2019年12月21日土曜日

2019~2020年末年始リトリートのお知らせ




毎年恒例、年末年始のリトリートがもうじき始まります

12月と1月は、
最も悟りが起こりやすい時期と言われているように、
大きな恩寵が起こりやすい時期です

多くの先人が、
この時期に覚醒しています

かくいう私も、
1月に大きな恩寵をいただきました

年末、お正月は、
一般的に家族で過ごす大切な時期でもあって、
家族を持つ方々には参加するのが難しいとは思いますが、
時に、
この貴重な時期を霊的進化に捧げてみてはいかがでしょう

特に、
令和という、時代の変化の時期、
国家的にも大嘗祭という大きな儀式の後の年の節目である
今回のリトリートは、
とても静粛でありながら裡に大きな熱量を携えているエネルギーに満たされる予感がしています

きっと、
大きな変化がもたらされるでしょう

男女ともに各1名ずつまだ空きがありますので、
真剣に霊的進化を求めている方は、
ぜひ、いらしてください

以下、
年末年始リトリートについてお知らせいたします


***


今年も、年末年始、2つの年をまたいだRetreatの時期が来ました

今年のRetreatでは、今まで歩いてきた道と、これから歩む道の地図を明確にしましょう

何をすべきなのか!

誰がすべきなのか!

何に体験的に気が付かなければならないのか!

これらに、ほんとうの意味で、貴方がたが意識的になる必要があります

あなた方が意識的になったときのみ、歩みが始まります

あなた方がそれに無意識なら、ワークする対象を認識できななら、どうやってワークするのでしょうか

共に進歩できるこのRetreatで、共に座れることを楽しみにしています

日程:2019年12月27日(金)夜in
   2020年1月5日(日) 昼out

費用:223,500円

会場:大川

持ち物:タオルやアメニティはいつもと同じです
    お菓子は、各自で持参してください

love & peace
みのる & ともこ

2019年12月20日金曜日

大嘗宮 ~地球の中心へのポータル~


半年以上振りの投稿です

今年は、日本にとっても、新元号のスタートや台風の災害など、
多くの出来事が起こりましたが、
個人的にも周りに様々な事が次から次に起こり、
忙しさが募り体調も不安定になって、
ブログもすっかりご無沙汰してしまいました

まだまだ忙しさは続きますが、
ピークは越えた感がしています

さて、
先日、大嘗祭が行われた大嘗宮の一般公開があったので、
行ってきました

(もう、何日も経ってしまいましたが・・・(;´Д`))


一般公開の最終日だったので、
たくさんの人が訪れてずらーっと大行列を作っていましたが、
空は真っ青に晴れ渡り、暖かく、
広々とした皇居で待つ時間も心地よく、
久しぶりにゆっくりとハイキングを楽しむような感じでした

上の画像の広い芝生のところは、地図によれば「本丸」とのことでした
画像奥の左端の方に、石垣が残っていたので、
そこが江戸城が建っていたところなのか、
この「本丸」に建っていたのかは、また後に調べたいと思いつつ、
この広場が何かとてもいい感じだったので、
そのエネルギーを感じてみたところ、
何か、地球の中心と繋がっているような、
言い換えれば、
地球の中心に行く時のポータル(入り口)
のようなイメージが来ました

真っ青に広がる空に向かって開けている場所なので、
なんとなく天に向かうエネルギーを感じるものかと思っていたのですが、
逆でした

「ああ、なんか、ただ単に徳川幕府の中心地とか、今の日本の中心地という訳ではないんだな、もっと意味のある場所なんだな」と感じました


本丸広場には、今の時期に咲く桜も満開でした

大嘗祭が行われた大嘗宮は、
本丸広場の奥に建てられていました




皮を剥がない木で作られた鳥居や灯篭、
歴史的には5日間で建てられ、大嘗祭の翌日には取り壊されたという、
簡素で自然の野趣を感じるものでしたが、
今回のお宮は茅葺でもなく、
たった5日間で建てられたものとは思えないものでした



正面は、人がどっと押し寄せて、
「押さないでくださーい!!」
「立ち止まらないでくださーい!!」
「写真を1枚撮ったら移動してくださーい!!」と、
警備の警官や職員の大声での注意喚起が絶え間なく、
殺気立っていたので、
ゆっくり見る余裕もなく、
ゆっくりレンズを構える余裕もなく、
パッと撮っては移動するの繰り返しだったため、
神気が残っているのを楽しみにしていたのですが、
残念ながら、エネルギーを感じる余地は全くありませんでした

写真も、ほとんど歩きながらパッと撮るという感じで、
ロクなのがなくて残念です(;´Д`)


横の方に移動するにつれ、人は減っていきましたが、
まだまだ、パッと写真を撮るのが精一杯です


後ろ側に回ってきました
画像中央に見えているのが、主基殿
左奥にちらっと見えるのが悠紀殿

この画像ではわかりにくいですが、
悠紀殿と主基殿では屋根の上につんと立っている千木の形が違います

悠紀殿の千木は内削(うちそぎ)と言って、上が平らになっていて、
伊勢神宮の内宮と同じです
主基殿の千木は外削(そとそぎ)と言って、横が平らになっていて、
伊勢神宮の外宮と同じです

屋根に乗っている鰹木も、内宮(偶数)と外宮(奇数)では違うのですが、
このふたつの殿舎がどうだったか、
はっきり確認はしてこなかったのでわからないのですが、
画像から判明する限り、どうも同じ数のようです

というのも、
悠紀殿は東日本の祭場であり、
主基殿は西日本の祭場だということなのですが、
なぜ、わざわざふたつの祭場で儀式を行うのかと考えると、
日本を東と西に分ける理由がピンと来ず、
私はなんとなく、
それぞれが天照大神の和魂と荒魂をお迎えする祭場なのではないか、
と感じていたからです

あるいは、
内宮と外宮のように、
天照大神と豊受大神をお迎えする祭場・・・

あるいは、
女神と男神・・・

あるいは、
天津神と国津神・・・

これは全く私が勝手に感じていることなので、
何の根拠もありませんが、
なんとなくその方がしっくり来ます

いずれにしても、
これらの殿舎で、秘儀が行われました


真裏に回ってみると、
天皇がお召し替えなどされた殿舎の背後に出ました


ちょうど日の光が降り注いでいて、
人もまばらで静かだったので、
真裏でしばらく瞑想をしてみました

神社も、真裏のエネルギーがいいですからね♪

すると、
最初は穏やかだったものの、
徐々にぐーっと下に引っ張られ、
最後はものすごい強さでグラウンディングし、
それがハートともつながる感じでした

しばらく、
エネルギー酔いの状態になるほどでした

ここでも、
最初は「神気を感じられるかな」とか、
「天とつながる感じなのかな」とか思っていたのですが、
まさに、地球の中心へと引っ張られていきました

ここで来たヴィジョンは、
まず、
ここでお迎えされたとされる神が、
宇宙からの存在であり、
なんとなく「プレアデス、プレアデス」というイメージが来ました

個人的に、実は常々プレアデス系はあまり信用していないところがあったので、
(というか、私が感じてきた天皇家のエネルギーと、
よくスピリチュアルでプレアデス系と言われているもののエネルギーは、
完全に違っていたからです
実際に、私自身がプレアデスのエネルギーを直接に明確に感じたことはないので、
単なる思い込みかもしれません(;´Д`))
「え~っ?」という感じでした

でも、来たものはしょうがないので、
「そうなんですか~?」と思っていたら、

次に、
地球が宇宙の中心で、
ここに多重的に、多層的に、多次元的に、
宇宙の全てが存在している、
というヴィジョンが来ました

私たち人間の内的宇宙が、
私たちの内面に多層的に多次元的に拡がっているように、
全ての宇宙が、
地球の内側に拡がっている、
という感じです

「ああ、だから、ここが地球の中心へのポータルなんだ」
とわかりました



地球の中心と言えば、
ある事柄を思い出します

私の霊的進化の師匠であるフーマンがボディを離れた時の事です

その知らせを受けたのはボディを離れてから1週間後だったのですが、
フーマンがボディを離れる数日前から、
フーマンのエネルギーを強く感じ出していて、
まさにそのエネルギーですっぽりと包まれている状態が続いていたので、
フーマンがどこにいるのか、
チューニングしてみたことがありました

すると、住んでいたハワイでもない
日本でもない、
アメリカでもない

強いて言えば、
地球の中心か、宇宙、
といった感じだったのです

自分のチューニング力に自信があった訳ではなかったので、
「どういうこと?」と思っていましたが、
その後、フーマン逝去の知らせを受けた時、
「ああ、あながち間違っていた訳でもなかったんだな」と思いました

フーマンがボディを離れて、
高次元に行ったことは確かでしょう

ちなみに、
フーマンがボディを離れた後は、
もう、そのエネルギーが完全に私の内側に入り、
一体になっている状態でしたが、
49日を過ぎる辺りから、
徐々に薄れていきました

「ああ、49日というのは、ちゃんと意味があるのだな」とわかりました

死後、エネルギー体は49日でここを離れていくのでしょう


その体験と、
今回の大嘗宮での体験とを鑑みると、
今回のヴィジョンも、
あながち間違ってないかも・・・( ̄ー ̄)



人間の意識と、
地球の意識

ひとつの同じものなのか、
はたまた・・・?

