2020年4月26日日曜日

「トータルパス」霊的進化と人間性の成熟の「道」第一章 目覚めの地図 「3つの柱」と「5つの身体」魂(Me)とは

目覚めの地図
「3つの柱」と「5つの身体」

「魂(Me)」とは

 「魂」とは、「真の自己」という意味ですが、この言葉は、スピリチュアルの世界で使い古され、様々なイメージが貼りつけられてしまっています。多くの場合、"自分らしくある”というレベルの、まだパーソナリティの範囲内での深化、もしくは純化の状態を表しています。
 真にこの次元を超えてはいず、超えていたとしてもせいぜい5次元止まりの場合がほとんどです。そういった人達が言う事、関心がある事は、"いかにこの人生が良くなるか”"この人生の中でいかに幸せになるか”であり、大抵、"あなたはそのままでオッケー”とか、"あなたは光の存在だよ”とか、"ワクワクする事をしよう”、"自分を愛する”、"アセンション”、"愛と調和の世界がやって来る”、"ハートに従おう”、などなど、とても耳に心地よい事をさかんに主張しています。
 また、人生のあらゆる出来事の「意味」を求め続け、自分の人生の「意味づけ」に価値を見出し、熱心にそれを追い続けます。
 ホワイト・ブラザーフッドやプレアデスなどの、固有の名前を持ち、肉体を持たない存在達とのチャネリングやメッセージを伝える人達も同じレベルの進化を表しています。
 彼らも、魂という言葉をよく用い、それを実現することを最大の目的としていますが、自分の人生のストーリーを追求するという範囲から出る訳ではなく、そのストーリーそのものからの解脱にはほとんど触れません。「魂になってごらん!そうしたら、人生が今と違って素晴らしいものになるよ!」と言う訳です。つまり、自分はスクリーンに映し出されている映画の主人公であり、その主人公がいかにブラッシュアップし、愛と幸せを実現し、神秘的な体験をしていくかについて、多くを語っているのです。自分は映画の登場人物ではなく、本当はその映画を観ている鑑賞者だ、という事にはあまり触れません。
 そして、そういった人たちがよく言う事に、「善」と「悪」の存在がいる、ということがあります。神とサターンですね。そして、自分は「善」、もしくは「光」の側で、「悪」、もしくは「闇」の勢力と戦っている、と言います。つまり、そういう人たちは、まだそういう世界に住んでいる、ということです。そして、「光」を選択するように、「ポジティブ」な側だけを選択するようにと言います。
 世間で見受けられるスピリチュアルな世界では、そういった類のメッセージがあふれています。

 それが無意味だとかレベルが低いとか否定している訳では決してなく、 それでも人にとっては大きな進化であり、貴重なメッセージであることに変わりはありません。そういう教えを必要としている人たちがより多く存在している、という事です。

 人には、それぞれの段階があります。例えば、産まれたての赤ん坊がいれば、幼稚園生、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、青年、中年、老人と、いろいろな歳の人がいるように、霊的進化の段階も、若い人もいれば、高齢の人もいる、ということです。幼稚園生が大学生と比べて、悪いわけでも低い訳でもないことは、明瞭ですね。ただ、若いだけです。

 ですから、私たちはそういった教えを否定するつもりは一切ありません。自分にふさわしい段階の教えに惹かれるのは、当然の事ですし、それが必要な事です。

 ただ、気をつけなければいけない事は、そういった多くの教え、特に耳障りのいい事をさかんに言っている教えの中には、人類より低い性質の存在からのものが結構たくさんある、という事です。彼らは、真の教えと見間違うほど、内容的には同じようなことを言いますが、心地よい言葉で人を惹きつけ、支配しようとします。こういう場合は、教えている人そのものに依存させようとしたり、崇めさせようとしたりする事が多いので、そこをよく見極めるようにしてください。

 そして、重要なことは、そこで言われている「魂」が、完全な「魂」の実現を表している訳ではない、ということを、知っておく必要があるということです。
 私たちの教えの中で言う「魂」は、もっと広大で透明なものであり、さらに精妙で高次のものです。

 「真の自己」もいくつかの層があるのですが、それについては、次の部以降で詳細に書いていきます。

 完全な「魂」を知るためには、「魂」の次元を超えて、「神性」の次元へと到達する必要があります。おそらく、それを直接知った人は、世間にあふれるスピリチュアリティによって植え付けられた「魂」というイメージとは全く違うことに驚くでしょう。
 私たちは、「魂」という言葉を便宜上使いますが、それを定義したり、そのイメージを語ることはあまりしません。というのも、その植え付けられたイメージによって、人がそれそのものを見逃してしまうからです。「魂」を知るためには、何のイメージもなく、そこにあるものを純粋に知ることができなければなりません。完全に無垢で純粋な認識が必要とされるのです。

