2019年3月24日日曜日

なぜ苦しむのか2 苦しみの本質(1) トータル・パス ~魂への道~ 3 

前回、なぜ苦しむのか、その理由について書きました

この世界に生きる上で苦しむのは、
霊的進化への道へと促すための魂からのアラームであり、
その人がその段階に成熟して来ているということ、
そして、すでに深いところで、
この地上の次元より、もっと高次の世界を知っているがゆえなのです

では、
その苦しみの本質は何なのでしょう?

表面的に見れば、
人によって、苦しんでいる原因は様々です

人間関係だったり、
生活レベルのことだったり、
仕事の事だったり、
病気や身体的な不具合だったり、
大切な人を失ったり、
数え上げればきりがないほど、
その原因は多種多様に富んでいます

でも、
それらの苦しみを突き詰めていくと、
たいていのことは、
2つの感覚に収束していきます

それは、一体何でしょう?

例えば、
愛する人が自分以外の人を愛していて、苦しんでいる人がいます

「彼が私を愛してくれさえしたら、私は幸せになるのに・・・
他に何もいらない」と、
毎晩泣きながら、思い詰めていることでしょう

苦しいですよね

寂しくて寂しくて胸が痛んでいることでしょう
深く傷ついているでしょう
欲しくて欲しくて渇望しているかもしれません
嫉妬の炎に焼かれているかもしれません
思い通りにならない苛立ちや無力感も感じているかもしれません
愛されない自分に対して、卑屈になっているかもしれません
相手を恨んでいるかもしれません

いろいろな感情が心の中に押し寄せて、
嵐のように吹き荒れていることでしょう

でも、
それらの底辺で、
心の奥底で、
その人がずっと感じている感覚があるはずです

さみしい・・・悲しい・・・私はひとりぼっち・・・

そう、
それは「孤独感」です

愛する人が私のところに来てくれさえすれば、
この「孤独感」で空いた穴は満たされて塞がれるはずだ・・・

私をひとりぼっちにしないで・・・!!!

だからこそ、
愛する人を欲してやまないのです

自分自身が満たされるための愛でなければ、
相手が自分を愛そうが愛すまいが、
苦しむことはありません

様々な苦しみを引き起こしている、
深いところにある原因の一つは、
この「孤独感」です

この「孤独感」を消すために、
人はあらゆる関係性の中で、
相手を欲し、
それが手に入らずに苦しみます
いえ、
手に入ったところで、
相手がその深い「孤独感」を満たすことなどできはしないため、
今度は「相手のどこそこが悪いから、私は満たされない」などと、
難癖をつけ始め、
結局はせっかく手に入った相手すら失ってしまいます
あるいは、
依然同じ「孤独感」を抱えたまま、
半ばあきらめて、その相手との関係を続け、
他の何かでその「孤独感」を埋めようとし続けます

この「孤独感」を持っている人は、
何かを欲し続けます


では、もう一度、同じ例で考えてみましょう

愛する人が他の人を愛し、自分は愛されずに、苦しんでいる人がいます

「あの人が私を愛してさえくれたら、私は幸せになるのに・・・
でも、彼は私を愛してくれない・・・私ではだめなんだ・・・」と、
布団の中でぎゅっと体を丸く縮めて、
深い痛みに耐えていることでしょう

同じような状況でも、
ちょっと違う感覚が心の中に生じています

「どうせ私は愛されない・・・私には価値がないんだ・・・」

深く傷ついているのは同じでも、
自分の心を苦しめているのは、
自分自身を否定してしまうことです

これは、次のような例でもいいでしょう

相手のために良かれと思って、すごくがんばってやったのに、
裏目に出て、思ったほど喜ばれなかったり、
時には怒られたり、批判されたりする人がいます

「僕はあなたのためを思ってがんばったのに・・・何のためにがんばったんだろう・・・
どうして認めてもらえないんだろう?僕が間違っていたのか?」と、
傷つき、落ち込みます

この人が心の深いところで感じているものは、
何でしょう?

