2013年6月29日土曜日

アジズ(現アナディ)とフーマンに関する質問に答えて


私の直接の師は、アジズ(現在、アナディと改名)とフーマンだ。

そのため、私達の瞑想リトリートに参加する人たちや、翻訳本を読んだ方から、よく受ける質問がある。
そういった方々は、K氏の著書、K氏のアジズとフーマンとのワークを本にしたものも必ず読んでいるため、K氏が文中で「これは私個人のマインドの傾向のため」という意味の文章を明記してあるにも係わらず、ある先入観を持ってしまうことが多いようだ。

それは、平たく言えば、「アジズはだめだけど、フーマンはすごい」というニュアンスのものだ。
もしくは、「アジズは合わない」というものだ。

そのため、「その辺、実際どうなのか?」という類の質問をよく受ける。
質問してくれる人はまだいい。
中には、それを鵜呑みにしている人もたくさんいるだろう。
実際にアジズに会ったことのない人まで、アジズのことを批判的に言うのを聞いたことがある。

先日も、ある人から、K氏のブログを読んで、「不思議なんですけど、なぜ、K氏はアジズに批判的なんですか?」との質問を受けた。
K氏がアジズやフーマンに対してどういう考えや感情を持っているかは、その人個人のことであるし、著書やブログの中に書かれていることが、K氏の真実であることは確かなので、それは尊重されるべきことだ。

だが、それが全体的な見方ではないことも事実だ。

その質問を受けて、そろそろ、同じ師からワークを受けた生徒の一人として、その先入観や誤解を払拭するため、明らかにしておいた方がいいのか、と思い、私自身の体験や見解、思いを書くことにした。

ずっと一緒にワークをしてきた仲間の間でも、確かに、「フーマンの方がすごい」という見方が圧倒的に多い。
その理由としては、フーマンがずば抜けたエソテリックな力を持っていたことと、愛のエネルギーが強烈で濃厚だったことが、最も大きな点だろう。

だが、結論から言えば、「覚醒」という点において、2人とも遜色ない。

タイプとしては、全く真逆と言っても過言ではないほど、そのエネルギーの質、優勢なセンター、その教え方も全く違うため、そもそも比較はできないのだが、
その深遠さは、どちらが上とかいう問題ではない。

アジズは、とても優しいが、必要なら生徒のエゴをばっさり切るタイプのマスターだ。
フーマンは、生徒のエゴのためではないが、そのエゴをも満たしてくれるようなことを言ってくれるマスターだ。
そのため、生徒として、フーマンの方が師として受け入れやすいということはあるだろう。

だが、エゴをばっさり切るのも、マスターとしての大切な役割だ。
多くの人が、アジズにエゴをばっさりやられて、去っていく姿を見てきた。
その度に思うことがある。
そういった人たちは、覚醒や真理を求めて師のところに来るのではなく、
マスターに認められたくてやって来るのだろう、と。

スピリチュアルな探求をしている人なら、神秘体験のひとつやふたつ、
いい瞑想状態のひとつやふたつ、ある程度の内的境地の体験のひとつやふたつ、
何か特別なエネルギー体験のひとつやふたつはあるだろう。
いろいろなものや、いろいろなエネルギーが見えてしまう人もたくさんいるだろう。
多くの探求者たちは、それをマスターに認めてもらいたがる。
それは、気持ちとしてはよくわかる。
私にも、もちろん、そういう思いがあった。
人間としては、むしろ自然な気持ちだろう。
だが、アジズはそういった断片的で一時的であまり本質的ではない体験を、ばっさりと切り捨てる。
そういった体験に固執してしまうと、本当の意味での進化が起こらないからだ。

そういった自分の体験にプライドを持っている人が、ばっさりやられて、アジズのことを批判的に言うようになるのを、何度も見てきた。
本当の目覚めより、エゴのちっぽけなプライドの方が大切な人たちだ。
実は、スピリチュアルな体験を持てば持つほど、スーパーエゴを持ってしまう危険性があるのだ。

