2019年2月20日水曜日

トータル・パス 〜魂への道〜 1

これまでのブログは、
主に私の個人的な体験やその時に感じた事などを中心に書いて来ましたが、
これから、私達の霊的進化の教えについて、
体系的に理解できるように、
少しシリーズで書いて行こうと思います

私達の教えは、
人間として社会の中で生きながら、
完全な悟り、魂の覚醒へと向かう、
トータルな「道」です

今、たくさんの霊的な教えが世の中には存在しています

伝統的な宗教から、新興宗教、60年代に起きたニューエイジムーブメントやミレニアム以降のスピリチュアルブームによって輩出された、あまりにもたくさんの様々なレベル、様々な分野の教えがあります

私達は、それらの種々雑多、珠玉混交の様々な教えをはなから否定する立ち位置にはいません

どの教えも、それを必要とする人がいるのなら、存在する必要のあるものだと思います

ただ、だからといって、
どの教えも、人間として到達できる最高地点に到達できる道だとも思っていません

どの教えを選ぶかは、
その魂のブループリント、
その魂が今生でどこに向かおうとしているか、
どの可能性を実現しようとしているか、
によると思っています

その中で、
私達が伝えている教えは、
もう、この次元、この地球の次元を完全に卒業するために、
この地上での輪廻転生を終えるために、
人間として最高の到達点である悟り、解脱、神との一体、
そして、
真の自己であり、それら全ての体験者である魂の目覚めへと向かう「道」です

それは、多くの偉大な伝統的宗教全てと、いくつかの昨今のスピリチュアルな教えの最奥に横たわる最も深いエッセンスです

なので、「王道」とも言えるでしょう

人間は誰しも、
それが意識的であるか、無意識であるかは別として、
この最終地点に向けての霊的進化という旅の途中にいます

それぞれの人が、それぞれの段階にいます
よって、惹かれるものも、その段階によって違ってきます

その中で、
すでに最終段階に入っている人、
もはや目指す地点は解脱である人に向けて、
この教えは存在しています

そういった人達の多くは、
この地上で生きる事に苦しんで来たことでしょう

その原因は人それぞれかもしれませんが、
自分が苦しんでいる、
自分が惨めである、
何をしても自分が本当には満たされていない、
自分の中にぽっかりと大きな穴が空いている、
全てを手に入れても、どんな成功をしても、
何かが足りていなくていつも渇いている、
生きる事に絶望している、
など、どういった形であれ、原因は何であれ、
自分が苦しんでいることに気づいています

そして、その苦しみを取り除くためには、
その個々の原因を取り除くだけではだめで、
もっと根本的な原因、
つまり、人が自分が本当は誰であるか忘れ、
神と分離しているという、
その根本的な原因を解決しなければならない、
という事にも、
うっすらと気づいています

この「道」に入る最初の入口に到達する前に、
人はその根本的な苦しみを通過します

完全な無明の状態から、
自分が真っ暗闇の中にいると気づける段階にすでにいる、という事です

完全な無明の状態にいる人は、
自分が実は大変苦しんでいるという事に気づいていません
ただ、今は自分の置かれてる状況や環境に問題があって、それさえ解決すれば大丈夫だと思っています
そして、問題があるのは自分ではなくて、常に相手や境遇、環境だと思っています

でも、もうこの「道」に入る段階にいる人は、
どこかでうっすらと、
「問題は自分だ」と気づいています

それは、
人によっては、
「自分のこれこれこういう性格が問題だ」という、
まだ表面的なレベルでの認識かもしれませんが、
少なくとも、
すでに目はなんとなくでも、
自分自身に向いています

実は、
目が自分自身に向いてからの方が、
苦しみは深くなります

相手のせいにしている限りは、
それを避けて自分を守ればいいですが、
自分のせいだとわかった時、
それから逃れる事はできないからです

その、逃れようのない苦しみこそが、
この「道」へのゲートウェイであり、
「道」に向かわせるエンジンなのです

この苦しみは、
魂からのアラームでもあります

「もう、目覚める時が来たよ!早く目覚めて!」
と、魂がその人を深くから揺り動かすのです

もし、
今、そういった苦しみに悩んでいる人がいれば、
目の前は真っ暗にしか見えなくても、
すでに門の前まで来ている、という事です

あなたがくぐるその門は、
あまりきらびやかではないでしょう

小さくて、地味かもしれません

でも、真の門は、
決して大きくもきらびやかでもありません

たくさんの人の目を惹き付けるようなものではなくて、
本当に真摯に謙虚に求める者だけに見える、
小さな質素な門でしょう


この、霊的進化の旅には、
本当に数多くの落とし穴があります

光、奇跡、予言、耳障りのいい愛の言葉、真理の言葉…

危険なのは、人類より低い段階にいる霊的存在でも、いえ、そういう存在達こそ、そういった事を人に見せ、聞かせるのが得意であり、
そういった事を使って人の目を惹きつけようとします

