いますか?

そう、
踊りが落ちるのです

私がいなくなるのではなく、
踊りの方が落ちるのです(*´ω`*)


そこにあるのは、
「私」だけです

身体はまだ踊り続けていますが、
あなたはもはや踊っていません

踊りはもはやあなたから切り離され、
ただ、あなたの外側で回り続けているだけです

あなたは中心で1ミリも動かず、
あなたである至福の中で、
ただ、外側で起こっている踊りを観照しているだけです


覚醒した時、
今まであなたの人生を楽しませたり悩ませたりしてきたストーリーのあれこれ、
その全てが、それそのものが、
あなたとは何の関わりもない、
ただ外側で流れ続けている風景に過ぎないことを知ります

それは、
一時的に自意識から引き剥がされた時に得るものとは比較にならないほどの、
解放感と歓びの爆発です

あなたは、今まであなただと思ってきた全てから真に解放されるのです




この感覚を得るために創られたのが、
まさにスーフィーダンスです

スーフィー旋回ダンス


ワーリングと言って、
クルクル回り続ける、最高に美しい瞑想法です

これを、インドのOSHOのアシュラムで体験したことがあります

普通のダンスでは、回転する時に目を回さないように、
頭を身体と一緒に回すのではなく、
頭だけそのままにして、身体が半分回った時にクルッと頭を早く回しますが、
ワーリングでは、身体と一緒に頭も回します

当然、普通にそれをやると、
あっという間に目を回してひっくり返ってしまいます

気持ち悪くなってゲーゲー吐くのがおちです(;´Д`)

でも、それは身体のバランスを取るために、
必ず目の焦点を周りのどこかに合わせているために起こる現象です

といって、目をつぶってやれば、
すぐにバランスを崩して転んでしまいますし、
かえって酔い易くなったりもします

そこでどうしたらいいか、やりながら発見したのは、
少しだけ上向き加減で、
目の焦点をどこにも合わせずに、
つまり、目を開けてはいますが、
見ることを放棄して回れば、
いくらでも回り続けられるということでした(*^^)v

そして、回り続けているうちに、
恍惚状態に入っていきました

腕を広げてクルクルと回り続けているのが本当に気持ちよく、
空を自由に飛び回る鳥になったような気分でした

クルクルと回りながら、
私はとてつもなく自由だったのです

そして、ある地点で、
驚くことが起こりました

回っているのは私ではなく、
周りの風景が回り始めるという、
逆転が起きたのです

私は1ミリと動かず、中心で確固として立っているだけで、
ただ、回り灯籠のように、
私の周りを風景が高速で流れて行きます

人も木も建物も床も空も、
全てが高速で私の周りを走り抜けながら、
回り続けているのです

私はそれを歓びの中でただ眺めているだけです

それはとてつもなく美しい状態でした

これこそが、まさに覚醒の状態なのです

ダンスと一体になることを超えて、
ただ「私」そのものになる状態です

「私」以外のものは、
全て外側で「私」に関係なく、ただ回り続けているだけなのです

この世に、こんなシンプルで、こんな美しい瞑想があるなんて、
本当に感動的でした

私は歓びと感謝の涙を流しながら、
眺め続けていました



いつまでもその状態を楽しんでいたかったですが、
突然、
私の身体がポーンと投げ出されました

足が限界を超えて、もつれたのです(;´Д`)

何のトレーニングもしていない身体では、
長い時間回り続けるだけの脚力はありませんでした(;´Д`)

何の防御もしていなかったので、
思いっ切り石の床に身体をたたきつけましたが、
私はまだ至福の中で感動していました

床にしばらくひっくり返ったまま、
その余韻を楽しんでいましたが、
気が付くと、立ち上がれない位、
身体はコテンパンに疲労していました(;´Д`)
しかも、足の裏すれて痛いし・・・( ;∀;)

本当に美しい瞑想ですが、めちゃハードでした
体力いります(;´Д`)


ご興味ある方は、ぜひ試してみてください
本当に美しくてパワフルな瞑想法です♡


(ただ、私の場合、すでに覚醒していたので、
初めてのワーリングで割とすぐにその状態に行きましたが、
ワーリングそのもので覚醒に至ろうとする場合、
すぐにその状態に至れるかどうかはわかりませんので、
怪我しないようにトレーニングしてくださいね♪
それに、ちゃんとしたワーリングの指導者についてやった方が安心かと思います(*´ω`*))



