2020年6月30日火曜日

パーソナリティとは「トータルパス」霊的進化と人間性の成熟の「道」第一章 目覚めの地図 「3つの柱」と「5つの身体」パーソナリティとは

目覚めの地図
「3つの柱」と「5つの身体」



パーソナリティとは

人間サイド
・多次元的存在である人間の一番表層の次元
  私たち人間存在とは、多次元にわたる存在です。それは、『神性』とひとつである次元から、最も表層の部分であるパーソナリティの次元にわたる存在です。その、一番表層の次元である、一般的な人が自分だと思っているものを総称して、パーソナリティと呼んでいます。そして、私たちはそれを真の自己である「魂」や『神性』の次元に対して、「人間サイド」という言葉を使うこともあります。つまり、人間は多次元の存在ではありますが、私たちが「人間サイド」と言う時、それは最も粗い次元であるパーソナリティの次元を指しているという事です。
 
 パーソナリティには、様々な要素、側面が含まれています。肉体、容姿や五感(六感)を始め、その人のユニークな魂の味わい、色合いから、それに伴う精神性や指向性などの生来的で純粋な性質に加え、これまでの輪廻転生において蓄積してきた様々なカルマやテーマなどから創られてくる性質や反応のあり方、また、産まれた環境や育つ環境によって条件づけられてきた性質や性格、反応のあり方など、それらが非常に複雑に相絡まって、1人の存在のパーソナリティというものが形成されていきます。

・変化する一時的なもの
 そのパーソナリティは必ずしも固定的なものではなく、その人の年齢や時期、人生経験などによって、あるいは、その人生においてその時期どのテーマに取り組もうとしているのかによって、多少の変化、人によっては大きな変化を辿っていきます。時間軸に沿って変化していくだけではなく、例えば、一瞬前と一瞬後で大きな変化が現れることもあったり、一日のうちでコロコロと移り変わったり戻ったりすることもあります。
 つまり、パーソナリティとは絶対的で不変なものではなく、移り変わっていく一時的なものであると言えます。

・人生のストーリーとの固着
 そのパーソナリティは、ほとんどの場合、その人が歩む人生のストーリー、人生のドラマと強く結びつけられています。言い換えれば、「これこれこういう人生を歩んできた」「これこれこういう経験をしてきた」という事と、切り離して存在しているパーソナリティは無いと言うこともできます。恐らく、100%に近い人たちの認識において、その人自身の人生のストーリーと切り離してその存在を認識できるようなパーソナリティは存在していないでしょう。それは、ただ単に人がそれを認識できていないという意味ではなく、人生のストーリーと切り離されて存在しているパーソナリティなど、そもそも無い、という事です。
 つまり、それはあらゆる外側の事象と切り離されて実在している何か実体のあるものではなく、非常に観念的な、例えて言うならば、非常にバーチャル的なものである、という事です。それゆえ、過去の聖人や覚者たちが口を揃えて、それは「幻想」だと言ったのでしょう。
 だからこそ、パーソナリティを超えるためには、人生のストーリー、ドラマへの固着から引き剥がされなければなりません。固着とは、糊付けされているように、強く結びつけられているという事であり、それと自己同一しているということでもあります。よく、執着しないようにと言われますが、執着と固着は違います。執着は固着の上にさらにしがみつくという事です。だから、執着を手放すだけでは固着から引き剥がされることはありません。執着は気づきやすいですが、固着はごく自然に、あまりにも当たり前の感覚として最初から為されているため、それに気づくためには、かなりのワークと繊細な感性が必要とされます。

