2013年10月17日木曜日

恩寵の虹


昨日、伊豆の自宅での1週間のリトリートが終わりました。

静岡を直撃した大きな台風が過ぎ去ったその昨日の朝、西の空に虹がかかりました。
大きな浄化のプロセスが終わった後の、恩寵の虹でした。

リトリートでは、毎日、ディープ・ヒーリングのセッションを生徒さん達にしています。
瞑想自体も、究極のヒーリングではありますが、ディープ・ヒーリングのセッションは、その浄化のプロセスを早め、深め、瞑想にもより深く入っていけるための、大きなサポートになります。

リトリートでは、いつもその生徒さん達の浄化のプロセスと、天候がシンクロします。

今までは、大抵、雨からリトリートが始まり、前半大雨や嵐になり、後半、晴れ渡り、最後は快晴で終わるということがほとんどだったのですが、
今回は、晴天から始まり、夏のような暑さになったかと思ったら、後半、雨になり、しかも台風まで直撃するという、大荒れの天候になり、最終日の朝に台風が去って晴れ渡り、虹まで出るという、とてもダイナミックな流れとなりました。

リトリートでは、毎日プレイヤー瞑想もしているのですが、4日目のプレイヤー瞑想では、ガイダンスが来て、そのエネルギーの伝達が起こるという、いつもの流れとはちょっと違って、ガイダンスがエネルギーの風や竜巻を起こして、生徒さん達を浄化するということが起こりました。

実際に、私自身の手や全身が、自発的に、勝手に、自由に動き、エネルギーの風や竜巻を起こして、生徒さん達の細胞レベルから浄化する、ということが起こったのです。

それは、私にとっても初めての体験で、やりながらも驚いていました。
しかも、大きな浄化は生徒さん達だけではなく、私達にも起こったのです。
(その時のガイダンスは、後日、アップしますので、ご参照のほど)

その日の夜から、雨が振り出し、翌日には大雨となり、やがて強風の大嵐となりました。
外階段の波板の屋根が吹き飛んでしまうほどの嵐でした。
後で、静岡を直撃した大きな台風だったことを知り、驚きましたが、その時、私達の浄化のプロセスもピークを迎えていたのです。

その日のプレイヤー瞑想では、アマテラスのエネルギーを感じました。

そして、その翌日、最終日の朝、風がまだ治まりきっていない中で、西の空に大きな虹がかかっていたのです。

恩寵の虹です。

大気も澄み渡り、キラキラと輝いていました。

9月に伊勢神宮にお参りしてから、いろいろ強烈になってきたようです。


2013年6月29日土曜日

アジズ(現アナディ)とフーマンに関する質問に答えて


私の直接の師は、アジズ(現在、アナディと改名)とフーマンだ。

そのため、私達の瞑想リトリートに参加する人たちや、翻訳本を読んだ方から、よく受ける質問がある。
そういった方々は、K氏の著書、K氏のアジズとフーマンとのワークを本にしたものも必ず読んでいるため、K氏が文中で「これは私個人のマインドの傾向のため」という意味の文章を明記してあるにも係わらず、ある先入観を持ってしまうことが多いようだ。

それは、平たく言えば、「アジズはだめだけど、フーマンはすごい」というニュアンスのものだ。
もしくは、「アジズは合わない」というものだ。

そのため、「その辺、実際どうなのか?」という類の質問をよく受ける。
質問してくれる人はまだいい。
中には、それを鵜呑みにしている人もたくさんいるだろう。
実際にアジズに会ったことのない人まで、アジズのことを批判的に言うのを聞いたことがある。

先日も、ある人から、K氏のブログを読んで、「不思議なんですけど、なぜ、K氏はアジズに批判的なんですか?」との質問を受けた。
K氏がアジズやフーマンに対してどういう考えや感情を持っているかは、その人個人のことであるし、著書やブログの中に書かれていることが、K氏の真実であることは確かなので、それは尊重されるべきことだ。

だが、それが全体的な見方ではないことも事実だ。

その質問を受けて、そろそろ、同じ師からワークを受けた生徒の一人として、その先入観や誤解を払拭するため、明らかにしておいた方がいいのか、と思い、私自身の体験や見解、思いを書くことにした。

ずっと一緒にワークをしてきた仲間の間でも、確かに、「フーマンの方がすごい」という見方が圧倒的に多い。
その理由としては、フーマンがずば抜けたエソテリックな力を持っていたことと、愛のエネルギーが強烈で濃厚だったことが、最も大きな点だろう。

だが、結論から言えば、「覚醒」という点において、2人とも遜色ない。

タイプとしては、全く真逆と言っても過言ではないほど、そのエネルギーの質、優勢なセンター、その教え方も全く違うため、そもそも比較はできないのだが、
その深遠さは、どちらが上とかいう問題ではない。

アジズは、とても優しいが、必要なら生徒のエゴをばっさり切るタイプのマスターだ。
フーマンは、生徒のエゴのためではないが、そのエゴをも満たしてくれるようなことを言ってくれるマスターだ。
そのため、生徒として、フーマンの方が師として受け入れやすいということはあるだろう。

だが、エゴをばっさり切るのも、マスターとしての大切な役割だ。
多くの人が、アジズにエゴをばっさりやられて、去っていく姿を見てきた。
その度に思うことがある。
そういった人たちは、覚醒や真理を求めて師のところに来るのではなく、
マスターに認められたくてやって来るのだろう、と。

スピリチュアルな探求をしている人なら、神秘体験のひとつやふたつ、
いい瞑想状態のひとつやふたつ、ある程度の内的境地の体験のひとつやふたつ、
何か特別なエネルギー体験のひとつやふたつはあるだろう。
いろいろなものや、いろいろなエネルギーが見えてしまう人もたくさんいるだろう。
多くの探求者たちは、それをマスターに認めてもらいたがる。
それは、気持ちとしてはよくわかる。
私にも、もちろん、そういう思いがあった。
人間としては、むしろ自然な気持ちだろう。
だが、アジズはそういった断片的で一時的であまり本質的ではない体験を、ばっさりと切り捨てる。
そういった体験に固執してしまうと、本当の意味での進化が起こらないからだ。