***


「行為」と一体になることと、覚醒は、
似て全く非なるものです

「行為」と一体になることは、「行為」が主です
でも、覚醒は明らかに「私」が主で、「行為」の方が何であれ、落ちるのです

だからこそ、
私たちのワークでは、
「私」を直接認識し、
常にそこに立ち戻り、
そこへと深く入っていくことを強調するのです

「私」こそが、
全ての神秘に至る鍵です

それこそが、「秘密の扉」なのです


パーソナリティとしてのも、本当は、
それに協力し、私たちをそこへと連れて行くための重要な機能なのです

問題は、主従が逆転してしまっていることなのです

ですから、安易にを否定し、それをなくそうなどと思わないでください

それよりも、
「私」を目覚めさせることが先決です

































2015年11月21日土曜日

「私が私であること」の歓び~「私」の秘密 その3 「私」を知ることの難しさの訳

リトリートが続いていますが、ずっと浄化の雨でした
今回も大きな浄化が起こりました(*´ω`*)

なので、今日はもう晴れる気がしていましたが、
期待通り、久しぶりに晴れたので、早朝のダイナミック瞑想を変更して、
日の出のお散歩と、日の出の太陽のエネルギーを受け取るワークをしました

とても雄大な、清々しい景色
山の横に見える朝焼けの雲の下は海です♪
たっぷりと新鮮な空気を吸いました






山が遮って、水平線に出る太陽は見られませんでしたが、
山から顔を出す前、うすーく彩雲が現れました♪
祝福ですね(∩´∀`)∩


ちょっと、画面ではわかりませんね(;´Д`)残念~


その後、太陽の光が放射状に山から立ち上りました
まさに、神のお出まし、って感じです( ̄ー ̄)
うっすらでしたが、感動的でした♪





山から太陽が顔を出しました


パワフルなエネルギーを、ダスカロス方式でたっぷりとサードアイとハートに受け取りました♪
両手で三角を作り、太陽の光をそこから取り入れます


そのまま、磐座の上で瞑想したかったですが、時間が過ぎていたので帰りました
今度、やろう( ̄ー ̄) ふふふ


さて、今回はなぜ「私」を知ることが難しいのかについて、書こうと思います

なぜ、と「私」が多くの教えの中で混同されてしまうのか

ひとつには、
薄ぼんやりと潜在的にを感じることはあっても、
それを「意識的に」直接感じようとしたことがないから、ということがあります

注意のベクトルは常に外側に向いているため、
それを反転して自分を感じることなど、
普通、人はしないからです
いつも、外側の出来事や、沸き起こっている思考や感情に気を取られています

灯台元暗しと言うがごとく、あまりにも近すぎて、見えないのです

おそらく、そういう発想すらないと思います

にもかかわらず、
に驚くほど固着し、執着しています

そういうに疑問すら感じていません

でも、それより少し、霊的に進化している人は、
もっとはっきりと自分を感じています

人類の進化とともに、
「個人」が強調されてきたため、
他者との比較対照という文脈の中で、自分を感じています

あるいは、
「いつも上から自分を見ている自分」という形で感じていることでしょう

少し、自分の中に距離があります

でも、もう少し霊的に進化している人は、
もっと自分の中に距離を持っていて、
きっともっと親密な感覚で、
何かちょっと違うニュアンスで、
時折「私」を感じているはずです(*´ω`*)
そういう人は、おそらくすでに何らかの形で「悟り」を目指しているでしょうが、
「悟り」=「無我(私がいなくなる)」と、
教えの多くが言っているのを知っているために、
その感じているものを「なんとか無くせないか」と奮闘していることと思います(;´Д`)

そう、それがもうひとつの理由なのです

なんであれ、は問題児扱いされてしまっているのです(;´Д`)