・パーソナリティの幻想性
 そして、そのパーソナリティは、その人自身のフィルターを通して、その人自身の解釈を通して、体験され、認識されていきます。パーソナリティとしてのその人のあらゆる事の認識には、全て、そもそもその創り上げられてきたパーソナリティというフィルター、違う言葉で言えば色眼鏡がかけられています。平たく言えば、同じ事象を見ても、人によって受け取りや解釈が違うという事です。
 例えばAさんは、自分の事を「こういうパーソナリティだ」と思っています。それを「自己イメージ」と、私たちは呼んでいます。それは言うまでもなく、肉体、容姿に関することから、性質、性格、思想、行動力学、能力、所有、社会における立ち位置、地位、他者からの評価など、多岐にわたっています。
 私たちは各々「自己イメージ」を持っていて、他の人からもそう見えると思っていたり、そう見られるよう、いろいろ操作したり演技したり、そう見られないことで不満を抱いたり、あるいは、それを隠そうと画策したり、「自己イメージ」にまつわるあらゆる事で、日々を忙しなく、苦労して過ごしています。私たちは、自分で勝手に作り上げた「自己イメージ」にコントロールされ、振り回されています。そういった事に関しては、また、「パーソナリティの浄化」に関するページで詳しく書いていこうと思います。ここでは、簡単に、その人自身にとってのその人のパーソナリティというのは、その「自己イメージ」に基づいているということだけ、押さえておいてください。
 ところが、実際に起こっていることは、Bさんから見たAさんのパーソナリティは、Aさんの持っている「自己イメージ」とは違うパーソナリティであるという事です。Cさんから見たら、また違うパーソナリティに見えることでしょう。Aさん、Bさん、CさんそれぞれのAさんのパーソナリティに対する認識にある程度の共通性はあると思いますが、それが完全に一致することはないのが現実でしょう。
 そして、それは誰のが正しくて誰のが間違っているという問題ではありません。それぞれ全て、それぞれのフィルターを通して見た結果なのです。

 それは一体何を意味しているのでしょう?それは、パーソナリティがパーソナリティを通して認識し、体験しているものは全て、"事実ではない”、という事を意味しています。
 私たちは通常、自分の周りで起きていること、自分自身の内側に起こる反応など、それら全てを"事実”だと受け止めて生きています。でも、実際は、そこには普遍的な"事実”など何もないのです。これは、何も霊的な体験がなくても、よく観察し、理論的に考えれば誰にでもわかることです。"事実”だと思っている事も全て、パーソナリティというフィルターのかかった映写機を通して歪めて映し出された虚像に過ぎないのです。
 ちょっと違う角度から言えば、パーソナリティに限らず、この現象世界というものは、パーソナリティが創り出している妄想のようなもの、とも言えます。人がパーソナリティの次元のみに生きる時、それはまさに「幻想」の中で生きていると言うことができます。
 この「幻想」から脱するためには、パーソナリティの次元を超えた真の自己である「魂」を目覚めさせ、その「実在性」の中から、この現象世界を見なければなりません。

・『神性』に還るためのツール
 とはいえ、パーソナリティそのものは、別に悪いものではありません。それは、私たち多次元的な存在が、この現象世界で生き、二元の世界で「体験」するために与えられた、「魂」の拡張機能のようなものです。それは「魂」ではありませんが、最初に書いた通り、なにがしかの「魂」の投射を表しています。それは、「魂」が地上で「魂」に還り、『神性』という本来の家に還るために与えられた、貴重で尊いツールでもあるのです。そのツールがなければ、私たちはこの現象世界で「魂」、『神性』に還ることができなくなってしまいます。

 それゆえ、パーソナリティそのものを否定したり、根絶させようとすることは、無意味であるどころか、逆に、『神性』に還るという霊的進化の道を妨げることになりかねないのです。
 問題は、パーソナリティそのものにあるのではなく、パーソナリティが自分だと思い、パーソナリティの次元だけに生き、それだけが"事実”でありリアリティであると思い込み、それに支配権を完全に与えてしまっている事にあるのです。パーソナリティが暴走して描き出している妄想の世界を、妄想の世界と知らずにさらにそれを肥大化させ続けている事にあるのです。

