2016年7月27日水曜日

神とのホールネス

私たちは、
真我である魂を通して、
神との一体、神とのホールネスに至ります

魂が、神へと至る通路なのです

私たちの魂が完全に目覚めた瞬間、
私たちは同時に、
神を体験します

完全なる魂の体験と、
神の体験は、
ひとつなのです

というのも、
魂は神とひとつだからです

それは、
圧倒的な体験です

地上のどんな感動的な体験も超えています

完全に揺さぶられ、
愛に包み込まれ、
神聖で新鮮なエネルギーに全てを洗い流され、
感謝と愛の涙がとめどなく流れ、
完全に満たされる

それこそが、
人を完全に満たし、
永遠に幸せにする、
体験を超えた体験なのです

でも、
それはまだある意味「生」の範囲の中で起こっている体験だとも言えます

創造と非創造の何か狭間で起きている体験

私たちが、
魂を完全に目覚めさせ、
その「私」を安全に明け渡した時、
私たちは「生」を完全に超え、
神とのホールネスへと滑り込んでいきます

魂は神の圧倒的存在、
その全体性の中へと溶け込み、果てしなく拡がり、
「不可知」の中へと入っていきます

魂はもはや何の境界も持たず、
もはや分離はなく、ひとつに溶け去っていますが、
そこには、
同時にその「不可知」の体験を「知っている」透明な魂が存在してます

魂の認識する機能が働いていると言うこともできます

だからこそ、
私たちは神を体験していることがわかるのです

それが、
魂の神秘的なところです

もし、そこに誰もいなければ、
体験そのものが生じようもなく、
「体験はない」ということになります

伝統的な「私はいない」という教えによって、
魂は否定され、
深い傷を負ってきました

魂の拡張機能であり、
まさに魂が神へと戻るために使うべきツールである、
エゴもまた、
ひどく否定され、
取り返しのつかないくらいの手傷を負っています

人類の霊的進化とともに、
今、私たちは、
非常に有効なツールであるエゴを温かく包み込み、
その傷を癒し、
魂を実現していく時を迎えています

そして、
魂を実現した者は知っています

それこそが最高の自由であり、
最高の歓びであり、
最高の幸せ、充足であると

そして、
魂を実現したものは語ります

神を










「支援員」がいらなくなること

先ほどのブログで、
私が障碍者を「絶対的にケアの必要のある人」と見ていると書きましたが、
それはあくまでも今の時点では、ということであることを、
付け加えておきます

私の目標は、
私たち「支援員」が必要なくなることです

障碍の程度やその特質によって、それは大きく異なりますが、
少なくとも、私が関わっているB型支援の福祉施設に通っているような人たちに関しては、
いつか、私たち「支援員」がいなくても、
社会の中で彼らが十分に安全に幸せに生きていけるようになること、
それが私の願いです

そのためのまずの目標として、
彼らが施設を自治で運営していけることです

あくまでも全て彼らのペースで、
彼らの都合で、
彼ら同士、コミュニケーションを図り、
仕事の相手先との交渉もし、
仕事の段取りもし、
仕事をし、
施設の管理もし、
問題が起きれば彼らで相談し合い、
解決していく

今の社会のように、効率を優先したり、
利益をあげることを優先するのでは、
もちろん、その可能性は低くなってしまいますが、
そうでなければ、
それだけの力を彼らは持っているのです

実際には、組織を運営していくための支援や、
多少の交通整理としての支援が必要な時もあるでしょうが、
基本的には、
その中身に関しては、
彼らが主導で進めていくのです


それがもっと進めば、
プチ福祉施設が社会のあらゆるところに存在するようになること、
言い換えれば、社会そのものが福祉施設になっていくこと、
そして、それと同時に、
彼らも彼らなりの社会の中で生きていく方法をもっともっと見出し、
自らを表現していく力をつけていけるということです

極端な言い方をすれば、
彼らを健常者に近づけようとするのではなく、
社会が彼らに近づいていくということです

彼らに寄り添い、ともに生きていく社会です

そういった社会は、私たちにとっても幸せで楽しい場になると思います

そのためには、
経済第一優先の経済信仰が終わり、
内面の豊かさ、霊的な発展が優先される社会が実現される必要がありますが、
この先、人類はそちらに向かって進まざるを得なくなると思います

