2022年11月20日日曜日

「魂への聖なる道」第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」


悟りのための教え、覚醒のための教えである
「トータル・パス」の教えの概要について、
「魂への聖なる道」と題して、
youtubeの場をお借りして、
少しずつお伝えしていっているシリーズの、
第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」です

字幕をつける余裕がなかったので、
下に原稿を貼り付けておきます

第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」

さて、前回からまた数か月間が空いてしまいましたが、

夏の間、ちょっといろいろ忙しくて、何度も熱中症になりながら動き回っていたせいで、秋になってからその疲れがどっと出て、なかなか回復しないまま、今に至ってしまい、また、パートナーさんの原稿待ちという事もあって、間が空いてしまって申し訳ありませんでした

 

さて、前回のお話で5ステートの概要について話しましたが、今回はその詳細に入る前に、

パートナーさんからのリクエストによって、この世界や私たちの内側の世界について、共通理解を持ち、

真にこの教えがあなたにとって意味を持っていけるように、何回かに分けて、いくつか先にお話ししておこうと思います

一部、第一章でお話した内容とかぶるところもたくさんありますが、今回はパートナーさんからの視点というまた違った角度からのお話になりますので、より深い理解のために、お聞きいただければと思います

 

この5ステートの章に関しては、全てパートナーさんの原稿を元にお話ししますけれども、まあ、私も多少付け加えたりもしていますけれども、パートナーさんは完全なアウェアネスタイプで論理的、私はハートタイプで直感的と、全く真逆なので、いつもとはちょっと違う感じになるかもしれませんが、そんな違いもまた、お楽しみいただければと思います

 

今日は、私たちの内側そして外側がどうなっているかについてお話していくための、前段階として、

「理解」と「気づき」と「体験」について、少し、お話していきたいと思います

「体験」については、後で別の章でお話する予定だったので、少し章立ては変わってしまいますが、

ご了承ください

 

私たちがシェアする「トータル・パス」の教えを歩むためには、「理解」と「気づき」と「体験」の3つが必要になってきます。

「理解」と「気づき」と「体験」ですね

 

これら「理解」「気づき」「体験」がなければ、私たちが提供する教えは、ただの情報でしかありません

「トータル・パス」の教えを聞き、または読むだけでは、それは単にあなたの記憶域に蓄積された情報にしかなれず、昔読んだ本の内容や、昨日見たテレビや、旅行に行ったときの記憶と何も変わらない状態でしかありません

 

私たちの使う言葉に「生きた本」という言葉があります。

普通本を読むとその内容に魅了され、そこに感情移入し主人公になりきり、喜びや悲しみを主人公とともに体験し、そこに展開されるドラマを堪能します。

その時、擬似的ではありますが、あなたは何かを感じ、何かを体験しているのですね。

 

そして、精神世界、スピリチュアルな世界に特化した本のうちで、私たちが使う「生きた本」とは、

読者がそれを読むことで、精神的な進化、つまり私たちが言うところの悟りに向かうための、

擬似的な体験を与えてくれる本のことを言います

 

ですが、ここで考えてほしいのは、あなたが普通の本を読むとき、そこに描写される世界感を知らなかったら、あなたは疑似体験ができるでしょうか?ということです

 

もっと正確に言うなら、一般の本を読んで疑似体験ができるのは、そこに書かれていることを、大なり小なりすでに経験済みだからこそ、このすでに経験済みの自分自身の体験をベースに、本に書かれている内容を擬似的に体験することができるんですね

 

つまり、人に裏切られたと感じる体験があるから、あなたは本に書かれている、主人公が裏切られるシーンを想像し擬似的に体験することができるのです

 

本には良書と呼ばれるものが存在します。

良書にもいろいろな意味合いがありますが、私たちがシェアする教えを理解する上で良書と言えるのは、

今まで知らなかった感情や考え方に「気づかせてくれる」本なんですね

あなたはこういった体験があるはずです

本を読むことで、新たな角度の物の見方に気がついたり、新たな感情の発露を体験したり・・・

 

そう、この「体験」こそが、私たちがあなたにイニシエートしたいものなのです

 

新たな角度の物の見方に気がつく、それはつまり、本を読むことで「新たなものの見方」を体験できたということです 

その時あなたは「知識や情報ではなく」、その本から新たな、あなた自身を豊かにする「体験」をもらったのですね

 

知識は、単に情報の羅列で、言葉が並んでいるだけですが、もしあなたがそれらを通して「新たな体験」を得たのなら、それはあなたの血となり肉となって、あなたを一回り大きく豊かにします

 

ではここで、これら「体験」を得るために何が必要かというと、それは「理解」と「気づき」です

これにあなたの努力と「ピンとくる閃き」が起こった時、新たな体験を得ることができます

 

では、この「理解」と「気づき」と「体験」とは何か?ということについてお話していきたいのですが、

その前にこれら「理解」と「気づき」と「体験」を得るための前提条件についてお話しなければなりません

 

先程、『一般の本を読んで疑似体験ができるのは、そこに書かれていることを、大なり小なりすでに体験済みで、それらの体験がベースにあるからこそ、本に書かれている内容を擬似的に体験することができるのです』とお話しました

 

それを、もう少しこれから話す内容に則した表現にするなら「大なり小なり、そこに書かれている世界観を知っている」からこそ想像することでき、想像することができるからこそ、あなたは新たな体験、正確には疑似体験ですが、それを得ることが出来るのです

 

つまり、あなた方が「トータル・パス」の教えを生きた物とするために何が必要かというと、

まず、私たちの教えの世界観を知る事が必要で、その世界観の中で、その世界観に沿って、理解し、気づくことで、私たちが指し示す何かの体験を得ることが初めて可能になるということです

 

世の中には「生きた本」があります

そして、私たちの教えは「生きています」

生きているからこそ、あなたに新たな体験をもたらし、それによってあなたを覚醒へと導く事ができるのです

本来であれば、Retreatにきて、顔を突き合わせて、教えを受取り、共に座るのが望ましいです

なぜなら、その時あなたの目の前には、「生きた教え」があるからです

 

では、私たちが教えをシェアする時、あなたにまず知ってもらい、理解してもらう、「トータル・パス」の世界観とは、どのようなものなのか?

 

まず、それについてお話していきたいと思います

 

前回のお話と一部かぶるところもありますが、ご自身の理解を深めるためにも、それを内側に落とし込みながら聞いていただければと思います

 

第一章で、外的宇宙と内的宇宙についてお話したことがありますが、まず、その外側の宇宙、外側の世界に関して、お話していきますね

これは、本当の世界の姿がどうであるか、という事ではなく、私たち人間が「世界とはこういうもの」と一般的に認識しているものについてです

違う言葉で言えば、「見かけの世界」ですね

つまり、普通に人が見ている世界、ですね

世界の本当の姿については、一部で少し触れてはいますが、また別の機会で詳しくお話できたらと思います

 

人が「世界」と言う時に、通常指し示しているのは、この地球であり、日本であり、各自が通う会社や学校、家族といった集団などのことを言いますね

一般的にはこれらを無自覚に「世界」と表現していきますが、それを少し細かく見ていくと、そこには宇宙があり、星々があって、その星々の一つに私たちが生きている地球があって、そこには大気と陸と海があります

海には深さがあって、そこには魚や種々雑多な生物が存在していて、陸には山があり、そこには高低差が存在し、この高低差が川を生み出します

この陸や川にも種々雑多な生物が存在しています

そして、その種々雑多な生物の一つが人類であり、私たちです

 

人類は社会的な動物と言われていますが、それは、群れを作って暮らすことを指していて、その群れには、家族、学校、クラス、クラスの中の仲の良い友達、部活、あるいは会社、部、課などなど、