そういった自分の体験にプライドを持っている人が、ばっさりやられて、アジズのことを批判的に言うようになるのを、何度も見てきた。
本当の目覚めより、エゴのちっぽけなプライドの方が大切な人たちだ。
実は、スピリチュアルな体験を持てば持つほど、スーパーエゴを持ってしまう危険性があるのだ。

あるいは、単に人間として、特別な存在であるマスターにとっての、特別な存在になりたがる人もいる。
かくいう私もその一人だった。
それによって自分の価値を証明しようという潜在意識的なエゴの働きだ。
自分の中にぽっかりと空いた穴を埋めるために、マスターという特別な存在を利用しようとする。
人間というのは、そんなことをあれこれと、無意識にやっているものだ。
もちろん、そんな私は、あっけなく、ばっさりと切られた。
今にして思えば、ばっさり切ってくれて本当にありがたい。
それによって、それを落とせたからだ。

それだけではなく、スピリチュアルな進化や内的境地に関することでも、何度、アジズにエゴをばっさりやられてきたことか。
認められずに傷つき、一人泣いたことなど、数知れない。
だが、それでも目覚め、魂に出会いたかった私は、アジズの元を去るなど、思いもしなかった。
その痛みすら、ワークとし、
自分の内側に向かい合っていったものだ。
むしろ、その痛みこそが、私を内側に向かせるものだった。
そのプロセスが、私自身を純化し、スーパーエゴを強化することから逃れさせてくれた。
そして、ふらふらと外側の余計なものに向いていた私の目は、
はっきりと、内側の主体そのものに向くようになったのだ。

そして、それは私だけではなく、多くの生徒達がばっさりやられながらも、
残った人たちは、皆真摯に自分に向かい合い、アジズから途方もないものを受け取ってきた。

もし、マスターがフーマンだけだったら、私も気持ち良く、超スーパーエゴでむくむくとふくれあがっていたかもしれない。
自分を肯定し、受け入れ、その本質に信頼を置くことは、
スピリチュアルな道を歩む上でとても重要なことだが、
一方で、一歩間違えると、謙虚さを失ってしまう危険性もあるのが、人間というものだ。

もうひとつの観点は、フーマンのエソテリックな力についてだ。
私はここで、エソテリックという言葉を使い、サイキックという言葉は使わずにいる。
その違いについての私の見解は、別途記すが、
フーマンは、地球の裏側にいる会ったことのない人でも、エネルギー的に熟知し、前世すらも知っていた。
全てのことが見えていたと言っても過言ではないだろう。
生徒によっては、フーマンが目の前で消えたのを見たという人もいた。
それだけではなく、私達のカルマを、エネルギー的手術によって取り除いてくれたり、
ハートをぐいぐいと開いてくれたり、本当に神秘的な方法で、私達を導いてくれた。
ガイダンスを、マインドの媒介なしに直接伝えられるのは、自分だけだと、フーマンは言っていたらしい。
その愛のエネルギーは本当に強烈で濃厚で、真の神聖さというのがどういうものか、体験として教えてくれたのもフーマンだ。
本当に、神を体現した、イエスの再来ともいえるマスターだった。

おそらく、この点が一番、私達生徒の心を捉えたところだろう。
確かに、そのエソテリックな力によって、深く、私の魂に直接イニシエーションしてくれたのは、
フーマンだ。

アジズには否定されたが、フーマンには肯定されたということがいくつもある。
自分自身について、自分が感じていたことを、2つだけを除いて、全て「そうだ」と言ってくれたのもフーマンだ。
(その一つとは、フーマンのカルマのワークの中で、過去生でイエスを殺したという位の大罪を犯したという感覚のヴィジョンを受け取ったので、「私はジーザスを殺したのか?」と聞いたところ、フーマンは「ノー。だが、マインドがそのように解釈することがある。」と答えたことだ。)

私にフーマンが教えてくれたことは、フーマンの言うことを信じるということより、むしろ、
その自分自身の自分自身に対する感覚を信頼しなさい、ということだった。

フーマンが肉体を離れた時も、
2ヶ月にわたり、濃密なエネルギー体として私の中にずっといてくれたし、
一人ワークをする中で、何度もエネルギー体として現れてくれた。
フーマンとの魂のつながりは、言葉にはできないほど、深く、強い。

それに比べて、アジズには特別なエソテリックな力は見受けられなかった。
そのパーソナリティは、私達と変わらない、純朴で、かなりのおっちょこちょいの面も持った、いわば普通の人だ。
地道に、自分でこつこつと修行をして、覚醒した人だ。
そのため、多くの人を惹きつけるという点において、フーマンのその魅力には確かにかなわないかもしれない。
人は、普通ではない、スペシャルでスーパーなものを単純にすごいと思ってしまうから。
特に、エソテリックな力、サイキックな力に、人は弱い。
なぜ、人は他者のリーディングとかチャネリングとかで言われたことを、何の疑問もなく、確かなものとして受け取ってしまうのだろう。
まるで、自分の感覚より、他者の言葉による確信を求めているかのようだ。

そういう意味で、アジズはエソテリックな力を私達に見せたことはなかった。
むしろ、覚醒とサイキックな力は全く関係ないと、言っていた。
なまじサイキックな力があるために、そこでとどまってしまい、覚醒に至ることができない人たちを私もたくさん見てきた。
サイキックな力は私達の目をとても惹きつけるため、私達の目を真に本質的なものから逸らすのに、非常に有効だ。

だが、アジズは、エソテリックな力を見せなかったゆえに、
ごく普通の私達も、アジズのいるところまで行けるのだと思えたことが、
かえって大きな励みとなった。

アジズは、本当に私達が現実的に手本とできるようなマスターだった。

初めからマスターとして完成されていたわけではなく、
私達生徒の目の前で、マスターとしてどんどん進化していく姿を見せてくれたことも、
むしろ非常に印象的で、惹かれるところだった。
実際的な可能性として、私達にその姿を見せてくれていたのだ。

