2015年11月21日土曜日

「私が私であること」の歓び~「私」の秘密 その3 「私」を知ることの難しさの訳

リトリートが続いていますが、ずっと浄化の雨でした
今回も大きな浄化が起こりました(*´ω`*)

なので、今日はもう晴れる気がしていましたが、
期待通り、久しぶりに晴れたので、早朝のダイナミック瞑想を変更して、
日の出のお散歩と、日の出の太陽のエネルギーを受け取るワークをしました

とても雄大な、清々しい景色
山の横に見える朝焼けの雲の下は海です♪
たっぷりと新鮮な空気を吸いました






山が遮って、水平線に出る太陽は見られませんでしたが、
山から顔を出す前、うすーく彩雲が現れました♪
祝福ですね(∩´∀`)∩


ちょっと、画面ではわかりませんね(;´Д`)残念~


その後、太陽の光が放射状に山から立ち上りました
まさに、神のお出まし、って感じです( ̄ー ̄)
うっすらでしたが、感動的でした♪





山から太陽が顔を出しました


パワフルなエネルギーを、ダスカロス方式でたっぷりとサードアイとハートに受け取りました♪
両手で三角を作り、太陽の光をそこから取り入れます


そのまま、磐座の上で瞑想したかったですが、時間が過ぎていたので帰りました
今度、やろう( ̄ー ̄) ふふふ


さて、今回はなぜ「私」を知ることが難しいのかについて、書こうと思います

なぜ、と「私」が多くの教えの中で混同されてしまうのか

ひとつには、
薄ぼんやりと潜在的にを感じることはあっても、
それを「意識的に」直接感じようとしたことがないから、ということがあります

注意のベクトルは常に外側に向いているため、
それを反転して自分を感じることなど、
普通、人はしないからです
いつも、外側の出来事や、沸き起こっている思考や感情に気を取られています

灯台元暗しと言うがごとく、あまりにも近すぎて、見えないのです

おそらく、そういう発想すらないと思います

にもかかわらず、
に驚くほど固着し、執着しています

そういうに疑問すら感じていません

でも、それより少し、霊的に進化している人は、
もっとはっきりと自分を感じています

人類の進化とともに、
「個人」が強調されてきたため、
他者との比較対照という文脈の中で、自分を感じています

あるいは、
「いつも上から自分を見ている自分」という形で感じていることでしょう

少し、自分の中に距離があります

でも、もう少し霊的に進化している人は、
もっと自分の中に距離を持っていて、
きっともっと親密な感覚で、
何かちょっと違うニュアンスで、
時折「私」を感じているはずです(*´ω`*)
そういう人は、おそらくすでに何らかの形で「悟り」を目指しているでしょうが、
「悟り」=「無我(私がいなくなる)」と、
教えの多くが言っているのを知っているために、
その感じているものを「なんとか無くせないか」と奮闘していることと思います(;´Д`)

そう、それがもうひとつの理由なのです

なんであれ、は問題児扱いされてしまっているのです(;´Д`)

と「私」の識別をしようとするより、
とにかくその「問題児」であるを取り除こうとしてしまいます

とは何か?「私」とは何か?と、探求することなく、
どうしたらそれを取り除けるか、だけに腐心してしまうのです

実は、そうやって「悟り」を目指して、
なんであろうと私を否定し、無き者にしようとしてきたことが、
「私」である魂を非常に深く傷つけています

その傷、そのカルマは本当に大きい

今生、自己否定に苦しんできた人は、
もしかしたら過去に「私」を否定する教えの元で必死に修行してきたかもしれないのです



そして、もうひとつの大きな理由

それは、
と「私」が全く同じ位置にあるからです

普段、なんとなくぼんやりと感じている「自意識」と、
「私」が全く違うところにあれば問題はないのですが、
それらは重なり合って同じスペースにいるため、切り離すのがとても難しいのです