あるいは、単に人間として、特別な存在であるマスターにとっての、特別な存在になりたがる人もいる。
かくいう私もその一人だった。
それによって自分の価値を証明しようという潜在意識的なエゴの働きだ。
自分の中にぽっかりと空いた穴を埋めるために、マスターという特別な存在を利用しようとする。
人間というのは、そんなことをあれこれと、無意識にやっているものだ。
もちろん、そんな私は、あっけなく、ばっさりと切られた。
今にして思えば、ばっさり切ってくれて本当にありがたい。
それによって、それを落とせたからだ。

それだけではなく、スピリチュアルな進化や内的境地に関することでも、何度、アジズにエゴをばっさりやられてきたことか。
認められずに傷つき、一人泣いたことなど、数知れない。
だが、それでも目覚め、魂に出会いたかった私は、アジズの元を去るなど、思いもしなかった。
その痛みすら、ワークとし、
自分の内側に向かい合っていったものだ。
むしろ、その痛みこそが、私を内側に向かせるものだった。
そのプロセスが、私自身を純化し、スーパーエゴを強化することから逃れさせてくれた。
そして、ふらふらと外側の余計なものに向いていた私の目は、
はっきりと、内側の主体そのものに向くようになったのだ。

そして、それは私だけではなく、多くの生徒達がばっさりやられながらも、
残った人たちは、皆真摯に自分に向かい合い、アジズから途方もないものを受け取ってきた。

もし、マスターがフーマンだけだったら、私も気持ち良く、超スーパーエゴでむくむくとふくれあがっていたかもしれない。
自分を肯定し、受け入れ、その本質に信頼を置くことは、
スピリチュアルな道を歩む上でとても重要なことだが、
一方で、一歩間違えると、謙虚さを失ってしまう危険性もあるのが、人間というものだ。

もうひとつの観点は、フーマンのエソテリックな力についてだ。
私はここで、エソテリックという言葉を使い、サイキックという言葉は使わずにいる。
その違いについての私の見解は、別途記すが、
フーマンは、地球の裏側にいる会ったことのない人でも、エネルギー的に熟知し、前世すらも知っていた。
全てのことが見えていたと言っても過言ではないだろう。
生徒によっては、フーマンが目の前で消えたのを見たという人もいた。
それだけではなく、私達のカルマを、エネルギー的手術によって取り除いてくれたり、
ハートをぐいぐいと開いてくれたり、本当に神秘的な方法で、私達を導いてくれた。
ガイダンスを、マインドの媒介なしに直接伝えられるのは、自分だけだと、フーマンは言っていたらしい。
その愛のエネルギーは本当に強烈で濃厚で、真の神聖さというのがどういうものか、体験として教えてくれたのもフーマンだ。
本当に、神を体現した、イエスの再来ともいえるマスターだった。

おそらく、この点が一番、私達生徒の心を捉えたところだろう。
確かに、そのエソテリックな力によって、深く、私の魂に直接イニシエーションしてくれたのは、
フーマンだ。

アジズには否定されたが、フーマンには肯定されたということがいくつもある。
自分自身について、自分が感じていたことを、2つだけを除いて、全て「そうだ」と言ってくれたのもフーマンだ。
(その一つとは、フーマンのカルマのワークの中で、過去生でイエスを殺したという位の大罪を犯したという感覚のヴィジョンを受け取ったので、「私はジーザスを殺したのか?」と聞いたところ、フーマンは「ノー。だが、マインドがそのように解釈することがある。」と答えたことだ。)

私にフーマンが教えてくれたことは、フーマンの言うことを信じるということより、むしろ、
その自分自身の自分自身に対する感覚を信頼しなさい、ということだった。

フーマンが肉体を離れた時も、
2ヶ月にわたり、濃密なエネルギー体として私の中にずっといてくれたし、
一人ワークをする中で、何度もエネルギー体として現れてくれた。
フーマンとの魂のつながりは、言葉にはできないほど、深く、強い。