 そのためには、単に「ワクワクすること」をしたり、「ポジティブ」でいたり、あるいは、呼吸に集中したりマントラを唱える瞑想などをやるだけでは、全くもって十分ではありません。
 もっとダイレクトで有効な瞑想を行い、また、繊細な感受性と透明で高い知性を磨いていく必要があります。そして、シンプルなマインドと赤子のような無垢さを備える必要もあります。人生を通して自分の中に積み上げて来たものを、全て捨て去ることができなければなりません。完全に開くことと、明け渡すことが絶対的に必要となります。

 それゆえ、自分の人生のストーリーにまだ大きな関心があり手放せず、それをいかに素晴らしいものにしていくか、そのために瞑想しようと思っている段階の人では、無理が生じます。本当には何も手放せず、明け渡せないからです。いかに自分が人生のストーリー、もしくは、○○○子、×××男という今の名前の自分、つまりパーソナリティに固着しているか、気づくことができないからです。何が問題なのかすら、本当には見えないのです。

 ですから、この教えは、今の人生の問題がまだたくさん残っていたとしても、マインドでは「この人生、もっとましにならないかな」と思っていたとしても、「もう、人間としての人生はやりつくした」「もう、十分」というある種の感覚を、深いところで持っている人に向けてのものなのです。つまり、もう延々と長い道のりを歩いて来た老人のためのものなのです。(まあ、今の実際の老人で本当にそういう意味で老成している人は少ないですが。)それは、この人生での年齢は関係ありません。

 「魂」に還りたい。「本当の家に還りたい」そういう内側からの強い思いが生じて来ているかどうか。
 人によっては、最初、ただ「真理」を知りたい、という、純粋な思いとして感じる場合もあるでしょう。
 真の変容という段階に達した時、何らかの内側からの激しい思いが生じます。それこそがまさに、「魂」からのアラームです。

 そういった人たちには、前述したような世間にあふれるスピリチュアリティになんとなく違和感を感じたり、物足りなさを感じる場合が多いと思います。また、形骸化している既存の宗教にも物足りなさを感じることでしょう。

 私たちの教えである霊的進化の「道」の最終地点の一つは、完全な「魂」もしくは「私(Me)」を実現するということです。
 簡単に「私はいない」と結論づける教えは、その「私はいない」状態を体験しているのは誰なのか?それを認識しているのは誰なのか?という、その体験者そのものを見逃しています。
 この全ての体験者こそが、最も神秘的な存在であり、最も私たちにとって意味のあるものです。なぜなら、この体験者がいなければ、体験も宇宙も何も存在し得ないからです。何も起こりえないからです。

 もう一つは、その「魂」を通して、原初の原因である無限で全てなる「神性」へと拡大し、ひとつとなり、溶け去っていくことです。それが真の「ワンネス」であり、「ホールネス」です。「魂」はそこで、完全に休息し、消え去りますが、ごく微細な体験の認識だけは残ります。でなければ、その状態であることを知ることすらできないからです。
 この「神性」への拡大には、聖なる母に包まれた安堵や愛の体験など、いくつかの段階がありますが、私たちが知る最終地点は、「不可知」の領域へと拡大することです。それは、体験を超えた体験です。
 「不可知」とは、「知ることができない」ということです。あまりにもとてつもなく、膨大で広大で把握することができない、ということです。何か、途方もないものを体験していることだけはわかりますが、体験しているものが何なのか、途方もなさ過ぎて、把握できないのです。まさに、「畏怖」を体験します。
 その領域に、人はずっととどまることはできないでしょう。その領域に留まると、肉体をずっと維持していることができないからです。なので、真にその最終地点へと完全にシフトした時、そう長くないうちに、肉体は死を迎えると言われています。そして、人は永遠に、「神性」とひとつになり、その中でさらに拡大し続けていくのでしょう。

 これらの体験こそが、真に人を満たします。特に、「魂」との出逢いは、最も打ち震える体験です。
 でも、これらの体験は切り離すことはできません。先も書いたように、「神性」を体験している「魂」という体験者に気づかずにいることはできますが、そこに「魂」がいなければ、「神性」そのものがそこに現れることも、それを知ることもできません。

 ですから、この2つの側面が、両方とも必要なのです。
 「魂」によって、どこまで到達するかの違いはあります。「ブループリント」という言葉で表すように、「魂」が決めている到達点があります。そこに達すると、「完結感」を感じます。でも、そこから先に行けないということではありません。
 そして、霊的進化には終わりがありません。なぜなら、「神性」は無限だからです。そこへの拡大に、終わりはありません。ただ、肉体を持った人間としての最終地点はあります。でも、「魂」としての進化に終わりはありません。
 

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