・パーソナリティに取るべき態度
 私たちがパーソナリティに対して取るべき態度は、真の自己を目覚めさせることで、パーソナリティに与えている支配権を取り戻し、パーソナリティを本来の位置に戻し、機能としてのパーソナリティを正しく使いこなす事なのです。「魂」を何らかの形で映し出しているパーソナリティを浄化し、肥大化したそれをシンプルに戻し、それを温かく包み込み、愛し、それを生き切ることなのです。

 パーソナリティを通してこの次元で生きることは、あなたの「魂」、『神性』をそのパーソナリティを通してこの次元にもたらすことに他なりません。
 パーソナリティとは、「魂」、『神性』をこの次元にもたらすための通路であり、それらが行き来するための橋なのです。

・「魂」に同調させる
 あなたのパーソナリティは、「魂」に同調しているでしょうか?それとも、あなたがあなたのパーソナリティに同調していますか?
 「魂」に同調することは、パーソナリティにとって楽であるとは限りません。それは時として忍耐を要求し、痛みを伴う成長を強います。あなたは、子どもを育てるように、忍耐強く、愛を込めてパーソナリティを育てていかなければなりません。
 それは、「自己イメージ」に合わせて自分を操作したり背伸びさせたり、演技させたり無理強いさせることとは全く違います。それでは、あなたがあなたのパーソナリティに同調していることになります。
 よく、スピリチュアルな世界で、あなたの心が「わくわくする」ことや「楽しい」ことをすることが「魂」に同調することだというメッセージが伝えられています。それを「楽ちんな方」と間違えて解釈してしまうと、あなたはあなたのパーソナリティに同調することになってしまいます。
 多くの場合、「魂」はそのパーソナリティにとって厳しい方、大変な方を選択させようとしています。
 
 そういう意味では、「魂」がある「自己イメージ」をパーソナリティに与える場合もあります。
 例えば、あなたが「私は人のために尽くす人だ」という「自己イメージ」を持っているとしましょう。そういう類の「自己イメージ」には、その人の本質が隠されている場合があります。
 その「自己イメージ」を「自分劇場」のショーとして見せようとする人(つまり、「こんな私、素敵でしょ?」と演技して見せつける人)の場合は違うかもしれませんが、その「自己イメージ」に合わせるために、あなたは一生懸命、人のために動いて尽力しようとします。でも、一生懸命やっているのに、その相手からそれほど感謝されなかったり、評価されなかったり、裏目に出たりします。いつも、それで傷ついたり苦労ばかりしているとします。
 すると、あなたは、そんな「自己イメージ」は捨てて、もっと自分を大切にして、楽に生きようと思います。その方が苦労して報われないより、自分が輝くだろうと思うのです。
 でも、そうやって生きたとしても、楽しいけれど、どこかにむなしさが残ります。あるいは、どこかに不完全燃焼感が残ります。あるいは、自分自身に負けたという感覚が残ります。
 そういう場合、「魂」があなたにあなたの本質を表す「自己イメージ」を与えていた事がわかります。その場合、あなたは忍耐強く、温かく、あなたのパーソナリティがその「自己イメージ」に合うように育てていかなければなりません。そうして初めて、あなたはあなたの本質である偉大な愛を、本当にこの次元にもたらすことができるからに他なりません。

 スピリチュアルな世界には、本当に多くの落とし穴が存在しています。あなたの耳やパーソナリティに心地よい言葉の多くは、背後に落とし穴が隠されているかもしれません。

 あなたにふさわしい評価を与えてくれるのは、あなたのパーソナリティでも他の人のパーソナリティでもありません。あなた自身の「魂」です。
 心の最奥の「自分自身」を偽ったり騙したりごまかしたりすることのないよう、そのパーソナリティを、あなたの「人間サイド」を精一杯生きてください。