真の奇跡は、私が私であり、あなたがあなたである事です

ただ当たり前だと思われていることこそが、
奇跡であり、愛であり、
禅で言う、「木を切り、水を汲む」です

真理とは、何も起きていない事です
真理は、沈黙する以外にありません

そこに至って初めて、
解脱の可能性があります

私達の教えは、
そこへの道標を示すものです

霊的進化において、
人間として到達できる最高地点に誘うこと

でも、それだけでは、
真の解脱、
輪廻転生の卒業式を迎える事はできません

晴れて卒業するためには、
人間として完成しなければならないのです

完成、というと、
何か完璧な聖人君子になるというイメージがあるので、あまり使いたくないのですが、
それはそういう意味ではなく、
むしろ、成熟とか成就とか完結とかの言葉の方がいいかもしれません

平たく言えば、
人間としてやりに来た事をやり終える、
魂の(人間としての)課題を全てクリアする、
という事です

人間としての面を疎かにして、
霊的進化を遂げる事も可能です

霊的進化を半ばにして、
人間として成就する事も可能です

でも、どちらかだけでは、
真の解脱にならないのです

正確に言えば、
どちらかが半ばなら、
もう片方も本当には完成しないのです

そのため、
私達の教えでは、
その両面から働きかけていきます

両面とはいえ、
これは、全次元的に働きかける、ということです

それで、
トータル−パスと名づけたのです

そのため、
もちろん年に数回のリトリートは必須ですが、
常に山に籠もるのではなく、
普通に社会人生活を送りながら、
日々の生活の中で「道」を歩んで行く事を勧めています

私達自身が、何も特別な存在ではなく、
特別な能力もなく、
ごく普通の凡人であり、
その凡人があちこちで落とし穴に嵌りながら、
先人の示す道標に沿って、
試行錯誤しながら、
よちよちと自分自身の足で一歩一歩歩んで来たからこそ、
示す事のできる道標です

だからこそ、
人の持つ苦しみを体験的に理解し、
人のしがちなミステイクを体験的に理解し、
どういう修行が実践的に体験的に有効であるかわかり、
嵌まりがちな落とし穴に熟知し、
そして、
その中で得てきたもの、
体験的に理解したもの、
実際に到達した次元のエネルギー、
体得したエッセンスそのもの、
それら全てを伝えて行くことができるのです

また、この「道」はユニヴァーサルガイダンスと繋がる道でもあります

そのため、
実際には、
リトリートの中で私達がシェアするものは、
私達という個人を超えた宇宙の叡智からの働きかけが大半を占めます

私達は、単なるエネルギー的媒体とも言えるでしょう

でも、それは、いわゆるチャネリングではありません

そこに、いかなる「個人」も存在しません

それゆえ、
それはいつでも意識をその人そのもの、そして神性そのものに向けさせて行きます

もし、
あなたがここで何かの奇跡を求めていたら、
あるいは、崇拝するマスターを求めていたら、
あるいは、楽しいキラキラのスピリチュアルごっこを求めていたら、
あなたは何も持ち帰るものはないでしょう

私達は、
あなたにはあなた以外、何も持ち帰らせません

私達には、
あなたを飾るためのものは、
何も与えられません

ここであなたは、
ただ、よりシンプルに、より純粋に、より深く、より親密な、
あなたになっていくだけです

それは、あなたが今期待しているような、
他の人とは違う「特別な」人になるという事では全くありません

むしろ、どんどん普通になって行きます
「特別」と思うのは、エゴ(自我)の特性です

でも、あなたがベールというベールを剥いで、
真のあなたになった時、
あなたは、思っていたのとは全く別の体験をするでしょう

それは、ある意味、
最高に打ち震える特別な体験ですが、
あなたは、もはや自分を特別とは思わないでしょう

あなたは、ただシンプルにあなたであるだけです

でも、ただシンプルにあなたである事が、
愛の表出であり、神聖さの表出であり、
穢れのない純粋さ、無垢さの表出であり、
真の充足なのです

それは、圧倒的な親密さを持ちながらも、
個を超えた、境界のない感覚です

私達は、
あなたをそこに連れて行きたいのです

さて、予定より、つい話が膨らんで来てしまいましたが、
霊的進化において、
この真の自己の実現と、神との一体は、
切り離すことのできない、2つの柱です

多くの教えの中では、
このどちらかだけを説いているもの、
あるいは、この違う体験をごっちゃにしているものが多く見受けられます

非常に繊細なものなので、
ごっちゃになるのも仕方がないですが、
これは、明らかに違うものです

この詳細については、
またシリーズの中でおいおい触れて行くことでしょう

今、苦しみの中にいる方、暗闇で先が見えないと息詰まっている方、
あるいは、いろいろやってみたけれど、という方、
トータル−パスの扉を叩いてみてください





2019年2月10日日曜日

命を愛する

数カ月前からになるでしょうか
東京の自宅で、瞑想クラスや1デイリトリートで瞑想すると、まるで何かが歩いているように畳が音を立てるので、何が来ているのかなあ、と思っていました

