2015年11月22日日曜日

『未知』と出会う

神性、『最愛なるもの』と直接出会うということは、『未知』と出会うということだ。
それは、今まで知らなかったものと出会うという意味だけではない。
それは、「知ることができない」ものと出会うということだ。
『不可知』と言った方がいいだろう。

それは例えば、私たちがどこか見知らぬ土地に旅し、ピラミッドや古代遺跡など生まれて初めての建造物に出会ったり、生まれて初めての食べ物や生き物に出会ったりして、その凄さに心底驚き、感嘆する、という類の体験ではない。
それは例えば、未確認物体に出会い、宇宙存在に生まれて初めて出会うような類の体験でもない。
それは例えば、肉体を持たない高次の存在に出会い、その叡智や愛に触れるという類の体験とも違う。
それらは全て、生まれて初めて出会ったものだとしても、それらの姿形、それらのエネルギーなどを、私たちは認識し、把握することができる。

だが、神性と直接出会う時、私たちはそれを認識し、把握することができないのだ。
それは、体験を超えた体験だ。

絶対的な静けさの中で、完全に明け渡した時に、それは起こる。

ハートは完全に開き、実際の胸も、普段では肉体的にありえないほどに広がり、天に向かう。

ほんのわずかに、知性の機能が体験していることを認識する以外、あらゆる機能が停止したかのようだ。

それは、良いも感動も衝撃も畏怖も何も全て超え、至福すらもエクスタシーすらも超えている。

何も感じていないようにすら言える。
かろうじて、知性がわずかにその『未知』を体験していることを認識しているだけだ。

私たちは、ハートを通して神性の愛のエネルギーに満たされ、至福や悦びやエクスタシーを体験するが、それすら、神性の声を聞き、その息を感じているに過ぎない。

神性と顔と顔を合わせて、直接に出会うということは、それら全てを超えている。

それは何か、全く質の違う、次元の違う体験だ。

私たちは、それを体験し、そこに溶け去ることはできるが、それを知ることはできないのだ。

それは、完全に人間のマインド、人間の機能を超えている。

そして、その時初めて、私は「完成した」と感じられた。

どんなに至福に満ち、エクスタシーに酔いしれ、どんなに『最愛なるもの』の愛に包まれて涙し、その度にすっかり洗い流され、その度に新しく生まれたように感じようと、何かまだ完成されていないという感覚があった。

人間存在として、最大の拡大に到達して初めて、「完成した」と感じられるのだ。


―――――2011年9月 伊豆にて

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