2020年6月25日木曜日

圧力鍋でハイドロゾル(蒸留水)作り♪"ハッピーハーブ”セントジョーンズワート編





セントジョーンズワートのハイドロゾル(蒸留水)を作ったところ、

期待以上の素晴らしいハイドロができあがりました♪



ハートに入っていき、

ハートを広げて開いてくれる感じです



"ハッピーハーブ”と呼ばれているだけあって、

本当にハッピーになります



大量に収穫できたので、除菌水ができればという程度で作り始めたのですが、

予想をはるかに超える結果となりました



日常の中で、

またヒーリングに、

どのように使えるか、

いろいろ試していきたいと思います



これから、不安も広がるであろう世界情勢の中で、

精神をUPしていくためにも、

このハイドロが果たしてくれる役割は大きいのではないかと思います



セントジョーンズワート、すごモノです!

2020年6月19日金曜日

畑にミニミニ田んぼ作り~神様から日本人にもたらされたお米





かねてからの念願だった、
畑でのイセヒカリの栽培

実験的にミニミニ田んぼ作りに着手しました

昨今、健康のために、糖質制限が言われていて、
日本人のお米離れも進んでいるようですが、
「日月神示」だったか何かのご神託でも示されていたと思いますが、
お米は神様から日本人のためにもたらされた食べ物です

日本人本来の粘り強さ、穏やかさ、剛健質実な性質、
そのパワーは、
お米を栽培し、主食として食べることから育まれて来たものだと感じます

昔の飛脚は、握り飯だけで走り続けられましたが、
他の食べ物だとすぐに力尽きてダメだったそうです

もちろん、品種改良され、精米されたお米は本来のパワーに欠け、
糖質を過剰に摂取することになる可能性もあるので、
できるだけ玄米で食べるのが良いと思います
(でも、白米はおいしいですよね♪)

特に、イセヒカリは、
平成元年に伊勢を大型台風が2度も襲った時に、
伊勢神宮のご神田で、
なぎ倒されたコシヒカリの稲の中で、
2本だけすっくと立っていた稲があり、
それがイセヒカリと命名され、
平成8年に全国の11の神社に下賜され、
全国の篤農家の方々によって栽培されてきたもので、
まさに神様からの贈り物と言えるお米です

強いだけではなく、
農薬もいらず、肥料もほとんど必要とせず、
それでいて食味もコシヒカリより高いという、
平成元年に現れた、奇跡のお米です

それを考えると、
令和元年にも台風15号、19号とスーパー台風が2回襲いましたが、
もしかすると、
また伊勢のご神田で新たな令和のお米が現れていたかもしれませんね

今年、国連専門機関の国連食糧農業機関(FAO)と
世界保健機関(WHO)、
関連機関の世界貿易機関(WTO)の3機関が、
世界的な食糧難を警告しています

日本でも、
早い段階で全国の田んぼを復活させ、
食料自給率を上げていく方向に転換する必要があると思います

畑でお米が栽培できれば、
個人でもお米を栽培できる可能性が高まると思います

陸稲もありますが、
やはり個人的にイセヒカリの栽培ができるとうれしい

イセヒカリは畑栽培もできると言われていますが、
過去3年間、試みて来た結果、
非常に貧弱にしか育たず、色も黄色がかり、
稲穂ができることはできますが、
1本の稲穂にわずか数粒で、それも薄っぺたい実がつくだけだったので、
やはり稲が成長する時期はある程度の水が必要なのかと思い、
ミニミニ田んぼを実験的に作ってみた訳です

時期は遅くなってしまいましたが、
梅雨の合間の晴れ間に苗の植え付けをして、
今年様子を見たいと楽しみにしています

また、その様子もyoutubeでお届けしていく予定ですので、
ぜひ、ご覧ください




2020年6月15日月曜日

神性とは 「トータルパス」霊的進化と人間性の成熟の「道」第一章 目覚めの地図 「3つの柱」と「5つの身体」神性(DEVINE)とは

目覚めの地図
「3つの柱」と「5つの身体」



『神性(DEVINE)』とは

全ての根源
 『神性』とは、この現象世界における私たちという存在を始め、宇宙に存在するもの全て、あるいは宇宙そのものの、原初の原因であり、根源であるもののことを言います。全ての源、という言い方もできます。

