2019年2月10日日曜日

命を愛する

数カ月前からになるでしょうか
東京の自宅で、瞑想クラスや1デイリトリートで瞑想すると、まるで何かが歩いているように畳が音を立てるので、何が来ているのかなあ、と思っていました

瞑想してエネルギーが高まると、家がピシッ、みしッ、と音を立てるのはいつもの事で、それは単に振動数が上がるために物理的に影響を及ぼして、音が発生するので、いわば、瞑想が深まっている指標にもなるのですが、畳がこれだけ音を立てるのは、しかも、何かが歩いているように感じられる事が多いのは、あまり他に記憶がありません

嫌な感じや変な感じは全くないので、心配の必要はないのですが、
先日、一人でスダルシャン呼吸法をしていたら、またもや、みしみし、ピシピシ、そして最後の深呼吸の時に、ピシピシピシピシピシッと、前面ぐるっと音に取り囲まれて、一瞬、驚きました

それで、何かメッセージ性を感じたのですが、ふっと思ったのが、ご先祖様かな、という事でした

それは、ご先祖様が来た、という直接的な意味というより、先祖への供養と感謝をちゃんと行おうという気持ちを持つ事の大切さに気づく、という事でした

スピリチュアルな世界では、肉体としての先祖、血縁よりも、魂としての繋がりを重要視するため、私も今まではあまり先祖供養の必要性や重要性を感じて来ませんでした

「千の風になって」の歌のように、死後、魂がお墓にいる訳でもないですし、肉体的な先祖をずっと辿れば、それこそ世界人類皆兄弟ですから、自分の先祖、家系だけを供養することにあまり意味を感じていませんでした

でも、今回ふっと思ったのは、先祖を供養して感謝を捧げるという事は、たくさんの先祖達の「命」の思いが引き継がれ、積み上がって行ったからこそ、今の自分の肉体、存在があるという事を知る、という事なのではないか、と思ったのです

頭では、もちろん、先祖がいなければ今の自分はいないとずっとわかっていますが、一方どこか深いところでは、何か自分という存在がどこからともなく突然ぽっと生じたように感じていたのだと思います

物心つく頃から、親との本当に深い繋がりを感じられず、この世界そのものからも疎外感を感じていたのは、今でもはっきりと覚えています

その感覚ゆえに、深いところで、孤独感やこの世界に存在している不安定さを感じていたのだと思います

でも、累々と積み重なって来たご先祖様達の「命」の思いを受け取る時、何か自分がこの世にやっと根を降ろせたような感覚を持ちました

膨大な数の「命」が、自分を支えてくれているのですね

言い換えれば、膨大な数の「命」で自分ができているのです

独りだと思っていたけど、存在している時点ですでに独りではないのですね

この肉体は、私のものだと思っていたけれど、私だけのものではなくて、ご先祖様全員のものなのですね

そんな感覚を持つ事ができたのです

それは、悟りによって得られるワンネスとはまたちょっと違うニュアンスの感覚であり、むしろ肉体に対する感覚とも言えるでしょう

そして、素直に、「先祖供養をしよう」「お墓参りに行こう」と思えたのです

何か、今は私の肉体となり、私という存在になっているご先祖様にご挨拶するのは、まるで私の肉体の細胞1つひとつに「はじめまして🎵今までありがとう❤」と、挨拶をするようで、私の肉体との新しい出会いのような感じがします

ご先祖様に供養を捧げるという事は、他ならぬ自分自身に供養を捧げる事なのでしょう

命とは、本当に不思議なものですね

命は命から生まれ、ずっとつながっています

魂とはまた別に、ずっと連綿とつながっています

「あなた」という存在が今ここにいる、という事は、その命がずっと連綿と続いて来た、という事です

だからこそ、この命を生きなければならない、
そして、ただ生きる事だけが大切なのでしょう

先祖が王様であろうと、貧民であろうと、今の自分には何の関係もないですよね

神にとっては、私達が何になろうとどうでもいいのです

ただ、命を大切に、この命を愛して生きる事しか望んでいないのでしょう

自分を愛するという事は、この命を愛するという事です

肉体無しでは語れない、この命を、
全てひっくるめて愛するという事です

そんな事を気づかせてくれて、素直に先祖供養をし、この命を愛する気持ちをくれた、畳の音でした(*´ω`*)

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