どうして愛されないんだろう・・・
どうして認められないんだろう・・・
どうせ愛されない・・・
どうせ認められない・・・
私がだめだからだ・・・
私が悪いんだ・・・

そう、
それは「罪悪感」です

様々な苦しみを引き起こしている、
深いところにある原因のもう一つは、
この「罪悪感」です

この「罪悪感」を心の底に抱えている人は、
常に誰かに認めてもらうことを欲しています

認めてもらえれば、
自分が悪くないことを証明してもらえる・・・

でも、実は本人が思っているのとは逆に、
実際はちゃんと認められていることが多いのです
それにもかかわらず、
その人は自分を責め続け、
他人の賞賛や認めている言葉を受け取らずに、
その「罪悪感」の泥沼にどっぷりと漬かり続けます

あるいは、
あまりにもその人の「認めて!認めて!」という声が大きすぎるために、
他人は認めたくても認めるのが嫌になってしまい、
かえって批判したりしてしまいます

そうすると、
なおのこと、認めてもらうためにがんばり、
認めてもらえずに落ち込むことを繰り返します

実は、
自分が自分を認めていないだけなのです
自分が「不完全」だと責め続けているのです

でも、
他の人から認めてもらわないと、安心できないのです

表面上はあらゆるバリエーションの苦しみがありますが、
ずっとその痛みをたどっていくと、
大抵のものは、この「孤独感」と「罪悪感」にたどり着きます

心の中で起こることは、
例で書いたものと反転して出ることもあります
つまり、
過剰に孤独でいることを好んだり、
自分は完璧だと信じて、他人の言葉を全く受け付けなかったりもします

皆さんも、
自分の中の痛みを深く見ていき、
自分の最も奥底でずっと抱え続けている感覚、
何を経験しても、最終的にいつもたどり着く感覚、
それが何か、
探求してみてください

心の奥底で、
強烈に痛みを発しているもの

あなたを、
苦しめ続けているもの

あなたの「奥底の叫び」は何か?!

これらの深いところにある感覚が、
人を突き動かし、
それを埋めようと、
必死にあらゆるものを求め続けさせるのです


では、
この「孤独感」と「罪悪感」は、
一体どこから来るのでしょう?

その大元は何なのでしょう?

それこそが、
実は最も探求すべきポイントなのです

なぜ、「孤独」だと感じるのでしょう?
なぜ、「罪の意識」を感じるのでしょう?

それらを感じる時、
人は「自分が満たされていない」と感じています
人は「自分が完全ではない」と感じています

なぜ、「満たされていない」のか?
なぜ、「完全ではない」のか?