そのために、
彼らから教わること、受け取ることは本当にたくさんあります

本当は、そのために彼らという存在がいるのではないかと、
密かに思っている私です



ですが、
この私の目標に対して、
今の段階で、
同じ職場で同意を得られるのは良くて一人か二人でしょう

大半は、
「そんなの無理に決まってるでしょ!」と、
一言下に却下するでしょう

社会は厳しいものだ!それを彼らも知らなくてはならない
それこそが彼らのためだと信じて疑わない職員が多いのです
まだまだ、それが現実です



知的障碍というと、
読み書きが不得手だったり、
計算ができなかったり、
形の認識力に欠けていたりなど、
そういった知的な面における未発達さや、
感情的な未発達、
また、
むしろその敏感過ぎる感受性のためと、
それを表現する方法がわからないために、
人とのコミュニケーションにおいて難しさを感じることなどが特徴ですが、
実際には、
それに精神障碍が重なっているケースが多く、
そのあり方はより複雑になっています

私が関わっている中で感じたことは、
これはあくまで、軽度の障碍の方のケースですが、
その人の障碍の特性そのものより、
両親に「受け入れられているか」どうかが、
集団の中でトラブルとなる行動や現象の現れに大きな影響を与えているということです

両親に受け入れられて、
十分に愛情を受けている人の場合、
障碍の程度、質にかかわらず、
穏やかで、他の人からも愛される傾向が強く、
障碍があることを親が本当には受け入れていない場合、
不安定になりがちで、
深刻な場合は精神障碍を伴い、
非常に不安定で攻撃的になり、
他の人たちとトラブルを起こす傾向が強いのです

もちろん、
単純に親の愛という問題ではなく、
その周りの環境や、社会の体制など、
本当に様々な要因がありますし、
親となった方々は、どの方も、
その社会がもたらす重荷を背負い、
精一杯にできることを果たされているのは確かなので、
その親御さんを責めるつもりは全くありません

ただ、少しでもその点に関して、
お互いに心を開いて話し合ったり、
少しでもその重荷を降ろしてあげられたらとは思うのですが、
それすらなかなか難しいというのが現状です

自分の子どもに障碍があるとわかった時、
それを受け入れるのは、
口で言うほど簡単なことではないでしょう

どれほど、そのご両親たちがこの社会の中で、
「いっぱいいっぱい」になっているか、
深い胸の内で、どれほど傷ついているか、
それは痛いほど伝わってきます


五体満足で、健常の子どもですら、
私たちの多くは、そのあるがままを受け入れたりしません

障碍があろうとなかろうと、
本当にあるがままを「受け入れられている」子どもは少ないでしょう

それ以前に、
あるがままの自分を受け入れることがどれだけ難しいか

やはり、
一人ひとりがそこから地道に取り組んでいくしかないのだと思います










障碍者施設での事件によせて

今朝、神奈川の障碍者施設で、前代未聞の悲しい事件が起こりました

犠牲になられた存在の魂が安らぎを得られること、
ご家族、ならびに関係者の方々の悲しみが少しでも癒されるよう、
祈りを捧げたいと思います

この事件は、犯人である元職員の男性の個人的問題に終わらず、
人間というものの深層を見て行く上で大きなきっかけになると思うので、
ここで取り上げることにしました

人間の霊的進化の上で、
この事件は自分自身の内側を見て行くための大きな示唆を与え得るものです

普段、知的障碍者の施設で働いている者としても、
本当に彼らが彼らでいられる社会になってほしいという思いとともに、
私自身も、自分の内側に深く問うてみたいと思います

そもそもがあり得るはずもない命を否定し奪うという手段を取ったことは言うまでもなく、
体力ある26歳の青年といえど、
包丁やナイフで45人もの人を刺し続けていける体力と気力とモチベーションの持続は、
尋常ではなく、
何らかの精神の異常状態や、あるいは何らかの憑依などがあったかもしれませんが、
ここで取り上げるのはそういった面ではなく、
彼が投げかけた問いそのものです

「産まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障碍者は果たして人間なのでしょうか?」

そう、彼は問いました

彼の結論は、「人間ではない」というものでした

また、彼の結論は、「回りを不幸にする存在である」というものでした

それに対して、憤りを感じたり、
「私はもちろん人間だと思うわ!」と簡単に答える人は多いでしょう

もちろん、その答えは明らかです

でも、自分の生活がそのケアのために犠牲にならざるを得なくなった時、
自分がまさにその関係者になった時、
心の底の底から、
自分と全く同じ人間なのだと、
一人の尊厳ある人間存在なのだと、
一点の疑いも、ごまかしもなく、
彼らと、その尊厳を本当に尊重して接し続けることができるでしょうか?