またひとつ、
探究してみるテーマができました♪















2019年5月10日金曜日

令和の幕開け


新しい元号、令和が始まってから10日が立ちました

元号の変わり目がちょうどロングリトリート中で、リアルタイムでの儀式の様子や世間の動きを見る事はできませんでしたが、
初日はまだ移行中というエネルギーを感じ、2日目にようやく変わったエネルギーを感じる事ができました

先日、とある話しを耳にしました
誰かは知りませんが、とある経営コンサルタントの方の見解だそうです

今の70代80代の人達が一番重要視しているものは「食べ物」だそうで、
戦争時の食糧難を体験しているため、何はともあれ、「食べ物」が十分にあるかどうかを気にする、ということです

40〜60代の人達は「お金」だそうで、
まさに高度成長期に育ち、バブルとその崩壊を体験した世代は、「お金」で人生が決まると思っているのでしょう

20〜30代の人達は「自分の居場所」だそうで、
学校教育における点数化や競争の激化、いじめや校内暴力が大きな問題となった世代は、「安心して居られる居場所」を求め、それを最も大切に思っているのでしょう

このコンサルタントさんの見解は、とても頷けるものがありますね

平成は、戦争など特に大きな動きがなく、よく言えば平和ボケ、悪く言えば国民総幼稚化が進み、日本古来の精神性が破壊され、まさに「お金様」が幅をきかせていましたが、
今の経済のあり方はあまりにも架空のものになり過ぎているため、そこから幸せや満足、安心を得る事はできない事に気づく人達が増えて行くことでしょう

これからの令和は、全く違うものを人々は求め始め、価値観も大きく変わって行くことでしょう

それが、このコンサルタントさんの言う「自分の居場所」なのか、
私達が見失ってきた精神性を取り戻して行くことなのかはまだわかりませんが、
これからの社会を担う20〜30代の人達ががんばって、上の世代が構築してきた今の社会の価値観を転換するべく、貢献していってくれる事を期待しています

私の息子も今30代ですが、会社で上の世代と下の世代をどう繋げて、下の世代の力をどううまく発揮して作動させられるか、いつも考えていると話していました

昭和の終わり頃に生まれた世代なので、両方の感覚がわかる、と言っていました

息子の世代から下は、ちょうど、クリスタルチルドレンとかインディゴチルドレンとか言われた子ども達がたくさん存在している世代ですね

今、霊的進化の道を歩んでいる人達の、その魂の故郷から転生してきた存在達かも知れませんね

あまりにも価値観がかけ離れていると、理解し合うのは難しいかも知れません

今、霊的進化の道を歩んでいる人達は、社会の中でその困難に大なり小なりぶち当たっていることでしょう

でも、どうしてわざわざこの地球に転生して来たのか

クリスタルチルドレンやインディゴチルドレンは別として、自分も世間の人達と同じ存在だと思いつつ、どうしても違和感を覚えざるを得ず、その苦しみを体験し、霊的進化の道に入った魂達は、おそらく何回もこの地上に転生して来ているのでしょう

それを思うと、そこにその魂達の何かの「意図」を感じざるを得ません

令和は、それが明らかになって行く時代のように感じます

各々が、己自身の「意図」に気づき始めるのでしょう

霊的進化は、自分だけのものではなく、自分がどうあるかが、人類全体の進化に影響を及ぼします

それが、「令和」という言葉が持つ、ある種心地よい、凛とした威厳のエネルギーの表れだと言えるでしょう

国民総幼稚化から、威厳ある大人への成長の時代です

そうあることを、願っています


2019年4月9日火曜日

なぜ苦しむのか2 苦しみの本質(2)~諸行無常、一切皆苦~     トータル・パス ~魂への道~4


「釈迦」の画像検索結果

苦しみについて、
もうひとつの観点から書きます

これから霊的進化の道を歩む上で、
「苦しみ」について深い理解を得ていることと、
自分が実はとても「苦しんでいる」ということに気づく事は、とても重要です

なので、くどいようですが、本題に入る前に、
今日は「苦しみ」について、
釈迦の示した言葉から理解を深めていきたいと思います


釈迦は、この世界について、
「諸行無常」であり、「一切皆苦」であると説きました

「諸行無常」とは、
全てが変化し、変化せずに恒常であるものは一つとしてない、
という事です

「全てが変化する」ということは、
「絶対的な正義」「絶対的な善悪」は存在せず、
全ては「相対的」である、ということです

正義、善悪が「相対的である」ということは、
全ての人が同じ価値観や考えを持つことはない、ということです

自分と周りの人たちの価値観や考えが違うということは、
集団で生きる人間にとって、
必ず衝突や摩擦が生じるということでもあります

これは、人生を送る中で、
誰しもが体験的に知っていくことでしょう

多くの人は、
「自分の価値観や考えが正しくて、相手のは間違っている」と解釈します

どちらが正しいか(「自分の方が正しい」と)、証明しようとします

これは、単なる価値観や考えというものに収まらず、
「自己の証明」に関わってきます

正しくは、「自我の証明」ですが、
自分自身が生きる指針となっているものの正しさを証明することは、
その「自我」が生きていていいと、その正当性を証明することでもあります

そのため、この世界では、
大きなところでは国と国の間で、
小さなところでは身近な人同士の間で、
絶え間なく「自己証明」の戦争が勃発しています

それは、例え、人が人間として成熟して、
「相手の考えは自分と違って当たり前」という認識を持っていたとしても、
自分の利権と相手の利権が明らかに相反する場合、
何らかの葛藤がそこに起こりえます

そう、
「諸行無常」であるこの世界にともに生きる私たちは、
常に何らかの「葛藤」を抱えざるを得ないのです

その「葛藤」が、「苦しみ」となるのです


では、「一切皆苦」の方はどうでしょうか?

これは言葉通り、
一切全てが苦しみだ、ということです

それは、
私たちが「生きている」からです

肉体を持って、存続しようとし続けているからです

病気とか、事故とか、死別とか、損失とか、不幸な出来事だけが苦しいのではないのです

「生きる」ということはどういうことでしょうか?

「生きる」ということは、
常に「生きる」ために何かを必要とする、ということです

それは、
「空気」だったり、「食物」だったり、「太陽の光」だったり、「重力」だったり、
「安全」だったり、「愛」だったり、「愛する人」だったり、
「仕事」だったり、「お金」だったり、
「生きがい」だったり、「生きる意味」だったり、
形は様々ですが、
常に「自分以外のもの」を必要としている、ということです

「自分」という「命」は、
自分だけでは生きられないようにできているのです

自分だけでは完結しないのです

では、
生きるために必要とするそれらが全て手に入ったら、
人は「苦しみ」から脱することができるのでしょうか?

誰しも、一時的に、
「自分はもはや苦しんでいない、私は満たされ幸せだ」と感じることはあるでしょう

でも、「諸行無常」です
同じ状態が永遠に継続することはありません

仮に、刻々と変化する「必要」が、刻々と手に入るとしても、
あなたは常に何かを必要とし続けます

その「何かを必要とする」状態そのものが、
実は「苦しみ」の種なのです

「生きる」というベクトルを考えてみてください

それは、
常に何らかの「欲」が生じ続けるということです

「何かを必要とする」こと=「欲」なのです

「欲」は、「生きる」ということです

人は、生きる以上、「欲」から完全に離れることはできないのです

そして、
その「欲」のある状態こそが、「苦しみ」の原型なのです

肉体、感情、思考、
仏教的に言えば、五感と意識の六根ですが、
それらが顕現する裡に、
すでに「苦しみ」の種が埋め込まれているのです

人間であるということは、
すでに「苦しみ」を産まれながらに携えている、ということです

では、
その「苦しみ」から逃れるすべはないのでしょうか?

それこそが、
釈迦の説いた教えです

人間でありながら、
この肉体と六根を持ちながら、
その「内在する苦しみ」そのものから解脱すること

人間でありながら、
完全に人間を超え、
全ての原因、根源に溶け去っていくこと

それを、
「仏」「神」「最愛なるもの」「創造主」「大いなるもの」「名無き者」「アラー」etc.etc.・・・・
人類は歴史上、様々な呼び名で呼んできました

そこに帰すること


そして、
それこそが、この「トータル・パス」のゴールです

だからこそ、
霊的進化を歩む上で、
「苦しみ」とは何かを深く理解し、
自分自身のその根源的な「苦しみ」に気づくことが大切なのです

それなくして、
「解脱」に達するだけのモチベーションとパワーを持つことはできないからです

「釈迦涅槃図」の画像検索結果
























2019年4月3日水曜日

GWロングリトリートのご案内



今年ももうじきゴールデンウィークの時期がやってきます

ちょうど、平成から令和へと変わる節目に、
今年のGWリトリートは行われます

とても強烈でありながら、
でもスムーズに新しいところへと進んでいける機会になると感じています

全てのエネルギーが強力に新たなところへと向かっていくこの時、
それは、追い風を手にするようなものです

本当に、人生の中で2度あるかないかの、
非常に貴重な機会です

もう、古いやり方は手放し、
その追い風に身を任せませんか?