本当は、
その答えをここに書きたくはありません

なぜなら、
自分の内側で真剣にその問いを問い続けた時、
ある瞬間に人はブレイクスルーし、
その答えを強烈なインパクトとともに受け取るからです

それこそが、
ひとつの覚醒であり、
恩寵だからです

続きを読む前に、
実際にご自身で真剣に探求してみてください


実は、
人が苦しんでいる時、
それも、深く深く苦しんでいる時、
その人は「魂」のすぐ横にいるのです
「神」の眼前にいるのです

「魂」に「神」に触れていると言っても過言ではないほど、
近くにいます

もし、
人がその苦しみという海の中に飛び込めば、
次の瞬間、
その人は、自分が「神」という海の中で抱きかかえられているのを知るでしょう

そう、
海の表面に映っているのは、「苦しみ」に見えます

でも、その表面を突き破れば、
あなたはもう、その海こそが「神」であることを知ります

「神」は、鏡となって、あなたの姿を「苦しみ」として映し出します

海の中に入っていない、
つまり、
「神」と分離したあなたの姿を、
「苦しみ」として映し出しているのです

「苦しみ」とは、
分離です

人は、最も深いところで、
「満たされる」ことを知っています
「完全である」ことを知っています

「神」とひとつだったことを知っているのです

でも、
この次元に産まれ、生きる時、
なぜかそれを忘れ去ります

でも、
最奥のその古い記憶があるからこそ、
そうではない状況に、
人は苦しむのです

「孤独」なのは、本来ひとつである「神」と離れているからです
「不完全であることに罪悪」を感じるのは、完全である「神」と離れているからです

おそらく、
これがキリスト教でいう「原罪」なのでしょう

「苦しみ」は、
あなたが「神」と再び一つになるための、
入口です

それは、
「神」を忘れて、再び「知る」ための、
通路です

それは、
あなたが再び「完全」になり、
「満たされる」ための乗り物です

それは、
あなたの最も古い記憶を、
裏返しにして映し出しているのです

もし、
あなたが「苦しみ」を持っているなら、
すでにあなたには全てが与えられている、ということです

だから、
「苦しみ」から逃げるのではなく、
「苦しみ」を恐れるのではなく、
「苦しみ」に飛び込み、
「苦しみ」を突き抜けてください










































2019年3月23日土曜日

この時期、目と頭のケアを

緊急のお知らせです❢

春は、気が立ちます

冬の間、
地に停滞していた気が下から上に立ち上がり、
植物達の芽が吹くように、
人間の身体も気が下から上に上がり、
頭に気が集まります

その時に、
頭がこわばったままだと、
血行異常を起こしたり、
精神状態が不安定になり、
落ち込みやすくなります

よく、「木の芽時」と言われるように、
この時期に鬱っぽくなったり、
精神異常を発症したりする人が多くなるのは、
そのためです

PCやスマホが生活の中にすっかり入り込んだせいで、
ほとんどの人が、
目の疲れ、緊張が蓄積され、
頭がガチガチにこわばってしまっています

もし、身近で鬱になった人がいたら、
心理的な原因より、
身体的な原因を改善するよう、
アドバイスしてあげてください

目や盆の窪を蒸しタオルでよく温めたり、
マッサージをするようにして、
とにかくよくケアをしてください

地球的な磁場の変動や電磁波の影響もあって、
とにかく皆さん頭がガチガチで、
大変な状況になっています

ご自分でするのが難しい方は、
ヘッドセラピーや野口整体の「頭の穴おい」などを施術いたしますので、
ご連絡ください


2019年3月22日金曜日

精神(スピリット)補足

先日、精神(スピリット)について書きました

今更、精神の事なんて、と思われる方も多いと思いますが、
実はこれ、かなり重要なのではないかと、
書いているうちに思いました

それで、少し補足を書きますね
(書き終わってみたら、補足どころではなくなりました(^o^;)

先日は、精神と意識と心の違いについて触れましたが、
この3つはそれぞれ切り離せる別のものという訳でもなく、
どこからどこまでが意識で、
どこからどこまでが精神、
というようにきっちりと線引きをして分けられるものではありません

それらは複雑に混じり合い、
相互作用しているからです

それでもなお、
意識、心、精神のそれぞれが持つ味わい、エネルギー的様相は明らかに違っています

意識、精神はより魂に近く、
心はよりパーソナリティに近いと言う事もできるでしょう

よく、精神性が高いとか低いとか言いますね

皆さんも、直感的に、他の人に対してそう感じる事があると思います

それは、
精神が高い人と、低い人がいるということでしょうか?

私は、そうではないと思っています

本来の精神そのものに、
高低や貴賎はありません

あの人の精神は優れていて、
この人の精神は劣っているなどと、
そういう事はありません

精神は、誰のも素晴らしいものです

ただ、
精神性が高いという人は、
精神性が低いという人と比べた時、
より、魂に近いところにいる、
という事ではないでしょうか

魂に近いゆえに、
その現れである精神性がより強く発現されている、という事です

魂の精神とパーソナリティが調和し、
統合されていればいるほど、
その人の精神性が高くなるのです

自分自身の精神が何か、
すぐによくわかる人は、
すでに魂が現れ始めています

それに反して、
精神?何の事だかよくわからない、
心ならよくわかるという人は、
まだ魂が眠っていて、
パーソナリティだけで生きている人と言えます

さすがに、
心もどれの事だかさっぱりわからない、
という人は、
このブログ自体を読むことは決してないでしょう

自分の心がよくわからない、
という表現はよく聞きますが、
それは、心自体がどれかわからないという意味ではなく、
心の中で、本当はどう感じているか、
何が正解なのかよくわからない、
という意味ですね