もちろん、趣味の群れもありますし、敵対する群れもあります

これとは別に、土地を基準にした群れもあり、日本、アメリカなど、国と言われる群れ、さらにヨーロッパ、EUなど、国がさらに群れたものもあります

民族という群れもあり、あるいは、東京、京都など細かく分けたもの、さらにその下の市区町村などの群れもあります

これとは別に、クリスチャン、仏教徒、ユダヤ教徒など、宗教による群れもあります

またもっとも原始的な切り分けで言うと、男と女という群れもあります

 

このように、人は必ずなにがしかの群れに無意識に属していて、その群れの規律にも無意識に従っています

 

さて、このように、人々は多様な群れに属して、その群れの中で、そこの規律に従って暮らすことで、自分の居場所を確保しています

 

例えば、あなたが海外に行き、日本人として理不尽な対応を受けた時に、自分で解決できない場合、その国の日本大使館が同族であるあなたを守り、保護します

日本人という群れがあなたを守るのです

でも、あなたは同時に日本人としての規律を持ち、その行動や行い、人との接し方など、日本人としての規律を実行することが求められます

あなたがこの日本人としての規律を遵守できない場合、あなたは同族の日本人によって罰せられ、場合によってはその身柄を海外に引き渡されてしまう事すらあります

 

このように、群れとはあなたの居場所であり、あなたを守るものであると同時に、その群れの規律を守ることを求められ、これを違えた時、あなたは群れによって罰せられます

 

この群れは、先ほどあげたように、無数に存在し、それぞれ群れ独自の規律を持ちます

日本の法律、アメリカの法律、インドの法律・・・

土地ごとの生活習慣、例えば東京の通勤電車の乗り方、満員時のマナー、地方の隣近所との付き合い方、あるいは小学校のクラスのルール、あるいは仏教徒の生活のルールなどなど、似通ったものも無数にありますが、それでもなお、群れ独自のルールが厳然と存在しています

 

この、群れと独自の規律、これらがあるがために、諍いや争いが起こるのです

 

それは、群れの最小単位である個人も同じです

私には私の規律があって、父には父の規律が、母には母の、弟には弟の、という具合に、各自が独自の規律を持つが故、最小単位の人同士でも諍いや争いが絶えません

 

この規律は、後でもお話しますが、「正義」という言葉にも置き換えられます

自分が正しい、相手が間違っている、と、人は常に判断し続けています

 

同じように、私と兄、あるいは私の群れと兄の群れを比較して、そこに貧富の差が認められたり、何らかの不公平感が感じられた時、そこにも諍いと争いが起こります

 

そこには、「マウントを取る」とよく言われるように、いつでも上下関係が見え隠れしていて、人は常に優位に立とうとします

自分が上で、相手は下

優越感や劣等感、あるいはプライドを死守したり誇示したり

人は、自己のアイデンティティが脅かされるのを、ひどく怖れていて、それを守るために争います

 

まず、これがひとつ

 

それとは別の角度から、人「そのもの」についても考えてみましょう

人とはいったいどういう生き物なのか・・・

 

人は「原罪」を負っているとキリスト教では言われています

私たちもまた、キリスト教徒は異なる意味で、人は「原罪」を負っていると理解しています

 

というのも、人は生まれて以降、生きるために、食べます

自分以外の命、植物を、動物を、魚を・・・

私たちは命を維持するために、肉体を維持するために、自分が生きるために、「自分以外の他者の生きる権利を奪い、それを体内に入れること」をしています

つまり、「他者の生」を奪うことで、生きながらえているのです

 

これを、私たちは「人が背負っている原罪」のひとつと考えています

 

そして、これらのことが起こっている、まさにこの世界のことを、私たちは「物質世界」と呼んでいます

一番外側の一番粗い層の世界です

 

この世界は、なぜ、このようになっているのでしょう?

なぜ、神がこのような原理でこの世界を創られたのかを、私たちは預かり知ることはできません

でも、この世界のそういった原則については、体験に基づいて、理解することができます

 

私たちは、こういう生命システムの世界に存在していることを、まず、よく理解しておいてください

 

そういったシステムで構築された世界であるからこそ、仏陀は「諸行無常」であり、「一切皆苦」と説いた訳で、これをよく理解しておくことが、道を歩む上で非常に大切になってきます

 

この「諸行無常」と「一切皆苦」についてお話していきたいと思いますが、その前に、なぜ、この「諸行無常」と「一切皆苦」がこの世界で存在できるのかをお話しておこうと思います

 

それは、ある意味、ここに地球が存在できることの説明でもあるのですが、

実は、「空間」「時間」「物質」、この3つが全ての始まりとなります

 

正確に言うなら、これらを存在せしめる「大いなる者」の意思があるからこそ、これらが動き始める訳なんですね

 

つまり、最初に「最愛なるもの」の意思があった

それは、「思い」と言う事もできます

 

最初に、神の思い、つまり、意思があった

その後、空間が生まれ、時が流れ出し、物質が顕現しました

 

空間がなければ、時間は流れることができず、物質も存在することができません

空間ができると、時間が流れ始めます

 

時間が流れなければ、物質は顕現できません

時間が流れない時、時間は固まったままなので、そこは凍結した動きのない世界になってしまい、

物質が現れることができません

 

よって、空間ができ、時間が流れ始めた後、物質が現れます

 

これが、私たちが存在する宇宙の成り立ちです

 

ここで、「時間」について少し考察していきましょう

 

時間とは何か?

皆さんは何を思い浮かべますか?

時計でしょうか?

1時だったり、6時だったりと、時計の針が進みます

朝日が昇って、もう一度昇るまでを一日と定め、これを24に分割し、24時間の一日ができました

そして、太陽の周期を観測し、一年を決めました

でも、実は、これは時間ではありません

人が、太陽の周期を観測して、それに基づいて決めた単位のことです

そう、単位です

単位は時間ではありません

 

時間とは何でしょう?

 

実は、時間とは、「常に変化し続ける状態」を指し示す言葉なんですね

「常に変化し続ける様」のことを、「時間」と呼びます

 

この、「変化し続ける様」の事を「諸行無常」と言ったのですが、変化し続けることが「諸行無常」ではないんですね

世の中を「諸行無常」たらしめるものは何か、それが、「移ろいゆく時」、つまり、「留まることなく、常に変化し続ける」ことこそが、世の中を「諸行無常」たらしめている、と言っているんです

 

ちなみに、Wikipediaでは、「諸行無常は、仏教用語で、この世の現実存在は全て、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことを言う。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象を指し、「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。」とあります

 

では、ブッダはなぜこの諸行無常を教えの前面に出したのでしょう

今日の仏教を語る上で最も大切な言葉の一つとも言われる、この「諸行無常」

「この世に起こる事一切は、常に変化し、不変なるものはない」ということの、一体何が問題なのでしょう?

 

もし、この世に「不変なるもの」があったら、それが存在したなら、この世界はどうなるでしょう?

古き過去から、永遠の未来まで変わることのないものが存在したなら、それは古き過去から、永遠の未来にわたって、唯一絶対の指針となるでしょう

 

そう、今私たちが住むこの世界には、未来にわたって変わることのない決まりや指針が存在しない、ということなんです

 

例えば、少し極端な例ですが、「人を殺すことは悪いことでしょうか?良いことでしょうか?」

約200年前の江戸時代、武士の敵討ちは「汚名をそそぐ」行為ですし、例えば親の仇を打つことは立派で称えられる行為でしたから、当時の幕府の対応は別にしても、庶民は拍手喝采です

ヨーロッパの貴族では、手袋をぶつけて殺し合いをしました

ローマ時代、剣闘という名の殺し合いがショーとして開催され、とても好評だったと言います

それでは、戦争ではどうでしょう・・・?