あなたがそれを選択する時、
あなた自身の内側で、
古いあなたから新しいあなたへと、
変容していくための、
真に貴重で聖なる機会となるでしょう

今年のGWリトリートは、
10daysと、6days、5daysがあります

まだ、5daysに若干の空きがありますので、
お申し込みをお考えの方は、
お早めにお申し込みください
(10days、6daysご希望の方がいらした場合、調整も可能ですので、ご相談ください)


I am の探求が一段落し始め、ここ数年新たに
I am の内側でうごめく、思考や感情、そして
それらのもととなるものの探求が始まりました

I am は、肉体の内側に存在するエネルギーの
Bodyで、我々は目に見えない肉体の内側に存在
するEnergy Body にスタビライズしました

いまは、このEnergy Body の内側でうごめく、
思考や感情、そしてそれらのもととなるものの
探求と・・・

あなたの『渇き』を満たす探求、最愛なる者と
触れ、一つになること・・・

これらを通して、2元を超えるポイントへと向
かいつつあります

いま我々がシェアする教えは、I am (Energy
Body)のWorkより繊細で精密なものです

2元を超える崖の淵に、一緒に向かいましょう

[日程]10,6,5daysの3種類
・10days:4月26日(金) 夜 in ~ 5月 5日(日) 昼 out
・ 6days:4月30日(火) 夜 in ~ 5月 5日(日) 昼 out
・ 5days:4月26日(金) 夜 in ~ 4月30日(火) 昼 out

[費用]
・10days:223,500円(ボディワークSession:4回程度)
・ 6days:137,500(ボディワークSession:2回程度)
・ 5days:116,000(ボディワークSession:2回程度
※セッション数は、参加人数で変動します

[集合解散予定時間]
・10days
 in :4/26 20:04 伊豆大川駅着(夕食無)
 out:5/ 5 昼食後適宜

・6days
 in :4/30 17:36 伊豆大川駅着(夕食有)
 out:5/ 5 昼食後適宜

・5days
 in :4/26 20:04 伊豆大川駅着(夕食無)
 out:4/30 14:33 伊豆大川駅発

その他
車で来られる方、上記時間外の方は別途連絡
してください

リトリートのタイムスケジュール:例(参加者によって変わる場合があります)
 
  朝6:00          起床
   6:15~7:15  ダイナミック瞑想orチャクラブリージングorスダルシャン呼吸法
   7:15~8:00  お風呂(天然かけ流し温泉)
      8:00~9:00  瞑想
   9:00~10:00   朝食
   10:00~11:00 ハートのワーク
   11:15~12:00 瞑想
   12:00~12:30 作務(行為をしながらの瞑想)
   12:30~14:30 昼食 (ボディーワークのセッション1名)
   14:30~16:30 講話、質疑応答&瞑想
   17:00~18:00 クンダリーニ瞑想 (ボディワークのセッション1名)
   18:00~19:00 お風呂(天然かけ流し温泉)
   19:00~20:00 夕食
   20:00~21:45 瞑想2本
   21:45~    お風呂(天然かけ流し温泉)、就寝 




みのる&ともこ

2019年3月24日日曜日

なぜ苦しむのか2 苦しみの本質(1) トータル・パス ~魂への道~ 3 

前回、なぜ苦しむのか、その理由について書きました

この世界に生きる上で苦しむのは、
霊的進化への道へと促すための魂からのアラームであり、
その人がその段階に成熟して来ているということ、
そして、すでに深いところで、
この地上の次元より、もっと高次の世界を知っているがゆえなのです

では、
その苦しみの本質は何なのでしょう?

表面的に見れば、
人によって、苦しんでいる原因は様々です

人間関係だったり、
生活レベルのことだったり、
仕事の事だったり、
病気や身体的な不具合だったり、
大切な人を失ったり、
数え上げればきりがないほど、
その原因は多種多様に富んでいます

でも、
それらの苦しみを突き詰めていくと、
たいていのことは、
2つの感覚に収束していきます

それは、一体何でしょう?

例えば、
愛する人が自分以外の人を愛していて、苦しんでいる人がいます

「彼が私を愛してくれさえしたら、私は幸せになるのに・・・
他に何もいらない」と、
毎晩泣きながら、思い詰めていることでしょう

苦しいですよね

寂しくて寂しくて胸が痛んでいることでしょう
深く傷ついているでしょう
欲しくて欲しくて渇望しているかもしれません
嫉妬の炎に焼かれているかもしれません
思い通りにならない苛立ちや無力感も感じているかもしれません
愛されない自分に対して、卑屈になっているかもしれません
相手を恨んでいるかもしれません

いろいろな感情が心の中に押し寄せて、
嵐のように吹き荒れていることでしょう

でも、
それらの底辺で、
心の奥底で、
その人がずっと感じている感覚があるはずです

さみしい・・・悲しい・・・私はひとりぼっち・・・

そう、
それは「孤独感」です

愛する人が私のところに来てくれさえすれば、
この「孤独感」で空いた穴は満たされて塞がれるはずだ・・・

私をひとりぼっちにしないで・・・!!!

だからこそ、
愛する人を欲してやまないのです

自分自身が満たされるための愛でなければ、
相手が自分を愛そうが愛すまいが、
苦しむことはありません

様々な苦しみを引き起こしている、
深いところにある原因の一つは、
この「孤独感」です

この「孤独感」を消すために、
人はあらゆる関係性の中で、
相手を欲し、
それが手に入らずに苦しみます
いえ、
手に入ったところで、
相手がその深い「孤独感」を満たすことなどできはしないため、
今度は「相手のどこそこが悪いから、私は満たされない」などと、
難癖をつけ始め、
結局はせっかく手に入った相手すら失ってしまいます
あるいは、
依然同じ「孤独感」を抱えたまま、
半ばあきらめて、その相手との関係を続け、
他の何かでその「孤独感」を埋めようとし続けます

この「孤独感」を持っている人は、
何かを欲し続けます


では、もう一度、同じ例で考えてみましょう

愛する人が他の人を愛し、自分は愛されずに、苦しんでいる人がいます

「あの人が私を愛してさえくれたら、私は幸せになるのに・・・
でも、彼は私を愛してくれない・・・私ではだめなんだ・・・」と、
布団の中でぎゅっと体を丸く縮めて、
深い痛みに耐えていることでしょう

同じような状況でも、
ちょっと違う感覚が心の中に生じています

「どうせ私は愛されない・・・私には価値がないんだ・・・」

深く傷ついているのは同じでも、
自分の心を苦しめているのは、
自分自身を否定してしまうことです

これは、次のような例でもいいでしょう

相手のために良かれと思って、すごくがんばってやったのに、
裏目に出て、思ったほど喜ばれなかったり、
時には怒られたり、批判されたりする人がいます

「僕はあなたのためを思ってがんばったのに・・・何のためにがんばったんだろう・・・
どうして認めてもらえないんだろう?僕が間違っていたのか?」と、
傷つき、落ち込みます

この人が心の深いところで感じているものは、
何でしょう?

どうして愛されないんだろう・・・
どうして認められないんだろう・・・
どうせ愛されない・・・
どうせ認められない・・・
私がだめだからだ・・・
私が悪いんだ・・・

そう、
それは「罪悪感」です

様々な苦しみを引き起こしている、
深いところにある原因のもう一つは、
この「罪悪感」です

この「罪悪感」を心の底に抱えている人は、
常に誰かに認めてもらうことを欲しています

認めてもらえれば、
自分が悪くないことを証明してもらえる・・・

でも、実は本人が思っているのとは逆に、
実際はちゃんと認められていることが多いのです
それにもかかわらず、
その人は自分を責め続け、
他人の賞賛や認めている言葉を受け取らずに、
その「罪悪感」の泥沼にどっぷりと漬かり続けます

あるいは、
あまりにもその人の「認めて!認めて!」という声が大きすぎるために、
他人は認めたくても認めるのが嫌になってしまい、
かえって批判したりしてしまいます

そうすると、
なおのこと、認めてもらうためにがんばり、
認めてもらえずに落ち込むことを繰り返します

実は、
自分が自分を認めていないだけなのです
自分が「不完全」だと責め続けているのです

でも、
他の人から認めてもらわないと、安心できないのです

表面上はあらゆるバリエーションの苦しみがありますが、
ずっとその痛みをたどっていくと、
大抵のものは、この「孤独感」と「罪悪感」にたどり着きます

心の中で起こることは、
例で書いたものと反転して出ることもあります
つまり、
過剰に孤独でいることを好んだり、
自分は完璧だと信じて、他人の言葉を全く受け付けなかったりもします

皆さんも、
自分の中の痛みを深く見ていき、
自分の最も奥底でずっと抱え続けている感覚、
何を経験しても、最終的にいつもたどり着く感覚、
それが何か、
探求してみてください

心の奥底で、
強烈に痛みを発しているもの

あなたを、
苦しめ続けているもの

あなたの「奥底の叫び」は何か?!

これらの深いところにある感覚が、
人を突き動かし、
それを埋めようと、
必死にあらゆるものを求め続けさせるのです


では、
この「孤独感」と「罪悪感」は、
一体どこから来るのでしょう?

その大元は何なのでしょう?

それこそが、
実は最も探求すべきポイントなのです

なぜ、「孤独」だと感じるのでしょう?
なぜ、「罪の意識」を感じるのでしょう?

それらを感じる時、
人は「自分が満たされていない」と感じています
人は「自分が完全ではない」と感じています

なぜ、「満たされていない」のか?
なぜ、「完全ではない」のか?