それに比べて、アジズには特別なエソテリックな力は見受けられなかった。
そのパーソナリティは、私達と変わらない、純朴で、かなりのおっちょこちょいの面も持った、いわば普通の人だ。
地道に、自分でこつこつと修行をして、覚醒した人だ。
そのため、多くの人を惹きつけるという点において、フーマンのその魅力には確かにかなわないかもしれない。
人は、普通ではない、スペシャルでスーパーなものを単純にすごいと思ってしまうから。
特に、エソテリックな力、サイキックな力に、人は弱い。
なぜ、人は他者のリーディングとかチャネリングとかで言われたことを、何の疑問もなく、確かなものとして受け取ってしまうのだろう。
まるで、自分の感覚より、他者の言葉による確信を求めているかのようだ。

そういう意味で、アジズはエソテリックな力を私達に見せたことはなかった。
むしろ、覚醒とサイキックな力は全く関係ないと、言っていた。
なまじサイキックな力があるために、そこでとどまってしまい、覚醒に至ることができない人たちを私もたくさん見てきた。
サイキックな力は私達の目をとても惹きつけるため、私達の目を真に本質的なものから逸らすのに、非常に有効だ。

だが、アジズは、エソテリックな力を見せなかったゆえに、
ごく普通の私達も、アジズのいるところまで行けるのだと思えたことが、
かえって大きな励みとなった。

アジズは、本当に私達が現実的に手本とできるようなマスターだった。

初めからマスターとして完成されていたわけではなく、
私達生徒の目の前で、マスターとしてどんどん進化していく姿を見せてくれたことも、
むしろ非常に印象的で、惹かれるところだった。
実際的な可能性として、私達にその姿を見せてくれていたのだ。

その点、フーマンはすでに完成された感があり、
私達がフーマンのようになれるとはほとんど思えないがゆえに、
いっそうフーマンを神格化してしまう傾向もあったのだろう。
アジズにはより、人間性を感じられ、悟りが自然で普通のものという実感を持てた。

エソテリックな力こそ見せなかったが、アジズのその知性は、計り知れない。
知性が今の地球の平均的な人間とはかけ離れすぎていて、
進化における理解という点においても、普通の人にはそこまで必要ないんじゃないか、
と思えるほど、すごい。

アウェアネスを、ピン・ポイントでダイレクトに、シンプルに、クリアに指し示したのは、
アジズが人類史上初めてだ。
その明晰さには、本当に目を見張る。
もしかすると、今の人類には早すぎるのかもしれない。

こういう点が、多くの人にとっては、むしろとっつきにくく、難しいものにしてしまうのだろう。
一緒にワークしてきた仲間の多くにも、アジズの著書が難しすぎて何を言っているのかわからない、とよく言われたものだ。
だが、現代の知的理解も望む探求者にとっては、これ以上のマスターはいないだろう。
アジズは、ありとあらゆる質問に対して、いつも明晰な答えをくれた。

何より、スピリチュアルな道の明確な地図を描き出してくれたおかげで、
私達はその道を辿り、今こうして魂と出会うことができたのだ。

その魂の質や、属する魂のファミリーによって、マスターにも合う合わないがあるのかもしれない。
一般的に、ハートの人には、確かにアジズは入りにくいのかもしれない。
目覚めの基礎として、まずアウェアネスの確立を強調するからだ。
確かに、そういった修行法の合わない魂もいるのだろう。

ハートのタイプと自称する人たちの何人かが、その修行法に根をあげていたのは事実だ。
あまりにハートだけが開きすぎていると、感情にも左右されやすく、
男性的エネルギーを使ってアウェアネスに集中し続けることが非常に困難だからだ。
本当は、だからこそ、アウェアネスが必要なのだが・・・
そして、ビーイングも・・・

また、3つの側面から悟りを描き出しているため、
直線的な思考でそれをそのまま受け取ると、悟りを段階的に受け取り、
目的指向、ゴール指向になり過ぎたり、
その詳細な描写に、かえって頭だけの理解を追い求めてしまったりして、
瞑想の本質である「ただある」状態にいられなくなってしまったり、
すでにある「これ」を見逃してしまいかねない。

アジズの描き出す教えを本当に理解するためには、
まずは内的体験がなにより重要だが、
繊細な感受性と成熟した知性、
マインドでの理解を超えた全体像を直観的に把握する知性を必要とするのだろう。