 

でも、現代の日本では、人を殺すことは大罪となっています

同じ行為でも、時代や場所、その時の背景や環境によって、意味合いや評価が異なってきます

 

なぜ、そのようなことが起こるのか

それは、「過去から未来にわたって変わることのない教え」が存在しないからなんですね

もし、このようなものが存在したなら、そこに「人殺しは大罪である」と書かれていたなら、

過去から未来にわたって、どこであろうと永遠に人殺しは大罪なのです

 

では、この永遠不滅、変わることのないものが存在しないために、この世が諸行無常で全てが移ろっていってしまうことの、一体何が問題なのでしょうか?

 

それは、「過去から未来にわたって変わることのない教え」が存在せず、人がすがりつく永遠不滅の決まりが存在しない、ということなのです

そのために、その時、その人によって、各個人の正義が変わってしまうのです

また、不変の教えがないため、私とあなたの正義も異なってしまうのです

 

十人十色とは、良く言ったもので、十人いれば、十人分の考え方があり、正義があり、それは十色というように、皆異なっているのですね

 

私たち個々人の正義は異なります

そして、あなたの正義は、一生同じですか?

この世界では、あなた自身が移ろうのですから、あなたの正義も移ろいます

どんどん、変わっていきます

 

あなたと私の正義が異なるから、誰一人として同じ正義を持つものはいないから、人と人は争います

各々の正義が違うのですから、自分の正義を貫こうと、それを押し付けようと、争いが起こります

 

「個人」が一番小さな単位です

兄弟、家族、民族、学校、クラス、会社、宗教、男、女、全ての群れも、それぞれ異なる正義を持ちます

兄と弟で、A社とB社で、キリスト教と仏教で、臨済宗と曹洞宗で、日本と他国で、皆、異なる正義を持っています

異なる正義を持つがゆえ、争いが起こります

 

人々が、このことをちゃんと理解していたなら、もう少し、世界は穏やかだったかもしれません

でも、人々は、「自分の正義こそ絶対」と、誰もが思っています

 

私たちが住むこの世界には、不変のものが存在しないため、各々が別々の正義を掲げ、自分の正義を受け入れない相手と争う場となってしまっています

これが、「諸行無常」の指し示すものです

 

なんとなく、おわかりいただけましたでしょうか?

 

そして、「一切皆苦」

これは、一切のもの全てが苦しみである、ということです

 

私たち人間は、社会性の動物です

つまり、他者と触れ合いながら生きていく種であるということです

朝起きてから寝るまで、通勤通学の周りの人も含めると、一体何人と触れ合っているのでしょう

その各々が、皆異なる正義を持っているのです

 

あなたと誰かの間に何か起これば、人は自分の正義を振りかざして戦闘に入るのです

良かれと思ってやったことでも、相手の正義に叶わなければ争いになります

 

どうでしょう?

そんな武器を持ち出すような大げさな戦闘ではなくても、小さな諍いやすれ違い、不平不満は日常茶飯事ではないでしょうか?

ネガティブな言葉という武器や、批判的で攻撃的なオーラやエネルギーは、誰しもが日常的に無意識に発しているのではないでしょうか

 

また、先に言いましたが、私たちは他の生命を殺し摂取しなければ、体を維持できない種族なのです

常に、何かの犠牲、何かの苦の上に、私たちの命は成り立っています

そんなこと、弱肉強食なんて当たり前のこととして、誰しもが知っていますよね

誰しもが頭ではよくわかっています

でも、これを本当によく見たことがあるでしょうか?

そして、これを本当に自覚できた時、あなたは何の苦しみも感じないでいられるでしょうか?

 

このシステムに本当に自覚的になった時、私も本当に大きなショックを受けました

 

これらを称して「一切皆苦」と言います

 

これが、私たちが存在している世界なんですね

 

そして、この世界のことを「物質世界」とか「外側の世界」と言います

 

「物質世界」とか「外側の世界」というものが存在するということは、それに対する「エネルギーの世界」「内側の世界」が存在します

 

これらの世界は、まだ「内側の暗闇を見ている自分」を体験的に理解できていない方は、正確にこれらを理解することはできないと思いますが、まずは、情報として、知識として頭の中に蓄えておいてください

 

「理解」と「気づき」と「体験」の「理解」を得るためには、この情報がなければ到達できません

 

もし、あなたが車を全く知らなかったら、スピードを出すことの危険性について話しても正確な理解に向かうことはできないでしょう

もし、あなたが「人と車が写っている写真」を見たことがあったら、その大きさから、車の危険性を少し理解できるでしょう

もし、運転したことがなくても、車を実際に見たことがあり触れたら硬いことを知っていたなら、スピードを出しすぎることの危険性をより理解できるでしょう

理解するためには、知識が不可欠です 

そして気づきと体験も、しかりです

 

「理解」と「気づき」と「体験」につては、また後日お話します

 

次回は、理解のもととなる「私たちの世界観」という情報の続きになります

 

今日、外側の世界、物質世界についてお話したので、次回、「内側の世界」についてお話していきたいと思います

 


2022年8月14日日曜日

「魂への聖なる道」Ⅷ「5ステート」第1話


「魂への聖なる道」第8章「5ステート」第1話です

魂の5つの状態、もしくは段階についてお話しています

8

「魂の5ステート」

 

第1話

前回の第7章で、意識(アウェアネス)、ハート、ビーイングという魂の3つの質についてお話してきました

 

パーソナリティという表層の存在としてだけ生きているところから、最奥の魂が目覚め、まさにその魂として、私たちが生きていけるようになるために、この「トータル・パス」の教えでは、基本的にはその3つの質を目覚めさせていくための瞑想やワークをしていくことになります

 

つまり、その3つの側面から入っていって統合させていく、ということが、基礎になります

 

ですが、「トータル・パス」の教えでは、魂をもうひとつの切り口から捉え、それを通してワークしていくことも行っています

それが、「5ステート(五つの状態)」です

 

以前の動画、「教えの全体像」や前回の中では、「五身体」という言葉を使っていましたが、「五身体」という言葉を使うと、一般的な「五身体」と思って混乱してしまったり、「身体」という言葉を使うと、その「身体」を探そうとしてしまったりする危険性があるため、いろいろ検討した結果、「ステート」という言葉を使うことにしました

ステートとは、状態のことです

一般的な無意識の状態から、純粋な魂の状態に至るまで、5つの状態があります

これは、段階と言うこともできます

 

魂の3つの質で、それぞれには層がある、という事も少しお話しましたけれども、この「5ステート」というのは、その「層」という切り口から魂を捉えている、あるいは振動数という切り口から魂を捉えている、と言ってもいいかもしれません

 

これは、私たち自身がワークしてきた過程や、私たちが生徒さんに教えてきた過程において、宇宙から主にパートナーさんに開示されてきた教えであり、従って、そのリードも、主にパートナーさんの方が行っています

 

というのも、実際に道に入り、瞑想をし、ワークをしていく中で、アウェアネスが目覚め、徐々にハートが開き、徐々にビーイングも深まっていきます

そうして、瞑想している時は非常にいい状態で、ある程度純粋な魂が現れている状態になっていきます

でも、そうであるにも関わらず、日常に戻れば、やっぱり苦しみがある

道に入る前に比べれば、はるかに楽だし、ベースにはいつも至福があるのもわかるようになっていきます

 

でも、日常生活に戻れば、やっぱり自分の思考に苦しんでいるのがわかるんですね

自分の感情に揺さぶられ、痛みに押しつぶされそうになる

苦しみが、完全には消えないんです

 

ある程度、魂が目覚め始めても、思考や感情の引力というのはとても強くて、どうしてもそれに引っ張られてしまうんですね

 

というのも、魂が目覚めても、まだ完全にそれにシフトしていずに、魂とパーソナリティとをいったりきたりしている状態だからなんです

 