そのため、「私」はの陰に隠れたまま、
一緒に「ロクでもないもの」として捨て置かれてきたのだと思います

まして、目覚める前の人の場合、
「私」は完全に現れていず、種、もしくは眠っている状態だと言えます

そんな状態では、見つけるのが困難でも当たり前です

いくつかの教えが、直接に「私」を認識していますが、
そこに到達する方法はとても間接的で、時間のかかるものでした


ちょっと、例えとして図を使って説明してみますね(*´ω`*)





が水色の球だとします

思考や感情、感覚と同化して不透明でどんよりと色づいています

制限の枠があります




「私」が透明な球だとします
(本当は制限の枠がないのですが、見えないので(;´Д`))

何とも同化せず、純粋で透明です

光輝いています♪



3次元にいる私たちが普通に見ると、それらは重なり合って同じ位置にあるため、
上から見ても下から見ても横から見ても、こう見えます


しかわかりませんね(;´Д`)

では、今度は「次元」というY軸を入れたグラフ図で見てみましょう
              
        Y軸 次元 高い
低いX軸 位置


そうなのです、次元で見た時は、あきらかに違いがあり、両方別々に見えます

は3次元に属し、「私」はもっと高次元に属しています

3次元の振動数はより低く、粗いエネルギーです
「私」の属している次元は、もっと振動数も高く、非常に繊細なエネルギーです

そのため、である3次元の視点から見ると、区別するのが難しいですが、
もっと高次元にチューニングできるように感性も知性も成熟すると、
両者を明確に識別することができるようになります

この感性ですが、
多くの人が現代生活によってかなり壊されているんじゃないかと思います

多くの家庭で、朝から晩までテレビがつけっぱなし状態です

中にはいい番組もありますが、
ほとんどは非常に粗い振動数です

本当に、非常に粗く、低い振動数です

それに1日中さらされている

テレビを見ていれば、自分と向き合わなくてすみ、
自分からエスケープできているような感覚になるので、
皆、無意識に見続けているのだと思います

自然の中で暮らしていれば、まだ自然のエネルギーに触れて繊細さを保てますが、
都会ではほとんど不可能です

そんな粗いエネルギーに慣れていては、
高次の振動数にチューニングしていくなんて、至難の業です(>_<)

その上、ゲームが日常の中に完全に入り込んでいる人が少なくありません

私の子ども世代に、初めてテレビゲームなるものが誕生しましたが、
あれは繊細な感性を壊すと、すぐにわかりました

特に成長過程の幼児がゲームを毎日やるようになると、
取り返しのつかないことになります

一度壊れた感性を取り戻すのは、大変なことです

感性が鈍ってしまっていると思う人は、
できればテレビはもう卒業して、
もっともっと自然の中で過ごす時間を増やしていく必要があると思います

と「私」の見分けがつかない理由、
言い換えれば、「私」が秘密になってしまっている理由は、
「私」がもともと秘密なのではなく、
私たちの感性が鈍ってしまって、感じることができなくなっているからなのです


それはそうと、
ここで使用した図やグラフはあくまでもわかりやすくするための例えであり、
実際のあり方がこのように単純で直線的なわけではありませんし、
こんなに味気ない(;´Д`)ものでもありません

文字通りに捉えるのではなく、そこで表している本質的なことを直観的に理解してくださいね

もっと、絵とかで表現できるといいのですが、時間がないので、ごめんなさい🙇

ついでに、こんなのも作ってみました♪





神なるもの


神なるものの無限なる光の一筋

ひとつの角度(プリズムのようなもの)


魂=「私」


肉体化(人間の鋳型)


パーソナリティ=

これは何の図かと言うと、(ちょっとあまりにもへたくそなのでやめたいところですが|д゚)
私の腕もへぼいですが、私のPCのペイントがへぼすぎるので、ご勘弁を(;´Д`)

上の星っぽい十字架っぽいのが神なるものです(神様、変な図でごめんなさい、これしか図がなかったので(>_<))

その神なるものの無限なる光の一筋が、
特定のひとつの角度、プリズムのようなものを通った時、魂が生まれます

その魂が人間として肉体化する時、
人間の鋳型を通り、
パーソナリティが創られます

魂もパーソナリティも全て神の全なる光によって創られているものであり、
全て聖なるものです









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