と「私」の識別をしようとするより、
とにかくその「問題児」であるを取り除こうとしてしまいます

とは何か?「私」とは何か?と、探求することなく、
どうしたらそれを取り除けるか、だけに腐心してしまうのです

実は、そうやって「悟り」を目指して、
なんであろうと私を否定し、無き者にしようとしてきたことが、
「私」である魂を非常に深く傷つけています

その傷、そのカルマは本当に大きい

今生、自己否定に苦しんできた人は、
もしかしたら過去に「私」を否定する教えの元で必死に修行してきたかもしれないのです



そして、もうひとつの大きな理由

それは、
と「私」が全く同じ位置にあるからです

普段、なんとなくぼんやりと感じている「自意識」と、
「私」が全く違うところにあれば問題はないのですが、
それらは重なり合って同じスペースにいるため、切り離すのがとても難しいのです

そのため、「私」はの陰に隠れたまま、
一緒に「ロクでもないもの」として捨て置かれてきたのだと思います

まして、目覚める前の人の場合、
「私」は完全に現れていず、種、もしくは眠っている状態だと言えます

そんな状態では、見つけるのが困難でも当たり前です

いくつかの教えが、直接に「私」を認識していますが、
そこに到達する方法はとても間接的で、時間のかかるものでした


ちょっと、例えとして図を使って説明してみますね(*´ω`*)





が水色の球だとします

思考や感情、感覚と同化して不透明でどんよりと色づいています

制限の枠があります




「私」が透明な球だとします
(本当は制限の枠がないのですが、見えないので(;´Д`))

何とも同化せず、純粋で透明です

光輝いています♪



3次元にいる私たちが普通に見ると、それらは重なり合って同じ位置にあるため、
上から見ても下から見ても横から見ても、こう見えます


しかわかりませんね(;´Д`)

では、今度は「次元」というY軸を入れたグラフ図で見てみましょう
              
        Y軸 次元 高い
低いX軸 位置


そうなのです、次元で見た時は、あきらかに違いがあり、両方別々に見えます

は3次元に属し、「私」はもっと高次元に属しています

3次元の振動数はより低く、粗いエネルギーです
「私」の属している次元は、もっと振動数も高く、非常に繊細なエネルギーです

そのため、である3次元の視点から見ると、区別するのが難しいですが、
もっと高次元にチューニングできるように感性も知性も成熟すると、
両者を明確に識別することができるようになります

この感性ですが、
多くの人が現代生活によってかなり壊されているんじゃないかと思います

多くの家庭で、朝から晩までテレビがつけっぱなし状態です

中にはいい番組もありますが、
ほとんどは非常に粗い振動数です

本当に、非常に粗く、低い振動数です

それに1日中さらされている

テレビを見ていれば、自分と向き合わなくてすみ、
自分からエスケープできているような感覚になるので、
皆、無意識に見続けているのだと思います

自然の中で暮らしていれば、まだ自然のエネルギーに触れて繊細さを保てますが、
都会ではほとんど不可能です

そんな粗いエネルギーに慣れていては、
高次の振動数にチューニングしていくなんて、至難の業です(>_<)

その上、ゲームが日常の中に完全に入り込んでいる人が少なくありません

私の子ども世代に、初めてテレビゲームなるものが誕生しましたが、
あれは繊細な感性を壊すと、すぐにわかりました

特に成長過程の幼児がゲームを毎日やるようになると、
取り返しのつかないことになります

一度壊れた感性を取り戻すのは、大変なことです

感性が鈍ってしまっていると思う人は、
できればテレビはもう卒業して、
もっともっと自然の中で過ごす時間を増やしていく必要があると思います

と「私」の見分けがつかない理由、
言い換えれば、「私」が秘密になってしまっている理由は、
「私」がもともと秘密なのではなく、
私たちの感性が鈍ってしまって、感じることができなくなっているからなのです


それはそうと、
ここで使用した図やグラフはあくまでもわかりやすくするための例えであり、
実際のあり方がこのように単純で直線的なわけではありませんし、
こんなに味気ない(;´Д`)ものでもありません

文字通りに捉えるのではなく、そこで表している本質的なことを直観的に理解してくださいね

もっと、絵とかで表現できるといいのですが、時間がないので、ごめんなさい🙇

ついでに、こんなのも作ってみました♪





神なるもの


神なるものの無限なる光の一筋

ひとつの角度(プリズムのようなもの)


