2022年11月20日日曜日

「魂への聖なる道」第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」


悟りのための教え、覚醒のための教えである
「トータル・パス」の教えの概要について、
「魂への聖なる道」と題して、
youtubeの場をお借りして、
少しずつお伝えしていっているシリーズの、
第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」です

字幕をつける余裕がなかったので、
下に原稿を貼り付けておきます

第8章「5ステート」第2話「教えの世界観」

さて、前回からまた数か月間が空いてしまいましたが、

夏の間、ちょっといろいろ忙しくて、何度も熱中症になりながら動き回っていたせいで、秋になってからその疲れがどっと出て、なかなか回復しないまま、今に至ってしまい、また、パートナーさんの原稿待ちという事もあって、間が空いてしまって申し訳ありませんでした

 

さて、前回のお話で5ステートの概要について話しましたが、今回はその詳細に入る前に、

パートナーさんからのリクエストによって、この世界や私たちの内側の世界について、共通理解を持ち、

真にこの教えがあなたにとって意味を持っていけるように、何回かに分けて、いくつか先にお話ししておこうと思います

一部、第一章でお話した内容とかぶるところもたくさんありますが、今回はパートナーさんからの視点というまた違った角度からのお話になりますので、より深い理解のために、お聞きいただければと思います

 

この5ステートの章に関しては、全てパートナーさんの原稿を元にお話ししますけれども、まあ、私も多少付け加えたりもしていますけれども、パートナーさんは完全なアウェアネスタイプで論理的、私はハートタイプで直感的と、全く真逆なので、いつもとはちょっと違う感じになるかもしれませんが、そんな違いもまた、お楽しみいただければと思います

 

今日は、私たちの内側そして外側がどうなっているかについてお話していくための、前段階として、

「理解」と「気づき」と「体験」について、少し、お話していきたいと思います

「体験」については、後で別の章でお話する予定だったので、少し章立ては変わってしまいますが、

ご了承ください

 

私たちがシェアする「トータル・パス」の教えを歩むためには、「理解」と「気づき」と「体験」の3つが必要になってきます。

「理解」と「気づき」と「体験」ですね

 

これら「理解」「気づき」「体験」がなければ、私たちが提供する教えは、ただの情報でしかありません

「トータル・パス」の教えを聞き、または読むだけでは、それは単にあなたの記憶域に蓄積された情報にしかなれず、昔読んだ本の内容や、昨日見たテレビや、旅行に行ったときの記憶と何も変わらない状態でしかありません

 

私たちの使う言葉に「生きた本」という言葉があります。

普通本を読むとその内容に魅了され、そこに感情移入し主人公になりきり、喜びや悲しみを主人公とともに体験し、そこに展開されるドラマを堪能します。

その時、擬似的ではありますが、あなたは何かを感じ、何かを体験しているのですね。

 

そして、精神世界、スピリチュアルな世界に特化した本のうちで、私たちが使う「生きた本」とは、

読者がそれを読むことで、精神的な進化、つまり私たちが言うところの悟りに向かうための、

擬似的な体験を与えてくれる本のことを言います

 

ですが、ここで考えてほしいのは、あなたが普通の本を読むとき、そこに描写される世界感を知らなかったら、あなたは疑似体験ができるでしょうか?ということです

 

もっと正確に言うなら、一般の本を読んで疑似体験ができるのは、そこに書かれていることを、大なり小なりすでに経験済みだからこそ、このすでに経験済みの自分自身の体験をベースに、本に書かれている内容を擬似的に体験することができるんですね

 

つまり、人に裏切られたと感じる体験があるから、あなたは本に書かれている、主人公が裏切られるシーンを想像し擬似的に体験することができるのです

 

本には良書と呼ばれるものが存在します。

良書にもいろいろな意味合いがありますが、私たちがシェアする教えを理解する上で良書と言えるのは、

今まで知らなかった感情や考え方に「気づかせてくれる」本なんですね

あなたはこういった体験があるはずです

本を読むことで、新たな角度の物の見方に気がついたり、新たな感情の発露を体験したり・・・

 

そう、この「体験」こそが、私たちがあなたにイニシエートしたいものなのです

 