本当は、
その答えをここに書きたくはありません

なぜなら、
自分の内側で真剣にその問いを問い続けた時、
ある瞬間に人はブレイクスルーし、
その答えを強烈なインパクトとともに受け取るからです

それこそが、
ひとつの覚醒であり、
恩寵だからです

続きを読む前に、
実際にご自身で真剣に探求してみてください


実は、
人が苦しんでいる時、
それも、深く深く苦しんでいる時、
その人は「魂」のすぐ横にいるのです
「神」の眼前にいるのです

「魂」に「神」に触れていると言っても過言ではないほど、
近くにいます

もし、
人がその苦しみという海の中に飛び込めば、
次の瞬間、
その人は、自分が「神」という海の中で抱きかかえられているのを知るでしょう

そう、
海の表面に映っているのは、「苦しみ」に見えます

でも、その表面を突き破れば、
あなたはもう、その海こそが「神」であることを知ります

「神」は、鏡となって、あなたの姿を「苦しみ」として映し出します

海の中に入っていない、
つまり、
「神」と分離したあなたの姿を、
「苦しみ」として映し出しているのです

「苦しみ」とは、
分離です

人は、最も深いところで、
「満たされる」ことを知っています
「完全である」ことを知っています

「神」とひとつだったことを知っているのです

でも、
この次元に産まれ、生きる時、
なぜかそれを忘れ去ります

でも、
最奥のその古い記憶があるからこそ、
そうではない状況に、
人は苦しむのです

「孤独」なのは、本来ひとつである「神」と離れているからです
「不完全であることに罪悪」を感じるのは、完全である「神」と離れているからです

おそらく、
これがキリスト教でいう「原罪」なのでしょう

「苦しみ」は、
あなたが「神」と再び一つになるための、
入口です

それは、
「神」を忘れて、再び「知る」ための、
通路です

それは、
あなたが再び「完全」になり、
「満たされる」ための乗り物です

それは、
あなたの最も古い記憶を、
裏返しにして映し出しているのです

もし、
あなたが「苦しみ」を持っているなら、
すでにあなたには全てが与えられている、ということです

だから、
「苦しみ」から逃げるのではなく、
「苦しみ」を恐れるのではなく、
「苦しみ」に飛び込み、
「苦しみ」を突き抜けてください










































2019年3月23日土曜日

この時期、目と頭のケアを

緊急のお知らせです❢

春は、気が立ちます

冬の間、
地に停滞していた気が下から上に立ち上がり、
植物達の芽が吹くように、
人間の身体も気が下から上に上がり、
頭に気が集まります

その時に、
頭がこわばったままだと、
血行異常を起こしたり、
精神状態が不安定になり、
落ち込みやすくなります

よく、「木の芽時」と言われるように、
この時期に鬱っぽくなったり、
精神異常を発症したりする人が多くなるのは、
そのためです

PCやスマホが生活の中にすっかり入り込んだせいで、
ほとんどの人が、
目の疲れ、緊張が蓄積され、
頭がガチガチにこわばってしまっています

もし、身近で鬱になった人がいたら、
心理的な原因より、
身体的な原因を改善するよう、
アドバイスしてあげてください

目や盆の窪を蒸しタオルでよく温めたり、
マッサージをするようにして、
とにかくよくケアをしてください

地球的な磁場の変動や電磁波の影響もあって、
とにかく皆さん頭がガチガチで、
大変な状況になっています

ご自分でするのが難しい方は、
ヘッドセラピーや野口整体の「頭の穴おい」などを施術いたしますので、
ご連絡ください


2019年3月22日金曜日

精神(スピリット)補足

先日、精神(スピリット)について書きました

今更、精神の事なんて、と思われる方も多いと思いますが、
実はこれ、かなり重要なのではないかと、
書いているうちに思いました

それで、少し補足を書きますね
(書き終わってみたら、補足どころではなくなりました(^o^;)

先日は、精神と意識と心の違いについて触れましたが、
この3つはそれぞれ切り離せる別のものという訳でもなく、
どこからどこまでが意識で、
どこからどこまでが精神、
というようにきっちりと線引きをして分けられるものではありません

それらは複雑に混じり合い、
相互作用しているからです

それでもなお、
意識、心、精神のそれぞれが持つ味わい、エネルギー的様相は明らかに違っています

意識、精神はより魂に近く、
心はよりパーソナリティに近いと言う事もできるでしょう

よく、精神性が高いとか低いとか言いますね

皆さんも、直感的に、他の人に対してそう感じる事があると思います

それは、
精神が高い人と、低い人がいるということでしょうか?

私は、そうではないと思っています

本来の精神そのものに、
高低や貴賎はありません

あの人の精神は優れていて、
この人の精神は劣っているなどと、
そういう事はありません

精神は、誰のも素晴らしいものです

ただ、
精神性が高いという人は、
精神性が低いという人と比べた時、
より、魂に近いところにいる、
という事ではないでしょうか

魂に近いゆえに、
その現れである精神性がより強く発現されている、という事です

魂の精神とパーソナリティが調和し、
統合されていればいるほど、
その人の精神性が高くなるのです

自分自身の精神が何か、
すぐによくわかる人は、
すでに魂が現れ始めています

それに反して、
精神?何の事だかよくわからない、
心ならよくわかるという人は、
まだ魂が眠っていて、
パーソナリティだけで生きている人と言えます

さすがに、
心もどれの事だかさっぱりわからない、
という人は、
このブログ自体を読むことは決してないでしょう

自分の心がよくわからない、
という表現はよく聞きますが、
それは、心自体がどれかわからないという意味ではなく、
心の中で、本当はどう感じているか、
何が正解なのかよくわからない、
という意味ですね

ですから、
ほとんどの人は心が何かを知っているはずです

ちょっと話は逸れますが、
ハートの側面に働きかける際、
ハートがよくわからないという人が案外多くいます

その場合のハートは、
厳密に言えば心とは微妙に違うものなのですが、
道の初期の段階では、
ほぼ同じものとしての理解で十分です

それにも関わらず、
ハートがよくわからないという人は、
おそらく、
心の中からそのエッセンスだけを抽出して取り出そうとする、
最初から高度な事をしようとして、
かえってわからなくなっているのだと思います

最初は、
子どものように無邪気に、
嬉しさや寂しさなど、いろいろな感情を感じているところを感じればいいのです

ハートのエッセンスを感じるためには、
クリアなアウェアネスや深いビーイングの要素が絶対的に必要となります

そのため、
それはかなり霊的進化が進んでからになります

では、思考と心は同じなのか、違うのか?

これは、広義の心では同じであり、
狭義の心では違うものと言えるでしょう

知的な側面が強い人の場合、
0か1か、
黒か白か、
という思考回路が強いケースが多く、
どちらでもない場合、
あるいはどちらでもある場合、
よくわからないという結論になってしまいがちです

直観的な理解を磨いて行く必要がありますが、
直観は、
知性だけではなく、
ハートとアウェアネス(気づきと洞察力)、
それとある程度のビーイングのコンビネーション、
そして、
クラウンチャクラが開いている事、
そうですね、本当の直観のためには、
丹田のチャクラも開いている事が要求されるでしょう

この社会を生き抜くためには、
思考の力は頼りになったでしょうが、
霊的進化の道を歩む場合は、
それだけ突出させては、かえって邪魔になってしまいます

これまでの人生、
何を重要視して、どう歩んで来たか、
それも問われる事になります

精神というのは、
思考や感情や行いの方向性を決定するものです

例えば、
自分の心の中に、
「あの人が妬ましい」というネガティブな思考と感情が起きたとします

その時、
あなたの心の中では、何が起こりますか?
あなたは、どうしますか?

その感情そのままに、
何の疑問も差し挟まずに、
相手にぶつけ、
相手の足を引っ張ろうと画策しますか?

それとも、
その感情や考えがぐるぐる回るのを止められなくても、
どこかで、
「こんな事思ってちゃだめだ」
「こんな気持ち、嫌だ」
と、自分で自分を判断していますか?

あるいは、
その感情や考えを手放そうと、
努力しますか?

後者になればなるほど、
精神が発現していると言えるでしょう

精神が、
感情や思考の暴走を止めるのです

人間である以上、
そしてこの二元、すなわち好き嫌いの両極が存在する次元に生きている以上、
真にそこから解脱しない限り、
二元である感情や思考を無くす事はできませんし、
どちらか一方の極だけを取る事もできません

ポジティブがある以上、ネガティブがあります

光がある以上、闇があります

でも、
瞬間、瞬間、
どちらを選択するかは、
私達自身です

思考や感情がどうしても駄々をこねて、
どうすることもできずに、
その言いなりになってしまう事もあるでしょう

自我は、自己主張や自己満足のためにはその方が都合いいからです

でも、
精神が健全に存在していれば、
どこかで居心地が悪く感じ、
自分の中で罪悪感となって残ります

その僅かな居心地の悪さ、
違和感、罪悪感に、
敏感であるようにしましょう

そして、
精神の指し示す方向性に、
自我も沿っていくよう、
浄化し、
努力していきましょう

少し前にブームになったスピリチュアルムーブメントにおいて、
「ありのままに」
「自分を受け入れる」
「自分を愛する」
あるいは、
「わくわくする事を」
といったものが溢れていました

それらは、もちろん真実でもあると同時に、
浅い理解で行うと、
かえって自分の精神を痛みつけていく、
ということを知ってください

もし、あなたがあなたのネガティブな感情の「ありのまま」暴走してしまえば、
それは相手も自分も傷つける結果となるのは避けられないでしょう

そういう感情がある事を受け入れる、認める事と、
そのままに暴走する事は全く違う事です

実は、本当に認められたら、
その感情は穏やかになるか、
消えてしまいます

今や「自分好き」の一見ハッピーな人達もたくさんいます

でも、その人達の知っている「自分」は、
ごく表層の、
影としての自分でしかありません

それは、見たくないものを見ないようにしているだけなのかも知れません

あるいは、
精神がまだ全く眠っているか、です

「わくわく」も、
「楽(らく)」と勘違いしている人が多く見受けられます

実は、
魂の選択は、きつい事、しんどい事、大変な事が多いです
成長のためですから、当然の事と言えるでしょう

精神が発現している人は、
きついのがわかっているのに、
わざわざきつい方を選択してしまいます

それでいいのです

それなのに、
きついのはわくわくしないから、と、
楽な方を選択し続けてしまうと、
心の奥底に、
たくさんの不純物が知らず知らずのうちに溜まり、
ある時、苦しくて苦しくて仕方なくなります