その点、フーマンはすでに完成された感があり、
私達がフーマンのようになれるとはほとんど思えないがゆえに、
いっそうフーマンを神格化してしまう傾向もあったのだろう。
アジズにはより、人間性を感じられ、悟りが自然で普通のものという実感を持てた。

エソテリックな力こそ見せなかったが、アジズのその知性は、計り知れない。
知性が今の地球の平均的な人間とはかけ離れすぎていて、
進化における理解という点においても、普通の人にはそこまで必要ないんじゃないか、
と思えるほど、すごい。

アウェアネスを、ピン・ポイントでダイレクトに、シンプルに、クリアに指し示したのは、
アジズが人類史上初めてだ。
その明晰さには、本当に目を見張る。
もしかすると、今の人類には早すぎるのかもしれない。

こういう点が、多くの人にとっては、むしろとっつきにくく、難しいものにしてしまうのだろう。
一緒にワークしてきた仲間の多くにも、アジズの著書が難しすぎて何を言っているのかわからない、とよく言われたものだ。
だが、現代の知的理解も望む探求者にとっては、これ以上のマスターはいないだろう。
アジズは、ありとあらゆる質問に対して、いつも明晰な答えをくれた。

何より、スピリチュアルな道の明確な地図を描き出してくれたおかげで、
私達はその道を辿り、今こうして魂と出会うことができたのだ。

その魂の質や、属する魂のファミリーによって、マスターにも合う合わないがあるのかもしれない。
一般的に、ハートの人には、確かにアジズは入りにくいのかもしれない。
目覚めの基礎として、まずアウェアネスの確立を強調するからだ。
確かに、そういった修行法の合わない魂もいるのだろう。

ハートのタイプと自称する人たちの何人かが、その修行法に根をあげていたのは事実だ。
あまりにハートだけが開きすぎていると、感情にも左右されやすく、
男性的エネルギーを使ってアウェアネスに集中し続けることが非常に困難だからだ。
本当は、だからこそ、アウェアネスが必要なのだが・・・
そして、ビーイングも・・・

また、3つの側面から悟りを描き出しているため、
直線的な思考でそれをそのまま受け取ると、悟りを段階的に受け取り、
目的指向、ゴール指向になり過ぎたり、
その詳細な描写に、かえって頭だけの理解を追い求めてしまったりして、
瞑想の本質である「ただある」状態にいられなくなってしまったり、
すでにある「これ」を見逃してしまいかねない。

アジズの描き出す教えを本当に理解するためには、
まずは内的体験がなにより重要だが、
繊細な感受性と成熟した知性、
マインドでの理解を超えた全体像を直観的に把握する知性を必要とするのだろう。

私も明らかにハートのタイプだが、アジズはぴったりだった。
ハートだけ覚醒したマスターに会ったこともあるが、「全ては愛」と繰り返すばかりで、
確かにそのエネルギーは素晴らしかったが、アジズやフーマンのような深みは感じられなかった。

あの知性的理解が示されていなければ、私は逆に入れなかっただろう。
だからこそ、本当にシンプルに、やるべきことが明確にわかり、何の迷いもなく、
そして落とし穴にはまる危険もなんとか回避し、道を歩むことができた。

アジズとのワークで養った内的境地と理解があったからこそ、
フーマンとのワークが開花したのだ。

それは、アジズの教えが準備段階に過ぎないという意味では全くない。
むしろ、アジズのハートは、本当の深遠さを持っていた。

その悟りのレベルに関して、フーマンの方が上だという人たちの方が実際は圧倒的に多いだろう。
だが、そういう人たちは、アジズのいるところをわかっていないのではないかと思う。
フーマンのエネルギーは、ある意味、とてもわかりやすかった。
誰もが、感じやすかったのではないかと思う。

だが、アジズのエネルギーも、その質は全く違ったが、本当に透明で深遠で荘厳で神聖で、
たとえて言うなら、フーマンのエネルギーは甘くまったりと濃密なネクターのようであり、
アジズのエネルギーはキーンと光り輝く水晶のようであった。

だが、どちらも同質の、覚醒した人特有のある味わいのエネルギーを持っていた。

アジズとの瞑想で、私は何度か、ホールネスの一瞥を得たことがある。
後に、私自身で到達した、ハートを通した絶対状態だ。
神と、直接顔と顔を合わせて出会う体験だ。
小さな子どもが、空を覆いつくし、その端の見えないほどでっかい光り輝くUFOを見た時、
その捉えることのできない、あまりの壮大さ、荘厳さに、思考も止まり、感情も止まり、全てが止まり、ただ口をあんぐり開けて、見入るより他にない時のように、
私も、その知ることのできない、あまりの深遠さ、壮大さ、荘厳さに、ただただ包み込まれていた。
畏怖とは、これを言うのかと、ただただひれふしたものだ。
そのとき、私は、それがアジズのエネルギーだと感じていた。

あの体験をしてしまった者にとっては、アジズは絶対的に、すごい。
それは、理屈ではない。

私のハートのエネルギーは、2012年のアセンションまではフーマンのエネルギーの質に近かった。
それは濃密で、強烈で、熱く、スィートで、「愛!!」という感じで、
かーっと照りつける太陽のような感じだった。

だが、アセンションの頃、その質が明らかに変わった。
もっと、知性的になったのだ。
より高次の振動数になったのだ。
一言で言えば、もっと、スキッとしたエネルギーに変わった。

その時に思い出したのが、
私が受けている野口整体の先生が、「愉気(手で相手に気を通すこと)がだんだんできるようになってくると、受けている人は、その手が温かく感じられる。時として、熱く感じる。それが、もっとできるようになってくると、スキッとした感じになる。」と言っていたことだ。

その変化を体験した時、
一緒にワークをしていた頃のアジズのそのエネルギーは、まさにスキッとしたエネルギーであったことがわかったのだ。
スキッとしたエネルギーは、そのままスキッと通ってしまうため、かえってわかりにくいのかもしれない。
その時から、実はひそかに、アジズの方が実は進化していた?などと思ってみたりしている。