魂=「私」


肉体化(人間の鋳型)


パーソナリティ=

これは何の図かと言うと、(ちょっとあまりにもへたくそなのでやめたいところですが|д゚)
私の腕もへぼいですが、私のPCのペイントがへぼすぎるので、ご勘弁を(;´Д`)

上の星っぽい十字架っぽいのが神なるものです(神様、変な図でごめんなさい、これしか図がなかったので(>_<))

その神なるものの無限なる光の一筋が、
特定のひとつの角度、プリズムのようなものを通った時、魂が生まれます

その魂が人間として肉体化する時、
人間の鋳型を通り、
パーソナリティが創られます

魂もパーソナリティも全て神の全なる光によって創られているものであり、
全て聖なるものです









2015年11月20日金曜日

「私が私であること」の歓び~「私」の秘密 その2

つづきです♪

さて、
外側の何かの「行為」に集中し、没頭し、
潜在的な「自意識」から一時的に解放されている人に、
何が起こっているのでしょうか?

実は、
そこには「意識的な」「私」が現れているのです!


人々の通常の状態である潜在的な「自意識」は、
実際のところ、「行為」に参加しているのかしていないのか、
よくわからない状態です

ちょっと考えてみればわかることですが、
それほどの集中もせずに何かの行為をする時、
人はたいてい、他のことを考えたりしながらやっています

「今日の夕飯何にしようかな~」と思いながら仕事をしていたり、
心配事に気を取られながら誰かとおしゃべりしたりしています

そこに現れているのは潜在的な「自意識」だけで、
そこに無意識に引き戻されたり、行為に戻ったり、
行為自体もある意味無意識にやっていたりします

1日の行為のうち、ほとんどがこんな状態です

「自意識」にまつわる頭の中のおしゃべりで忙しく、
それらの潜在的なエネルギーによって妨げられ、
行為に集中できる時間はごくわずかなものに過ぎません


ここで、もうひとつ、
潜在的な「自意識」に関して非常に重要なことを書いておきますね(*´ω`*)

この「自意識」は、
常に思考や感情、感覚に糊付けされています

つまり、
その時々の思考や感情、感覚が自分だと思っているのです

それらを切り離すことができずに、
その時々の思考や感情、感覚に完全に巻き込まれています

なので、1日のうちほとんどの時間を、
「自意識」と思考、感情、感覚の中をグルグルと、
まるで狭いメリーゴーランドにずっと乗り続けているかのように、
グルグルと回り続けています

人はいろいろなことを体験していると思っていますが、
よくよく観察してみると、
大抵は見知った思考や感情、感覚を様々な出来事を通して繰り返し体験しているだけです

だからこそ、エスカレートしていくのです
つまり、たとえば、
初めてゲームをしたら、その刺激に興奮して楽しかった
だから、また同じゲームをする
でも、繰り返していくうちに、それほどの刺激を受けず、楽しくなくなってくる
それで、違うゲームをする
それも、繰り返していくと、つまらなくなる
あらゆるゲームをし尽して、刺激を受け取れなくなると、
そのゲームで得た興奮を実際の他人から得ようとします
そうやって、
どんどんとエスカレートしてきます

通常は、何か別のシステムが働いて、
そのエスカレート自体に自ら危険を感じて、やめますが、
その別のシステムが壊れている場合、
それをとめる手立てはありません

おっと、ちょっと話が横に逸れましたね(;´Д`)、、
エスカレートする前に元に戻りましょう(;´Д`)

要するに、
「自意識」と思考、感情、感覚がワンセットになって、
それらでパンパンに膨らんだ状態、
それらと完全に同化した状態が、
平均的な人の、自分です

そういう自分を感じてみてください

マインドの私、パーソナリティの私、エゴとしての私

それは、何か、とても狭い、制限されて重たく粘るような、
そしてネガティブな味わいのある感覚ではないでしょうか?