偽善ではなく、
意志の疎通の全く取れない、
排泄も自分でできず、
こちらの思うようには決して動いてくれない相手に対した時、
きれいごとではすまない、
自分の弱さを突き付けられるのです

「人間ではない」と結論づけた彼は、
そのまま彼自身の弱さを表出しています

「そういう人たちだからね」と片づけるのもまた、
問題から目を反らすための逃げにしか過ぎません

あるがままの彼らの姿を、その有り様を、
本当に認め、受け入れ、尊重しているのでしょうか?

本当に、そういう彼らを、
彼らのその姿そのままに愛しているのでしょうか?

本当に、彼らとともにいて、
幸せでいられるでしょうか?

皆さんは、何をもって、
自分自身が人間であるということのよりどころにしているのでしょうか?

人間であるということは、
どういうことなのでしょうか?


私の友人に、知的障碍のある娘さんを持っている人がいます

その人の言葉で、私が生涯忘れ得ない言葉があります

「自分より先に子どもが逝くと、ホッとするんだよ」
「最後まで、自分で見守れて良かったね、って、障碍者の親同士は話しているんだよ」

その言葉は、ものすごい衝撃でした

私にとっては、子どもが先に逝くことだけは絶対に起こらないで欲しい、というのが、
親の当たり前の気持ち、
唯一の絶対的な願いだと思っていたからです

「自分より先に死んで欲しい」というのが、障碍者の親の本音であり、
それが彼らの愛なんです

自分の死後、子ども達がちゃんと生きていけるのか、
不幸な目に合わないか、
困ったり、苦しい思いをしないか・・・・・
そう、心配しているのです

もちろん、それだけではない

その言葉を聞いた時、
その裏にあるたくさんのたくさんの複雑な思いを受け取りました

それだけ、この社会では、
障碍者の親であるということは、
それだけで大きな重荷を背負ってしまっているのです

ホッとするのは、
その重荷を降ろせるからなのです

もちろん、そうでない親御さんもたくさんいらっしゃるでしょう

障碍を持つ存在たちから、
たくさんの愛とたくさんのギフトを受け取ったという方もたくさんいるし、
私も、その一人です

一緒にいて、「幸せ」を感じられるのです
パワーを、元気をもらえる

彼らは、決して、「回りを不幸にするだけの存在」などではないのです

彼らという存在の本当に素晴らしい側面を見て行ける人もたくさんいます

現場で働いている職員の多くは、
だからこそ、働き続けているのだと思います

「えーっ、人間じゃないよ、天使だよ!」と、言い切ってしまえる人もいるかと思います

これからはますます、そういう人が増えていくと思います

それでもなお、
本当に「同じ人間」として心底見ているのか・・・・
そのハードルは案外、高い

その疑問は、私自身にも言えることです

私は、「絶対的にケアすべき相手」として見ている
「絶対的に保護すべき相手」として見ている

もちろん、彼ら一人ひとりの意志や思い、願いを尊重し、
それを少しでも汲み取り、その実現の手助けをしたいと思う、
「手助けすべき相手」として見ているのです

それは愛と言えますが、
でも、同時に、同等の、対等な相手として見ているのかというと、
そうではない、ということです

本当に、一人の対等な人間として、
相手を尊敬していけるのか・・・

このハードルは結構高いのです

そういう、一人ひとりの本音が、
社会を形づくっていくのだと思います


ただ、「ひどい事件だ」と片づけるのではなく、
ただ心を痛めるのではなく、
まして他人事と見るのではなく、
ぜひ、この機会に、
自分自身の本音と語り合ってみてください

正しい答えはなくていい
お決まりの答えもいらない

ただ、自分自身の本音と触れ合う

そこからこそ、
本当の変化が生まれてくると思います








2016年7月20日水曜日

このところ、体調がよろしくなかったので、
ただいま、伊豆の白浜に浄化に来ています♪

白浜までは、小1時間かかり、
もっと近くに浜はいろいろあるのですが、
やっぱり、この広さ、
この砂の白さ、
この水の綺麗さは、
白浜ならではです(*´ω`*)

子どもの時から、よく行っていた砂浜は、
千葉の九十九里、
日本の三大砂丘のひとつだったので、
やっぱり、海はこの広さがないとね(*´ω`*)

基本的に波が怖いので、
足が届かないところまでは到底行けませんが、
それでも、ゆらゆらぷかぷかしているだけで、
本当に気持ちがいいですヘ(≧▽≦ヘ)♪

ふわわ~✨

太陽の光も、
海風も、
最高です(*´ω`*)