『神性』の持つ質

 その全てを知ることができないほどの、「在る」という膨大なエネルギー
 それは無限であり、途方もないエネルギーであり、この現象世界をはるかに超え、全てを包含するものですが、私たち人間の意識では、その全容を把握することはできません。
よく、「無」と表現されますが、その意味は顕現、平たく言えば姿形、もしくは物質界をはるかに超えているということで、何も無いということではありません。むしろ、全ての可能性を携えた、膨大で無限のエネルギーである、という事です。私が無限というのは、私たちがその限界を知ることができない、もしくはその範囲や大きさを測ることができないという意味です。
 『神性』が本当に無限であるのか、あるいは有限であり、さらにそれを超えた何かが存在するのかは、今の私にはまだわかっていません。つまり、『神性』が11次元以上であることはわかりますが、11次元のみが『神性』なのか、それ以上の次元も全て『神性』なのか、おそらく、今の段階では後者とみなしているのだと思いますが、今の私ではまだそれを実証できていません。
 あのエネルギー状態を、「無」と表現するのは、正直なところ、よくわかりません。なぜなら、確かにそこに何かの物質、物体はありませんが、それはまさに「在る」という膨大なエネルギーだからです。それは、物質が「有る」という事とは全く違う事ですが、「神」もしくは「仏」、もしくは「名なきもの」という言葉を作った人たちもまた、その「在る」というエネルギーを感じたからこそ、それになにかしらの存在としての言葉を当てはめたのでしょう。おそらく、「無」と表現した人は、『神性』の一側面である「絶対状態」を体験したのではないでしょうか。
 『神性』の次元では、何も起こっていません。それを「無」と表現したのかもしれません。
 いずれにしても、『神性』との直接の出会いの体験は、非常に圧倒的なものであり、感動すらも超えた、畏怖ともいうべき体験です。そこに至って初めて、私たちは私たちの「魂」の全体を知ることができます。
 
 「魂」は、それとひとつであり、それを体験することはできますが、「神性」の全てを体験し、知ることはできません。なぜなら、それは「魂」の領域をはるかにはるかに超えているからです。それは、私たちが一度の生の体験で得た知識や感性を総動員しても、表しうるものではありません。大いなるもの、偉大なるもの、という言葉ですら、それそのものと比べたら、ひどく矮小な言葉に感じてしまいます。
 多くの詩人や覚醒者がそれを表現しようと試みて来ましたが、おそらく、どの人もどの人も、それを表現しうるものがないことを痛感したことでしょう。そして、その体験に比べたら、地上でのどんな素晴らしい体験も、色あせて見えたことでしょう。それは、体験を超えた体験です。

 「魂」の故郷ー「魂」の完全なる休息、安堵
 それでもなお、「魂」はそれが自分の本当の故郷であり、自分の本当の家であり、自分の真の親であり、自分が存在することの原因だということを知ることができます。そこに還った時、「魂」は真の充足と安堵を感じることができます。生まれたての赤子が、母親に抱かれてすやすやと安心して眠るように、私たちは真の休息の中で、初めて完全にやすらぐことができます。心底、丸ごと、絶対的にやすらぐのです。その時初めて、真の「安堵」とはこういうものだったのかとわかります。それは、絶対的に不変で動きのない『神性』の次元でのみ、体験できる真の安堵です。