ですから、
ほとんどの人は心が何かを知っているはずです

ちょっと話は逸れますが、
ハートの側面に働きかける際、
ハートがよくわからないという人が案外多くいます

その場合のハートは、
厳密に言えば心とは微妙に違うものなのですが、
道の初期の段階では、
ほぼ同じものとしての理解で十分です

それにも関わらず、
ハートがよくわからないという人は、
おそらく、
心の中からそのエッセンスだけを抽出して取り出そうとする、
最初から高度な事をしようとして、
かえってわからなくなっているのだと思います

最初は、
子どものように無邪気に、
嬉しさや寂しさなど、いろいろな感情を感じているところを感じればいいのです

ハートのエッセンスを感じるためには、
クリアなアウェアネスや深いビーイングの要素が絶対的に必要となります

そのため、
それはかなり霊的進化が進んでからになります

では、思考と心は同じなのか、違うのか?

これは、広義の心では同じであり、
狭義の心では違うものと言えるでしょう

知的な側面が強い人の場合、
0か1か、
黒か白か、
という思考回路が強いケースが多く、
どちらでもない場合、
あるいはどちらでもある場合、
よくわからないという結論になってしまいがちです

直観的な理解を磨いて行く必要がありますが、
直観は、
知性だけではなく、
ハートとアウェアネス(気づきと洞察力)、
それとある程度のビーイングのコンビネーション、
そして、
クラウンチャクラが開いている事、
そうですね、本当の直観のためには、
丹田のチャクラも開いている事が要求されるでしょう

この社会を生き抜くためには、
思考の力は頼りになったでしょうが、
霊的進化の道を歩む場合は、
それだけ突出させては、かえって邪魔になってしまいます

これまでの人生、
何を重要視して、どう歩んで来たか、
それも問われる事になります

精神というのは、
思考や感情や行いの方向性を決定するものです

例えば、
自分の心の中に、
「あの人が妬ましい」というネガティブな思考と感情が起きたとします

その時、
あなたの心の中では、何が起こりますか?
あなたは、どうしますか?

その感情そのままに、
何の疑問も差し挟まずに、
相手にぶつけ、
相手の足を引っ張ろうと画策しますか?

それとも、
その感情や考えがぐるぐる回るのを止められなくても、
どこかで、
「こんな事思ってちゃだめだ」
「こんな気持ち、嫌だ」
と、自分で自分を判断していますか?

あるいは、
その感情や考えを手放そうと、
努力しますか?

後者になればなるほど、
精神が発現していると言えるでしょう

精神が、
感情や思考の暴走を止めるのです

人間である以上、
そしてこの二元、すなわち好き嫌いの両極が存在する次元に生きている以上、
真にそこから解脱しない限り、
二元である感情や思考を無くす事はできませんし、
どちらか一方の極だけを取る事もできません

ポジティブがある以上、ネガティブがあります

光がある以上、闇があります

でも、
瞬間、瞬間、
どちらを選択するかは、
私達自身です

思考や感情がどうしても駄々をこねて、
どうすることもできずに、
その言いなりになってしまう事もあるでしょう

自我は、自己主張や自己満足のためにはその方が都合いいからです

でも、
精神が健全に存在していれば、
どこかで居心地が悪く感じ、
自分の中で罪悪感となって残ります

その僅かな居心地の悪さ、
違和感、罪悪感に、
敏感であるようにしましょう

そして、
精神の指し示す方向性に、
自我も沿っていくよう、
浄化し、
努力していきましょう

少し前にブームになったスピリチュアルムーブメントにおいて、
「ありのままに」
「自分を受け入れる」
「自分を愛する」
あるいは、
「わくわくする事を」
といったものが溢れていました

