2020年6月15日月曜日

神性とは 「トータルパス」霊的進化と人間性の成熟の「道」第一章 目覚めの地図 「3つの柱」と「5つの身体」神性(DEVINE)とは

目覚めの地図
「3つの柱」と「5つの身体」



『神性(DEVINE)』とは

全ての根源
 『神性』とは、この現象世界における私たちという存在を始め、宇宙に存在するもの全て、あるいは宇宙そのものの、原初の原因であり、根源であるもののことを言います。全ての源、という言い方もできます。

『神性』の持つ質

 その全てを知ることができないほどの、「在る」という膨大なエネルギー
 それは無限であり、途方もないエネルギーであり、この現象世界をはるかに超え、全てを包含するものですが、私たち人間の意識では、その全容を把握することはできません。
よく、「無」と表現されますが、その意味は顕現、平たく言えば姿形、もしくは物質界をはるかに超えているということで、何も無いということではありません。むしろ、全ての可能性を携えた、膨大で無限のエネルギーである、という事です。私が無限というのは、私たちがその限界を知ることができない、もしくはその範囲や大きさを測ることができないという意味です。
 『神性』が本当に無限であるのか、あるいは有限であり、さらにそれを超えた何かが存在するのかは、今の私にはまだわかっていません。つまり、『神性』が11次元以上であることはわかりますが、11次元のみが『神性』なのか、それ以上の次元も全て『神性』なのか、おそらく、今の段階では後者とみなしているのだと思いますが、今の私ではまだそれを実証できていません。
 あのエネルギー状態を、「無」と表現するのは、正直なところ、よくわかりません。なぜなら、確かにそこに何かの物質、物体はありませんが、それはまさに「在る」という膨大なエネルギーだからです。それは、物質が「有る」という事とは全く違う事ですが、「神」もしくは「仏」、もしくは「名なきもの」という言葉を作った人たちもまた、その「在る」というエネルギーを感じたからこそ、それになにかしらの存在としての言葉を当てはめたのでしょう。おそらく、「無」と表現した人は、『神性』の一側面である「絶対状態」を体験したのではないでしょうか。
 『神性』の次元では、何も起こっていません。それを「無」と表現したのかもしれません。
 いずれにしても、『神性』との直接の出会いの体験は、非常に圧倒的なものであり、感動すらも超えた、畏怖ともいうべき体験です。そこに至って初めて、私たちは私たちの「魂」の全体を知ることができます。
 
 「魂」は、それとひとつであり、それを体験することはできますが、「神性」の全てを体験し、知ることはできません。なぜなら、それは「魂」の領域をはるかにはるかに超えているからです。それは、私たちが一度の生の体験で得た知識や感性を総動員しても、表しうるものではありません。大いなるもの、偉大なるもの、という言葉ですら、それそのものと比べたら、ひどく矮小な言葉に感じてしまいます。
 多くの詩人や覚醒者がそれを表現しようと試みて来ましたが、おそらく、どの人もどの人も、それを表現しうるものがないことを痛感したことでしょう。そして、その体験に比べたら、地上でのどんな素晴らしい体験も、色あせて見えたことでしょう。それは、体験を超えた体験です。

 「魂」の故郷ー「魂」の完全なる休息、安堵
 それでもなお、「魂」はそれが自分の本当の故郷であり、自分の本当の家であり、自分の真の親であり、自分が存在することの原因だということを知ることができます。そこに還った時、「魂」は真の充足と安堵を感じることができます。生まれたての赤子が、母親に抱かれてすやすやと安心して眠るように、私たちは真の休息の中で、初めて完全にやすらぐことができます。心底、丸ごと、絶対的にやすらぐのです。その時初めて、真の「安堵」とはこういうものだったのかとわかります。それは、絶対的に不変で動きのない『神性』の次元でのみ、体験できる真の安堵です。

 不変、不動ー静けさ、沈黙ー「今」
 その絶対的に不変で不動の質は、完全なる静けさ、沈黙を表します。それはまた、時間がない事と、永遠性を表します。永遠であるということは、始まりもなく、終わりもないということです。
 この静けさの次元が、私たち人間存在の基盤でもあります。それは、大地のような、木が根を大きく張って幹や枝を支えるための土台のようなものです。私たち人間存在も、この沈黙の大地に、その存在の根を張っています。その大地なくして、私たちは存在することはできません。私たちという存在の根は、この大地同様、永遠であり、不動で不変なのです。
 この静けさと沈黙の質こそが、「今」の本質です。「今」にいる、ということは、過去と未来の中間の現在にいるという意味では全くなく、この時間のない、不変、不動の次元にいるということです。そのため、いくら時間軸の中で、現在の瞬間瞬間にいようとしても、それだけでは、真の「今」の深みに到達することはできません。現在の瞬間は、「今」への入り口に過ぎません。その入り口から、垂直にこの次元へと深く入っていく必要があります。

 神聖さ
 『神性』の膨大なエネルギーそのものが、究極の神聖さを備えています。
 それは、大地を洗い流す雨や、常に新鮮な空気を運ぶ風のように、全てを洗い流し、新鮮さをもたらし、清らかさを与えてくれるものです。「魂」の体験もそうですが、『神性』の体験もまた、それらが不動で不変であるにもかかわらず、常に新鮮であるのも、それが時間のない、「今」の体験であることと、この神聖さから来るものであると言えます。
 またそれは、全ての存在に王の威厳や偉大さをもたらしてくれます。この神聖さによって、私たち人間存在という木はすっくと真っ直ぐに伸び、高貴さを備えた堂々たる姿を表すことができます。もちろん、誰しもが、生まれながらにこの質を備えています。