それしか知らない人にはわかりづらいかもしれませんが、
とてもではないですが、この私が「素晴らしい」とは感じられないでしょう

まあ、最近は「自分大好き」人が増えてきているので、
そうとは限らないかもしれませんが、
では、「自分大好き人」が本当に自分を知り、愛しているかと言うと、
ちょっと違うように思います
むしろ、何かを見ないようにするために、
補償作用として「自分大好き」であるように思えます

つまり、「イメージの自分」が大好きなのです(;´Д`)
実際の自分が好きなわけではないのです
とても根深いコンプレックスを抱えていることが予想されます

それはまた別の問題があるので、
ここでは深く言及しませんが(すぐに横道に逸れますね(;´Д`))、
ここで重要なことは、
目覚めていない人は、
その自分しか知らない、ということです

そして、そこから逃げ出したいと思っています

何かの行為に没頭できた時、
一時的に、人はそこから逃れることができます

そして、その解放感、充実感に喜びます

でも、
残念なことに、それはいつしか終わり、
終わったとたん、また、「自意識」の海にどっぷりとつかってしまうのです

「ああ、幸せな時は過ぎ去ってしまった」・・・・・


でも、待ってください(-ω-)/

最初に書いたことを覚えていますか?

そう、
「行為」に集中し、没頭している時、
実は、そこに「意識的な」「私」がすでに現れているのです!!

考えてみてください

「自意識」であるがいなくなった時に、
その状態に気づいているのは誰なのでしょう?

その状態を体験しているのは、いったい誰なのでしょう?

そう、それが「意識的な私」なのです

(本当はその「知性」なのですが、話が複雑になるので、ここでは「意識的な私」とだけ言っておきますね。それに関しては、もう少し、皆さんの理解が深まった時に書きましょう)

何かを意識的に行う時、
実は、「意識的な私」、つまり純粋な「私」がそこに参加しているのです

でも、それはあまりにも透明で純粋で繊細なため、
思考や感情などに張り付いて同化し、不透明で色づいている「自意識」しか知らない人は、
それを感じることができません

せっかくそこに「真の自己」が現れているのに、
いつもいつも逃してしまっているのです

本当に惜しい!のです(>_<)

ですから、
ただ行為に没頭してがいなくなる体験だけでは、
「悟った」とは言えないのです

「悟り」に近い状態と言うことはできるかもしれませんが、
まるでベクトルが逆なんですね

「悟り」に近づける可能性のある状態、と言うのがより正確でしょうか(^.^)

もし、その状態だけを追い求め続けているならば、
永遠にその人は潜在的な「自意識」の海から本当に出ることはできないのです

恩寵によって、ある時、突然、ハッと気づくことがあるかもしれません

行為やその状態に向いていた注意のベクトルが、
ある時突然、向きを変えて、
その体験者そのものに向く

もし、「行為」に没頭して私がいなくなった時に、
そこに現れている透明な「私」を知ることができたら、
その時、その人は「悟った」と言ってもいいかもしれませんね

私には、禅の公案はそれを使っているのではないかと思えます

答えの容易には出ない難問を投げかけることによって、
弟子に、潜在意識的な思考が沸き起こる隙なく、意識的に熟考させるのです

公案は、正しい答えを出すことが目的ではなく、
意識的に熟考することが目的なのではないかと思うのです

意識的に集中して公案について熟考している間、
それに参加している「真我」が現れています

弟子はそうとは知らずに、
必死に考えます

公案の答えを得る時こそが「悟る」時だと!( `ー´)ノ

来る日も来る日も、休む暇なく考え続けます

そして、それがエネルギー的に十分に熟してきた時、
師は「それだ!!!」といきなり弟子に切りかかります

突然の事にハッと驚いた弟子は、熟考も瞬間的に手放し、
後にただ残っている「真我」に気が付く、という算段です(*´ω`*)

めでたし、めでたし(∩´∀`)∩


がいなくなり、行為だけが起こっている時、
その行為すら手放したら、
そこにあるのは純粋で透明な「私」です

それは、
行為や思考や感情、感覚とは全く切り離されて関係のない、
行為や思考や感情、感覚より先にあるもの

軽やかで開けていて、
振動数が高く微細で、
クリアで、何の障りもなく、何の隔てもなく、
すでに至福の質を携えているもの

それは、シンプルに「私」

「私が」「私は」「私に」「私を」「私より」「私から」「私も」「私と」などと、
助詞が一切つかない、
純粋な「私」なのです

潜在的な「自意識」であるとは、
次元が異なっているのです

それこそが、
私たちの真の姿なのです

それを知るのが「悟り」です(*´ω`*)