それらは、もちろん真実でもあると同時に、
浅い理解で行うと、
かえって自分の精神を痛みつけていく、
ということを知ってください

もし、あなたがあなたのネガティブな感情の「ありのまま」暴走してしまえば、
それは相手も自分も傷つける結果となるのは避けられないでしょう

そういう感情がある事を受け入れる、認める事と、
そのままに暴走する事は全く違う事です

実は、本当に認められたら、
その感情は穏やかになるか、
消えてしまいます

今や「自分好き」の一見ハッピーな人達もたくさんいます

でも、その人達の知っている「自分」は、
ごく表層の、
影としての自分でしかありません

それは、見たくないものを見ないようにしているだけなのかも知れません

あるいは、
精神がまだ全く眠っているか、です

「わくわく」も、
「楽(らく)」と勘違いしている人が多く見受けられます

実は、
魂の選択は、きつい事、しんどい事、大変な事が多いです
成長のためですから、当然の事と言えるでしょう

精神が発現している人は、
きついのがわかっているのに、
わざわざきつい方を選択してしまいます

それでいいのです

それなのに、
きついのはわくわくしないから、と、
楽な方を選択し続けてしまうと、
心の奥底に、
たくさんの不純物が知らず知らずのうちに溜まり、
ある時、苦しくて苦しくて仕方なくなります

その時に気づければいいですが、
「わくわく」信仰にハマっていると、
さらに深みに入り込み、
精神は痛手を負っていきます

そうなると、
本当の魂に近づく事が困難になってしまうでしょう

そもそも、
精神がすでに発現している人は、
それらの教えの浅さ(教えそのものは深くても、それを伝える人の理解の浅さ)をすぐに見抜けるでしょう

確かに、
それらの教え、特に「わくわく」は、
深刻で重くなりがちな人生や、
ガチガチの信条や教義に固められた不自由な霊的修行、
「無我」の誤解から生じた強烈な自己否定の歴史に、
風穴を開け、
ある種の自由さと軽やかさ、
そして自己愛をもたらしてくれました

魂本来は、
自由で軽やかで、愛そのものです

その恩恵は素晴らしいものでしたが、
それだけでは先に進めなくなってしまうでしょう

このブログを読まれるような方は、
もっと先に行こうとするはずです

それには、
あなた自身の精神に注目し、
その声に耳を傾ける事が必要です

精神を指標とするためには、
「わくわく」より、
「楽しい」より、
何があなたを本当に「勇気」づけるか、
何があなたの「底力」を発揮させるか、
何があなたの「可能性」を引き出すか、
何があなたの背筋を伸ばし、「しゃんと立たせる」か、
何があなたをより「大きくする」か、
何があなたをより「豊か」にするか、
何があなたを本当に「完結」させるか、
それを見極めてください

それらこそ、
実行し、実現した時に、
本当に「楽しく」、「魂が打ち震え」、
「満たされる」のだということを、
知ってください

目先の楽しさに惑わされないでください

精神が、
それが何かを、
何を選択すべきかを、
何をすべきかを、
教えてくれます

精神とは、
まさに「神」の「精(エッセンス)」なのです

あなたが、
あなたの精神と共にあることを










2019年3月21日木曜日

宇宙元旦


今朝、今年一番のうぐいすが鳴きました🎵
本格的な春到来ですね

リトリートの朝一の瞑想中、
昨夜から続く浄化の雨の合間に、
「ケキョ、ケキョ」と
まだうまく歌えないのかと思っているうちに、
「ホーケキョ」🎵

今日は満月の春分の日で、
春分の日は占星術で言う1年のスタートの日であり、
「宇宙元旦」とも言うそうですね

しかも今年は満月が重なり、
かなり強力な一日になりそうです

外も晴れたり雨が舞ったり、
風の強い春の嵐です

浄化も佳境といった感じです

1年のスタート、
昨日まではまだ2018年という年の影響が残っていて、
体調を崩したり、
古い感情が出て来たり、
何かトラブルや大きな変化があった人も多いのではないでしょうか