 愛
 『神性』と出会い、それに触れ、それに触れられる時、私たちは今まで一度として、それから離れたことも、それから別れたこともないことを知ります。私たちは、いついかなる時でも、それとともにありました。「神に愛されていない」と嘆いて涙した日々も、実は神の愛にすっぽりと包まれていた事を知ります。「私はずっと神に愛されていたのだ」「何も心配することなどなかったのだ」と、心底わかるのです。そして、その時、愛されている歓びに涙するのです。
 この、「愛」という『神性』の側面を、私たちはよく『最愛なるもの』と表現します。
それは、『神性』の女性性、あるいは母性の側面を表しています。

 『神性』の愛には、何の制限もなく、何の条件もありません。「あなたがこうであれば、私はあなたを愛する」とは決して言いません。『神性』の都合の良い時だけ愛するわけでもありません。ただ、あなたを愛するのです。あなたという存在を愛するのです。それが途絶えたり、特定の間だけだったり、尽きてしまったりすることは決してありません。
 あなたが今存在しているということが、あなたが『神性』に愛されているという確たる証拠です。こういう表現をすると、『神性』が何か行為を行う個人性を持つ存在のように聞こえてしまうかもしれませんが、『神性』に個人性は全くありません。完全に個を超えたるものです。でありながら、非常に親密な、最高に親密な『神性』とのつながりを私たちは体験します。あなたが完全に透明になった時、『神性』との間の隔たりは完全になくなり、あなたはそれと溶け合うからです。

 歓び

『神性』とひとつになる

 でも、私たちがマインドだけの中で生きる時、そのつながりを、その自分が包まれている愛を、感じることができなくなってしまいます。なぜなのでしょう?次元が違うからという理由もありますが、マインドというのは、なぜか、ネガティブな方向により働くような習性を持っています。それは、どんなに知識を集積したとしても、むしろすればするほど、よりネガティブに、より否定的な方向に向かう事が多いようです。

 とはいえ、マインドもよく見ていくと、ふたつのマインドがあるのがわかります。よく、内なる対話と表現されるように、自分の内側で、二人の自分がいて、違う見解や違う意見、異なる思いを抱くことがあります。例えば、「もっとこうでなければ」というあなたと、「いや、それは大変だし」と答えるあなた。「こっちの方が得じゃない?」「いや、損でもこっちじゃないといけないような・・・」。あなたは、いつもどちらの声に従っているでしょう?これについては、また「マインドとは」というページで、詳しく述べて行きたいと思います。

 ここでは、実は、私たちの心の奥では、「すでにわかっている」ということだけ、お伝えしておきます。奥深くで、『神性』の愛を知っているからこそ、その愛を見失っている状態がつらくて苦しいのです。奥深くで、『神性』とつながっているからこそ、本来のあなたとしての声がマインドの中に沸き起こるのです。

 表層的で主力的なマインドの中だけで生きる時、私たちは見捨てられて一人孤独な惨めな自我として生きることになります。その生を多く占めるのは、不安や心配、恐怖や猜疑であり、あたかも、愛や安堵、信頼から対極にかけ離れているように感じます。でも、その苦しみがあるからこそ、私たちは反対の対極に行こうとし、『神性』の愛を再び見出し、『神性』と再びひとつになろうとします。

 私たちが真に求めているものは何でしょう?
 人によっては、「幸せ」だったり、「承認」だったり、「愛」だったり、もしかすると「お金」だったり、「栄光」だったりするかもしれません。霊的進化の道に入る前、例え、自分ではスピリチュアルな道を歩んでいると思っていたとしても、多くの場合、人は自分の外側に求めているものを探し、得ようとしています。自分の求めているものは『神性』と出会う事だと言う人でさえ、ほとんどの場合は、自分の外側にそれを見つけようとします。それゆえ、誰か特定のマスターにそれを投影し、そのマスターの信者になります。
 でも、その探し求めているものは、外側にはありません。それは散々言われて来たことなので、知識として知らない探究者はほとんどいないでしょう。でも、本当に、求めるものは内側にあるということが理解できていて、初めから内側に向かえる人はごく稀です。私も、言葉としてそれは知っていながら、師に人生のことを相談しては、「あなたの問題は、あなたがまだいないことだ」と言われ続け、本当の意味で内側に向かうことができるまでに、数か月も要してしまいました。
 私たちが真に求めているものは、『神性』と再びひとつになることです。本来の家に還ることです。それは、まさにあなたのあなたを通して起こります。あなたの最も内側で起こります。
 だからこそ、私たちは「魂」を目覚めさせることを急務とし、それを通して、それを明け渡すことで『神性』へと至り、ひとつに溶け去っていくのです。


『神性』と「神々」の違い

 さて、ここで、少し『神性』と「神々」の違いについて書いておきます。『神性』とは、絶対で不変なる至高のものを指しますが、旧約聖書における「契約の神」であるヤハウェや、日本の神々である天照大御神や素戔嗚尊など、固有の名前を持つ神は、『神性』ではなく、私たち人間より霊的に進化した「魂」の存在であると、私たちはみなしています。
 『神性』は、何の契約も私たちに強要しません。固有の名前も持ちません。『神性』は、人格(神格?)を持つような存在ではないので、感情もなければ、私たちに何かを期待したり、要求することもありません。ただ、『神性』にはたったひとつの意図、もしくは意志があるように思われます。それは、「在れ」という意図です。「在れ」と『神性』がその波動を発した時、意識が生じ、「魂」が生まれたのではないかと思います。「在れ」という意図そのものが意識なのかもしれません。その意識が、「在れ」とこの現象世界を創造し、顕現させました。その創造という現象については、また別の項で書きますが、『神性』は、この現象世界に関心がある訳でもそれに携わっている訳でもありません。

0 件のコメント:

コメントを投稿