新たな角度の物の見方に気がつく、それはつまり、本を読むことで「新たなものの見方」を体験できたということです 

その時あなたは「知識や情報ではなく」、その本から新たな、あなた自身を豊かにする「体験」をもらったのですね

 

知識は、単に情報の羅列で、言葉が並んでいるだけですが、もしあなたがそれらを通して「新たな体験」を得たのなら、それはあなたの血となり肉となって、あなたを一回り大きく豊かにします

 

ではここで、これら「体験」を得るために何が必要かというと、それは「理解」と「気づき」です

これにあなたの努力と「ピンとくる閃き」が起こった時、新たな体験を得ることができます

 

では、この「理解」と「気づき」と「体験」とは何か?ということについてお話していきたいのですが、

その前にこれら「理解」と「気づき」と「体験」を得るための前提条件についてお話しなければなりません

 

先程、『一般の本を読んで疑似体験ができるのは、そこに書かれていることを、大なり小なりすでに体験済みで、それらの体験がベースにあるからこそ、本に書かれている内容を擬似的に体験することができるのです』とお話しました

 

それを、もう少しこれから話す内容に則した表現にするなら「大なり小なり、そこに書かれている世界観を知っている」からこそ想像することでき、想像することができるからこそ、あなたは新たな体験、正確には疑似体験ですが、それを得ることが出来るのです

 

つまり、あなた方が「トータル・パス」の教えを生きた物とするために何が必要かというと、

まず、私たちの教えの世界観を知る事が必要で、その世界観の中で、その世界観に沿って、理解し、気づくことで、私たちが指し示す何かの体験を得ることが初めて可能になるということです

 

世の中には「生きた本」があります

そして、私たちの教えは「生きています」

生きているからこそ、あなたに新たな体験をもたらし、それによってあなたを覚醒へと導く事ができるのです

本来であれば、Retreatにきて、顔を突き合わせて、教えを受取り、共に座るのが望ましいです

なぜなら、その時あなたの目の前には、「生きた教え」があるからです

 

では、私たちが教えをシェアする時、あなたにまず知ってもらい、理解してもらう、「トータル・パス」の世界観とは、どのようなものなのか?

 

まず、それについてお話していきたいと思います

 

前回のお話と一部かぶるところもありますが、ご自身の理解を深めるためにも、それを内側に落とし込みながら聞いていただければと思います

 

第一章で、外的宇宙と内的宇宙についてお話したことがありますが、まず、その外側の宇宙、外側の世界に関して、お話していきますね

これは、本当の世界の姿がどうであるか、という事ではなく、私たち人間が「世界とはこういうもの」と一般的に認識しているものについてです

違う言葉で言えば、「見かけの世界」ですね

つまり、普通に人が見ている世界、ですね

世界の本当の姿については、一部で少し触れてはいますが、また別の機会で詳しくお話できたらと思います

 

人が「世界」と言う時に、通常指し示しているのは、この地球であり、日本であり、各自が通う会社や学校、家族といった集団などのことを言いますね

一般的にはこれらを無自覚に「世界」と表現していきますが、それを少し細かく見ていくと、そこには宇宙があり、星々があって、その星々の一つに私たちが生きている地球があって、そこには大気と陸と海があります

海には深さがあって、そこには魚や種々雑多な生物が存在していて、陸には山があり、そこには高低差が存在し、この高低差が川を生み出します

この陸や川にも種々雑多な生物が存在しています

そして、その種々雑多な生物の一つが人類であり、私たちです

 

人類は社会的な動物と言われていますが、それは、群れを作って暮らすことを指していて、その群れには、家族、学校、クラス、クラスの中の仲の良い友達、部活、あるいは会社、部、課などなど、

もちろん、趣味の群れもありますし、敵対する群れもあります

これとは別に、土地を基準にした群れもあり、日本、アメリカなど、国と言われる群れ、さらにヨーロッパ、EUなど、国がさらに群れたものもあります

民族という群れもあり、あるいは、東京、京都など細かく分けたもの、さらにその下の市区町村などの群れもあります

これとは別に、クリスチャン、仏教徒、ユダヤ教徒など、宗教による群れもあります

またもっとも原始的な切り分けで言うと、男と女という群れもあります

 