その時に気づければいいですが、
「わくわく」信仰にハマっていると、
さらに深みに入り込み、
精神は痛手を負っていきます

そうなると、
本当の魂に近づく事が困難になってしまうでしょう

そもそも、
精神がすでに発現している人は、
それらの教えの浅さ(教えそのものは深くても、それを伝える人の理解の浅さ)をすぐに見抜けるでしょう

確かに、
それらの教え、特に「わくわく」は、
深刻で重くなりがちな人生や、
ガチガチの信条や教義に固められた不自由な霊的修行、
「無我」の誤解から生じた強烈な自己否定の歴史に、
風穴を開け、
ある種の自由さと軽やかさ、
そして自己愛をもたらしてくれました

魂本来は、
自由で軽やかで、愛そのものです

その恩恵は素晴らしいものでしたが、
それだけでは先に進めなくなってしまうでしょう

このブログを読まれるような方は、
もっと先に行こうとするはずです

それには、
あなた自身の精神に注目し、
その声に耳を傾ける事が必要です

精神を指標とするためには、
「わくわく」より、
「楽しい」より、
何があなたを本当に「勇気」づけるか、
何があなたの「底力」を発揮させるか、
何があなたの「可能性」を引き出すか、
何があなたの背筋を伸ばし、「しゃんと立たせる」か、
何があなたをより「大きくする」か、
何があなたをより「豊か」にするか、
何があなたを本当に「完結」させるか、
それを見極めてください

それらこそ、
実行し、実現した時に、
本当に「楽しく」、「魂が打ち震え」、
「満たされる」のだということを、
知ってください

目先の楽しさに惑わされないでください

精神が、
それが何かを、
何を選択すべきかを、
何をすべきかを、
教えてくれます

精神とは、
まさに「神」の「精(エッセンス)」なのです

あなたが、
あなたの精神と共にあることを










2019年3月21日木曜日

宇宙元旦


今朝、今年一番のうぐいすが鳴きました🎵
本格的な春到来ですね

リトリートの朝一の瞑想中、
昨夜から続く浄化の雨の合間に、
「ケキョ、ケキョ」と
まだうまく歌えないのかと思っているうちに、
「ホーケキョ」🎵

今日は満月の春分の日で、
春分の日は占星術で言う1年のスタートの日であり、
「宇宙元旦」とも言うそうですね

しかも今年は満月が重なり、
かなり強力な一日になりそうです

外も晴れたり雨が舞ったり、
風の強い春の嵐です

浄化も佳境といった感じです

1年のスタート、
昨日まではまだ2018年という年の影響が残っていて、
体調を崩したり、
古い感情が出て来たり、
何かトラブルや大きな変化があった人も多いのではないでしょうか

地球的にも、
各地で地震、噴火も未だに活発です

日本では、
天皇の交代、元号が変わるという大きな変化の節目にあたります

長い目で見れば、
大きな変容という素晴らしい結果に至る事ですが、
そこまでのプロセスは、
人類にとって、
個々の人達にとって、
かなり厳しいものになるのでしょう

その厳しい状況の中でこそ、
その人の真のあり方が問われます

それは、
あなたの「精神」を、
大いに発現するチャンスです

この二元の世界を超えた次元に根ざした、
無条件の安心、絶対の平安にくつろぎながら、
「宇宙」への無条件の信頼に委ね、
でも、
目の前に起こる事態にはいつでも真摯に、
愛のスペースから、
取り組んでいきましょう

その結果は、
必ずしも世間で言う「成功」という形にはならないかも知れません

今までの、
「成功」という価値観自体がひっくり返るかも知れません

それは、
人々のマインド自体が変容するからです

何が正しいのかも、
何が本当に自分を満たすのかも、
変わって行くでしょう

今までのマインド、
つまり集合意識そのものが掻き回され、
ひっくり返り、
変容していくからです

人々は、
それでもしばらくは馴染みのあるマインドに、
しがみつくでしょう

自分の中に、
こんな無意識の思い込み、信じ込み、
あまりにも当たり前で意識したこともなかった「前提」「仮定」があったのかと、
気づかされて行くでしょう

それらに意識的である事で、
それらを手放していく事ができます

いつまでも古いマインドにしがみついていると、
変容のためのプロセスも、
悲惨なほど辛いものになりかねません

でも、
もし、「脱皮」というプロセスに自ら協力すれば、
それはあっという間に完了し、
あなたの背に美しく強い翼が生えているのを見る事ができるかも知れません

あなたは、
変容という未来に羽ばたく人になるか、
古ぼけた過去にしがみつく人になるか、
この1年のスタートの日に、
決意するといいでしょう

新しき世界の始まりへと🎵





2019年3月16日土曜日

精神(スピリット)

精神とは何でしょう?

日本人にとって、
「精神」、あるいは「精神性」という言葉は比較的身近であり、
その定義を明確に言語化するのは難しいけれど、
直感的的に理解、認識している言葉と言えるでしょう

ウィキペディアによれば、
精神(せいしん)は、意識、気構え、気力、理念といった意味を持つ言葉。」
とあるように、
多くの場合、なんとなく、
「心とか意識とかだけど、でもなんとなくちょっと違うかなあ」
と感じているのではないでしょうか

「心」もまた、大雑把な言葉ではありますが、
その中に気持ちとか感情が多くの位置を占めているように感じられるのではないでしょうか

「心」には、
怒りや悲しみ、恨みや妬みなどネガティブな思考や気持ち、感情、感覚、
誰かに対する愛情や思いやり、気配りなど、
様々な要求や欲、
そういったいろいろなものが含まれています

「意識」とは、
人がまさに存在し、
この外界を認識しているものそのものであると言えるでしょう

「意識」そのものには、
あまり色がなく、透明で、
「心」とは違い、内容物はありません

とはいえ、
「意識」の中に「思考」が現れると解釈する人もいるでしょう

では、
「精神」とは何かと考えた時、
どんな感覚を思い浮かべるでしょう?

「意識」とは違い、「精神」は明らかに何らかの指向性を携えているように感じられます

ある種の色合い、ある種の光度、もしくは光色、
あるいは、ある方向性を持っていると感じられます

けれど、
具体的な思いや感情や思考、行為ではなく、
それ以前の、
それらを決定していくための指向性のようなものです

その人の「あり方」と言い換えることもできるでしょう

それは、「意識」より、ある種の「個人性」を携えています
言い換えれば、
人によって特定の性質、持ち味がある、ということです

実は、「意識」は非個人的なものです
私たちは、「ひとつの意識」を共有しているのです

そして、
「意識」のセンターは頭のエリアに住しています

それに対して、
「精神」は、もっと広いエリアに住していて、
非常に深く「私」そのものに従属しています

この「精神」のセンターは何か?と探求した時、
それは魂としての「私」そのものに感じられます

とすれば、
「精神」とは「魂」の表れに他ならないと言えるのではないでしょうか?


ちょっと違う角度から感じてみましょう

あなたの「意識」
あなたの「心」
あなたの「精神」
と、
それぞれあなたの中で感じた時、
何が一番、あなたを勇気づけるでしょうか?

何が一番、あなたを確かなものにし、あなたの中に強さをもたらすでしょうか?

何が一番、あなたをクリアにし、あなたを立ち上がらせるでしょうか?

あなたの中の、
あなたの指標となるのは、一体、何でしょう?

それが、
「精神」なのではないでしょうか

つまり、
あなたがあなたであることを形造っているもの、
性格とか人格とか具体的な形になる以前の、
あなた自身のエネルギー的な表れなのです

魂が太陽だとすれば、
「精神」は太陽光のようなものです

魂が非顕現の次元で安らぐ時、
それは物質として現れる前の太陽のようなものです

この顕現の次元に魂が現れた時、
それは「精神」という光をまとい、
ひとつの光として光り輝くのでしょう





















2019年3月2日土曜日

なぜ苦しむのか1 トータル・パス 〜魂への道〜 2

苦しみについて、少し理解を深めて行きましょう

苦しみは、魂からのアラームだと前回書きました

あなたが苦しんでいる時は、
あなたの魂が、
あなた自身に、「目覚めの時だ!」と、
けたたましく知らせているのです

では、
なぜ、「苦しみ」という形でそれはやって来るのでしょう?

