2018年12月31日月曜日

2018年の終わりに その2

いよいよ大晦日の夜です

今年は、一段と神道との繋がりが現れて来ました

これまで、霊的進化の道を歩む上で、
その時期によって、様々な宗教に関心を持ち、
そこから多くのものを受け取って来ました

本格的な修行そのものは、
アジズとフーマンに出会ってから始まり、
彼らの教えの元に歩み、
その後は、自らの内なる光を宝燈として歩み続けて来ました

生まれた家庭が、佛立宗という日蓮宗のマイナーな宗派で、
物心つく頃から、仏教が身近にあり、
お寺の活動に熱心な母に付いて回っていたため、ずっと仏教とともに育って来ました

そのため、
いつでも仏様に守られていることは、
体験的に、身体で知っていました

ベースに、この仏様への信頼、
宇宙への信頼が培われた事は、
人生にとってとても大切な事だったと思います

ただ、日蓮宗は非常に排他的な面を持っていることと、お教化という、いわゆる宗門への勧誘を信徒の最も重要な奉仕として捉えているため、
僧侶の講話も他の信徒達の体験話も、
お教化のことがメインで、
子ども心にも、なぜ仏様の事や宇宙の事、
仏教や悟りの事を話してくれないのかと、
いつも物足りなく感じていました

仏様に守られて、人生は順風満帆に進み、
可愛い子どもと裕福な暮らしにも恵まれて、
何不自由ない生活を送っていましたが、
30歳を過ぎた頃、理想と違う現実の自分の母としての姿に、
息もできない程の自己否定に落ち込みました

それは、魂からのアラームだったのですね

その時に、自分が何を探しているのかわかり、
自分なりに探求を始めました

そして、家の近くにあった不動尊の瞑想に通い始め、
空海密教と出会いました

排他的な日蓮宗と違い、広くて全てを包み込む密教に強く惹かれ、
密教を学び始めました

でも、最初に瞑想会に参加し、最後の唱明を聴いた瞬間、
それまで「南無妙法蓮華経」のマントラに守られていたカルマのスイッチがカチっと動き出したのがわかりました

カルマを体験し、昇華していくことは必要な事だったので、それそのものは良かったのですが、
改めて「南無妙法蓮華経」の力の凄さも知りました

密教で10年ちょっと学びましたが、
本質的な変容は、当たり前ですが起こらず、
渇きに渇いた私は、
ようやくそこで本当の師に出会うことになりました

それがアジズですが、
彼の教えのベースは禅でしたので、
そこから禅の実践的で本格的な修行が始まりました

そして、フーマンとの出会いによって、
ハートが開かれ、
自然にイエス・キリストに惹かれることとなりました

同時に、フーマンのバックグラウンドであるスーフィーにも惹かれていきました

フーマンは、日本の女神であるアマテラスとコノハナサクヤヒメに呼ばれて、日本に教えに来る事になったのですが、
アマテラスから、「私の娘達の手助けをしてください」と頼まれたそうです

フーマンから直接、「アマテラスとつながれ」と言われ、伊勢神宮に行ったのが始まりで、日本の神々との繋がりができ始めました

全く別のところの霊能者の力を持った人にも、私を見ると「アマテラス、アマテラスって来るんだけど」と言われたり、アマテラスとの縁を強く感じる事が度々ありました

イエス・キリストもですが、
実際にアマテラスのエネルギー体が会いに来てくれた事も何度かありました

私の産土神社も神明神社で、御祭神はアマテラス、本社は伊勢神宮だと言うことが後になってわかり、
やはりアマテラスとの縁が深い事がわかりました

その後、なぜかスサノオから頻繁に呼ばれ、各地の神社を巡る旅が始まり、
4年程前から、神武天皇に呼ばれ始めて、
神道との関わりが大きくなって行きました

生家の宗教から、子どもの頃は神社の鳥居をくぐってはいけない、神社で礼をしてもいけない、と教えられて来たのが嘘のように、
今では神道の重要さがわかるようになり、
これからの日本、世界にとって、
神道が非常に重要になって来ると思うようになりました