多くの生徒達がフーマンの方がすごいと思う、もうひとつの理由は、
フーマンがハートに関してはスペシャリストであり、
一人ひとりの魂に合わせたガイドができるということだと思う。
これは、エソテリックな力により、一人ひとりの過去生から魂の本質、そのブループリントまでわかっているからだ。

アウェアネスやビーイングは、ある程度、一般化できる修行法がある。
だが、ハートは、基本的な原理は明け渡しだが、
実際には、パーソナリティの浄化も含まれるため、
本当に一人ひとり違うプロセスをたどり、
その道はその人その人でユニークなものとなる。

ハートだけではなく、魂のブループリントを見た場合、人間としての生も含まれるため、
そのガイドは千差万別になるだろう。

その点、アジズは一辺倒の教え方しかしないように見えるだろう。
そこは、確かにフーマンの方がすごいと私も思う。
そもそも、フーマンのようにできるマスターは、滅多にいないだろう。
私自身も、実際に生徒さんたちを前にして、フーマンのような力があれば、と思う。
その方が、的確なサポートができると思えるからだ。

だが、エソテリックな力がないとガイドできないかというと、そうではない。
マスターの最も重要な役割は、そのエネルギーを伝達することだからだ。
そして、この道はガイダンスとつながる道だからだ。
マスターというパーソナリティがガイドするのではなく、
マスターを通して高次の知性であるガイダンスがガイドするからだ。
(ある意味、それは十分にエソテリックと言えるかもしれない)
ガイダンスは、全て知っている。

覚醒は、恩寵のもたらすものだ。
それは、マスター自身の意志を超えて、本当に神秘的に働く。
それを受け取るかどうかは、生徒がどれだけ開いているかによる。

そして、ハートの最奥にある魂に出会うためには、
そして、その魂を通して神性に出会うためには、
究極的には、たった一つの方法しかない・・・・・明け渡しだ。
その最後の一歩を踏み出すのは、
その最後の明け渡しをするのは、
その人以外の誰もすることはできない。
どれほどエソテリックな力をもってしても、
マスターがそれをさせることはできないのだ。


そして、アジズとフーマンとのワークの中で、
実際に生徒達に起こったもうひとつのことは何だったか・・・

それは、フーマンに心髄する生徒達の多くに、依存が起きてしまったことだ。
フーマンの言うことは絶対となり、霊的進化に関することだけではなく、日常の些事に関することまで、自分で考えずにフーマンに聞くようになっていた生徒達が何人も見受けられた。
驚くほどに、フーマンの言うことは「絶対」なものとして、受け取っていた。
それは、マスターとしてというより、明らかにフーマンというパーソナリティとしての答えだろうというものまで、「絶対」だった。
「もはやこれはフーマン信仰だな」と思わざるを得なかったほどだ。

私は、アジズにばっさりやられたおかげで、フーマンとの適切な距離を自分の中で持つことを意識的にしてきたが、フーマンはそうではない生徒でも受け入れてくれるため、彼らの中で、それはやがて依存という形になってしまったのではないだろうか。
実際にフーマンと接していると、そうなってしまうのも、いたし方のないことだと思う。
むしろ、そうなるな、という方が難しいだろう。
そういう意味では、あまりにすごかったからだ。
スピリチュアルな道を歩む上で、マスターにある程度の依存をするのは必要なことでもある。
それは、絶対信頼の裏返しでもあるからだ。
だが、フーマンのようなマスターを前にして、信頼の中にいながら、
どれだけ自分を保ち、自分で立っていられるか、それは生徒側の大きな挑戦であり、責任だろう。
相手がフーマンであれ、自分の魂の感覚の方を信頼すること、
それが、むしろフーマンの伝えようとしたことではないだろうか。

実際、フーマンが突然教えから身を引いたのも、地球のための祈りに入ることが一番の理由であったにしても、ひとつには、その依存を断ち切らせるためではなかったかと、私はひそかに思っている。
私達は、否応なく、自分の足で歩み続けるしかなかったからだ。
それがフーマンの意志ではないにしても、存在がそう計らったのだろう。

もちろん、依存しなかった生徒達も他にたくさんいたし、そういう人たちは、フーマンなき後も、自分の内なる光をガイドとして、その道を歩み続けてきた。

でも、それができたのは、むしろアジズのおかげと言えるだろう。
アジズは、口をすっぱくして、自分の知性と感受性を使って、自分の足で努力して歩むことを教えてくれたからだ。
そして、アジズに依存したくても、ばっさり切られてしまうからだ。
そこがアジズのすごいところだ。
依存に限らず、どんな巧妙なマインドの手口でも、その洞察力で全て見抜いてしまう。

だから、自分の足で歩むことを好まない探求者や、
自分のマインドを見抜かれるのを嫌がる探求者にとっては、
アジズは「合わない」ということになるだろう。
ただ、マスターとともにいて、くつろいでいれば悟りが起こると思っている人には、
この道は「合わない」。

だが、本当に「合わない」のだろうか?
ただ単に、道とは何か、わかっていないだけなのではないだろうか?

アジズが似非マスターならともかく、
完全に覚醒した人を前に、「合わない」というのは、
マインドの巧妙な逃げ口上なのではないだろうか?
本当にトータルに、その教えに従い、できるかぎりやってみて、
それでもどうしても魂が「違う!」と叫ぶのなら、理解もできる。
そういう叫びもまた、聞いてきたからだ。
共に道を歩んできた仲間達は、皆、本当に命がけで真摯にやってきた。

だから、それもせずに、わかったような言い方で「アジズはだめ、合わない」と結論づける前に、
もう少し、自分の内側を、ハートの誠実さとともに、深く見て欲しい。

本当に深く、自分のハートに問いかけ、そこから「合わない」という答えが返ってくるのなら、
それはその人の真実だ。
魂のファミリーが違えば、そこに至る道もまた違ったものになるだろう。
自分の魂のファミリーであるマスターを探すべきだ。