もし、あなたが十分に幸せで楽しく、満たされていたら、
あなたはそこから動かないでしょう

うっすらとどこかで何か疑問は感じていても、
あなたは自分自身に「私はオッケー」「私に問題はない」と、
納得させるでしょう

人は、苦しくならない限り、
動こうとしません

お尻に火がつかない限り、
人は腰をあげないのです

でも、苦しければ苦しいほど、
人はなんとかそこから抜け出そうとします

その強いモチベーションがなければ、
魂への道に入る事はできません

何か、目の前の問題が解決さえすれば、
人生の中で足りていないものを手に入れさえすれば、
今の苦しみはなくなり、なんとかなるはずだと思い、
それらを追い続けるだけです

でも、そうやってたくさんの事を解決し、
たくさんのものを手に入れ、
それなのにまだ変わらず苦しい

その時初めて、人は何かがもっと本質的な事が問題なのではないか、と気づきます

実は、まだ目の前の事しか見えていない人は、自分が苦しんでいる事に、まだあまり自覚的ではありません

もちろん、苦しいとは感じているからこそ、
そこから無意識に逃げ出そうとするのですが、
それはとても無意識的な反応でしかありません

そのため、他者に八つ当たりしたり、相手に投影して怒ったり、自分より弱い人をターゲットにして、自分の中に沸き起こるネガティブなエネルギーを発散させるだけで、自分が何をしているかにも無自覚のままです

そうやって、ネガティブなエネルギーのボールを投げつけ合っているのが、通常の状態です

そのため、そういった人達が口にするのは、「あの人が悪いから」「仕事がうまく行かないのはついていないからだ」などと、決して自分自身に向かう事はありません

「自分ができないからだ」「自分が悪いからうまく行かない」などと、
自分自身に目が向き、
自分自身を責めている段階は、
全て外側のせいにしている段階より、
少し意識的になっているとも言えますが、
まだ、本当に「苦しみ」に自覚的になっているとは言えません

というのも、
まだ「苦しみ」そのものにフォーカスしている訳ではないからです

この問題、あの障害、と、
表面に現れている具体的な現象しか見ていない段階です

その状態と、
「苦しみ」そのものに気づく状態、
すなわち、理由や原因は何であれ、
自分が苦しんでいる、という事実に気づく状態との間には、
実は、幅はわずかでも底の見えない断崖を飛び越えるかのような、
大きなジャンプがあります

「苦しい」「私は苦しんでいる」と自覚することは、
夢から覚め始めたサインです

今、自分が「苦しい」「苦しんでいる」という自覚のある人は、
魂への道に入る段階に来ている、ということです

もはや、人生で何を手に入れても、
この苦しみが去る事はない、と知っているからです

それは、今までとは全く違う、
何か内的なもの、精神的なものを探し始める時です

そして、
あなたが苦しむ時、
それは多くの場合、
強い悲しみや痛み(精神的肉体的)を感じ、
生きていることの辛さを感じ、
あるいは絶望している時ですが、
実は、
その時、あなたは魂の非常に近くにいるのです

そう、
その痛みを感じているその場所、
いえ、その痛みそのもの、
それこそが魂への扉なのです

そこから、ほんの一歩、
内側深く入るだけで、
その痛みの中に身を投じるだけで、
あなたは直接魂に触れ、魂に触れられる事ができるのです

もし、あなたが今絶望の淵にいるとしたら、
あなたは魂のすぐ隣にいるのです

それが、あなたが苦しむ1つの理由です

もう1つの理由は、
あなたが「満たされて幸せ」な状態を、
深いところですでに知っているからです

どういう状態が真に幸せなのか、
どういう状態が真に満たされているのか、
すでに知っているからなのです

だからこそ、
そうではない状態に「苦しみ」を感じるのです

それを知らなければ、
そうでなくても特に違和感は感じません

この地上の次元レベルでしか生きた事がない魂にとっては、
ここはごく当たり前ですが、
そうではなく、
もっと霊的に進化した次元レベルで生きた事がある魂にとっては、
ここは苦しいのが当たり前なのです

「魂」そのものはどれも同じレベルで、
ただ、無明の度合いに差があるだけだと、
私も初めは思っていました

でも、たくさんの人と出会い、たくさんの関係を持つ中で、
基本的に利己的で(優しい人もいますが)、
この世界のあり方にあまり疑問を抱かず、
スピリチュアルな事に全く目の向かない人や、
私にとっては全く楽しくない残虐性を楽しんでいる人がどうしているのか、
この違いが何なのか、
ずっと大きな疑問でした

単なる性格の違いとは言えない、
何かもっと根本的な違いを感じていました

私の師であるフーマンから、
「魂には地球由来の魂と、他の星由来の魂とがいる」と聞いた時、
この疑問が解けました

地球しか知らない魂には、
この世界は当たり前であり、
この世界のあり方そのものの理不尽さに疑問を持つことがなくてもおかしくはありません

この世界のシステムは、
そもそもが弱肉強食、
他の命を摂取しなければ生きられない世界なのです

そこに疑問を呈する事なく、
弱肉強食のシステムに従って、
サバイバルするだけです

彼らにとっては、それが当たり前の正しい事なのです

それは、物質的な事だけではなく、
心理的な面でも弱肉強食が正なのです

でも、そうではないシステムの世界から来た魂にとって、
この世界はいたたまれなく感じてしまいます

この世界のどこにも本当の居場所がなく、
物心つく頃から疎外感や違和感を感じて来たような魂は、
他の星由来の魂か、
地球由来であっても他の星に転生した事のある魂なのでしょう

地球よりさらに残虐な星もあるかも知れませんが、
この地球で深く傷ついて苦しんでいる人は、
地球よりもっと愛と調和のシステムの世界で生きた経験のある魂だと言えるでしょう

この地球は、
霊的進化の段階で言えば、
まだ幼稚園の段階だと言います

でも、弱肉強食で残虐性のある世界だからこそ、
そこで愛と調和を学び、実現するための、
絶好な修行場となります

そのシステムに喰われて、それに流され、それに則って生きていくのか、
それとも、それに反逆して、
傷つきながら、
自らの裡なる真に照らし合わせて生きて行くのか

あなたの魂は、
この絶好の修行場で、
あなたがあなたの真に照らし合わせて生きることを、
愛と調和を学び実現していくことを、
あなたに突きつけるために、
あなたをそこに追い込むために、
あなたをここに受肉させ、
あなたに苦しみを与えるのです

ここで花開いた愛は本物となるからです

それが、
あなたが苦しむもう1つの理由です

さて、
次のブログで、
苦しみの本質について触れていきますね







2019年2月20日水曜日

トータル・パス 〜魂への道〜 1

これまでのブログは、
主に私の個人的な体験やその時に感じた事などを中心に書いて来ましたが、
これから、私達の霊的進化の教えについて、
体系的に理解できるように、
少しシリーズで書いて行こうと思います

私達の教えは、
人間として社会の中で生きながら、
完全な悟り、魂の覚醒へと向かう、
トータルな「道」です

今、たくさんの霊的な教えが世の中には存在しています

伝統的な宗教から、新興宗教、60年代に起きたニューエイジムーブメントやミレニアム以降のスピリチュアルブームによって輩出された、あまりにもたくさんの様々なレベル、様々な分野の教えがあります

私達は、それらの種々雑多、珠玉混交の様々な教えをはなから否定する立ち位置にはいません

どの教えも、それを必要とする人がいるのなら、存在する必要のあるものだと思います

ただ、だからといって、
どの教えも、人間として到達できる最高地点に到達できる道だとも思っていません

どの教えを選ぶかは、
その魂のブループリント、
その魂が今生でどこに向かおうとしているか、
どの可能性を実現しようとしているか、
によると思っています

その中で、
私達が伝えている教えは、
もう、この次元、この地球の次元を完全に卒業するために、
この地上での輪廻転生を終えるために、
人間として最高の到達点である悟り、解脱、神との一体、
そして、
真の自己であり、それら全ての体験者である魂の目覚めへと向かう「道」です

それは、多くの偉大な伝統的宗教全てと、いくつかの昨今のスピリチュアルな教えの最奥に横たわる最も深いエッセンスです

なので、「王道」とも言えるでしょう

人間は誰しも、
それが意識的であるか、無意識であるかは別として、
この最終地点に向けての霊的進化という旅の途中にいます

それぞれの人が、それぞれの段階にいます
よって、惹かれるものも、その段階によって違ってきます

その中で、
すでに最終段階に入っている人、
もはや目指す地点は解脱である人に向けて、
この教えは存在しています

そういった人達の多くは、
この地上で生きる事に苦しんで来たことでしょう

その原因は人それぞれかもしれませんが、
自分が苦しんでいる、
自分が惨めである、
何をしても自分が本当には満たされていない、
自分の中にぽっかりと大きな穴が空いている、
全てを手に入れても、どんな成功をしても、
何かが足りていなくていつも渇いている、
生きる事に絶望している、
など、どういった形であれ、原因は何であれ、
自分が苦しんでいることに気づいています

そして、その苦しみを取り除くためには、
その個々の原因を取り除くだけではだめで、
もっと根本的な原因、
つまり、人が自分が本当は誰であるか忘れ、
神と分離しているという、
その根本的な原因を解決しなければならない、
という事にも、
うっすらと気づいています

この「道」に入る最初の入口に到達する前に、
人はその根本的な苦しみを通過します

完全な無明の状態から、
自分が真っ暗闇の中にいると気づける段階にすでにいる、という事です

完全な無明の状態にいる人は、
自分が実は大変苦しんでいるという事に気づいていません
ただ、今は自分の置かれてる状況や環境に問題があって、それさえ解決すれば大丈夫だと思っています
そして、問題があるのは自分ではなくて、常に相手や境遇、環境だと思っています

でも、もうこの「道」に入る段階にいる人は、
どこかでうっすらと、
「問題は自分だ」と気づいています

それは、
人によっては、
「自分のこれこれこういう性格が問題だ」という、
まだ表面的なレベルでの認識かもしれませんが、
少なくとも、
すでに目はなんとなくでも、
自分自身に向いています