魂を完全に見失うことはもはやありませんが、「我」というものを完全に超え、誰それという個人としてのアイデンティティが落ちない限り、つまり、パーソナリティとしてのセンターも完全に魂にシフトしない限り、思考や感情というパーソナリティの側に容易に引き込まれ、相変わらず苦しみが続くわけなんですね

 

なので、魂に完全にシフトするために、私たちはどうしても、自分の思考や感情、マインドそのものにワークしていかないとならなくなる訳です

 

私たちも、最初はひとつひとつの思考や感情にワークし、ひとつひとつの元になっているものを取り除いていくという作業をしてきました

もちろん、それは、ある程度必須ではあります

あまりにそれらが重くて、あまりにそれらの力が強いと、魂自体の目覚めが促されないからなんですね

でも、それをいくらやっても、やるほどに楽にはなっていき、魂も目覚め始めていきますが、思考や感情自体を完全に超えることができないんですね

その元になっている、プログラムを超えることができない

ある段階に来ると、行き詰ってしまう

何か、薄い一枚のベールが脱げないでいるような状態です

 

また、生徒さん達も、日常の中で一つ一つの思考や感情にワークし、それを自力で掘り下げてその大元にたどり着く、という事が実際にはなかなか難しくてできない

そういう事が続き、どうしたら瞑想中だけではなく、日常においてもいい状態にもっていけるのか、パートナーさんの探究が始まった訳です

 

そして開示されてきたのが、「5ステート」なんですね

 

3つの質をベースとして魂が現れても、完全にそこにシフトするためには、5ステートのワークが必須になってきます

 

それでは、「5ステート」について、お話していきたいと思います

 

私たちという存在には、肉体、思考体、感情体、知性体、マナ体、という5つの層、段階があります

 

まず、肉体以外は、全てエネルギー体です

 

躰を物質として感じた時に体感するのが「肉体」です

通常、一般的な人が躰と思っているものですね

 

そして、躰をエネルギーとして感じた時に体感するのが「エネルギー体」です

 

エネルギー体は1つしかなく、人がエネルギーとして知覚、つまり感じることができる躰は、常にエネルギー体1つのみです

 

よく、エーテル体とかアストラル体とかメンタル体とかいうと、あたかもそれぞれ別々のエネルギー体があるように思ってしまいますが、エネルギー体はあくまでも一つです

つまり、私たちの言う思考体、感情体、知性体、マナ体というのも、あくまでも一つのエネルギー体です

 

このエネルギー体の状態には段階があって、次のようになります

 

その前に、ひとつよく理解しておいていただきたいことがあるのですけれども、それは、目覚める前の私たちの状態っていうのは、どういう状態なのか、という事ですね

 

目覚める前の平均的な人の状態っていうのは、意識のエリア、頭の中に「自分が存在せず」「思考以外に留まる場所がない」ため、無条件に思考に巻き込まれています

ぐるぐるぐるぐる、常に頭の中に無意識に思考が沸き起こり続けていて、その思考に乗っ取られている

 

あるいは、常に頭の中で無意識におしゃべりしている

 

そして、思考に伴って、感情が常に揺れ動いています

あるいは、ネガティブな感情を感じると、思考もそれに伴ってネガティブな思考が沸き起こります

そのように、常に思考と感情がお互いに影響し合いながら、ごちゃまぜに体の中を駆け巡っていて、人は無意識にそれらに巻き込まれています

 

ほんのひと時、フラットで思考も感情もない静かな状態が訪れるかもしれませんが、梅雨の合間の日差しのように、瞬く間にまた厚い雲に覆われ、あっという間にまた思考と感情の織り成すドラマに引き戻されてしまいます

 

自分自身をよく観察すればすぐにわかることですが、

まず、これをよく理解しておいてください

 

そして、実は、それ自体が、その思考と感情の織り成すドラマに巻き込まれているその状態こそが、苦しみなんですね

 

ここでもうひとつよく理解しておいていただきたいのは、思考そのもの、感情そのものは、たとえそれがポジティブなものであろうとネガティブなものであろうと、それ自体は良くも悪くもない、ということです

ネガティブなものもポジティブなものも、単にひとつの同じエネルギーの両極に過ぎませんし、それらは人間の持つ機能の一つに過ぎません

そして、それらこそ、私たちに与えられた素晴らしいツールなんですね

それは、両極であるここを体験するためのツールでもあり、それを使ってここを脱して神性へと帰るためのツールでもあるんですね

何かを理解するために、あるいは何かの問題を解決するために、意識的に思考することはとても重要です

知的理解がなければ、悟りもあいまいなものになってしまいますし、それを誰かに伝えることもできません

感情がなければ、生きることは何の豊かさも味わいももたらしてくれません

魂や神性の質を感情レベルで体感することもできません

なので、それらは実は私たちがここで豊かに生きていくために神が与えてくれた素敵なギフトなんですね

でも、真の自分自身がいないために、それらに無意識に巻き込まれ、それらに主導権を完全に譲り、それらの暴走を許し、それらに支配され続けることは、いうまでもなく大きな大きな問題です

それは、正気の沙汰とは言えないんですね

 

そう、思考や感情そのものが悪いのではなく、それらに無意識に巻き込まれ続けていることが問題であって、それこそが苦しみの原因なんですね

 

そして、自分がその中で苦しんでいるということ、それが自覚できている人は、実はそこを脱する出口の扉にすでに手をかけている、ということです

ほとんどの人は、自分が苦しんでることにすら、無意識的でしょう

苦しいとは思っていても、それは、ネガティブな思考や感情のせいだと思い、そのネガティブな思考や感情は全て、外側の環境や状況が原因だと思っている

あいつが悪い、こいつのせいだ、お金がないから、何がないから、何々ができないから、こんなとこに生まれたから、こんな性格だから・・・って具合にね

 

でも、本当は、外側の環境や状況が原因なのではなくて、また、おのおのの思考や感情が原因なのでもなくて、無意識的に思考と感情に巻き込まれ続け、そこから脱する手筈を持たないだけではなく、巻き込まれ続けていることにすら無自覚である、ということが原因なんですね

 

それをよく理解して、念頭においておいてください

というのも、それが理解できていなければ、この「5ステート」のワークの意味がちゃんと理解できないからなんですね

 

では、それを踏まえた上で、エネルギー体の段階についてお話していきますね

 

1のステートというのは、今お話しした、まだ肉体の次元にいる一般的な人の状態で、まだ、いかなる段階であろうと、エネルギー体の認識を持っていない状態です

 

第2のステートは、エネルギーでできた思考体です

 

思考体という表現がいいかどうか、今まだ検討中ではあるのですが、このエネルギー体は、無自覚、無意識的に思考に巻き込まれているけれども、この「思考に巻き込まれる」という事にワークできる状態です

つまり、思考とある程度の距離が持てる、そして、思考に無意識に巻き込まれることを超える、ということにワークする状態です

 

第3のステートは、エネルギーでできた感情体です。このエネルギー体は、無自覚、無意識的に感情に巻き込まれているけれども、この「感情に巻き込まれる」という事にワークできる状態です

つまり、感情とある程度距離を持てる、そして、感情に無意識に巻き込まれることを超える、という事にワークする状態です

 

第4のステートは、エネルギーでできた知性体です。

このエネルギー体は、比較、判断に無自覚、無意識的に巻き込まれている状態で、この「比較、判断に巻き込まれる」という事にワークできる状態です

つまり、思考や感情の元である比較や判断と、ある程度距離を持てる、そして、「比較や判断」に無意識に巻き込まれることを超える、ということにワークする状態です

 

第5のステートは、エネルギーでできたマナ体です。

マナ体は、あらゆるものに巻き込まれることから離脱し、純粋に「今」にとどまっている状態です

つまり、純粋な魂にいる段階で、「純粋な私」を除く、全ての自己同一化から解放された状態です

同時に、完全にそこへのシフトが起こった状態でもあります

ここに至るまでは、純粋な魂と、「自己イメージプログラム」の間を行ったり来たりしています

「自己イメージプログラム」については、また別途詳しくお話していきます

 