エゴが「合わない」と言っているなら、まずはその自分と向き合って欲しい。
それが、スピリチュアルな道を歩む探求者としての面目だろう。

あまりにも安易に、ちょっと会った程度で、「合う」とか「合わない」とか結論づけてしまう人は、
マスターの指し示す月を見ずに、その指し示している指を見てしまうタイプとも言えるだろう。
マスターに期待するものが、自己の覚醒への導きではなく、何か違ったものを期待しているのかもしれない。
だが、それもまた良しだ。
誰しも、そういったこと全てを経験して、次第に知性と感受性、そして感情が成熟していくのだから。
ただ、それに自分で気づけるかどうか、だ。

そうでないとしたら、魂のブループリントがそこまでの目覚めを望んでいず、
アジズの指し示すものが、その魂にとって必要以上のものということかもしれない。

いずれにしても、もし本当に「合わない」としたら、
それはアジズの問題ではなく、
探求者の側の問題なのだと思う。
フーマンも、私にはアジズから離れろとは決して言わなかった。
そして、最後まで、私は他の多くの生徒とともに、アジズの元でもワークした。

そもそも、
アジズとフーマンの指し示すものは、同じだ。
2人は同じ魂のファミリーにいて、同じガイダンスの道を示している。
シヴァの道だ。
そこを見据えられるかどうか、なのだと思う。

アジズほど覚醒にまっしぐらで、生徒にもまっしぐらに覚醒に向かうことをつきつけるマスターを、
私は他には知らない。

私にとって、アジズとフーマン、そのどちらも真のマスターだ。
フーマンもすごいし、アジズもすごい。
2人は、補完しあうものであって、どちらが良くてどちらがだめというものではない。
出会えたこと、教えを受けられたことに、いつも深い感謝と愛を感じている。

これは、あくまでも、私の個人的な体験と見解であり、
生徒が100人いれば、100通りの体験と見解があるだろう。
ただ、アジズがだめなんて、全く思っていない、こういう生徒もいたのだということを、これから探求する人たちに知って欲しい。

そして、
意味のない先入観や誤解によって、真摯な探求者たちが惑わされたり、
真のマスターに出会う本当に貴重なチャンスを逃してしまわないことを、心から願う。









2013年6月25日火曜日

モリアオガエルのおたまじゃくし



モリアオガエルの卵が、無事に孵化しました♪
東京でよく見たおたまじゃくしは真っ黒だったけど、
モリアオガエルのおたまじゃくしは、半透明!
内臓と尾っぽの真ん中だけ、こげ茶色です
ぽちっと、つぶらな目が超かわいい!

肉眼だとわからないけど、アップで見ると、ちゃんと鼻があるんです!
顔はすでにカエルっぽい
ずっと見ていても、あきない・・・かわいいです

無事に育って、来年、また帰ってきてね

書道教室で、子ども達におたまじゃくしの水墨画を描かせてみました
子ども達も大喜び♪
ねらい通り、本当に素敵な作品を描いてくれました♪

思わぬギフト、幸せですね~
母も喜んで、ずっと見ています

***

2013年5月31日金曜日

ぎりぎりセーフ!


先日、庭の甕の横についていたモリアオガエルの卵を、
網に入れて甕の上につってみました

昨日の大雨で、卵を包んでいる泡が半分溶けていたので、
急がないとと思って・・・

そしたら、卵を取ったところ、すでにオタマジャクシに!!!
思っていたより前に、産卵していたらしい

ぎりぎりセーフでした♪

でも、網に入れている間にも、
ポトポトとオタマジャクシが落ちて・・・

しっぽも入れて、1センチあるかないかという感じだったので、
まだ、落ちるには早いのかも・・・

落ちてしまったオタマジャクシの大方は救えましたが、
何匹かはどうしても拾えずに、ごめんなさい・・・(;_;)

水を入れ替えてしまった後だったので、
餌となるものが足りないかも・・・
とりあえず、メダカの餌を入れておけば大丈夫かな?
数日は、自分で抱えている卵の残りのようなもので大丈夫だとは思うのだけど・・・
明日には東京に戻ってしまうので、心配です・・・