実は、
目が自分自身に向いてからの方が、
苦しみは深くなります

相手のせいにしている限りは、
それを避けて自分を守ればいいですが、
自分のせいだとわかった時、
それから逃れる事はできないからです

その、逃れようのない苦しみこそが、
この「道」へのゲートウェイであり、
「道」に向かわせるエンジンなのです

この苦しみは、
魂からのアラームでもあります

「もう、目覚める時が来たよ!早く目覚めて!」
と、魂がその人を深くから揺り動かすのです

もし、
今、そういった苦しみに悩んでいる人がいれば、
目の前は真っ暗にしか見えなくても、
すでに門の前まで来ている、という事です

あなたがくぐるその門は、
あまりきらびやかではないでしょう

小さくて、地味かもしれません

でも、真の門は、
決して大きくもきらびやかでもありません

たくさんの人の目を惹き付けるようなものではなくて、
本当に真摯に謙虚に求める者だけに見える、
小さな質素な門でしょう


この、霊的進化の旅には、
本当に数多くの落とし穴があります

光、奇跡、予言、耳障りのいい愛の言葉、真理の言葉…

危険なのは、人類より低い段階にいる霊的存在でも、いえ、そういう存在達こそ、そういった事を人に見せ、聞かせるのが得意であり、
そういった事を使って人の目を惹きつけようとします

真の奇跡は、私が私であり、あなたがあなたである事です

ただ当たり前だと思われていることこそが、
奇跡であり、愛であり、
禅で言う、「木を切り、水を汲む」です

真理とは、何も起きていない事です
真理は、沈黙する以外にありません

そこに至って初めて、
解脱の可能性があります

私達の教えは、
そこへの道標を示すものです

霊的進化において、
人間として到達できる最高地点に誘うこと

でも、それだけでは、
真の解脱、
輪廻転生の卒業式を迎える事はできません

晴れて卒業するためには、
人間として完成しなければならないのです

完成、というと、
何か完璧な聖人君子になるというイメージがあるので、あまり使いたくないのですが、
それはそういう意味ではなく、
むしろ、成熟とか成就とか完結とかの言葉の方がいいかもしれません

平たく言えば、
人間としてやりに来た事をやり終える、
魂の(人間としての)課題を全てクリアする、
という事です

人間としての面を疎かにして、
霊的進化を遂げる事も可能です

霊的進化を半ばにして、
人間として成就する事も可能です

でも、どちらかだけでは、
真の解脱にならないのです

正確に言えば、
どちらかが半ばなら、
もう片方も本当には完成しないのです

そのため、
私達の教えでは、
その両面から働きかけていきます

両面とはいえ、
これは、全次元的に働きかける、ということです

それで、
トータル−パスと名づけたのです

そのため、
もちろん年に数回のリトリートは必須ですが、
常に山に籠もるのではなく、
普通に社会人生活を送りながら、
日々の生活の中で「道」を歩んで行く事を勧めています

私達自身が、何も特別な存在ではなく、
特別な能力もなく、
ごく普通の凡人であり、
その凡人があちこちで落とし穴に嵌りながら、
先人の示す道標に沿って、
試行錯誤しながら、
よちよちと自分自身の足で一歩一歩歩んで来たからこそ、
示す事のできる道標です

だからこそ、
人の持つ苦しみを体験的に理解し、
人のしがちなミステイクを体験的に理解し、
どういう修行が実践的に体験的に有効であるかわかり、
嵌まりがちな落とし穴に熟知し、
そして、
その中で得てきたもの、
体験的に理解したもの、
実際に到達した次元のエネルギー、
体得したエッセンスそのもの、
それら全てを伝えて行くことができるのです

また、この「道」はユニヴァーサルガイダンスと繋がる道でもあります

そのため、
実際には、
リトリートの中で私達がシェアするものは、
私達という個人を超えた宇宙の叡智からの働きかけが大半を占めます

私達は、単なるエネルギー的媒体とも言えるでしょう

でも、それは、いわゆるチャネリングではありません

そこに、いかなる「個人」も存在しません

それゆえ、
それはいつでも意識をその人そのもの、そして神性そのものに向けさせて行きます

もし、
あなたがここで何かの奇跡を求めていたら、
あるいは、崇拝するマスターを求めていたら、
あるいは、楽しいキラキラのスピリチュアルごっこを求めていたら、
あなたは何も持ち帰るものはないでしょう

私達は、
あなたにはあなた以外、何も持ち帰らせません

私達には、
あなたを飾るためのものは、
何も与えられません

ここであなたは、
ただ、よりシンプルに、より純粋に、より深く、より親密な、
あなたになっていくだけです

それは、あなたが今期待しているような、
他の人とは違う「特別な」人になるという事では全くありません

むしろ、どんどん普通になって行きます
「特別」と思うのは、エゴ(自我)の特性です

でも、あなたがベールというベールを剥いで、
真のあなたになった時、
あなたは、思っていたのとは全く別の体験をするでしょう

それは、ある意味、
最高に打ち震える特別な体験ですが、
あなたは、もはや自分を特別とは思わないでしょう

あなたは、ただシンプルにあなたであるだけです

でも、ただシンプルにあなたである事が、
愛の表出であり、神聖さの表出であり、
穢れのない純粋さ、無垢さの表出であり、
真の充足なのです

それは、圧倒的な親密さを持ちながらも、
個を超えた、境界のない感覚です

私達は、
あなたをそこに連れて行きたいのです

さて、予定より、つい話が膨らんで来てしまいましたが、
霊的進化において、
この真の自己の実現と、神との一体は、
切り離すことのできない、2つの柱です

多くの教えの中では、
このどちらかだけを説いているもの、
あるいは、この違う体験をごっちゃにしているものが多く見受けられます

非常に繊細なものなので、
ごっちゃになるのも仕方がないですが、
これは、明らかに違うものです

この詳細については、
またシリーズの中でおいおい触れて行くことでしょう

今、苦しみの中にいる方、暗闇で先が見えないと息詰まっている方、
あるいは、いろいろやってみたけれど、という方、
トータル−パスの扉を叩いてみてください





2019年2月10日日曜日

命を愛する

数カ月前からになるでしょうか
東京の自宅で、瞑想クラスや1デイリトリートで瞑想すると、まるで何かが歩いているように畳が音を立てるので、何が来ているのかなあ、と思っていました

瞑想してエネルギーが高まると、家がピシッ、みしッ、と音を立てるのはいつもの事で、それは単に振動数が上がるために物理的に影響を及ぼして、音が発生するので、いわば、瞑想が深まっている指標にもなるのですが、畳がこれだけ音を立てるのは、しかも、何かが歩いているように感じられる事が多いのは、あまり他に記憶がありません

嫌な感じや変な感じは全くないので、心配の必要はないのですが、
先日、一人でスダルシャン呼吸法をしていたら、またもや、みしみし、ピシピシ、そして最後の深呼吸の時に、ピシピシピシピシピシッと、前面ぐるっと音に取り囲まれて、一瞬、驚きました

それで、何かメッセージ性を感じたのですが、ふっと思ったのが、ご先祖様かな、という事でした

それは、ご先祖様が来た、という直接的な意味というより、先祖への供養と感謝をちゃんと行おうという気持ちを持つ事の大切さに気づく、という事でした

スピリチュアルな世界では、肉体としての先祖、血縁よりも、魂としての繋がりを重要視するため、私も今まではあまり先祖供養の必要性や重要性を感じて来ませんでした

「千の風になって」の歌のように、死後、魂がお墓にいる訳でもないですし、肉体的な先祖をずっと辿れば、それこそ世界人類皆兄弟ですから、自分の先祖、家系だけを供養することにあまり意味を感じていませんでした

でも、今回ふっと思ったのは、先祖を供養して感謝を捧げるという事は、たくさんの先祖達の「命」の思いが引き継がれ、積み上がって行ったからこそ、今の自分の肉体、存在があるという事を知る、という事なのではないか、と思ったのです

頭では、もちろん、先祖がいなければ今の自分はいないとずっとわかっていますが、一方どこか深いところでは、何か自分という存在がどこからともなく突然ぽっと生じたように感じていたのだと思います

物心つく頃から、親との本当に深い繋がりを感じられず、この世界そのものからも疎外感を感じていたのは、今でもはっきりと覚えています

その感覚ゆえに、深いところで、孤独感やこの世界に存在している不安定さを感じていたのだと思います

でも、累々と積み重なって来たご先祖様達の「命」の思いを受け取る時、何か自分がこの世にやっと根を降ろせたような感覚を持ちました

膨大な数の「命」が、自分を支えてくれているのですね

言い換えれば、膨大な数の「命」で自分ができているのです

独りだと思っていたけど、存在している時点ですでに独りではないのですね

この肉体は、私のものだと思っていたけれど、私だけのものではなくて、ご先祖様全員のものなのですね

そんな感覚を持つ事ができたのです

それは、悟りによって得られるワンネスとはまたちょっと違うニュアンスの感覚であり、むしろ肉体に対する感覚とも言えるでしょう

そして、素直に、「先祖供養をしよう」「お墓参りに行こう」と思えたのです

何か、今は私の肉体となり、私という存在になっているご先祖様にご挨拶するのは、まるで私の肉体の細胞1つひとつに「はじめまして🎵今までありがとう❤」と、挨拶をするようで、私の肉体との新しい出会いのような感じがします