 不変、不動ー静けさ、沈黙ー「今」
 その絶対的に不変で不動の質は、完全なる静けさ、沈黙を表します。それはまた、時間がない事と、永遠性を表します。永遠であるということは、始まりもなく、終わりもないということです。
 この静けさの次元が、私たち人間存在の基盤でもあります。それは、大地のような、木が根を大きく張って幹や枝を支えるための土台のようなものです。私たち人間存在も、この沈黙の大地に、その存在の根を張っています。その大地なくして、私たちは存在することはできません。私たちという存在の根は、この大地同様、永遠であり、不動で不変なのです。
 この静けさと沈黙の質こそが、「今」の本質です。「今」にいる、ということは、過去と未来の中間の現在にいるという意味では全くなく、この時間のない、不変、不動の次元にいるということです。そのため、いくら時間軸の中で、現在の瞬間瞬間にいようとしても、それだけでは、真の「今」の深みに到達することはできません。現在の瞬間は、「今」への入り口に過ぎません。その入り口から、垂直にこの次元へと深く入っていく必要があります。

 神聖さ
 『神性』の膨大なエネルギーそのものが、究極の神聖さを備えています。
 それは、大地を洗い流す雨や、常に新鮮な空気を運ぶ風のように、全てを洗い流し、新鮮さをもたらし、清らかさを与えてくれるものです。「魂」の体験もそうですが、『神性』の体験もまた、それらが不動で不変であるにもかかわらず、常に新鮮であるのも、それが時間のない、「今」の体験であることと、この神聖さから来るものであると言えます。
 またそれは、全ての存在に王の威厳や偉大さをもたらしてくれます。この神聖さによって、私たち人間存在という木はすっくと真っ直ぐに伸び、高貴さを備えた堂々たる姿を表すことができます。もちろん、誰しもが、生まれながらにこの質を備えています。

 愛
 『神性』と出会い、それに触れ、それに触れられる時、私たちは今まで一度として、それから離れたことも、それから別れたこともないことを知ります。私たちは、いついかなる時でも、それとともにありました。「神に愛されていない」と嘆いて涙した日々も、実は神の愛にすっぽりと包まれていた事を知ります。「私はずっと神に愛されていたのだ」「何も心配することなどなかったのだ」と、心底わかるのです。そして、その時、愛されている歓びに涙するのです。
 この、「愛」という『神性』の側面を、私たちはよく『最愛なるもの』と表現します。
それは、『神性』の女性性、あるいは母性の側面を表しています。

 『神性』の愛には、何の制限もなく、何の条件もありません。「あなたがこうであれば、私はあなたを愛する」とは決して言いません。『神性』の都合の良い時だけ愛するわけでもありません。ただ、あなたを愛するのです。あなたという存在を愛するのです。それが途絶えたり、特定の間だけだったり、尽きてしまったりすることは決してありません。
 あなたが今存在しているということが、あなたが『神性』に愛されているという確たる証拠です。こういう表現をすると、『神性』が何か行為を行う個人性を持つ存在のように聞こえてしまうかもしれませんが、『神性』に個人性は全くありません。完全に個を超えたるものです。でありながら、非常に親密な、最高に親密な『神性』とのつながりを私たちは体験します。あなたが完全に透明になった時、『神性』との間の隔たりは完全になくなり、あなたはそれと溶け合うからです。

 歓び

『神性』とひとつになる

 でも、私たちがマインドだけの中で生きる時、そのつながりを、その自分が包まれている愛を、感じることができなくなってしまいます。なぜなのでしょう?次元が違うからという理由もありますが、マインドというのは、なぜか、ネガティブな方向により働くような習性を持っています。それは、どんなに知識を集積したとしても、むしろすればするほど、よりネガティブに、より否定的な方向に向かう事が多いようです。

 とはいえ、マインドもよく見ていくと、ふたつのマインドがあるのがわかります。よく、内なる対話と表現されるように、自分の内側で、二人の自分がいて、違う見解や違う意見、異なる思いを抱くことがあります。例えば、「もっとこうでなければ」というあなたと、「いや、それは大変だし」と答えるあなた。「こっちの方が得じゃない?」「いや、損でもこっちじゃないといけないような・・・」。あなたは、いつもどちらの声に従っているでしょう?これについては、また「マインドとは」というページで、詳しく述べて行きたいと思います。