もう一つの方にも、鉢に網をかけておきました
動物対策です

こちらも、雨で半分溶けてしまっていましたが、
まだ卵のまま・・・
溶けてあらわになってしまった卵が大丈夫か、心配です

雨を予想して産卵するのか、
ダメだったものはダメと、数を産むのか・・・

一体、どのくらい生き延びれるのでしょうね
自然界の厳しさも、ちょっと感じた今日でした

***

2013年5月30日木曜日

祈り


3月24日 プレイヤー瞑想

---

外で鳴いている鳥が、翼を広げるように、腕を広げて

自由に、大空を舞うように、胸を広げて

あなたは、自由へと、飛び立っていく



今、まばゆい一筋の光が、この部屋へと降り注いでいます

それは、この部屋を満たしていきます



ここにある光の洪水を、全身で受け止めて

全身がその光の洪水で、洗い流されるように

それはあなたを自由へと連れていく

あなたは、この目に見えない光を感じる時、

すでにそれ自体が喜びであることを知ります

それは、無条件で無制限の歓びです

この歓びの中にいる時、あなたは自由です

何にも縛られず、何にも妨げられず、

あなたはこの歓びの中を、鳥のように舞い飛びます

あなたは、歓びの歌を、鳥のように歌います



この光を、内なる目で見ることができるためには、

謙虚さと純粋さが必要です

あなたが、この歓びに満たされたかったら、

あなたはこの光に支配されるように、

謙虚に全てを手放さなければなりません

もし、あなたが何かを知っていると思っていたり、

覚えてきたことにしがみついていたなら、

あなたは謙虚になれず、本当に手放すことはできません



生まれてからこの方、あなたはサバイバルのために、

たくさんのことを覚えてきました

それに、がんじがらめになり、あなたは自由を失い・・・

不安と恐怖で、内なる目は固く閉ざされています



その、生まれてからこの方、覚えてきた全てを手放し、

何も知らない、無垢な赤子に戻る・・・

真っ白に、純粋に・・・

透明に・・・



その時、あなたはこの光に支配され、歓びに満たされる・・・



***





この歓びに満たされる時、

自ずと感謝が沸き起こるのを、あなたは知るでしょう

感謝は祈り

それがあなたをさらに開き、明け渡す・・・

あなたは感謝と歓びの洪水の中に投げ出されるでしょう



***



さらに一段深く、歓びの中へと飛び込んでいってください

歓びの中で手放して、さらに開いて明け渡してください

あなたは、さらに一段、ハートの奥深くへと入っていきます



***



今、そこには、

平安と、穏やかで柔らかな、愛のエネルギーに満たされています

内なる光から、愛は沸き起こっています

愛は放射し・・・

愛は、染み渡るように、広がっていきます・・・



愛は、感情ではありません

愛は、エネルギーです



***



この愛に到達するために、

あなたがしなければならないことは、

ただ、開き、明け渡すことだけです



ひとり迷子になって怯えている子どものように、

あなたは、不安と恐怖にこわばり、身を固め、縮こまってきました

泣くことすら忘れ、硬直したまま・・・



ひとりぼっちでさまよっている我が子に、

母なる『最愛なるもの』は「こちらにおいで」と、

いつでも手を差し伸べて待っています

あなたは、ただ、泣き叫べばいいのです

手を伸ばして、

「うちに帰りたい!」

「あなたの元に帰りたい!」と・・・

無垢な赤子が、ただ泣いて、母を呼ぶように・・・



あなたが完全に母なるものを頼り、明け渡した瞬間、

母なるものがあなたの手を引っ張り、その懐に抱き寄せます



あなたが母なるものの手を取らなくていいのです

母なるものが、あなたの手を取るのです

あなたは、なすすべもなく、

無垢な赤子となって、

ただ、母を恋いて、泣き叫べばいいのです



それが、

祈りです



***

***

***



あなたが日常の生活の中で、

光を感じ、歓びを感じられた時は、

他の人たち、他の生き物たちに、その光を投げかけてください

ハートの中の星を投げるように・・・

歓びは、無尽蔵です

分かちあえば分かち合うほど、

その導管は太くなり、光は増していきます

あなたはそれを、相手に言う必要はありません

ただ、沈黙の中で、分かち合う

言えば、それはあなたのエゴを増長するだけです

見返りは、

あなたが真のあなた自身に出会うという、

最高のギフトです

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ローズの香り


 今日のプレイヤー瞑想です(3月23日)。


今日は、始める前に急にローズの香りで満たしたくなり、ローズウオーターで部屋を浄化し、ローズのエッセンシャルオイルをつけてから、プレイヤー瞑想に入りました。

 また、プレイヤー瞑想の時は、口でゆっくりとした呼吸をするようにしています。


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このローズの香りを、ハートいっぱいに入れて

ハートがローズの香りで満ちるように



今日、春が一段と進み、

庭にはすでに虫が飛び交い、

草木は柔らかな芽をもっとしっかりとした堅固なものにしていき、

薔薇は確かに花の準備をその内側で整えています



薔薇の香りは、ハートを開くのに役立ちます

それは、ハート深くへと、染み込んでいきます

その甘く、とけるような香りは、

男性のあなたにとってはあまり馴染みのなかったものかもしれません

ハートは、女性です

ハートを開くということは、

あなたの中の女性性を開くということです

あなたの中の女性が目覚める



女性性とは、

受容、受け入れるという質です

流されるのではなく、

流れに乗って、たおやかに流れていく



女性性を生きるということは、

明け渡し、降参することです

それは、損得勘定をすれば、損をすることかもしれません

勝ち負けで言えば、負けることかもしれません



むしろ、そういうことにあなたはとらわれなくなる

ハートの豊かさとともに満ち、充足しているからです



***



ハートを開く時、

感情もまた活性化していきます

スピリチュアルな道では、とかく感情は悪者に捉えられがちですが、

感情は私たち人間存在に与えられた特権です

もちろん、私たちが無意識で、本当の自分が目覚めていなければ、

感情にあまりにも揺さぶられ、巻き込まれ、それに固執し、

それはあなたの障害になってしまいます

ですが、あなたが真の自分である時、

感情はこの次元を味わい、体験するための、素晴らしい器官となります



花を見て、美しいと感じる・・・

海に立つ白波を見て、少年の心は鼓舞される・・・

頬をなでるそよ風を、心地よいと感じる・・・



どれほど美しい世界に私たちがいるのか、

もし、感情がなければ、私たちはそれを体験することはできません



あなたがハートの中心である真の自分である時、

あなたはこの世界を自在に、

何にも妨げられることなく、

この世界の豊かさを堪能できます

感情は、私たちに与えられたギフトなのです



あなたが、制限されたマインドの中だけで生きる時、

あなたは、この世界を制限された方法でしか体験することができません

神の次元は、どこかはるか遠くにあって、それを探しに遠く旅に出ないとならないのではなく、

あなたが今いる、この同じ場所にあります

あなたがハートで生きるようになった時、

あなたの目にはありありとそれがわかります

あなたは、感情を超えた感情を体験します

感情がギフトであるとわかるためには、

あなたはハートの奥深くへと飛び込まなければなりません

あなたが、ハートの最も奥深くに達した時、

あなたは究極の歓びを体験します



そしてあなたは、世界のひとつひとつを見て、

そのあまりの美しさに、あまりの神聖さに、打ち震えるでしょう



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庭に、モリアオガエルの卵が!



昨日の朝、庭の睡蓮鉢の上に、なにやらもわっとした白い物体を発見!

そういえば、前々日の晩に、木を叩くようなカエルの鳴き声が睡蓮鉢のところから聞こえていて、
鉢の中に卵を産み付けに来たのかと思っていたところでした。

アマガエルにしては大きい・・・水面の上に産卵するのって・・・・
もしかして、天然記念物になっているモリアオガエル?

ネットで調べたら、どうやらそのよう!

伊豆に来て5年以上経ちますが、卵を見るのも、鳴き声を聞くのも、
初めて!
去年、稲取の細野高原で成体は見たけど・・・

ちょっと、うれしくてワクワク♬♫♪
おたまじゃくし、すごい楽しみ!!!