このように、人は必ずなにがしかの群れに無意識に属していて、その群れの規律にも無意識に従っています

 

さて、このように、人々は多様な群れに属して、その群れの中で、そこの規律に従って暮らすことで、自分の居場所を確保しています

 

例えば、あなたが海外に行き、日本人として理不尽な対応を受けた時に、自分で解決できない場合、その国の日本大使館が同族であるあなたを守り、保護します

日本人という群れがあなたを守るのです

でも、あなたは同時に日本人としての規律を持ち、その行動や行い、人との接し方など、日本人としての規律を実行することが求められます

あなたがこの日本人としての規律を遵守できない場合、あなたは同族の日本人によって罰せられ、場合によってはその身柄を海外に引き渡されてしまう事すらあります

 

このように、群れとはあなたの居場所であり、あなたを守るものであると同時に、その群れの規律を守ることを求められ、これを違えた時、あなたは群れによって罰せられます

 

この群れは、先ほどあげたように、無数に存在し、それぞれ群れ独自の規律を持ちます

日本の法律、アメリカの法律、インドの法律・・・

土地ごとの生活習慣、例えば東京の通勤電車の乗り方、満員時のマナー、地方の隣近所との付き合い方、あるいは小学校のクラスのルール、あるいは仏教徒の生活のルールなどなど、似通ったものも無数にありますが、それでもなお、群れ独自のルールが厳然と存在しています

 

この、群れと独自の規律、これらがあるがために、諍いや争いが起こるのです

 

それは、群れの最小単位である個人も同じです

私には私の規律があって、父には父の規律が、母には母の、弟には弟の、という具合に、各自が独自の規律を持つが故、最小単位の人同士でも諍いや争いが絶えません

 

この規律は、後でもお話しますが、「正義」という言葉にも置き換えられます

自分が正しい、相手が間違っている、と、人は常に判断し続けています

 

同じように、私と兄、あるいは私の群れと兄の群れを比較して、そこに貧富の差が認められたり、何らかの不公平感が感じられた時、そこにも諍いと争いが起こります

 

そこには、「マウントを取る」とよく言われるように、いつでも上下関係が見え隠れしていて、人は常に優位に立とうとします

自分が上で、相手は下

優越感や劣等感、あるいはプライドを死守したり誇示したり

人は、自己のアイデンティティが脅かされるのを、ひどく怖れていて、それを守るために争います

 

まず、これがひとつ

 

それとは別の角度から、人「そのもの」についても考えてみましょう

人とはいったいどういう生き物なのか・・・

 

人は「原罪」を負っているとキリスト教では言われています

私たちもまた、キリスト教徒は異なる意味で、人は「原罪」を負っていると理解しています

 

というのも、人は生まれて以降、生きるために、食べます

自分以外の命、植物を、動物を、魚を・・・

私たちは命を維持するために、肉体を維持するために、自分が生きるために、「自分以外の他者の生きる権利を奪い、それを体内に入れること」をしています

つまり、「他者の生」を奪うことで、生きながらえているのです

 

これを、私たちは「人が背負っている原罪」のひとつと考えています

 

そして、これらのことが起こっている、まさにこの世界のことを、私たちは「物質世界」と呼んでいます

一番外側の一番粗い層の世界です

 

この世界は、なぜ、このようになっているのでしょう?

なぜ、神がこのような原理でこの世界を創られたのかを、私たちは預かり知ることはできません

でも、この世界のそういった原則については、体験に基づいて、理解することができます

 

私たちは、こういう生命システムの世界に存在していることを、まず、よく理解しておいてください

 

そういったシステムで構築された世界であるからこそ、仏陀は「諸行無常」であり、「一切皆苦」と説いた訳で、これをよく理解しておくことが、道を歩む上で非常に大切になってきます

 

この「諸行無常」と「一切皆苦」についてお話していきたいと思いますが、その前に、なぜ、この「諸行無常」と「一切皆苦」がこの世界で存在できるのかをお話しておこうと思います

 

それは、ある意味、ここに地球が存在できることの説明でもあるのですが、

実は、「空間」「時間」「物質」、この3つが全ての始まりとなります

 