ご先祖様に供養を捧げるという事は、他ならぬ自分自身に供養を捧げる事なのでしょう

命とは、本当に不思議なものですね

命は命から生まれ、ずっとつながっています

魂とはまた別に、ずっと連綿とつながっています

「あなた」という存在が今ここにいる、という事は、その命がずっと連綿と続いて来た、という事です

だからこそ、この命を生きなければならない、
そして、ただ生きる事だけが大切なのでしょう

先祖が王様であろうと、貧民であろうと、今の自分には何の関係もないですよね

神にとっては、私達が何になろうとどうでもいいのです

ただ、命を大切に、この命を愛して生きる事しか望んでいないのでしょう

自分を愛するという事は、この命を愛するという事です

肉体無しでは語れない、この命を、
全てひっくるめて愛するという事です

そんな事を気づかせてくれて、素直に先祖供養をし、この命を愛する気持ちをくれた、畳の音でした(*´ω`*)

2019年1月5日土曜日

五体投地 その2 心のお掃除

3日間、五体投地を修しました

現世で生きていると、
どうしても心には小さな塵や埃が積もっていきます

何か大きな間違いを犯してしまった事ももちろんそうですが、
大きな罪を犯す訳ではなくとも、
些細な嘘をついたり、
自分に都合の良いよう、持っていったり、
わざと拗ねたりむくれたり、
相手を利用したり、操作したり、
小さな意地悪をしたり、
冷たく当たったり、
八つ当たりしたり、
誤魔化したり、
さぼったり、怠けたり、
奢りたかぶってしまったり、
人を馬鹿にしたり、
etc、etc、
……

人間、ついつい、そんな事をしてしまうこともありますね

すぐに忘れてしまうそんな小さな事も、
自分でも忘れられずに、
ずっと心に引っかかったまま引きずっている事も、
全て、潜在意識の中に書き込まれています

自分の心には、
良心とも言える、
正心(主心)と、
ついついやってしまう副心があり、
正心はいつもそんな副心を見ています

スピリチュアルな言葉で言えば、
ハイアーセルフといわゆるパーソナリティとしてのセルフですね

どちらも自分ですから、
本当はどうしたらいいか、わかっています

でも、パーソナリティとしての自分は、
どうしても自分優先、自分本位になり、
日々の中で、
小さな塵や埃を積もらせていってしまいます

五体投地は、
そんな塵埃に光りを当てて行くようなものです

五体投地をすることで、
見て見ぬふりをしてきたそれらに光りを当てて、省みる心を持ち、

心からそれらの罪や穢れを悔いて改めたいという思いを抱く

改めて修してみてわかりましたが、
五体投地とは、
神や仏に向かって身を投げ出し、
全てを洗いざらいさらけ出して、
地に額をつけて赦しを乞う事なのですね

光りを当てて行くという事は、
死んだ時に閻魔大王の前で、
生きている間の全ての所業を見せられるというのと、同じようなものなのでしょう

自分では、それらをない事にしていても、
どうにか隠そうとしていても、
全てはすでに書き込まれていますし、
今も刻々書き込まれていますし、
自分自身の正心、ハイアーセルフは全て知っている訳です

ならば、どうすればいいのか

それならば、
生きている間に、それらを省みて、
悔い改めればいい訳です

心からごめんなさいをすればいいのです

今生積もらせてしまった塵埃は、
今生、お掃除すればいいのです

家の掃除と同じで、
何十年も積もらせてしまったものは、
一日や二日ではお掃除しきれないとは思いますが、
丁寧に心を込めて拭いていけば、
埃だらけだった家もピカピカになるように、
心もやがてピカピカになるでしょう

それは、
聖人君子になれと言うのではなく、
ただ、
清らかであれ、ということです

古くてボロい傷だらけの家具でも、
ピカピカに拭いて清めてあげればいいのです

最期に裁くのは、閻魔大王ではなく、
全てをすでに知っている自分自身の正心です

心から、悔いて改める気持ちで、
身を投げ出し、額を地につけて祈る事で、
赦しの光りが射し込みます

赦された時、
正心と副心は清々しく一つになります

その時、私達はすっくと立つ事ができるのです

五体投地を修することで、
生きながらにそれができるのだと、
この3日間で教わりました

これからも、折々に修していきたいと思います

五体投地を修してみようと思われた方は、
できれば、
21日間(もしくは一日3回で7日間)、
修してみてください







2019年1月3日木曜日

五体投地〜心がきれいになる〜

年末の27日から、リトリートを行っています

リトリートのプログラムの中で、
午前中に私がリードするハートのワークの時間があります

その時の生徒さんの状態によって、必要なワークをしていくもので、
ハートに関するワークがメインではあるものの、ボディケアや呼吸法から、様々な浄化法、また高次とつながる方法等、多種多様に渡ります

今回は、古代神道における龍体文字のフトマニを用いて、言葉の音、形の持つエネルギーを受け取り、心身を整えて行く事を初めて取り入れてみました

声をたくさん発するし、
エネルギーの高い文字なので、
終わった後、とてもすっきりと整います

昨日、そのフトマニの祝詞の後、
ハートを開いていくための私オリジナルのハートの瞑想をしましたが、
非常に良いものとなりました

その後のパートナーがリードする瞑想も、
ハート全開で非常に良かったとのことでした

今朝も、さらに開いていくために、
もう一度そのハートの瞑想をしようと思っていたのですが、
なんとなく、「うーん、ちょっと違うような気もするなー」「プレイヤー瞑想でもない感じだしなー」と感じていたら、
突然、「五体投地」というガイダンスが来ました

「ええっ?!」
あまりに意外なガイダンスにびっくり❕

ここで突然、密教?!

「五体投地」と言えば、
もう20年以上前に、真言密教をやっている時に、授戒するために、その前の準備として、21日の礼拝行を伝授され、行ったものです

得度した僧侶が礼拝行を行う場合、
一日3回の五体投地を7日間行うそうですが、
在家の者が戒を授かる場合は、
一日3回の時間がなかなか取れないため、
一日1回を21日間行えば良いようにアレンジしてくださったものです

1回の礼拝行で、108回五体投地をします

詳しい方法は本来直接に伝授されるべきものなので、ここでは割愛しますが、
20年以上も前の曖昧な記憶を辿って、
行ってみました

さすがに身体で覚えたものは、ちゃんと身体が覚えているものですね

自然に身体が動きます

というのも、修行好きな私は、
実は21日1回やればいいものを、それを2セット行ったからなのです
すごく修行してる気になれるので、その後も、ちょくちょくやっていました(笑

さすがに頭はボケてきているので、その時に唱える言葉はちょっと曖昧でしたが、まあ、概ね大丈夫でした

久々の五体投地、
還暦を過ぎた身体、
ちょっと心臓バクバク、汗ダクダク、足元ヨレヨレになりましたが、
無事に108回終わりました

終わった後、
「あ、心がきれい」
と感じました

フトマニも、水ごりも、
「エネルギーがきれい」になる、という感じ

ハートの瞑想は、ハートが広がって、
「愛と悦びのエネルギーに満たされる」という感じ

それらとはまた違って、五体投地は
「心がきれいになる」
という感じでした

エネルギーがきれいになるのと、心がきれいになるのと、あまり違いはないと思うかも知れませんが、
言葉では説明しにくいものの、
明らかにそこには違いがあります

他の表現で言えば、「感情がきれいになる」、「気持ちがきれいになる」とも言えるでしょう

エネルギーの場合は、もっと全体的な感じです

でも、この「心がきれい」というのは、
思った以上に良い感じがしたのです

さらに具体的というのでしょうか
パーソナリティの変容にとても良いような感じです

今日は、生徒さんが初めての五体投地だったので、ちゃんとできているか見ながらだったため、自分自身の五体投地に集中していた訳ではなかったので、より詳細にわかるまではいかなかったのですが、
五体投地を修した人達がよく、
「感謝の気持ちでいっぱいになった」
「周りの人や自分の置かれている環境が心底ありがたく感じた」
と言うように、
仏に対して身体全身を投げ出し、そのみ足を頂くという行為を繰り返す事で、
「自分が」という気持ちや、
奢った気持ちが削ぎ落とされ、
自然に謙虚になるのでしょう

身体全身を使うのも、
非常に大きな意味、効果があるのだと思います

「体は心を表す」

瞑想は別として、ずっと、私達のリトリートには仏教的要素はあまりなかったのですが、
今年、こんな形で起こりました

まあ、神道と密教の合わさったのが修験道なので、どちらかと言えば修験的要素なのかも知れません

キリスト的なものと神道、修験が、
融合されていくのでしょうか

私達にとって、
キリスト的なものというのは、この次元を超えた神性の次元、そしてその体験者である魂そのものの事で、この次元とは関わりのない事なのですが、
神道、修験は、
よりこの次元におけるそれらの体現に関わっているものと捉えられます

神性の次元と、魂の次元と、この肉体を持つパーソナリティとの架け橋

伝統的なそれらの教えの中には、
それを具体的に実現させていくための有効なメソッドという宝が、
たくさん持ち運ばれているように思います

ただし、通常、伝統的な教えにおいては、
それらは肉体の次元から神性の次元へ渡るための架け橋として修しているのだと思いますが、
私はむしろ逆なのではないかと思います

パーソナリティをいくら浄化、変容しても、
それだけでは神性の次元には行けないのです

逆に、神性の次元に至っても、
パーソナリティがヘコければ、
この次元で神聖な次元を十分に体現できない

パーソナリティの底上げをしなければならないのです

そのために、伝統的な教えのそれらは、
とても役立つのではないかと思います

「五体投地」
うーん、素晴らしいです🎵