2019年3月24日日曜日

なぜ苦しむのか2 苦しみの本質(1) トータル・パス ~魂への道~ 3 

前回、なぜ苦しむのか、その理由について書きました

この世界に生きる上で苦しむのは、
霊的進化への道へと促すための魂からのアラームであり、
その人がその段階に成熟して来ているということ、
そして、すでに深いところで、
この地上の次元より、もっと高次の世界を知っているがゆえなのです

では、
その苦しみの本質は何なのでしょう?

表面的に見れば、
人によって、苦しんでいる原因は様々です

人間関係だったり、
生活レベルのことだったり、
仕事の事だったり、
病気や身体的な不具合だったり、
大切な人を失ったり、
数え上げればきりがないほど、
その原因は多種多様に富んでいます

でも、
それらの苦しみを突き詰めていくと、
たいていのことは、
2つの感覚に収束していきます

それは、一体何でしょう?

例えば、
愛する人が自分以外の人を愛していて、苦しんでいる人がいます

「彼が私を愛してくれさえしたら、私は幸せになるのに・・・
他に何もいらない」と、
毎晩泣きながら、思い詰めていることでしょう

苦しいですよね

寂しくて寂しくて胸が痛んでいることでしょう
深く傷ついているでしょう
欲しくて欲しくて渇望しているかもしれません
嫉妬の炎に焼かれているかもしれません
思い通りにならない苛立ちや無力感も感じているかもしれません
愛されない自分に対して、卑屈になっているかもしれません
相手を恨んでいるかもしれません

いろいろな感情が心の中に押し寄せて、
嵐のように吹き荒れていることでしょう

でも、
それらの底辺で、
心の奥底で、
その人がずっと感じている感覚があるはずです

さみしい・・・悲しい・・・私はひとりぼっち・・・

そう、
それは「孤独感」です

愛する人が私のところに来てくれさえすれば、
この「孤独感」で空いた穴は満たされて塞がれるはずだ・・・

私をひとりぼっちにしないで・・・!!!

だからこそ、
愛する人を欲してやまないのです

自分自身が満たされるための愛でなければ、
相手が自分を愛そうが愛すまいが、
苦しむことはありません

様々な苦しみを引き起こしている、
深いところにある原因の一つは、
この「孤独感」です

この「孤独感」を消すために、
人はあらゆる関係性の中で、
相手を欲し、
それが手に入らずに苦しみます
いえ、
手に入ったところで、
相手がその深い「孤独感」を満たすことなどできはしないため、
今度は「相手のどこそこが悪いから、私は満たされない」などと、
難癖をつけ始め、
結局はせっかく手に入った相手すら失ってしまいます
あるいは、
依然同じ「孤独感」を抱えたまま、
半ばあきらめて、その相手との関係を続け、
他の何かでその「孤独感」を埋めようとし続けます

この「孤独感」を持っている人は、
何かを欲し続けます


では、もう一度、同じ例で考えてみましょう

愛する人が他の人を愛し、自分は愛されずに、苦しんでいる人がいます

「あの人が私を愛してさえくれたら、私は幸せになるのに・・・
でも、彼は私を愛してくれない・・・私ではだめなんだ・・・」と、
布団の中でぎゅっと体を丸く縮めて、
深い痛みに耐えていることでしょう

同じような状況でも、
ちょっと違う感覚が心の中に生じています

「どうせ私は愛されない・・・私には価値がないんだ・・・」

深く傷ついているのは同じでも、
自分の心を苦しめているのは、
自分自身を否定してしまうことです

これは、次のような例でもいいでしょう

相手のために良かれと思って、すごくがんばってやったのに、
裏目に出て、思ったほど喜ばれなかったり、
時には怒られたり、批判されたりする人がいます

「僕はあなたのためを思ってがんばったのに・・・何のためにがんばったんだろう・・・
どうして認めてもらえないんだろう?僕が間違っていたのか?」と、
傷つき、落ち込みます

この人が心の深いところで感じているものは、
何でしょう?