とはいえ、もちろん、
その「私」もまたすぐに見失ってしまうでしょうから、
本当に「悟った」とは言えません

ただ、「悟り」の状態を一時的に体験することができた、と言うのが最も正しいでしょう

本当の「悟り」に到達するためには、さらなる修行を必要とします


***


わたし、という時、
と「私」の区別ができていないことが、
「悟り」の教えを珠玉混交にしてしまっています

たとえば、非二元の道を歩く人達の自称「覚醒体験」をyoutubeで見ましたが、
彼らはがいなくなる体験をしているとのことでした
それが「悟り」だということです

が落ちたことは、素晴らしい体験です(*´ω`*)

そこを超えたところへとシフトしたことは、
本当に素晴らしいことです(∩´∀`)∩

でも、残念ながら、「私」は知らないままです

そもそもがその区別を知らないがため、
さらに繊細な「私」を知ることができずにいるのです

もっと好意的な見方をすれば、
その「私」を体験してはいるものの、
決してわたしであってはならないので(「無我」でなくなってしまうので)(;´Д`)、
それを宇宙意識とか、純粋意識とかそういうものとして認識、解釈しているかもしれません

いずれにしても、それは、言ってみればネガティブな「悟り」です

逃げ出したくてたまらなかった自分からのエスケープに過ぎないのです

全ての問題の根源である「自意識」から逃れてしまえば、
後は何の問題もなし・・・と思いたいのかもしれませんね

でも、それは残念ながら、
釈迦の説いた「無我」を浅く理解している教えに、
非常に強く条件づけられているように思えます

全ての想念も行為も、「ただ起こっていること」と言います
「私はいない、全てはただ起こっている」と・・・

そう言っているのは誰なのでしょう?

彼らは、それも、「ただ起こっていること」だと言うでしょう

シンプルに考えてみてください

どれほどのトリッキーなマインドを持っていれば、そう言えるのかを・・・



ポジティブな「悟り」は、
ネガティブな「悟り」の体験からさらにその体験者である、
真の「私」へと辿り着きます

私たちは、
真の「私」も、潜在的な「自意識」も併せ持った存在です

真の「私」の次元にも、の次元にも生きている、
そして、神なる次元にも生きている、全次元的な存在なのです

それが人間というものの自然な有り様です

私たちのあらゆる想念や行為は、
「ただ起こっていること」ではなく、
私たち自身にも責任のあることです

私たちは、「ただ起こっていること」の寄せ集めより、
はるかに崇高な存在なのです

そして、
真の「私」に生きる時、
私たちは絶え間のない、理由のない、この上ない至福で満たされます

究極の充足を知るのです

そのスペースから、
しょうもないを包み込んで生きていけるのです

確かに、究極の見地からすれば、
「私」もただ起こっていることです

でも、それは「私」がいない、ということではありません

「私が「私」であること」を知る時、
歓びの爆発を体験します


「私」が起こっていること、
それこそが「奇跡」であることを知る時、
私たちは本当に謙虚になるのです


                                                   (つづく)






























2015年11月19日木曜日

「私が私であること」の歓び~「私」の秘密 その1

今日からリトリートが始まっていますが、
始まる前に生徒さんから質問があったことに関して書こうと思います

質問は、
「何かの行為に没頭して「私」がいなくなり、行為だけが起こっている状態」が悟りの状態かどうか、ということに関連していました

これはとても大切な質問ですね(*´ω`*)

たとえば、ピアノを弾くのが大好きでたまらない人が、
次々に弾いているうちにどんどん没頭していくと、
やがて弾いている人がいなくなって、
ただそこには音楽だけが起こり、音楽が勝手に奏で出す、というような状態

たとえば、勉強に集中しているうちに、
我を忘れて勉強に没頭している状態

たとえば、バスケットの試合で、何の雑念もなく完全にプレーに集中して、
練習以上の力を発揮するような状態

たとえば、職人さんが仕事に集中しているうちに、
無我の境地でただ身体だけが動き、ものを作りだしている状態・・・などなど

こういった状態は多かれ少なかれ、誰しもが何らかの形で体験したことがあるでしょう(*´ω`*)