私たちは、この段階を第1ステートから第5まで、ひとつずつクリアしながら上がっていきます

この順番を変えたり、スキップすることはできません

 

各ステート、各段階の詳細については、第2話以降でお話していきますが、その前にひとつ、もう一度繰り返しておきますが、私たちがエネルギー体と言う場合、前述した第2の思考体からマナ体に至るまで全て含んだ躰の事を言います

つまり、肉体以外、全て一つのエネルギー体だということです

私たちという存在は、エネルギー体に他ならないんですね

 

エネルギー体というのは、目に見える肉体という物質に対して、目に見えないエネルギー的な存在のことを言いますが、ただ、物質もある特定の振動数のエネルギーであることに変わりはないので、厳密に言えば、肉体も含めて全てエネルギー体ということになります

 

ですが、通常、私たちがエネルギー体と言う場合、思考体からマナ体、そしてさらに神性とひとつの状態に至るまでの事を言います

つまり5ステートをとおしてマナ体に至った後、さらなる本当に秘密の最後の偉大なジャンプがあります。

この物質世界と私を通して行きつけるのがマナ体であり、これをアートマンといいます。この物質世界と、そこに存在する「私」を超えた時、ブラフマン、つまり真の神性へと至ります。

 

さて、「トータル・パス」の教えの道を歩む上で、実際のワークは最初にお話ししたように、魂の3つの質をベースとして進んでいきますが、生徒さんによって、あるいはその段階によって、この「5ステート」という切り口から攻めていく場合が多いです

 

というより、この「5ステート」のワークが必須になります

 

もちろん、アウェアネス、つまり、意識のエリアの主体を目覚めさせることは、どのタイプにとっても非常に重要ですし、それ無しではいつまでたっても感情や思考に巻き込まれ続けて、結局道に迷ってしまうため、私たちの教えでは、いかなる場合も、まずこれを目覚めさせていきます

 

これが目覚めて初めて、真のスピリチュアルな道のスタートラインに立ちます

 

「5ステート」という道筋を通る場合でも、まず頭のエリアの「自分自身」が目覚めて初めて、それ以降のステートにワークができるようになる訳です

 

頭のエリアの「自分自身」が目覚めていず、この段階における思考の元となる「自己イメージプログラム」と自己同一している限り、「自己イメージプログラム」とそこから派生する思考に巻き込まれ、「自己イメージプログラム」に支配され続けてしまいます

 

そんな状態で、思考体を超えていくことはできないんですね

 

なので、私たちはまず、意識のエリア、頭の中の「自分自身」を目覚めさせていきます

 

そして同時に、自分の思考や感情に意識的になること、これがとても重要になっていきます

 

頭の中の「自分自身」が目覚めた時、私たちは自然にそれらに意識的になります

でも、そうなる前は、どうしても意識的になるという努力が必要です

でなければ、私たちはただ白昼夢の中でさまよい続けてしまうだけだからです

それが、無明という状態です

 

また、無意識に思考や感情に巻き込まれているということは、自分の中のゴミをだだもれに辺りに巻き散らかしているのと同じです

自分の思考や感情に責任を持つことすらできないどころか、実は周りに責任持ってくれ~、お前が何とかしてくれ~と、他者に押し付けている状態です

 

いつまでもそうではなくて、自分のゴミは、自分で処理できるようになるといいですよね

 

さて、今日は5ステートについてざっとお話してきましたが、では、実際にどのようにそれらのワークをしていくのか、など、詳細については、また別の機会でお話したいと思います

 

ここでひとつ皆さんにお話ししておきたいのですが、この5ステートという教えは、まさに進化し続けている教えであって、今後微妙に変化していく可能性があります

というのも、この教えの開示を受けているパートナーさん自身が第4のステートにいて、そのワークをしている最中であり、ここを超えて、完全にマナ体にシフトして、完全にそこまでの全体像をとらえた時に、新たな開示が降りてきて、様々な変化が生じるかもしれないからです

また、どういった用語を使うのが最もふさわしいかも、その時期、その時期で変わっていくと思います

 

教えは、ある意味、生き物です

時代にそぐわない、死んで固定化した教えは、そこに真実はあるものの、形骸化し、ドグマとなり、本当の進化をあまりもたらしてはくれません

なので、この5ステートの教えも、ある意味、この時代に降りてきた、今まさに進化しつつある教えであることをご了解ください

 

魂が目覚めても、この「自己イメージプログラム」は続き、第4のステートを超えて、そこから完全に脱しない限り、魂とその「自己イメージプログラム」を行ったり来たりして、魂に完全にシフトすることはありません

魂の目覚めを教える教えは数多くあると思いますが、目覚めた後、なおもその真の解脱を目指して道は続くということについて言及している教えは他にあまりないのではと思います

 

では、今日のお話はこれくらいにして、今日はまず、肉体とエネルギー体って、実際に皆さんがどう感じているかっていうことについて、少し、探究していきたいと思います

 

まずね、肉体ですね、実はこれは対面でのワークの中でやっていきたいことなんですが、

まずね、皆さん普通にこの身体っていうのを感じてみてください

肉体、見て、ま、普段感じているものですね

 

で、これは本当にすごく微妙なことです

 

では、眼を閉じて

 

そして、まず、自分の右手の親指を感じてみてください

 

これをやった時に、何人かの方っていうのは、ここ、思考で、右手の親指をここでイメージして、これを感じようとするんですね

 

イメージしてしまう、親指を

 

で、イメージすること自体はいいんですけれど、イメージするっていうよりは、

実際に肉体の右手の親指を感じてみてください

 

そうするとなんか、人によっては右手の親指がびりびりしたような感じがしたり、

なんか、ほわーっと温かくなったような感じがしたり、いろんな風に感じると思います

 

そして、その右手の親指をずーっと感じ続けていくと、そこに実際にエネルギー体があるのがわかるようになっていきます

 

右手の親指を感じられたら、それでは次に、右手全体を感じてみましょう

 

右手全体を感じられたら、右腕全体を感じていきます

 

そうしたら今度は同じように、左腕全体を感じていきましょう

 

では、ここでちょっと一旦、眼を開けてください

 

ちょっと、手を振って

 

で、まずね、何か目の前にあるもの、なんでもいいです

 

それを、いつものように、ただ、取ってください

 

取りますね

 

その感覚をよく覚えておいてください

 

次にもう一度、眼を閉じて

 

先ほどと同じように、右腕全体を感じてみてください

 

その右腕のエネルギー体を感じられたら、そのエネルギー体の感覚を失わないように、

ゆっくりと目を開けて

 

右腕のエネルギー体の感覚を残したまま、

そして、そのエネルギー体の腕が、さっきと同じものを取ってみてください

 

なんとなく・・・さっきね、ぱっと物質的に取った時と、

エネルギー体で取った時と、なんとなーくでいいです、なんとなーく、感じが違うのがわかりますでしょうか

 

こういった感じで、自分の中のエネルギー体っていうのを、徐々に感じていけるようにします

 

では、もう一度眼を閉じて

 

もう一度右腕全体を感じて

 

左腕全体も感じて

 

では、今度は胴体も感じて

 

胴体を感じられたら、右足のエネルギー体を感じて

 

右脚を感じられたら、左脚も感じて

 

左脚を感じられたら、頭も感じて

 

頭も感じられたら、今度は、あなたの全体を感じます

 

それが、あなたのエネルギー体です

 

人によっては、これを感じるのが難しい人もいるかもしれません

 

でも、おそらく、これを感じること自体はそう難しくないと思います

 