瞑想してエネルギーが高まると、家がピシッ、みしッ、と音を立てるのはいつもの事で、それは単に振動数が上がるために物理的に影響を及ぼして、音が発生するので、いわば、瞑想が深まっている指標にもなるのですが、畳がこれだけ音を立てるのは、しかも、何かが歩いているように感じられる事が多いのは、あまり他に記憶がありません

嫌な感じや変な感じは全くないので、心配の必要はないのですが、
先日、一人でスダルシャン呼吸法をしていたら、またもや、みしみし、ピシピシ、そして最後の深呼吸の時に、ピシピシピシピシピシッと、前面ぐるっと音に取り囲まれて、一瞬、驚きました

それで、何かメッセージ性を感じたのですが、ふっと思ったのが、ご先祖様かな、という事でした

それは、ご先祖様が来た、という直接的な意味というより、先祖への供養と感謝をちゃんと行おうという気持ちを持つ事の大切さに気づく、という事でした

スピリチュアルな世界では、肉体としての先祖、血縁よりも、魂としての繋がりを重要視するため、私も今まではあまり先祖供養の必要性や重要性を感じて来ませんでした

「千の風になって」の歌のように、死後、魂がお墓にいる訳でもないですし、肉体的な先祖をずっと辿れば、それこそ世界人類皆兄弟ですから、自分の先祖、家系だけを供養することにあまり意味を感じていませんでした

でも、今回ふっと思ったのは、先祖を供養して感謝を捧げるという事は、たくさんの先祖達の「命」の思いが引き継がれ、積み上がって行ったからこそ、今の自分の肉体、存在があるという事を知る、という事なのではないか、と思ったのです

頭では、もちろん、先祖がいなければ今の自分はいないとずっとわかっていますが、一方どこか深いところでは、何か自分という存在がどこからともなく突然ぽっと生じたように感じていたのだと思います

物心つく頃から、親との本当に深い繋がりを感じられず、この世界そのものからも疎外感を感じていたのは、今でもはっきりと覚えています

その感覚ゆえに、深いところで、孤独感やこの世界に存在している不安定さを感じていたのだと思います

でも、累々と積み重なって来たご先祖様達の「命」の思いを受け取る時、何か自分がこの世にやっと根を降ろせたような感覚を持ちました

膨大な数の「命」が、自分を支えてくれているのですね

言い換えれば、膨大な数の「命」で自分ができているのです

独りだと思っていたけど、存在している時点ですでに独りではないのですね

この肉体は、私のものだと思っていたけれど、私だけのものではなくて、ご先祖様全員のものなのですね

そんな感覚を持つ事ができたのです

それは、悟りによって得られるワンネスとはまたちょっと違うニュアンスの感覚であり、むしろ肉体に対する感覚とも言えるでしょう

そして、素直に、「先祖供養をしよう」「お墓参りに行こう」と思えたのです

何か、今は私の肉体となり、私という存在になっているご先祖様にご挨拶するのは、まるで私の肉体の細胞1つひとつに「はじめまして🎵今までありがとう❤」と、挨拶をするようで、私の肉体との新しい出会いのような感じがします

ご先祖様に供養を捧げるという事は、他ならぬ自分自身に供養を捧げる事なのでしょう

命とは、本当に不思議なものですね

命は命から生まれ、ずっとつながっています

魂とはまた別に、ずっと連綿とつながっています

「あなた」という存在が今ここにいる、という事は、その命がずっと連綿と続いて来た、という事です

だからこそ、この命を生きなければならない、
そして、ただ生きる事だけが大切なのでしょう

先祖が王様であろうと、貧民であろうと、今の自分には何の関係もないですよね

神にとっては、私達が何になろうとどうでもいいのです

ただ、命を大切に、この命を愛して生きる事しか望んでいないのでしょう

自分を愛するという事は、この命を愛するという事です

肉体無しでは語れない、この命を、
全てひっくるめて愛するという事です

そんな事を気づかせてくれて、素直に先祖供養をし、この命を愛する気持ちをくれた、畳の音でした(*´ω`*)