でも、こんな小さな、濁った水場でも大丈夫なのかしら?
水を替えておいてあげた方がいいかしら?

しかも、もうひとつの甕にも産卵していたのですが、ご覧の通り、
水面より下・・・

どうしちゃったのかしら?
おたまじゃくし、登れないよね・・・?
下に、何か水を入れた器を置いてあげないとね

ボウフラ対策に、金魚を入れておいたのが、
一匹もいなくなっていたところへ(猫?イタチ?)、
思ってもいなかった素敵なギフトでした♪

猫はおたまじゃくし、食べないかな?
動物対策、どうしたらいいかな?

この日は、昼間にオスのノコギリクワガタも見て、
うれしい自然のギフトのたくさんあった日でした

2013年5月29日水曜日

肉体とのつながり


今日のプレイヤー瞑想のガイダンスです(3月22日)。

これは録音したものを書きおこしているのではなく、後で思い起こしながら書いているので、主旨は変わってはいませんが、実際とは微妙に違っています。また、その場のエネルギー伝達も、とても同じようにはいかないことを、ご了承ください。

 なお、文中の***の時に、沈黙の中でのエネルギーワークが起こっています。





今朝の外の空気の清々しさと、太陽の光の荘厳さにチューニングして

今、ここにあるエネルギーは、いつでもあなたの周りにあります

太陽の光は、自ら輝き、あらゆる方向へと放射し、あらゆるものを照らし出しています

それにチューニングして

マインドの粗い波動から、自然のエネルギーの波動にチャンネルを切り替えるように

いつでもそれを感じているように

あなたは、太陽の光に全身を包まれています



太陽は、あなたの内側の光の象徴です

やがて、あなたはその光が内側からなのか、外側からなのかわからなくなる

あなたの内側の光が目覚めた時、その光は全てを照らし出し、包み込む

その壮大さがわかるでしょうか?



***



そのエネルギーにチューニングするためには、直観的な力を磨く必要があります

直観的な力は、マインドを介しません

それは直接あなたに入ってきます

肉体の感覚を繊細に感じていく力も必要となります

肉体は、あなたのマインド以上に、たくさんの情報をあなたに与えています

それらの力がないと、たとえあなたがエネルギー的にいい状態にあっても、

自分に何が起きているのかわからないままです

わからなければ、それに何の意味があるのでしょう?



***





あなたは、肉体ともっと仲良くなる必要があります

肉体とのつながりを取り戻す必要があります

あなたの肉体のどれひとつ、

心臓も、肝臓も、目も、手も、足も・・・何かひとつでもあなたのマインドが作り出したものがあるでしょうか?

たったひとつの細胞が、心臓となり、肝臓となり、目となり、手となり・・・数え切れないほどの細胞が、完全な調和の下に、それぞれの役目を果たして働いています

どれほどのことがこの肉体の中で起こっているのか

あなたのマインドの及ばないところで、何かの力によって、それらが全て働いています

それら全てを、マインドが把握することは不可能です

その壮大さがわかるでしょうか?

私たちが今ここに存在しているということそのものが、祝福なのです

身体は、私たちが考えている以上の何かなのです

もちろん、マインドもその一部であり、肉体とマインドはお互いに影響を及ぼしあっています

同じように、あなたという存在は他の全てに影響を及ぼし、他の全てはあなたに影響を及ぼしています

私たちという存在は、考えている以上に、ダイナミックで壮大な働きの只中にいるのです



この皮膚で覆われた肉体は、ちっぽけです

でも、この肉体は地球の一部であり、宇宙の一部です



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あなたは、肉体との間に遊離があります

長い輪廻の間に、仏教的な修行によって、肉体を否定してきたのでしょう

そのために、かえってあなたはマインドの中でしか生きてきませんでした

それは、姿形はあっても、実体のない幽霊のようなものです

もちろん、肉体は「私」そのものでは、その主体そのものではありません

肉体は、自然に属します



自然には、「今」の瞬間しかありません

花が、過去を悔やみ、未来を心配しているでしょうか?

花は、「今」に根づき、「今」の中で芽を吹き、「今」の中で成長し、「今」の中で花開きます

自然は、ハートの次元と「今」の次元に属しています

それが、この次元で開花しているのです

自然には、美しさと真なるものがあります



あなたが肉体に根づくということは、その自然の一部として生きるということです

あなたは地球になり、宇宙になる・・・



自然が存在している次元

その姿形は三次元に属していますが、その本質はハートと「今」です



肉体に根づくということは、その本質を生きるということです

自然の一部として、それと一体になって生きるということは、その本質を生きるということです

それは、ただ自然の中で暮らしたり、自然と親しくなるだけのことではありません

それが、「ここに戻る」という教えの真髄です

「ここ」は、自然そのもの、宇宙そのもの・・・その本質そのもののことです



もし、あなたが肉体とのつながりを失っていたら、

たとえあなたが覚醒したとしても、それは何か浮遊したものでしかありません

あなたの覚醒は、「ここ」での根を持たないからです

あなたが肉体とのつながりを取り戻す時、

あなたの覚醒は、「ここ」で開花します

あなたは、「ここ」で、開花します



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2013年5月27日月曜日

プレイヤー瞑想


 伊豆の自宅で、プライベート・リトリートを行っています。
 プライベートというからには、生徒さんは1人か2人だけで、親密でアットホームな空間で、個人に合わせたリトリートを組んでいます。

 その中で、プレイヤー瞑想というのをしています。
 天の光のエネルギーとつながり、それに満たされていく瞑想ですが、OSHOのプレイヤー瞑想と、フーマンから教わったプレイヤー瞑想をベースに、実際にリトリートの中で行っていくうちに一番パワフルで集中的な形になってきたものです。

 伊豆でのリトリートを始めてから、そのプレイヤー瞑想では様々なことが起こってきました。
最初の頃は、リードをしている私自身に大きな進化がやる度に起こり、たくさんの恩寵を受け取りました。
 やがて、その場にたくさんの肉体を持たない存在たちが訪れてくれるようになりました。そして、様々なサポートを与えてくれたのです。