問題は、そこにとどまり続けられるかどうか、です

 

あなたがこのエネルギー体にとどまる時、あなたはあなたの内側にとどまります

 

まだ最初は、留まることは難しいと思います

 

もし、瞑想中に留まることが難しい場合、まだ、あなたの中にビーイングの質が耕されていないことが多いです

 

あなたが緊張状態にあると、あなたの身体全体を感じることが難しくなります

 

なので、下腹への深い呼吸を続けて、リラックスした状態で、ソフトに身体全体を感じていきます

 

そして、身体全体のエネルギー体を感じられたら、穏やかに、それとともに、ただ、いる

 

中には、あなたの中のエネルギーが回りだすのを感じる人がいるかもしれません

それは、とてもいい兆候です

 

あなたは、あなた自身のエネルギー体とつながり、

あなた自身のエネルギー体によって、満たされていきます

 

お鈴

 

ありがとうございました

 

今日もまた、皆さんとこの場を共有できたことに感謝をして

 

では、次回、「5ステート」の詳細についてお話できればいいのですが、ちょっと言語化するのにもしかするとパートナーさんね、時間がかかってしまうかもしれませんので、

もしかすると次回は次の章に移っていくかもしれません

ちょっとそこね、その時の状況によって変わっていきますので、ちょっとその点、ご了承ください

 

では、また


2022年5月16日月曜日

「魂への聖なる道」Ⅶ「魂の3つの質」第4話~ビーイング~


悟りのための教え、覚醒のための教えである「トータル・パス」の教えの概要について、
「魂への聖なる道」と題して、
youtubeの場をお借りして、
少しずつお伝えしていっているシリーズの、
第7章「魂の3つの質」の第4話、ビーイングについて話しています

第4話 ビーイング


ビーイングっていうのは、「在る」という質、つまり、私達が「存在する」という側面であって、私達存在の「場」でもあります

 

ビーイングについて簡単に例えれば、それはピラミッド型の高層ビルのエレベーターのようなものだとも言えるでしょう

高層ビルの最上階がマインドの次元だと思ってください

最も浅い次元ですね

そして、そのビルが建っている大地が、その建っている大地ですね、

それが『神性』の領域で、最も深い次元です

それが、全ての『源泉』です

その高層ビルを、エレベーターで下に降りれば降りるほど、広がっていきます

 

つまり、ビーイングとは、『源泉』に向かって、『源泉』の引力に引っ張られて、下へ下へと落ちていく、という事なんですね

 

そのビーイングの質っていうのは、静けさ、穏やかさ、あるいは沈黙であり、その究極である『源泉』は、時間の無い、永遠の不変不動の領域です

何も動かず、何も変わらない、完全な沈黙の領域です

だからこそ、静かであり、穏やかなんですね

 

その究極の静けさ、その絶対的な静寂の中で、私達は、初めて完全に安らぎ、安堵することができます

 

少しでも変化するということは、完全な安堵にはなりえません

 

私達は、その究極の状態、『神性』のビーイングの次元、つまり『源泉』に入った状態の事を、「絶対状態」と呼んでいます

いわゆる、釈迦が「空」と表した次元、その状態ですね

 

その「絶対状態」の中で、初めて人は、完全な安堵とはどういうことかを知ります

完全な休息とはどういうことか、初めて知ることができるんですね

 

その中で初めて人は、完全に平安であることができます

 

「世界に平和を!」とね、いくら唱えても、平和は実は訪れません

というのも、私達の内側に、この完全な平安が訪れない限り、この世界でそれを実現することは、実はできないんですね

 

なので、本当に世界の平安を願うんでしたら、まず、自分自身の内側に、この絶対的な平安を招き入れなくてはなりません

 

この、絶対的な平安の状態に入っていくためには、瞑想以外に方法は無いと思います

なぜなら、この状態に到達するためには、後で詳しくお話ししますけれども、私達存在の外側も内側も、動きを止めないとならないからなんですね

もちろん、内臓や呼吸の動きは最低限ありますけれども、身体やマインドの動きを一切、止めていく必要があります

肉体がこう動いていたり、肉体は静止していても、マインドが活発に動いていれば、私達は否応なく、その動きにフックされてしまって、マインドの次元を超えて行くことができないからなんです

なので、瞑想によって、肉体も不動にして、マインドの動きも極力静止させて、ビーイングそのものの重力によって、最も深い次元へと落ちていく事が必要なんですね

 

また、よく「今」という言葉がスピリチュアル界では使われています

この「今」っていうのは、過去と未来の間の現在の事ではありません

本当の「今」の意味っていうのは、時間のないところ、という意味なのですね

時間を超えたところです

つまり、この『神性』のビーイングの領域である『源泉』そのものにいる事を指しています

『源泉』の中にいるという事は、永遠の「今」の中にいる、という事です

永遠に「今」なんです

「今」しかない

 

なので、よく皆さん間違えているのですけれども、「今」にいる、というのは、この時間軸の中で、「今のこの瞬間!」「この瞬間!」とやっているのとは、全く違うことなんですね

「この瞬間」と思った瞬間、それはもう過去のものになってしまうんです

 

そうではなくて、この時間の次元をはるかに超えて、『神性』の領域である『源泉』の時間のない次元にとどまる、ということなのですね

 

つまり、「今」にいるというのは、「絶対状態」にいる、という事なんです

「絶対状態」に到達し、それをスタビライズさせること、安定化させること、なのですね

一時的に、アクシデンタルに「絶対状態」に入ることは比較的容易に起こる事ですけれども、それを安定化させるためには、やはりかなりの瞑想の修練がいります

 

この何の動きもない『神性』の領域に入るためには、無意識的な肉体の働き、つまり、心臓ですとか、臓器の働き、あるいは呼吸、その他、私達が普段、自分の意志ではなくて、肉体そのものの叡智によって、あるいは何らかの働きによって、命を存続させるために稼働している肉体の働き以外は、全ての動きを止める必要があります

 

ちょっと自分自身を観察してみてください

いかに普段、自分が忙しく何かをやり続けているか、わかると思います

身体を動かしていなくても、別にぼーっと座っていても、頭の中であれこれあれこれ考え続けていたり、心であれこれあれこれ感じていたり、あるいは、常に「何かやろう」「何かやろう」としています

それを、私達の言葉で、「doingといいますけれども、人は何かをずーっとやり続けているのですね

 

あるいは、「何かになろう、なろう」とし続けています

becoming」ですね

この、「doing」でも「becoming」でもなく、ただの「Being」でなければならないんです

 

ただ、ある、ただ存在している、その状態ですね

絶対的な静寂の中で、ただ存在している

 

それで、ビーイングと言います

 

いかなる「doing」にも、いかなる「becoming」にも、そこには、ある種の落ち着きの無さ、せわしさや騒がしさの質があります

 

この、「ただある」状態になるためには、姿勢を不動に保ち、あらゆる内側の動きを手放していくことが必要です

ですが、意識はクリアにある必要があります

「絶対状態」っていうのは、夢も見ていない熟睡と非常に近い状態なのですけれども、明白な違いは、そこに意識があるかないかの違いなんですね

つまり、肉体は完全に熟睡状態にあるんですけれども、意識はクリアにある、という状態なんです

よって、肉体の感覚は無くなって、五感の感覚も消え去ります

よく、その状態を心身脱落、と言いますよね

マインドも肉体の感覚も全て落ちてしまう、ということです

だから、もう、寒さや暑さも感じなくなるし、何も聞こえないし、何もこう、なんていうのかな、感じなくなります

そして、呼吸も非常に深いゆったりとした呼吸になります

なので、もし、そこに意識がクリアになければ、私達はただ、ぐっすりと眠りこけてしまうだけなんですね

 