私も明らかにハートのタイプだが、アジズはぴったりだった。
ハートだけ覚醒したマスターに会ったこともあるが、「全ては愛」と繰り返すばかりで、
確かにそのエネルギーは素晴らしかったが、アジズやフーマンのような深みは感じられなかった。

あの知性的理解が示されていなければ、私は逆に入れなかっただろう。
だからこそ、本当にシンプルに、やるべきことが明確にわかり、何の迷いもなく、
そして落とし穴にはまる危険もなんとか回避し、道を歩むことができた。

アジズとのワークで養った内的境地と理解があったからこそ、
フーマンとのワークが開花したのだ。

それは、アジズの教えが準備段階に過ぎないという意味では全くない。
むしろ、アジズのハートは、本当の深遠さを持っていた。

その悟りのレベルに関して、フーマンの方が上だという人たちの方が実際は圧倒的に多いだろう。
だが、そういう人たちは、アジズのいるところをわかっていないのではないかと思う。
フーマンのエネルギーは、ある意味、とてもわかりやすかった。
誰もが、感じやすかったのではないかと思う。

だが、アジズのエネルギーも、その質は全く違ったが、本当に透明で深遠で荘厳で神聖で、
たとえて言うなら、フーマンのエネルギーは甘くまったりと濃密なネクターのようであり、
アジズのエネルギーはキーンと光り輝く水晶のようであった。

だが、どちらも同質の、覚醒した人特有のある味わいのエネルギーを持っていた。

アジズとの瞑想で、私は何度か、ホールネスの一瞥を得たことがある。
後に、私自身で到達した、ハートを通した絶対状態だ。
神と、直接顔と顔を合わせて出会う体験だ。
小さな子どもが、空を覆いつくし、その端の見えないほどでっかい光り輝くUFOを見た時、
その捉えることのできない、あまりの壮大さ、荘厳さに、思考も止まり、感情も止まり、全てが止まり、ただ口をあんぐり開けて、見入るより他にない時のように、
私も、その知ることのできない、あまりの深遠さ、壮大さ、荘厳さに、ただただ包み込まれていた。
畏怖とは、これを言うのかと、ただただひれふしたものだ。
そのとき、私は、それがアジズのエネルギーだと感じていた。

あの体験をしてしまった者にとっては、アジズは絶対的に、すごい。
それは、理屈ではない。

私のハートのエネルギーは、2012年のアセンションまではフーマンのエネルギーの質に近かった。
それは濃密で、強烈で、熱く、スィートで、「愛!!」という感じで、
かーっと照りつける太陽のような感じだった。

だが、アセンションの頃、その質が明らかに変わった。
もっと、知性的になったのだ。
より高次の振動数になったのだ。
一言で言えば、もっと、スキッとしたエネルギーに変わった。

その時に思い出したのが、
私が受けている野口整体の先生が、「愉気(手で相手に気を通すこと)がだんだんできるようになってくると、受けている人は、その手が温かく感じられる。時として、熱く感じる。それが、もっとできるようになってくると、スキッとした感じになる。」と言っていたことだ。

その変化を体験した時、
一緒にワークをしていた頃のアジズのそのエネルギーは、まさにスキッとしたエネルギーであったことがわかったのだ。
スキッとしたエネルギーは、そのままスキッと通ってしまうため、かえってわかりにくいのかもしれない。
その時から、実はひそかに、アジズの方が実は進化していた?などと思ってみたりしている。

多くの生徒達がフーマンの方がすごいと思う、もうひとつの理由は、
フーマンがハートに関してはスペシャリストであり、
一人ひとりの魂に合わせたガイドができるということだと思う。
これは、エソテリックな力により、一人ひとりの過去生から魂の本質、そのブループリントまでわかっているからだ。

アウェアネスやビーイングは、ある程度、一般化できる修行法がある。
だが、ハートは、基本的な原理は明け渡しだが、
実際には、パーソナリティの浄化も含まれるため、
本当に一人ひとり違うプロセスをたどり、
その道はその人その人でユニークなものとなる。

