2020年6月30日火曜日

パーソナリティとは「トータルパス」霊的進化と人間性の成熟の「道」第一章 目覚めの地図 「3つの柱」と「5つの身体」パーソナリティとは

目覚めの地図
「3つの柱」と「5つの身体」



パーソナリティとは

人間サイド
・多次元的存在である人間の一番表層の次元
  私たち人間存在とは、多次元にわたる存在です。それは、『神性』とひとつである次元から、最も表層の部分であるパーソナリティの次元にわたる存在です。その、一番表層の次元である、一般的な人が自分だと思っているものを総称して、パーソナリティと呼んでいます。そして、私たちはそれを真の自己である「魂」や『神性』の次元に対して、「人間サイド」という言葉を使うこともあります。つまり、人間は多次元の存在ではありますが、私たちが「人間サイド」と言う時、それは最も粗い次元であるパーソナリティの次元を指しているという事です。
 
 パーソナリティには、様々な要素、側面が含まれています。肉体、容姿や五感(六感)を始め、その人のユニークな魂の味わい、色合いから、それに伴う精神性や指向性などの生来的で純粋な性質に加え、これまでの輪廻転生において蓄積してきた様々なカルマやテーマなどから創られてくる性質や反応のあり方、また、産まれた環境や育つ環境によって条件づけられてきた性質や性格、反応のあり方など、それらが非常に複雑に相絡まって、1人の存在のパーソナリティというものが形成されていきます。

・変化する一時的なもの
 そのパーソナリティは必ずしも固定的なものではなく、その人の年齢や時期、人生経験などによって、あるいは、その人生においてその時期どのテーマに取り組もうとしているのかによって、多少の変化、人によっては大きな変化を辿っていきます。時間軸に沿って変化していくだけではなく、例えば、一瞬前と一瞬後で大きな変化が現れることもあったり、一日のうちでコロコロと移り変わったり戻ったりすることもあります。
 つまり、パーソナリティとは絶対的で不変なものではなく、移り変わっていく一時的なものであると言えます。

・人生のストーリーとの固着
 そのパーソナリティは、ほとんどの場合、その人が歩む人生のストーリー、人生のドラマと強く結びつけられています。言い換えれば、「これこれこういう人生を歩んできた」「これこれこういう経験をしてきた」という事と、切り離して存在しているパーソナリティは無いと言うこともできます。恐らく、100%に近い人たちの認識において、その人自身の人生のストーリーと切り離してその存在を認識できるようなパーソナリティは存在していないでしょう。それは、ただ単に人がそれを認識できていないという意味ではなく、人生のストーリーと切り離されて存在しているパーソナリティなど、そもそも無い、という事です。
 つまり、それはあらゆる外側の事象と切り離されて実在している何か実体のあるものではなく、非常に観念的な、例えて言うならば、非常にバーチャル的なものである、という事です。それゆえ、過去の聖人や覚者たちが口を揃えて、それは「幻想」だと言ったのでしょう。
 だからこそ、パーソナリティを超えるためには、人生のストーリー、ドラマへの固着から引き剥がされなければなりません。固着とは、糊付けされているように、強く結びつけられているという事であり、それと自己同一しているということでもあります。よく、執着しないようにと言われますが、執着と固着は違います。執着は固着の上にさらにしがみつくという事です。だから、執着を手放すだけでは固着から引き剥がされることはありません。執着は気づきやすいですが、固着はごく自然に、あまりにも当たり前の感覚として最初から為されているため、それに気づくためには、かなりのワークと繊細な感性が必要とされます。

・パーソナリティの幻想性
 そして、そのパーソナリティは、その人自身のフィルターを通して、その人自身の解釈を通して、体験され、認識されていきます。パーソナリティとしてのその人のあらゆる事の認識には、全て、そもそもその創り上げられてきたパーソナリティというフィルター、違う言葉で言えば色眼鏡がかけられています。平たく言えば、同じ事象を見ても、人によって受け取りや解釈が違うという事です。
 例えばAさんは、自分の事を「こういうパーソナリティだ」と思っています。それを「自己イメージ」と、私たちは呼んでいます。それは言うまでもなく、肉体、容姿に関することから、性質、性格、思想、行動力学、能力、所有、社会における立ち位置、地位、他者からの評価など、多岐にわたっています。
 私たちは各々「自己イメージ」を持っていて、他の人からもそう見えると思っていたり、そう見られるよう、いろいろ操作したり演技したり、そう見られないことで不満を抱いたり、あるいは、それを隠そうと画策したり、「自己イメージ」にまつわるあらゆる事で、日々を忙しなく、苦労して過ごしています。私たちは、自分で勝手に作り上げた「自己イメージ」にコントロールされ、振り回されています。そういった事に関しては、また、「パーソナリティの浄化」に関するページで詳しく書いていこうと思います。ここでは、簡単に、その人自身にとってのその人のパーソナリティというのは、その「自己イメージ」に基づいているということだけ、押さえておいてください。
 ところが、実際に起こっていることは、Bさんから見たAさんのパーソナリティは、Aさんの持っている「自己イメージ」とは違うパーソナリティであるという事です。Cさんから見たら、また違うパーソナリティに見えることでしょう。Aさん、Bさん、CさんそれぞれのAさんのパーソナリティに対する認識にある程度の共通性はあると思いますが、それが完全に一致することはないのが現実でしょう。
 そして、それは誰のが正しくて誰のが間違っているという問題ではありません。それぞれ全て、それぞれのフィルターを通して見た結果なのです。