どうして愛されないんだろう・・・
どうして認められないんだろう・・・
どうせ愛されない・・・
どうせ認められない・・・
私がだめだからだ・・・
私が悪いんだ・・・

そう、
それは「罪悪感」です

様々な苦しみを引き起こしている、
深いところにある原因のもう一つは、
この「罪悪感」です

この「罪悪感」を心の底に抱えている人は、
常に誰かに認めてもらうことを欲しています

認めてもらえれば、
自分が悪くないことを証明してもらえる・・・

でも、実は本人が思っているのとは逆に、
実際はちゃんと認められていることが多いのです
それにもかかわらず、
その人は自分を責め続け、
他人の賞賛や認めている言葉を受け取らずに、
その「罪悪感」の泥沼にどっぷりと漬かり続けます

あるいは、
あまりにもその人の「認めて!認めて!」という声が大きすぎるために、
他人は認めたくても認めるのが嫌になってしまい、
かえって批判したりしてしまいます

そうすると、
なおのこと、認めてもらうためにがんばり、
認めてもらえずに落ち込むことを繰り返します

実は、
自分が自分を認めていないだけなのです
自分が「不完全」だと責め続けているのです

でも、
他の人から認めてもらわないと、安心できないのです

表面上はあらゆるバリエーションの苦しみがありますが、
ずっとその痛みをたどっていくと、
大抵のものは、この「孤独感」と「罪悪感」にたどり着きます

心の中で起こることは、
例で書いたものと反転して出ることもあります
つまり、
過剰に孤独でいることを好んだり、
自分は完璧だと信じて、他人の言葉を全く受け付けなかったりもします

皆さんも、
自分の中の痛みを深く見ていき、
自分の最も奥底でずっと抱え続けている感覚、
何を経験しても、最終的にいつもたどり着く感覚、
それが何か、
探求してみてください

心の奥底で、
強烈に痛みを発しているもの

あなたを、
苦しめ続けているもの

あなたの「奥底の叫び」は何か?!

これらの深いところにある感覚が、
人を突き動かし、
それを埋めようと、
必死にあらゆるものを求め続けさせるのです


では、
この「孤独感」と「罪悪感」は、
一体どこから来るのでしょう?

その大元は何なのでしょう?

それこそが、
実は最も探求すべきポイントなのです

なぜ、「孤独」だと感じるのでしょう?
なぜ、「罪の意識」を感じるのでしょう?

それらを感じる時、
人は「自分が満たされていない」と感じています
人は「自分が完全ではない」と感じています

なぜ、「満たされていない」のか?
なぜ、「完全ではない」のか?

本当は、
その答えをここに書きたくはありません

なぜなら、
自分の内側で真剣にその問いを問い続けた時、
ある瞬間に人はブレイクスルーし、
その答えを強烈なインパクトとともに受け取るからです

それこそが、
ひとつの覚醒であり、
恩寵だからです

続きを読む前に、
実際にご自身で真剣に探求してみてください


実は、
人が苦しんでいる時、
それも、深く深く苦しんでいる時、
その人は「魂」のすぐ横にいるのです
「神」の眼前にいるのです

「魂」に「神」に触れていると言っても過言ではないほど、
近くにいます

もし、
人がその苦しみという海の中に飛び込めば、
次の瞬間、
その人は、自分が「神」という海の中で抱きかかえられているのを知るでしょう

そう、
海の表面に映っているのは、「苦しみ」に見えます

でも、その表面を突き破れば、
あなたはもう、その海こそが「神」であることを知ります

「神」は、鏡となって、あなたの姿を「苦しみ」として映し出します

海の中に入っていない、
つまり、
「神」と分離したあなたの姿を、
「苦しみ」として映し出しているのです

「苦しみ」とは、
分離です

人は、最も深いところで、
「満たされる」ことを知っています
「完全である」ことを知っています

「神」とひとつだったことを知っているのです

でも、
この次元に産まれ、生きる時、
なぜかそれを忘れ去ります

でも、
最奥のその古い記憶があるからこそ、
そうではない状況に、
人は苦しむのです

「孤独」なのは、本来ひとつである「神」と離れているからです
「不完全であることに罪悪」を感じるのは、完全である「神」と離れているからです

おそらく、
これがキリスト教でいう「原罪」なのでしょう

「苦しみ」は、
あなたが「神」と再び一つになるための、
入口です

それは、
「神」を忘れて、再び「知る」ための、
通路です

それは、
あなたが再び「完全」になり、
「満たされる」ための乗り物です

それは、
あなたの最も古い記憶を、
裏返しにして映し出しているのです

もし、
あなたが「苦しみ」を持っているなら、
すでにあなたには全てが与えられている、ということです

だから、
「苦しみ」から逃げるのではなく、
「苦しみ」を恐れるのではなく、
「苦しみ」に飛び込み、
「苦しみ」を突き抜けてください










































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