3000年以上、神道によって、
一つの神によって、守られて来た国は他にはないと言います

神道を知るようになってから、
天皇への見方も180度変わりました

それは、奈良の橿原神宮にある神武天皇陵で、まさに日本を守り続けているそのエネルギー、おそらく、天皇家にずっと伝えられているそのエネルギーを実際に体験した事によって、
ずっと秘されて来たものがわかったからに他なりません

これからの世界にとって、神道の何が重要なのか

それは、そのエネルギーそのものと
もう一つは、神道では禊が柱になっていることです

神道程、人としての清らかさを求める宗教は他には知りません

どの宗教も、人としてのあり方は説いていますし、浄化も重要視していますが、
神道のそれは比較にならないように感じます

最も透明で純粋なのです

現存の神社が実際にどれほど真摯にそれを行っているかは知りませんが、
というのも、今年出雲に参拝の旅に出かけた折、
以前訪れた時には素晴らしかった神社が、なにやらおどろおどろしい場所や気枯れした場所に変わってしまっていたところが多かったからです

余談になりますが、
このようにエネルギーが落ちてしまった理由は、
神社の神職がパワースポットブームに乗って金もうけに走ってそれに寄ってたかった人達の欲か、
あるいは、自称神社を浄化する人達や光を降ろす人達の、
そのマインドフルなエネルギーを降ろされまくったからではないかと思います

本当に浄化できる力のある人は、人知れず行うでしょう
いえ、そういう人は、ただ参拝するだけで清まるのです
「私が浄化してあげよう」などという我のエネルギーを降ろすより、ただ箒で掃き清めたり、雑巾で拭き掃除する方が、よほどエネルギーをきれいにできます
普通の人が、ただ神に感謝する、それが場を清めていきます
そういう、謙虚でシンプルな行いの方が、
美しいのです

話は逸れましたが、
今年後半に入って、
ようやく私の中にも、
きちんと神々を祀ろう、
神様にちゃんと顔向けできる生き方をしようという心が自然に芽生えて来ました

それまでも、
伊勢神宮と産土神社と氏神神社の御札は、
年に一度は参拝して新しいものと交換して神棚に祀っていましたが、
毎朝神棚のお米とお水とお塩を取り替えて、
礼をするのは大サボりでした

今は自然に、毎朝神棚に向かいたくなります

来年は、さらに深く神道を学んで行きたいと思っています

ご利益(ごりやく)という、
この現象世界でより良く幸せに生きるために宗教を利用するのではなく、
この世にあって本当に清らかな心を持つために、
神道の神に向かい合って行きたいと思っています

神道の神様は、厳しいです
ちょっとのごまかしも許してくれません
だからこそ、です








2018年12月30日日曜日

2018年の終わりに その1

前回、記事を載せてから、半年以上が過ぎてしまいました
というのも、立て続けに東京と伊豆の両方のPCが壊れ、未だに私専用のPCのセットアップが終わっていないからです(´・ω・`)

でも、大晦日を目前にすると、やはり今年をきちんと終わらせ、新しい年を新たに迎えるためにも、ブログを書きたいと思い、スマホからの投稿にチャレンジすることにしました

無事にアップできるといいのですが

今年は、地球規模での大災害が軒を連ね、未だに世界各地での大地震や噴火が相次いでいます

それと同じように、私の個人的な生活も怒涛の大波に襲われ、尋常ではない忙しさに見舞われました
12月の誕生日に還暦を迎えましたが、この年は本厄の年でもあるのですね
次から次に押し寄せる波に、これでもかと、動いて来ましたが、さすがに肉体からのSOS、腎臓や心臓がくたびれ果ててしまいました(´・ω・`)