正確に言うなら、これらを存在せしめる「大いなる者」の意思があるからこそ、これらが動き始める訳なんですね

 

つまり、最初に「最愛なるもの」の意思があった

それは、「思い」と言う事もできます

 

最初に、神の思い、つまり、意思があった

その後、空間が生まれ、時が流れ出し、物質が顕現しました

 

空間がなければ、時間は流れることができず、物質も存在することができません

空間ができると、時間が流れ始めます

 

時間が流れなければ、物質は顕現できません

時間が流れない時、時間は固まったままなので、そこは凍結した動きのない世界になってしまい、

物質が現れることができません

 

よって、空間ができ、時間が流れ始めた後、物質が現れます

 

これが、私たちが存在する宇宙の成り立ちです

 

ここで、「時間」について少し考察していきましょう

 

時間とは何か?

皆さんは何を思い浮かべますか?

時計でしょうか?

1時だったり、6時だったりと、時計の針が進みます

朝日が昇って、もう一度昇るまでを一日と定め、これを24に分割し、24時間の一日ができました

そして、太陽の周期を観測し、一年を決めました

でも、実は、これは時間ではありません

人が、太陽の周期を観測して、それに基づいて決めた単位のことです

そう、単位です

単位は時間ではありません

 

時間とは何でしょう?

 

実は、時間とは、「常に変化し続ける状態」を指し示す言葉なんですね

「常に変化し続ける様」のことを、「時間」と呼びます

 

この、「変化し続ける様」の事を「諸行無常」と言ったのですが、変化し続けることが「諸行無常」ではないんですね

世の中を「諸行無常」たらしめるものは何か、それが、「移ろいゆく時」、つまり、「留まることなく、常に変化し続ける」ことこそが、世の中を「諸行無常」たらしめている、と言っているんです

 

ちなみに、Wikipediaでは、「諸行無常は、仏教用語で、この世の現実存在は全て、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことを言う。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象を指し、「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。」とあります

 

では、ブッダはなぜこの諸行無常を教えの前面に出したのでしょう

今日の仏教を語る上で最も大切な言葉の一つとも言われる、この「諸行無常」

「この世に起こる事一切は、常に変化し、不変なるものはない」ということの、一体何が問題なのでしょう?

 

もし、この世に「不変なるもの」があったら、それが存在したなら、この世界はどうなるでしょう?

古き過去から、永遠の未来まで変わることのないものが存在したなら、それは古き過去から、永遠の未来にわたって、唯一絶対の指針となるでしょう

 

そう、今私たちが住むこの世界には、未来にわたって変わることのない決まりや指針が存在しない、ということなんです

 

例えば、少し極端な例ですが、「人を殺すことは悪いことでしょうか?良いことでしょうか?」

約200年前の江戸時代、武士の敵討ちは「汚名をそそぐ」行為ですし、例えば親の仇を打つことは立派で称えられる行為でしたから、当時の幕府の対応は別にしても、庶民は拍手喝采です

ヨーロッパの貴族では、手袋をぶつけて殺し合いをしました

ローマ時代、剣闘という名の殺し合いがショーとして開催され、とても好評だったと言います

それでは、戦争ではどうでしょう・・・?

 

でも、現代の日本では、人を殺すことは大罪となっています

同じ行為でも、時代や場所、その時の背景や環境によって、意味合いや評価が異なってきます

 

なぜ、そのようなことが起こるのか

それは、「過去から未来にわたって変わることのない教え」が存在しないからなんですね

もし、このようなものが存在したなら、そこに「人殺しは大罪である」と書かれていたなら、

過去から未来にわたって、どこであろうと永遠に人殺しは大罪なのです

 

では、この永遠不滅、変わることのないものが存在しないために、この世が諸行無常で全てが移ろっていってしまうことの、一体何が問題なのでしょうか?

 

それは、「過去から未来にわたって変わることのない教え」が存在せず、人がすがりつく永遠不滅の決まりが存在しない、ということなのです

そのために、その時、その人によって、各個人の正義が変わってしまうのです

また、不変の教えがないため、私とあなたの正義も異なってしまうのです

 

十人十色とは、良く言ったもので、十人いれば、十人分の考え方があり、正義があり、それは十色というように、皆異なっているのですね

 

私たち個々人の正義は異なります

そして、あなたの正義は、一生同じですか?