この、完全に肉体とマインドを超えた、静かで安定したビーイングのエネルギーの中に留まることを知らないうちは、人は常に騒がしいマインドと重い振動数の肉体に引きずりまわされ続けます

人はその状態で一生懸命、穏やかであろうと努力するんですけれども、エネルギー的に粗く重く騒がしい状態から抜け出せていないために、その努力はあまり実を結ばないでしょう

それは、あなたが心理的に穏やかでいられないのではなくって、ただ単に、エネルギー的に穏やかではないからなんですね

 

もし、あなたがいつも穏やかでいられないとしたら、それは、何か人生に問題があるからでもなくって、環境や周りの人に問題があるからでもなく、あなたの心に問題があるからでもなく、ただ単に、ビーイングのエネルギーが深まっていないという理由に過ぎないんです

 

ビーイングが深まれば、人生に何か問題が起こって、マインドがもう大騒ぎしたとしても、あなたは自分の内側に常に静かで穏やかなエネルギーがあるのがわかるようになります

 

そして、その静かで穏やかで平安なエネルギーは、周りの人にも知らず知らずのうちに影響を与えています

そんなあなたと一緒にいるだけで、人はなんとなく落ち着いて、なんとなく穏やかになっていくんですね

 

また、『源泉』と繋がるという事は、生命エネルギーと繋がる、という事でもあるんですね

こんこんと絶えることなく湧き出る生命エネルギーの泉の中で、私達はすっかり癒され、すっかり洗い流されていきます

『源泉』に触れる度に、私達は、もう本当に新しく生まれ変わるんですね

生命が創造される以前に戻ることで、新たに創造されていく

いわば、ある種のリセットとも言ってもいいと思います

『源泉』の中にいるという事は、永遠の「今」にいるという事だと先ほども言いましたけれども、つまり、『源泉』の中にいる間、人は歳を取らないのではないかと思います

 

それが、浦島太郎の実は本質なのかなとも、ちょっと思っています

ま、ちょっと話逸れちゃいますけれどもね

 

古今東西、本当にあらゆる権力者達が不老長寿の薬を求めてきたんですけれども、この『源泉』こそがそれだと言ってもいいかもしれませんね

 

ただし、完全に『源泉』の中に溶け込んでいる時、肉体を動かすことは不可能です

だから、人間として生きるためには、ある程度戻ってこないとならないんですね

でも、完全にそれとの繋がりが切れる訳ではなくて、深いところで繋がり続けますけれども、人間として生き、活動するためには、肉体の次元に戻って来ないとなりません

 

でも、『源泉』と完全に切り離されて、肉体の次元のみで生きる時と、『源泉』とつながったまま、肉体の次元でも生きる時は、全く違った生き方になります

それこそ、根が張る、という事なんですね

グラウンディング、っていうことでもあります

 

本当に人間として大木に成長するためには、この『源泉』にしっかりと根を張らないとならないんです

でないと、根が張らないまま大木になろうとすれば、自ずと倒れてしまいますよね

 

石庭の岩も、地上部に出ているのは、全体のほんの一部に過ぎないんですね

大地の中に、ほとんどがどっしりと埋まっているからこそ、その岩全体のパワーが、そのちょっとした部分に全部あふれ、パワーが現れ出られるんですね

地表に出ているのと同じ大きさの岩を置いても、そのパワーっていうのは出て来ないんです

 

人も、『源泉』に根づけば、自ずとその『源泉』のパワーを現わしていきます

こうなると、あえてパワースポットに行く必要も実はなくなっちゃうんですよね

というか、その人自体が歩くパワースポットになっていきます

その人がいるだけで、周りのものが浄化されて、パワーを得ていきます

 

以前ね、ちょっとひょっとした事から、波動測定器みたいなもので私の波動を測定してもらった事があるんですね

で、その機械で計った数値で一番いいとされている数値っていうのが50だったんですね

で、それより多くても少なくてもダメで、その50というのは、産まれたての赤ちゃんと一緒の数値だそうで、その数値の人や物に触れるだけで、人は癒されて、その同じ数値になるという数値だそうです

で、実際に測ってもらったら、ほぼ50だったんですね

で、こう何か指で計るんですけれども、7か所で測るんですが、一か所だけ49で、後は全部50だったんです

ちょっと自分でもびっくりしました

というのも、その日は本当にボロボロに疲れていてよれよれ状態だったので、まさかそんないい数値が出るとは全く思ってもいなかったんですね

なので、もう、そんな状態でもほぼ50だったので、おそらく、体調の良い元気な日でしたら、全部50になっていたかもしれませんね

つまりね、ということは、私が触れるだけで、人は癒されていく、っていうね、本当にその人自身が50っていう、いい状態になる、という事になりますよね

自分のエネルギー状態を初めて科学的に計測して、実際にとてもいい状態であるっていうことが立証された、っていうね、私にとってもとても面白い体験でしたね

だから、『源泉』に根づくという事は、別に何もしなくても、生きているだけ、ただ存在しているだけで、周りの人のお役に立てるんですね

まあ、これは、ビーイングだけではなくて、ハートの質っていうのもかなり大きく関係があるとは思いますけれども、ね

 

さて、では、このビーイングの質を深めていくには、何をしたらいいのか

マインドだけにいる、ある種ヒステリックな状態から脱して、ビーイングを深め、本当に生命力あふれる穏やかなエネルギーの中にいるためには、瞑想が最も適した手段だと思います

 

例外的に、登山家の方など、特に孤高のね、本当に高い山々によく登っている方などは、非常に瞑想的な、深く静かなビーイングのエネルギーを携えていることがよくあります

彼らにとっては、おそらくね、山に登ることが瞑想なんでしょうね

山そのものが、まさに、ビーイングのエネルギーですし、酸素が薄くなるとノーマインド状態にもなりますからね

 

で、エベレストに何度も登頂したことのある、ある登山家の方が、他のジャーナリストの方から、「そういう山に神様っているんですか?」と質問された時に、お答えしていたのが、「そういう山では、自分が神様、って感じです」と答えていらっしゃったんですね

まさに、登山によって、その境地に達していた、という事ですね

8000メートルを超えると、もう、全く別の次元だともおっしゃっていました

 

あるいは、農家さんなど、常に土に接している方の中でも、そういう方が時々いらっしゃいます

自然農されていた、ごめんなさい、ちょっとお名前失念してしまいました

とても自然農で有名な方(川口義一さんです)とかも、本当にそういうエネルギーの方でしたね

やっぱりね、大地に常に触れている、というのも、ビーイングのエネルギーを、

大地のエネルギーは本当にビーイングのエネルギーそのものですから、ビーイングのエネルギーを深めていけるいい方法なんだと思います

もしかすると、海といつも対峙している漁師さんなどにも、そういう方がいらっしゃるかもしれませんね

ちょっと知り合いで漁師さんって方がいらっしゃらないのでわからないんですけれどもね

 

なので、命を懸けて山に登るとか、畑などをやられることもすごくいいと思いますけれども、それよりもね、日常の中で誰にでももっと簡単にできる確実な方法として、瞑想の方がよりお薦めできます

 

瞑想というのは、実は非常に科学的な手法なんですね

エネルギーという眼に見えないものを扱っているので、オカルト的に受け取られがちですけれども、実は、人間の心身の機能を知り尽くした上で開発されてきた手法なんですね

瞑想そのものについては、また別の機会で詳しくお話ししていきますね

 

私達は不動の姿勢で坐る瞑想、もしくは、立った状態や横たわった状態でする瞑想をツールにして、ビーイングを深めていきます

というのも、背骨は真っ直ぐにしている事が重要だからなんですね

エネルギーが、天頂と下腹のセンターを真っ直ぐに通るようにしておいた方が、入りやすいからです

ただ、横たわると、どうしても習慣的に人は寝てしまう、っていう癖がついているので、特に最初の頃は、主に、坐る瞑想の方がお薦めになります

 