地球的にも、
各地で地震、噴火も未だに活発です

日本では、
天皇の交代、元号が変わるという大きな変化の節目にあたります

長い目で見れば、
大きな変容という素晴らしい結果に至る事ですが、
そこまでのプロセスは、
人類にとって、
個々の人達にとって、
かなり厳しいものになるのでしょう

その厳しい状況の中でこそ、
その人の真のあり方が問われます

それは、
あなたの「精神」を、
大いに発現するチャンスです

この二元の世界を超えた次元に根ざした、
無条件の安心、絶対の平安にくつろぎながら、
「宇宙」への無条件の信頼に委ね、
でも、
目の前に起こる事態にはいつでも真摯に、
愛のスペースから、
取り組んでいきましょう

その結果は、
必ずしも世間で言う「成功」という形にはならないかも知れません

今までの、
「成功」という価値観自体がひっくり返るかも知れません

それは、
人々のマインド自体が変容するからです

何が正しいのかも、
何が本当に自分を満たすのかも、
変わって行くでしょう

今までのマインド、
つまり集合意識そのものが掻き回され、
ひっくり返り、
変容していくからです

人々は、
それでもしばらくは馴染みのあるマインドに、
しがみつくでしょう

自分の中に、
こんな無意識の思い込み、信じ込み、
あまりにも当たり前で意識したこともなかった「前提」「仮定」があったのかと、
気づかされて行くでしょう

それらに意識的である事で、
それらを手放していく事ができます

いつまでも古いマインドにしがみついていると、
変容のためのプロセスも、
悲惨なほど辛いものになりかねません

でも、
もし、「脱皮」というプロセスに自ら協力すれば、
それはあっという間に完了し、
あなたの背に美しく強い翼が生えているのを見る事ができるかも知れません

あなたは、
変容という未来に羽ばたく人になるか、
古ぼけた過去にしがみつく人になるか、
この1年のスタートの日に、
決意するといいでしょう

新しき世界の始まりへと🎵





2019年3月16日土曜日

精神(スピリット)

精神とは何でしょう?

日本人にとって、
「精神」、あるいは「精神性」という言葉は比較的身近であり、
その定義を明確に言語化するのは難しいけれど、
直感的的に理解、認識している言葉と言えるでしょう

ウィキペディアによれば、
精神(せいしん)は、意識、気構え、気力、理念といった意味を持つ言葉。」
とあるように、
多くの場合、なんとなく、
「心とか意識とかだけど、でもなんとなくちょっと違うかなあ」
と感じているのではないでしょうか

「心」もまた、大雑把な言葉ではありますが、
その中に気持ちとか感情が多くの位置を占めているように感じられるのではないでしょうか

「心」には、
怒りや悲しみ、恨みや妬みなどネガティブな思考や気持ち、感情、感覚、
誰かに対する愛情や思いやり、気配りなど、
様々な要求や欲、
そういったいろいろなものが含まれています

「意識」とは、
人がまさに存在し、
この外界を認識しているものそのものであると言えるでしょう

「意識」そのものには、
あまり色がなく、透明で、
「心」とは違い、内容物はありません

とはいえ、
「意識」の中に「思考」が現れると解釈する人もいるでしょう

では、
「精神」とは何かと考えた時、
どんな感覚を思い浮かべるでしょう?

「意識」とは違い、「精神」は明らかに何らかの指向性を携えているように感じられます

ある種の色合い、ある種の光度、もしくは光色、
あるいは、ある方向性を持っていると感じられます

けれど、
具体的な思いや感情や思考、行為ではなく、
それ以前の、
それらを決定していくための指向性のようなものです

その人の「あり方」と言い換えることもできるでしょう

それは、「意識」より、ある種の「個人性」を携えています
言い換えれば、
人によって特定の性質、持ち味がある、ということです

実は、「意識」は非個人的なものです
私たちは、「ひとつの意識」を共有しているのです

そして、
「意識」のセンターは頭のエリアに住しています

それに対して、
「精神」は、もっと広いエリアに住していて、
非常に深く「私」そのものに従属しています

この「精神」のセンターは何か?と探求した時、
それは魂としての「私」そのものに感じられます

とすれば、
「精神」とは「魂」の表れに他ならないと言えるのではないでしょうか?