私も昔、密教を学んでいる時は、この「無我の境地」であらゆる行為ができるようにと教えられ、
四苦八苦した覚えがあります(;´Д`)

それは、常に中心で観察している「私」を、
「行為」という「対象物」の方に合わせていくというものでした

もちろん、それは間違った方法であり、
どうやっても不可能なことでしたが、
そういった教えが仏教において当たり前のように言われているのは、
こういう「無我」が悟りの境地であるという、
残念ながら浅い解釈が原因で起こっていることなのでしょう

では、こういう「無我の境地」が悟りなのかどうか、検討していきたいと思います(*´ω`*)


まず、覚醒前の平均的な人が普段どういう状態であるかについて、
確認しておきたいと思います

人は通常、いつもなんとなく「自分」を感じています

それを潜在的な「自意識」と呼びましょう

意識的に「自分」を感じているのではなく、なんとなくぼんやりと感じているので、
潜在的な働きと言えます

歩いている時も、誰かとしゃべっている時も、仕事をしている時も、何をしている時でも、
通常はぼんやりと「自意識」を感じながら、それらの行為とその「自意識」を結び付けています

つまり、「私が歩いている」「私が誰それとしゃべっている」「私が仕事をしている」という具合です

逆に言えば、何をしていても、
常に人はぼんやりと「自分」へと引き戻されているのです

「悲しい」「痛い」のも、ただ「悲しい」「痛い」のではなく、
「私が悲しい」「私が痛い」なのです

それは通常、誰か他人と関わっている時に顕著になります

「私はどう見られているか」
「私を見て」
「私が攻撃されている」
「私を守らなければ」
「どうすれば、私に有利に事を運べるか」
「どうやったら、私が思うように周りを動かせるか」・・・・などなど、
人は果てしなく「自分」に関することで頭をいっぱいにし、
どう「自分」を有利にしていくかでいつもいつも忙しくしています

そういう、「私は」「私は」「私が」「私が」と普通に人が言うを、
「自我」と呼びます
別の言い方をすると、エゴですね
もしくは、パーソナリティとしての私ですね
マインドとしての私、でもありますね

そういった「自我」は、幼児期に形づくられていきますが、
この二元の世界で生きて行くために必要な機能でもあります

ただ、それがあまりにも過剰なため、
いつもいつも「自意識」を感じ、に引き戻されているために、
人はある種の窒息状態に陥ってしまっているのです

いつもいつも、「自意識」という海の中にいるかのようです

「自意識」の海で溺れて窒息しているのですね

「自意識」にべったりと糊付けされて、
それに振り回され続けていて、苦しい(>_<)

別の言い方をすれば、
「マインドの奴隷」状態ですね

もちろん、ほとんどの人はそれに無自覚です

それでもなお、いつもいつも糊付けされている「自意識」から解放されたいと、
どこかで願っているのです

なぜなら、
「自意識」から解放された瞬間だけ、
「自由」な感覚が得られるからです

フレッシュな空気を吸った時のように、
初めて息ができるかのように、
解放感を味わえるからなのです

まして、それに自覚的な人は、
「この自分さえいなければ!」と、
何とかして「自分」から逃れたいと、当然思うことでしょう

もう、うんざり!なのです

そういう状態の人が、時として何かに集中する

外側の行為に集中する時、
本当に「集中」が起きた時、
その人に何が起きるのでしょう?

意識、もしくは注意が全てその「行為」に向くため、
いつもいつも引き戻されていた「自意識」から、
意識が引き剥がされるのです

人は初めて、「自意識」に糊付けされずに、「行為」に没頭できたのです

意識の全てを「行為」に投入できたのです

もはや、そこに「自意識」はない!

いつもいつも糊付けされていた人にとって、
それはそれは大きな解放感でしょう(*´ω`*)

窒息状態から、ふっと海面に顔を出したようなものですからね♪


では、これは悟りの境地でしょうか?

皆さんはどう思われますか?

実は、こういう状態の時、
その人自身が気づいていない、とても重要なことが起きているのです(*´ω`*)

長くなるので、いったんここでアップしますね

またまたシリーズになりそうな予感~(^.^)