ビーイングは下に引っ張られていく、あるいは、下に落ちていくエネルギーです

下というのは、重力と同じ方向です

もしくは下に吸収されていくエネルギーです

 

動きを手放すということは、ある意味、この次元にしがみついている手を離す、ということでもあるんですね

 

で、この、しがみついている手を離すと、自然に源泉の次元へと、その重力によって、引っ張られて落ちていく

 

リンゴをつかんでいる手を離すと、リンゴは自然に下に落ちていくのと同じなんです

 

動きを止めると、エネルギーは自然に下に落ちて行きます

 

ただ、最初は動きを止めること自体が非常に難しいので、呼吸法を使って入っていくのがやりやすいと思います

呼吸というのは、ある意味、創造と非創造を絶え間なく繰り返しているんですね

吐く息とともに、手放していく

そうすると、自然に落ちていきます

落ちよう、落ちよう、としてはダメです

かえって、ビーイングに深く入っていく事ができません

なぜなら、それは、「doing」だからです

doing」している限り、ビーイングには深く入れません

 

といって、「落ちる」という意図が全くないと、ただの曖昧としたぼんやり瞑想になってしまいます

 

この、微妙なバランスが実は難しいんですけれども、「手放す」ということを覚えれば、自然にバランスは取れて行きます

 

でも、「手放す」のも「doing」じゃないの?という質問が来そうなんですけれども、「手放す」とちょっと心で思ってやってみてください

手放す

そうすると、身体の重心が後ろに傾くの、わかりますか?

次に、何か考えてみてください、あるいは何かやろうとしてください

すると、身体の重心が前に傾きますよね

その違いなんです

身体の重心が後ろに傾いた状態というのは、明け渡している状態なんですね

委ねている

委ねれば、自然に源泉に向かって落ちて行きます

 

それを、次に実践的に少しだけやってみたいと思いますけれども、

その前にちょっともうひとつだけ

 

「絶対状態」っていうのは、とても特殊な状態です

というのも、何も実存しない領域の中で、それは非創造の領域ですけれどもね、何も実存しない領域の中で、それを体験し、その、体験している、っていうことを知っている体験者がいるからなんです

 

その体験者こそが、魂なのですね

 

創造によって創られた魂、つまり創造の領域に存在するものが、創造以前の非創造の次元を体験できる訳なんです

 

違う言い方をすれば、顕現されたものが、その根源である非顕現へと戻り、溶け去っていくことができるのですね

 

それは、二元と非二元という言葉でも同様に表すことができます

自他のある領域と、自他のない領域ですね

 

そう、この『神性』である非二元の次元は、二元を超えた非二元の領域、つまり、自他のない領域なのですけれども、この自他のない非二元を体験し、それを記録するためには、非常に微細な二元が必要となります

 

それが魂です

 

その「他」っていうのがあまりに粗ければ、非二元の領域を体験することはできませんし、その微細な体験者がいなければ、非二元は体験されることがない、ということなんですね

 

ちょっと難しいかもしれませんけれども、なんとなくおわかりいただけますでしょうか?

これについては、またどこかで詳しくお話ししていきたいと思います

 

魂っていうのは、非常に微細で、本当に不思議な存在なんですね

 

なぜ、魂が創造されたのか

神は、自分を映し出す鏡が欲しかったのかもしれませんね

 

では、これで、魂の3つの質についてお話ししてきました

魂が完全に現れるためには、その3つ全てにおいて完全に覚醒する必要があるんですけれども、その魂の特性によって、必ずしも全て完全に覚醒しなければならない、という事もありません

 

前にも少し触れましたけれども、それぞれの魂によって、ハートタイプやアウェアネスタイプやビーイングタイプっていうのがあるんですね

どの魂も、その3つの質っていうのは持っているんですが、その魂によって、優勢な質が違ってくる、という事なんですね

ハートタイプはハートが優勢ですし、アウェアネスタイプは意識の質が優勢という事です

魂によっては、2つの質が優勢だったり、ってね、いろいろです

 

悟りについて、とにかく「愛」を強調する、何でもとにかく「愛だ」「愛だ」って言ってるようなマスターっていうのはハートタイプですし、マインドを超える事、ノーマインドっていうのを強調するのはアウェアネスタイプですね

で、「今」とかね、「私」が消えて無くなることっていうのを強調するのは、ビーイングタイプって言うことができると思います

 

ですが、どの質も深める事が必要なのは、もう言うまでもなくって、どの質も他の質を補完し、相互に干渉しあってもいますので、その魂のマックスまでどの質も深めていく事が必要になると思います

 

あなたは、どのタイプでしょうね

 

では、そろそろ、実践、行ってみましょう

 

お鈴(1回目:合図

   2回目:合掌

   3回目:お辞儀)

 

背筋を伸ばして

そして、身体が前に傾かないように

ほんの少し、後ろに寄りかかるような感じで

 

あなたの実存そのものに、背をもたらせかけていくように

 

そして、呼吸は鼻からの深い呼吸

下腹へと、たっぷりと入れていきます

 

眼をリラックスさせて

 

頭もリラックスさせて

 

眼や頭が緊張していると、思考が沸き起こりやすく、

また、その思考から離れることができなくなります

 

意識をできるだけ下腹にもたらして

 

ビーイングのセンターは、下腹に位置していますが、

それはむしろセンターというよりは、秘密の扉

 

ビーイングの領域に深く入っていく通路の扉

 

そして、吐く息とともに、その通路を通って、

下へ下へと、エレベーターを降りていくかのように、

息を細く、長く、ゆっくりと、穏やかに、優しく、ソフトに、

下に吐き降ろしていきます

 

この呼吸を、丹田を鍛えるかのように、

強く、男性的に呼吸をしてはいけません

 

非常に繊細に、ソフトに、

とてもフェミニンなやり方で、

息を吐き降ろしていきます

 

ほんの少しだけ、下に落ちていくという意図を持って

 

そして、吐く息と共に、

あなたの重荷や、肩に背負っているものを、

手放していきます

 

いつもいつも何かをやろうとしている事、

いつもいつも、立派な何かになろうとしている事

あなたをいつもいつも追い込んでいるそれらを、

全て手放していきます

 

そして、ただ存在しているという状態へと入っていきます

 

もし、思考が現れたら、

そして、それに気がついたら、

ただ、手放す

 

無理に思考を止めようとする必要はありません

 

止めようとすればするほど、それは思考にエネルギーを与えていきます

 

流れては去る雲のように、

ただ、思考は潜在意識から自然に沸き起こりますが、

それにエネルギーを与える事なく、

ただ、流れ去らせる

 

あなたの、「ただ、ある」という感覚に戻って

 

瞑想をし慣れていない人は、

何か身体がムズムズしたり、痒くなったり、

エネルギー的に落ち着きの無さを感じ始めるかもしれません

 

それらの声に耳を傾けずに

 

少し、辛抱強く、吐き降ろしていく

 

手放していく

 

そうすると、やがて、

自然にすーっと下に吸収されていきます

 

あなたの日常の心配事や悩みも全て、

委ねていく

 

心配事や悩みでいっぱいになって疲れ果てているマインドに、

休息をもたらしていく

 

あなたがビーイングに深く入っていけば行くほど、

あなたは安心していきます

 

何の理由もない、何の条件もない、安心です

 

ただ存在しているだけで、

あなたは安心している

 

あなた自身が、どっしりとした山になっていく

 

深―い海の底に沈んでいくように、

あなたは、存在の源へと、ゆっくりと沈んでいきます

 

 

お鈴(1回目:合図

   2回目:合掌

   3回目:お辞儀)

 

ありがとうございました

 

今日もまた皆さんとこの場を共有できたことに感謝をして

 

では、次回から第8章に入っていきます

では、また