ちょっと違う角度から感じてみましょう

あなたの「意識」
あなたの「心」
あなたの「精神」
と、
それぞれあなたの中で感じた時、
何が一番、あなたを勇気づけるでしょうか?

何が一番、あなたを確かなものにし、あなたの中に強さをもたらすでしょうか?

何が一番、あなたをクリアにし、あなたを立ち上がらせるでしょうか?

あなたの中の、
あなたの指標となるのは、一体、何でしょう?

それが、
「精神」なのではないでしょうか

つまり、
あなたがあなたであることを形造っているもの、
性格とか人格とか具体的な形になる以前の、
あなた自身のエネルギー的な表れなのです

魂が太陽だとすれば、
「精神」は太陽光のようなものです

魂が非顕現の次元で安らぐ時、
それは物質として現れる前の太陽のようなものです

この顕現の次元に魂が現れた時、
それは「精神」という光をまとい、
ひとつの光として光り輝くのでしょう





















2019年3月2日土曜日

なぜ苦しむのか1 トータル・パス 〜魂への道〜 2

苦しみについて、少し理解を深めて行きましょう

苦しみは、魂からのアラームだと前回書きました

あなたが苦しんでいる時は、
あなたの魂が、
あなた自身に、「目覚めの時だ!」と、
けたたましく知らせているのです

では、
なぜ、「苦しみ」という形でそれはやって来るのでしょう?

もし、あなたが十分に幸せで楽しく、満たされていたら、
あなたはそこから動かないでしょう

うっすらとどこかで何か疑問は感じていても、
あなたは自分自身に「私はオッケー」「私に問題はない」と、
納得させるでしょう

人は、苦しくならない限り、
動こうとしません

お尻に火がつかない限り、
人は腰をあげないのです

でも、苦しければ苦しいほど、
人はなんとかそこから抜け出そうとします

その強いモチベーションがなければ、
魂への道に入る事はできません

何か、目の前の問題が解決さえすれば、
人生の中で足りていないものを手に入れさえすれば、
今の苦しみはなくなり、なんとかなるはずだと思い、
それらを追い続けるだけです

でも、そうやってたくさんの事を解決し、
たくさんのものを手に入れ、
それなのにまだ変わらず苦しい

その時初めて、人は何かがもっと本質的な事が問題なのではないか、と気づきます

実は、まだ目の前の事しか見えていない人は、自分が苦しんでいる事に、まだあまり自覚的ではありません

もちろん、苦しいとは感じているからこそ、
そこから無意識に逃げ出そうとするのですが、
それはとても無意識的な反応でしかありません

そのため、他者に八つ当たりしたり、相手に投影して怒ったり、自分より弱い人をターゲットにして、自分の中に沸き起こるネガティブなエネルギーを発散させるだけで、自分が何をしているかにも無自覚のままです

そうやって、ネガティブなエネルギーのボールを投げつけ合っているのが、通常の状態です

そのため、そういった人達が口にするのは、「あの人が悪いから」「仕事がうまく行かないのはついていないからだ」などと、決して自分自身に向かう事はありません

「自分ができないからだ」「自分が悪いからうまく行かない」などと、
自分自身に目が向き、
自分自身を責めている段階は、
全て外側のせいにしている段階より、
少し意識的になっているとも言えますが、
まだ、本当に「苦しみ」に自覚的になっているとは言えません

というのも、
まだ「苦しみ」そのものにフォーカスしている訳ではないからです

この問題、あの障害、と、
表面に現れている具体的な現象しか見ていない段階です

その状態と、
「苦しみ」そのものに気づく状態、
すなわち、理由や原因は何であれ、
自分が苦しんでいる、という事実に気づく状態との間には、
実は、幅はわずかでも底の見えない断崖を飛び越えるかのような、
大きなジャンプがあります