 ここでは、実は、私たちの心の奥では、「すでにわかっている」ということだけ、お伝えしておきます。奥深くで、『神性』の愛を知っているからこそ、その愛を見失っている状態がつらくて苦しいのです。奥深くで、『神性』とつながっているからこそ、本来のあなたとしての声がマインドの中に沸き起こるのです。

 表層的で主力的なマインドの中だけで生きる時、私たちは見捨てられて一人孤独な惨めな自我として生きることになります。その生を多く占めるのは、不安や心配、恐怖や猜疑であり、あたかも、愛や安堵、信頼から対極にかけ離れているように感じます。でも、その苦しみがあるからこそ、私たちは反対の対極に行こうとし、『神性』の愛を再び見出し、『神性』と再びひとつになろうとします。

 私たちが真に求めているものは何でしょう?
 人によっては、「幸せ」だったり、「承認」だったり、「愛」だったり、もしかすると「お金」だったり、「栄光」だったりするかもしれません。霊的進化の道に入る前、例え、自分ではスピリチュアルな道を歩んでいると思っていたとしても、多くの場合、人は自分の外側に求めているものを探し、得ようとしています。自分の求めているものは『神性』と出会う事だと言う人でさえ、ほとんどの場合は、自分の外側にそれを見つけようとします。それゆえ、誰か特定のマスターにそれを投影し、そのマスターの信者になります。
 でも、その探し求めているものは、外側にはありません。それは散々言われて来たことなので、知識として知らない探究者はほとんどいないでしょう。でも、本当に、求めるものは内側にあるということが理解できていて、初めから内側に向かえる人はごく稀です。私も、言葉としてそれは知っていながら、師に人生のことを相談しては、「あなたの問題は、あなたがまだいないことだ」と言われ続け、本当の意味で内側に向かうことができるまでに、数か月も要してしまいました。
 私たちが真に求めているものは、『神性』と再びひとつになることです。本来の家に還ることです。それは、まさにあなたのあなたを通して起こります。あなたの最も内側で起こります。
 だからこそ、私たちは「魂」を目覚めさせることを急務とし、それを通して、それを明け渡すことで『神性』へと至り、ひとつに溶け去っていくのです。


『神性』と「神々」の違い

 さて、ここで、少し『神性』と「神々」の違いについて書いておきます。『神性』とは、絶対で不変なる至高のものを指しますが、旧約聖書における「契約の神」であるヤハウェや、日本の神々である天照大御神や素戔嗚尊など、固有の名前を持つ神は、『神性』ではなく、私たち人間より霊的に進化した「魂」の存在であると、私たちはみなしています。
 『神性』は、何の契約も私たちに強要しません。固有の名前も持ちません。『神性』は、人格(神格?)を持つような存在ではないので、感情もなければ、私たちに何かを期待したり、要求することもありません。ただ、『神性』にはたったひとつの意図、もしくは意志があるように思われます。それは、「在れ」という意図です。「在れ」と『神性』がその波動を発した時、意識が生じ、「魂」が生まれたのではないかと思います。「在れ」という意図そのものが意識なのかもしれません。その意識が、「在れ」とこの現象世界を創造し、顕現させました。その創造という現象については、また別の項で書きますが、『神性』は、この現象世界に関心がある訳でもそれに携わっている訳でもありません。

2020年6月3日水曜日

小豆の植え付けと焚火で焼きそら豆♪





「空と海と大地と」

土っこかあさんの伊豆暮らし、

畑シリーズの第3弾をアップしました



今回は、

私の生にとってかかせない「火」「焚火」もちょこっとですが、

その様子をお届けしています



ぜひ、お楽しみください