ハートだけではなく、魂のブループリントを見た場合、人間としての生も含まれるため、
そのガイドは千差万別になるだろう。

その点、アジズは一辺倒の教え方しかしないように見えるだろう。
そこは、確かにフーマンの方がすごいと私も思う。
そもそも、フーマンのようにできるマスターは、滅多にいないだろう。
私自身も、実際に生徒さんたちを前にして、フーマンのような力があれば、と思う。
その方が、的確なサポートができると思えるからだ。

だが、エソテリックな力がないとガイドできないかというと、そうではない。
マスターの最も重要な役割は、そのエネルギーを伝達することだからだ。
そして、この道はガイダンスとつながる道だからだ。
マスターというパーソナリティがガイドするのではなく、
マスターを通して高次の知性であるガイダンスがガイドするからだ。
(ある意味、それは十分にエソテリックと言えるかもしれない)
ガイダンスは、全て知っている。

覚醒は、恩寵のもたらすものだ。
それは、マスター自身の意志を超えて、本当に神秘的に働く。
それを受け取るかどうかは、生徒がどれだけ開いているかによる。

そして、ハートの最奥にある魂に出会うためには、
そして、その魂を通して神性に出会うためには、
究極的には、たった一つの方法しかない・・・・・明け渡しだ。
その最後の一歩を踏み出すのは、
その最後の明け渡しをするのは、
その人以外の誰もすることはできない。
どれほどエソテリックな力をもってしても、
マスターがそれをさせることはできないのだ。


そして、アジズとフーマンとのワークの中で、
実際に生徒達に起こったもうひとつのことは何だったか・・・

それは、フーマンに心髄する生徒達の多くに、依存が起きてしまったことだ。
フーマンの言うことは絶対となり、霊的進化に関することだけではなく、日常の些事に関することまで、自分で考えずにフーマンに聞くようになっていた生徒達が何人も見受けられた。
驚くほどに、フーマンの言うことは「絶対」なものとして、受け取っていた。
それは、マスターとしてというより、明らかにフーマンというパーソナリティとしての答えだろうというものまで、「絶対」だった。
「もはやこれはフーマン信仰だな」と思わざるを得なかったほどだ。

私は、アジズにばっさりやられたおかげで、フーマンとの適切な距離を自分の中で持つことを意識的にしてきたが、フーマンはそうではない生徒でも受け入れてくれるため、彼らの中で、それはやがて依存という形になってしまったのではないだろうか。
実際にフーマンと接していると、そうなってしまうのも、いたし方のないことだと思う。
むしろ、そうなるな、という方が難しいだろう。
そういう意味では、あまりにすごかったからだ。
スピリチュアルな道を歩む上で、マスターにある程度の依存をするのは必要なことでもある。
それは、絶対信頼の裏返しでもあるからだ。
だが、フーマンのようなマスターを前にして、信頼の中にいながら、
どれだけ自分を保ち、自分で立っていられるか、それは生徒側の大きな挑戦であり、責任だろう。
相手がフーマンであれ、自分の魂の感覚の方を信頼すること、
それが、むしろフーマンの伝えようとしたことではないだろうか。

実際、フーマンが突然教えから身を引いたのも、地球のための祈りに入ることが一番の理由であったにしても、ひとつには、その依存を断ち切らせるためではなかったかと、私はひそかに思っている。
私達は、否応なく、自分の足で歩み続けるしかなかったからだ。
それがフーマンの意志ではないにしても、存在がそう計らったのだろう。

もちろん、依存しなかった生徒達も他にたくさんいたし、そういう人たちは、フーマンなき後も、自分の内なる光をガイドとして、その道を歩み続けてきた。

でも、それができたのは、むしろアジズのおかげと言えるだろう。
アジズは、口をすっぱくして、自分の知性と感受性を使って、自分の足で努力して歩むことを教えてくれたからだ。
そして、アジズに依存したくても、ばっさり切られてしまうからだ。
そこがアジズのすごいところだ。
依存に限らず、どんな巧妙なマインドの手口でも、その洞察力で全て見抜いてしまう。

だから、自分の足で歩むことを好まない探求者や、
自分のマインドを見抜かれるのを嫌がる探求者にとっては、
アジズは「合わない」ということになるだろう。
ただ、マスターとともにいて、くつろいでいれば悟りが起こると思っている人には、
この道は「合わない」。

だが、本当に「合わない」のだろうか?
ただ単に、道とは何か、わかっていないだけなのではないだろうか?