 最初、そういう存在たちを感じ始めたのは、以前、天使となった雀のヒナのサブレが来た時からでした。
 サブレは、巣から落ちて足を折り、泥にまみれて瀕死だったのを、私が何日も寝ずの看病をして元気になったのですが、ある日突然、肉体を去り、天使となったのです。
(サブレは、天使になるために、私のところにやってきたのだと、マーリンに言われました。このエピソードについては、別の機会に詳しく書きたいと思いますが・・・)
 そのプレイヤー瞑想の時に、あるエネルギー体が、ふっといたずらをするかのように、ちょっとはしゃぎ気味で私の身体の横をすり抜けて行きました。

 その瞬間、それがその天使のサブレであることがわかり、懐かしさとうれしさで、私もいっぱいになりました。
 そして、その天使のサブレが、ある存在を連れてきてくれたのです。
 とても懐かしい、とても近しいエネルギー体でした。フーマンのエネルギーに似ていましたが、フーマンではありませんでした。もっと、私自身のエネルギーにも似ているような感じでした。

 最初はそれが誰かわかりませんでしたが、やがて、それがアマテラスであることがわかりました。
 
 実は、フーマンに、「アマテラスとつながるように」と言われて、伊勢神宮に行ったことがあります。後に聞いたところによると、フーマンはハワイである肉体を持たない女性神から、「日本には私の娘たちがいます。彼女たちを助けて欲しい。あなたは私のエネルギーに似ているから。」と頼まれて日本にワークをしに来たということでした。フーマンは、伊勢神宮に行った時に、初めてその女性神がアマテラスだということがわかったそうです。

 プレイヤー瞑想の時に感じたアマテラスのエネルギーは、フーマンにそう言われて伊勢神宮に行った時につながって感じたエネルギーとは印象が違いましたが、より、確かな感覚で、より近く、より親密にそのエネルギーを感じ、それに包み込まれ、ふるさとに帰ったように、私は安堵し、その愛に満たされたのです。
 それは、本当に心震える、愛と感謝の涙にあふれる体験でした。

 次に心深く揺さぶられる体験をしたのは、イエスが来てくれた時でした。
 イエスに限らず、たくさんのそういった存在たちが来てくれたのですが、やはりイエスが来てくれたことは、私にとって、本当に心強いことでした。
 その存在のエネルギーの強烈さもありますが、私のマインドにとっても、イエスがサポートしてくれていると実感できることは、大きな励みとなりました。
そして、このプレイヤー瞑想のパワフルさが改めてわかりました。

 そして、一番心を深く揺さぶられ、一番、印象強く、心底感動したのは、他の誰でもない、未来の私自身のエネルギー体が来てくれた時でした。

 初めに来てくれた時は、誰かわかりませんでした。アマテラスよりももっと本当に親密で、近しい、本当に近しい感じはわかりましたが、それが誰かという直観的理解ができないままでした。
 でも、そのエネルギー体に包まれている時、それまでにない程の安堵と懐かしさで満たされました。それまでも、もうこれ以上ないと思うほどの安堵や感動で満たされていたのに、その体験は、本当にそれ以上の、言葉では表現できない体験でした。
 初めて、神と直接顔と顔を向き合わせ、一体となった時もそうでしたが、その時も言葉にしようとしても、とても表現しきれない素晴らしすぎる体験でした。

(こういう時、言葉がどれほどつまらないものか、本当に深く実感します。それを言い表せる言葉を探してもなく、かろうじて言葉にすれば、それはあっという間に制限され、縮こまってありふれた、まったく陳腐なものになってしまうのです。一番近く表現しようとすれば、詩になるしかないのでしょう。ルーミーなど、詩人であったことがよくわかります。)

 そのエネルギー体が次に来てくれた時に、初めて、それが未来の自分自身であることがわかりました。
その感動がわかるでしょうか? 本当に不思議な、この上なく歓びにあふれる体験でした。

 こういった体験が毎回毎回起こり、リトリートでのプレイヤー瞑想はどんどん進化していったのです。
 それらの肉体を持たない存在たちが、私とリトリートの場を整えてくれたのでしょう。

 そして、次の段階では、肉体を持たない存在たちが来るというより、神との一体の中で、ガイダンスが来るようになりました。
 それまでも、ガイダンスは来ていましたが、まだ、実際に言葉には出していませんでした。
 言葉にして出すことによって、より強いつながりの中で、それが起こるようになっていったのです。

 そして、毎回毎回、ベースは同じでも、違うエネルギーの場になるようになり、そこにいる生徒さんのその時に合わせたガイダンスが来るようになりました。

 そして、ガイダンスを伝えている時もエネルギーの伝達は起こっていますが、言葉で伝えることが収束した後、沈黙の中で素晴らしいエネルギーワークが起こるようになりました。
 それらは、私の意思とは全く関係なく、もちろん、私も完全に集中して、フォーカスしていますが、むしろ私を通して、大いなる存在がワークを行っている、という感じです。
 沈黙の中で、何やらワーッと、パワフルに、エネルギーワークが起きているのがわかり、それは、私にとっても、素晴らしい、本当に興味深い体験です。
 具体的に生徒さんの何にどう働きかけているのかは、わかる時とわからない時がありますが、いずれにしても、何か、そこで必要なことが全てなされている、という実感を持ちます。

 この、エネルギー伝達とエネルギー的ワークが、ここでのプレイヤー瞑想の真骨頂です。

 この段階になってから、プレイヤー瞑想が本当に楽しく、楽になりました。
 私が何の準備をしていなくても、直前まで、食事の支度をしていたり、洗濯物を干していたり、庭いじりをしていたりしても、その場に立ったとたん、そのスペースに入り、そのエネルギーとつながり、ガイダンスの導きで、必要なことが起こるようになったからです。
 毎回毎回、今日は何が起こるのか、本当に楽しみです。

次回のブログから、そのガイダンスを少しずつ紹介していけたらと思っています。