「苦しい」「私は苦しんでいる」と自覚することは、
夢から覚め始めたサインです

今、自分が「苦しい」「苦しんでいる」という自覚のある人は、
魂への道に入る段階に来ている、ということです

もはや、人生で何を手に入れても、
この苦しみが去る事はない、と知っているからです

それは、今までとは全く違う、
何か内的なもの、精神的なものを探し始める時です

そして、
あなたが苦しむ時、
それは多くの場合、
強い悲しみや痛み(精神的肉体的)を感じ、
生きていることの辛さを感じ、
あるいは絶望している時ですが、
実は、
その時、あなたは魂の非常に近くにいるのです

そう、
その痛みを感じているその場所、
いえ、その痛みそのもの、
それこそが魂への扉なのです

そこから、ほんの一歩、
内側深く入るだけで、
その痛みの中に身を投じるだけで、
あなたは直接魂に触れ、魂に触れられる事ができるのです

もし、あなたが今絶望の淵にいるとしたら、
あなたは魂のすぐ隣にいるのです

それが、あなたが苦しむ1つの理由です

もう1つの理由は、
あなたが「満たされて幸せ」な状態を、
深いところですでに知っているからです

どういう状態が真に幸せなのか、
どういう状態が真に満たされているのか、
すでに知っているからなのです

だからこそ、
そうではない状態に「苦しみ」を感じるのです

それを知らなければ、
そうでなくても特に違和感は感じません

この地上の次元レベルでしか生きた事がない魂にとっては、
ここはごく当たり前ですが、
そうではなく、
もっと霊的に進化した次元レベルで生きた事がある魂にとっては、
ここは苦しいのが当たり前なのです

「魂」そのものはどれも同じレベルで、
ただ、無明の度合いに差があるだけだと、
私も初めは思っていました

でも、たくさんの人と出会い、たくさんの関係を持つ中で、
基本的に利己的で(優しい人もいますが)、
この世界のあり方にあまり疑問を抱かず、
スピリチュアルな事に全く目の向かない人や、
私にとっては全く楽しくない残虐性を楽しんでいる人がどうしているのか、
この違いが何なのか、
ずっと大きな疑問でした

単なる性格の違いとは言えない、
何かもっと根本的な違いを感じていました

私の師であるフーマンから、
「魂には地球由来の魂と、他の星由来の魂とがいる」と聞いた時、
この疑問が解けました

地球しか知らない魂には、
この世界は当たり前であり、
この世界のあり方そのものの理不尽さに疑問を持つことがなくてもおかしくはありません

この世界のシステムは、
そもそもが弱肉強食、
他の命を摂取しなければ生きられない世界なのです

そこに疑問を呈する事なく、
弱肉強食のシステムに従って、
サバイバルするだけです

彼らにとっては、それが当たり前の正しい事なのです

それは、物質的な事だけではなく、
心理的な面でも弱肉強食が正なのです

でも、そうではないシステムの世界から来た魂にとって、
この世界はいたたまれなく感じてしまいます

この世界のどこにも本当の居場所がなく、
物心つく頃から疎外感や違和感を感じて来たような魂は、
他の星由来の魂か、
地球由来であっても他の星に転生した事のある魂なのでしょう

地球よりさらに残虐な星もあるかも知れませんが、
この地球で深く傷ついて苦しんでいる人は、
地球よりもっと愛と調和のシステムの世界で生きた経験のある魂だと言えるでしょう

この地球は、
霊的進化の段階で言えば、
まだ幼稚園の段階だと言います

でも、弱肉強食で残虐性のある世界だからこそ、
そこで愛と調和を学び、実現するための、
絶好な修行場となります

そのシステムに喰われて、それに流され、それに則って生きていくのか、
それとも、それに反逆して、
傷つきながら、
自らの裡なる真に照らし合わせて生きて行くのか

あなたの魂は、
この絶好の修行場で、
あなたがあなたの真に照らし合わせて生きることを、
愛と調和を学び実現していくことを、
あなたに突きつけるために、
あなたをそこに追い込むために、
あなたをここに受肉させ、
あなたに苦しみを与えるのです

ここで花開いた愛は本物となるからです

それが、
あなたが苦しむもう1つの理由です

さて、
次のブログで、
苦しみの本質について触れていきますね