アジズが似非マスターならともかく、
完全に覚醒した人を前に、「合わない」というのは、
マインドの巧妙な逃げ口上なのではないだろうか?
本当にトータルに、その教えに従い、できるかぎりやってみて、
それでもどうしても魂が「違う!」と叫ぶのなら、理解もできる。
そういう叫びもまた、聞いてきたからだ。
共に道を歩んできた仲間達は、皆、本当に命がけで真摯にやってきた。

だから、それもせずに、わかったような言い方で「アジズはだめ、合わない」と結論づける前に、
もう少し、自分の内側を、ハートの誠実さとともに、深く見て欲しい。

本当に深く、自分のハートに問いかけ、そこから「合わない」という答えが返ってくるのなら、
それはその人の真実だ。
魂のファミリーが違えば、そこに至る道もまた違ったものになるだろう。
自分の魂のファミリーであるマスターを探すべきだ。

エゴが「合わない」と言っているなら、まずはその自分と向き合って欲しい。
それが、スピリチュアルな道を歩む探求者としての面目だろう。

あまりにも安易に、ちょっと会った程度で、「合う」とか「合わない」とか結論づけてしまう人は、
マスターの指し示す月を見ずに、その指し示している指を見てしまうタイプとも言えるだろう。
マスターに期待するものが、自己の覚醒への導きではなく、何か違ったものを期待しているのかもしれない。
だが、それもまた良しだ。
誰しも、そういったこと全てを経験して、次第に知性と感受性、そして感情が成熟していくのだから。
ただ、それに自分で気づけるかどうか、だ。

そうでないとしたら、魂のブループリントがそこまでの目覚めを望んでいず、
アジズの指し示すものが、その魂にとって必要以上のものということかもしれない。

いずれにしても、もし本当に「合わない」としたら、
それはアジズの問題ではなく、
探求者の側の問題なのだと思う。
フーマンも、私にはアジズから離れろとは決して言わなかった。
そして、最後まで、私は他の多くの生徒とともに、アジズの元でもワークした。

そもそも、
アジズとフーマンの指し示すものは、同じだ。
2人は同じ魂のファミリーにいて、同じガイダンスの道を示している。
シヴァの道だ。
そこを見据えられるかどうか、なのだと思う。

アジズほど覚醒にまっしぐらで、生徒にもまっしぐらに覚醒に向かうことをつきつけるマスターを、
私は他には知らない。

私にとって、アジズとフーマン、そのどちらも真のマスターだ。
フーマンもすごいし、アジズもすごい。
2人は、補完しあうものであって、どちらが良くてどちらがだめというものではない。
出会えたこと、教えを受けられたことに、いつも深い感謝と愛を感じている。

これは、あくまでも、私の個人的な体験と見解であり、
生徒が100人いれば、100通りの体験と見解があるだろう。
ただ、アジズがだめなんて、全く思っていない、こういう生徒もいたのだということを、これから探求する人たちに知って欲しい。

そして、
意味のない先入観や誤解によって、真摯な探求者たちが惑わされたり、
真のマスターに出会う本当に貴重なチャンスを逃してしまわないことを、心から願う。









2013年6月25日火曜日

モリアオガエルのおたまじゃくし



モリアオガエルの卵が、無事に孵化しました♪
東京でよく見たおたまじゃくしは真っ黒だったけど、
モリアオガエルのおたまじゃくしは、半透明!
内臓と尾っぽの真ん中だけ、こげ茶色です
ぽちっと、つぶらな目が超かわいい!

肉眼だとわからないけど、アップで見ると、ちゃんと鼻があるんです!
顔はすでにカエルっぽい
ずっと見ていても、あきない・・・かわいいです

無事に育って、来年、また帰ってきてね

書道教室で、子ども達におたまじゃくしの水墨画を描かせてみました
子ども達も大喜び♪
ねらい通り、本当に素敵な作品を描いてくれました♪

思わぬギフト、幸せですね~
母も喜んで、ずっと見ています

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