 それは一体何を意味しているのでしょう?それは、パーソナリティがパーソナリティを通して認識し、体験しているものは全て、"事実ではない”、という事を意味しています。
 私たちは通常、自分の周りで起きていること、自分自身の内側に起こる反応など、それら全てを"事実”だと受け止めて生きています。でも、実際は、そこには普遍的な"事実”など何もないのです。これは、何も霊的な体験がなくても、よく観察し、理論的に考えれば誰にでもわかることです。"事実”だと思っている事も全て、パーソナリティというフィルターのかかった映写機を通して歪めて映し出された虚像に過ぎないのです。
 ちょっと違う角度から言えば、パーソナリティに限らず、この現象世界というものは、パーソナリティが創り出している妄想のようなもの、とも言えます。人がパーソナリティの次元のみに生きる時、それはまさに「幻想」の中で生きていると言うことができます。
 この「幻想」から脱するためには、パーソナリティの次元を超えた真の自己である「魂」を目覚めさせ、その「実在性」の中から、この現象世界を見なければなりません。

・『神性』に還るためのツール
 とはいえ、パーソナリティそのものは、別に悪いものではありません。それは、私たち多次元的な存在が、この現象世界で生き、二元の世界で「体験」するために与えられた、「魂」の拡張機能のようなものです。それは「魂」ではありませんが、最初に書いた通り、なにがしかの「魂」の投射を表しています。それは、「魂」が地上で「魂」に還り、『神性』という本来の家に還るために与えられた、貴重で尊いツールでもあるのです。そのツールがなければ、私たちはこの現象世界で「魂」、『神性』に還ることができなくなってしまいます。

 それゆえ、パーソナリティそのものを否定したり、根絶させようとすることは、無意味であるどころか、逆に、『神性』に還るという霊的進化の道を妨げることになりかねないのです。
 問題は、パーソナリティそのものにあるのではなく、パーソナリティが自分だと思い、パーソナリティの次元だけに生き、それだけが"事実”でありリアリティであると思い込み、それに支配権を完全に与えてしまっている事にあるのです。パーソナリティが暴走して描き出している妄想の世界を、妄想の世界と知らずにさらにそれを肥大化させ続けている事にあるのです。

・パーソナリティに取るべき態度
 私たちがパーソナリティに対して取るべき態度は、真の自己を目覚めさせることで、パーソナリティに与えている支配権を取り戻し、パーソナリティを本来の位置に戻し、機能としてのパーソナリティを正しく使いこなす事なのです。「魂」を何らかの形で映し出しているパーソナリティを浄化し、肥大化したそれをシンプルに戻し、それを温かく包み込み、愛し、それを生き切ることなのです。

 パーソナリティを通してこの次元で生きることは、あなたの「魂」、『神性』をそのパーソナリティを通してこの次元にもたらすことに他なりません。
 パーソナリティとは、「魂」、『神性』をこの次元にもたらすための通路であり、それらが行き来するための橋なのです。

・「魂」に同調させる
 あなたのパーソナリティは、「魂」に同調しているでしょうか?それとも、あなたがあなたのパーソナリティに同調していますか?
 「魂」に同調することは、パーソナリティにとって楽であるとは限りません。それは時として忍耐を要求し、痛みを伴う成長を強います。あなたは、子どもを育てるように、忍耐強く、愛を込めてパーソナリティを育てていかなければなりません。
 それは、「自己イメージ」に合わせて自分を操作したり背伸びさせたり、演技させたり無理強いさせることとは全く違います。それでは、あなたがあなたのパーソナリティに同調していることになります。
 よく、スピリチュアルな世界で、あなたの心が「わくわくする」ことや「楽しい」ことをすることが「魂」に同調することだというメッセージが伝えられています。それを「楽ちんな方」と間違えて解釈してしまうと、あなたはあなたのパーソナリティに同調することになってしまいます。
 多くの場合、「魂」はそのパーソナリティにとって厳しい方、大変な方を選択させようとしています。
 
 そういう意味では、「魂」がある「自己イメージ」をパーソナリティに与える場合もあります。
 例えば、あなたが「私は人のために尽くす人だ」という「自己イメージ」を持っているとしましょう。そういう類の「自己イメージ」には、その人の本質が隠されている場合があります。
 その「自己イメージ」を「自分劇場」のショーとして見せようとする人(つまり、「こんな私、素敵でしょ?」と演技して見せつける人)の場合は違うかもしれませんが、その「自己イメージ」に合わせるために、あなたは一生懸命、人のために動いて尽力しようとします。でも、一生懸命やっているのに、その相手からそれほど感謝されなかったり、評価されなかったり、裏目に出たりします。いつも、それで傷ついたり苦労ばかりしているとします。
 すると、あなたは、そんな「自己イメージ」は捨てて、もっと自分を大切にして、楽に生きようと思います。その方が苦労して報われないより、自分が輝くだろうと思うのです。
 でも、そうやって生きたとしても、楽しいけれど、どこかにむなしさが残ります。あるいは、どこかに不完全燃焼感が残ります。あるいは、自分自身に負けたという感覚が残ります。
 そういう場合、「魂」があなたにあなたの本質を表す「自己イメージ」を与えていた事がわかります。その場合、あなたは忍耐強く、温かく、あなたのパーソナリティがその「自己イメージ」に合うように育てていかなければなりません。そうして初めて、あなたはあなたの本質である偉大な愛を、本当にこの次元にもたらすことができるからに他なりません。

 スピリチュアルな世界には、本当に多くの落とし穴が存在しています。あなたの耳やパーソナリティに心地よい言葉の多くは、背後に落とし穴が隠されているかもしれません。

 あなたにふさわしい評価を与えてくれるのは、あなたのパーソナリティでも他の人のパーソナリティでもありません。あなた自身の「魂」です。
 心の最奥の「自分自身」を偽ったり騙したりごまかしたりすることのないよう、そのパーソナリティを、あなたの「人間サイド」を精一杯生きてください。

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