私の母も、還暦直前に乖離性大動脈瘤で倒れていて、母のカルマをことごとく立て直して来た私なので、用心しましたが、どうにか帯状疱疹という型で通過する事ができました

とはいえ、さすがに自分でも命の危機を感じる程の深い疲労感でした

薬は使わず、基本的には落ちた免疫力を高めて行くために、今回は野口整体だけではなく、シュリシュリラヴィシャンカールのスダルシャンクリア呼吸法と、エドガー・ケイシーのひまし油湿布の助けを借りました

それでもなかなか完全に回復しないのでいるので、水ごりが良さそうに感じ、少しずつ始めているところです

「そんな事言ってないで、とにかく休養しろ!」という声が聴こえそうですが(;^ω^)、私の人生、休養したくてもさせてもらえないし、何か、徹底的に浄化、禊をする事へとどうやら押し出されているようです

肉体だけではなく、パートナーとの関係性を通して、私のパーソナリティの徹底的な浄化、これは浄化というより、変容を求められていると言った方がいい程、生易しくない事が求められました

ただ、不要なものを手放していくだけではなく、自分自身を超えて行く事でもなく、まさに、パーソナリティの変容です

これは、大きなチャレンジです

今年、アナディ日本招致の動きの中で、アナディとの関わりを通して、つくづく、霊的進化の道を歩む人は、自分自身のパーソナリティと直面し、しっかり向き合う事が重要であると感じて来ました

霊的進化が進めば進む程、パーソナリティが手つかずのままだと危険であることを、かつての師の今の姿から知る事ができました

自分自身のパーソナリティの持つ問題は、自分ではなかなかはっきりと見えない

でも、他者という「鏡」が映し出してくれる
相手が教えてくれるのです

それは、あまりにも基本的なスピリチュアルな叡智ではありますが、それを真摯に受け止める事は本当に難しいです

ニューエイジ思想からこのかた、ありのままの自分でオッケー、というムードがスピリチュアルな世界でも当たり前になっています

それは、ある開放をもたらしてくれたため、霊的進化のある程度の段階までは有効ですが、それではやはり、最終開放の手前で躓くのです

魂によって違いがあるのかも知れませんが、真の解脱を求めている魂にとっては、もし、自分のパーソナリティに何らかの問題を残したままだと、先に進もうと足を踏み出した時、その自分自身につまづいてしまうのです

それゆえ、それぞれの宗教の伝統が、人としてのあり方を説いて来たのでしょう

それは、何も法律に反する行為を行わないというレベルの事ではなく、邪心を持たないというような事や、怠け、自分自身の証明、正当化、相手を利用するなど、自分自身が潜在意識的に何をしているのか、その低い性質を目を逸らさずに見つめ、変容させていかなければならない、ということです

誰しもが、自分の中に、高い性質と低い性質の両面を携えています

相手の低い性質は許さなくても、自分の低い性質は許してしまうのでは、やはり、最終開放には至れないのです

相手の低い性質は許しても、自分の低い性質を許してはならない

それは、自分を責めるという意味では全くありません

ありのままに認める、という事は、それが自分の低い性質であることを認める、ということです

認めて始めて、次の一歩を踏み出せます

そのレベルでの認めこそが、真の叡智であり、真の開きであり、すでに変容への一歩でもあるのです

今までも散々浄化はしてきましたが、さらに深いレベルでの浄化ならぬ変容です

そんな理解を得、そして、その理解から自分自身が逃げられない、つまり、自分がやらなくちゃならない事も知り、それに向かわされた1年でした

なので、本当にむちゃくちゃ大変ではありましたが、実に実り多い年でした

本厄って、悪い事が起きるのではなく、大変な事が起きるけど、それを通して成長していける年なのですね(*´ω`*)

来年は後厄
大掃除の後片付けの1年になりそうです🎵

今年1年、ありがとうございました

来年もよろしくお願いいたします

良き年をお迎えください