この世界では、あなた自身が移ろうのですから、あなたの正義も移ろいます

どんどん、変わっていきます

 

あなたと私の正義が異なるから、誰一人として同じ正義を持つものはいないから、人と人は争います

各々の正義が違うのですから、自分の正義を貫こうと、それを押し付けようと、争いが起こります

 

「個人」が一番小さな単位です

兄弟、家族、民族、学校、クラス、会社、宗教、男、女、全ての群れも、それぞれ異なる正義を持ちます

兄と弟で、A社とB社で、キリスト教と仏教で、臨済宗と曹洞宗で、日本と他国で、皆、異なる正義を持っています

異なる正義を持つがゆえ、争いが起こります

 

人々が、このことをちゃんと理解していたなら、もう少し、世界は穏やかだったかもしれません

でも、人々は、「自分の正義こそ絶対」と、誰もが思っています

 

私たちが住むこの世界には、不変のものが存在しないため、各々が別々の正義を掲げ、自分の正義を受け入れない相手と争う場となってしまっています

これが、「諸行無常」の指し示すものです

 

なんとなく、おわかりいただけましたでしょうか?

 

そして、「一切皆苦」

これは、一切のもの全てが苦しみである、ということです

 

私たち人間は、社会性の動物です

つまり、他者と触れ合いながら生きていく種であるということです

朝起きてから寝るまで、通勤通学の周りの人も含めると、一体何人と触れ合っているのでしょう

その各々が、皆異なる正義を持っているのです

 

あなたと誰かの間に何か起これば、人は自分の正義を振りかざして戦闘に入るのです

良かれと思ってやったことでも、相手の正義に叶わなければ争いになります

 

どうでしょう?

そんな武器を持ち出すような大げさな戦闘ではなくても、小さな諍いやすれ違い、不平不満は日常茶飯事ではないでしょうか?

ネガティブな言葉という武器や、批判的で攻撃的なオーラやエネルギーは、誰しもが日常的に無意識に発しているのではないでしょうか

 

また、先に言いましたが、私たちは他の生命を殺し摂取しなければ、体を維持できない種族なのです

常に、何かの犠牲、何かの苦の上に、私たちの命は成り立っています

そんなこと、弱肉強食なんて当たり前のこととして、誰しもが知っていますよね

誰しもが頭ではよくわかっています

でも、これを本当によく見たことがあるでしょうか?

そして、これを本当に自覚できた時、あなたは何の苦しみも感じないでいられるでしょうか?

 

このシステムに本当に自覚的になった時、私も本当に大きなショックを受けました

 

これらを称して「一切皆苦」と言います

 

これが、私たちが存在している世界なんですね

 

そして、この世界のことを「物質世界」とか「外側の世界」と言います

 

「物質世界」とか「外側の世界」というものが存在するということは、それに対する「エネルギーの世界」「内側の世界」が存在します

 

これらの世界は、まだ「内側の暗闇を見ている自分」を体験的に理解できていない方は、正確にこれらを理解することはできないと思いますが、まずは、情報として、知識として頭の中に蓄えておいてください

 

「理解」と「気づき」と「体験」の「理解」を得るためには、この情報がなければ到達できません

 

もし、あなたが車を全く知らなかったら、スピードを出すことの危険性について話しても正確な理解に向かうことはできないでしょう

もし、あなたが「人と車が写っている写真」を見たことがあったら、その大きさから、車の危険性を少し理解できるでしょう

もし、運転したことがなくても、車を実際に見たことがあり触れたら硬いことを知っていたなら、スピードを出しすぎることの危険性をより理解できるでしょう

理解するためには、知識が不可欠です 

そして気づきと体験も、しかりです

 

「理解」と「気づき」と「体験」につては、また後日お話します

 

次回は、理解のもととなる「私たちの世界観」という情報の続きになります

 

今日、外側の世界、物質世界についてお話したので、次回、「内側の世界」についてお話していきたいと思います