2020年4月13日月曜日

「トータル・パス」 霊的進化と人間性の成熟の「道」 第一章 はじめに

はじめに

霊的進化とは、
人がその存在の本質に向かって進化していくことです。

人間という存在は多層的で多次元的であり、
進化とは、そのより深い層、高い次元へと到達し、
それを体験し、「知り」、それを体現することです。

そして、
最終的に、
全ての原初の原因である「神性」の中へと拡大し、溶け去っていくことです。

それが、
本来の家に還るということです。


この地上の平均的な人が「自分」であると認識しているのは、
その表層であり、物質的次元により近い次元での存在です。

それがいわゆる肉体を持ったパーソナリティとしての存在であり、
「私は〇〇という名前である」
「私は日本人である」
「私は女性である」
「私はそそっかしい」
「私は教師である」
「私は中肉中背で丸い顔立ちをしている」
「私が一番大切に思っているのは家族」
などなど、
特定の名前や姿かたちや性格を持ち、
何を所有していて何を所有していないか、
何ができて何ができないか、
こういう指向、嗜好、性格、価値観、思想を持ち、
これこれこういう人生のストーリーを歩んできた、
などなど、あらゆる飾りや内容物と結びつけられた、
自己イメージとしての自分です。

そして、
そういう自分のどこが好きでどこが嫌だとか、
そういう人生のストーリーのここが問題だとか、
あくまでも、
その表層に表れ、表層で起きていることにだけ、
意識が向き、関心を持ち、
そこだけで生きています。

要するに、
この肉体とその自己イメージが自分だと思っています。

簡単に言えば、「これが自分だ」と思うことを、
「自己同一」と言います。

「自分」という自意識を、
肉体や自己イメージと強く結びつけているのです。

それを、肉体や自己イメージとの自己同一と言います。

そして、
自分の中に沸き起こる思考や感情に対しても、
「自分はこう思っている」「自分はこう感じている」と、
自己同一しています。

思考や感情に完全に糊付けされて、
それらが自分だと思っています。


霊的進化とは、
その表層の自分との自己同一から離れ、
もっと奥にある、その本質、そのコアへと近づき、
それそのものになっていくことです。

そのコアである存在は、
「神性」と常に一体である、
「愛」そのものであり、
精妙で、
霊的な「光」の存在です。

この教えにおいて、
それを「魂」と呼ぶこともあります。

この「魂」の実現が、
霊的進化の2つの柱のうちの一つであり、
「愛」の実現であり、
「創造主」としての意識の実現です。

もう一つは、
その「魂」を通り、
その「魂」を明け渡すことで、
全ての原初の原因である無限で不可知の神性の中に溶け去っていくことです。

それは、
「神性」の実現です。

それは、
体験を超えた体験です。
というのも、
何を体験しているのか、あまりにも膨大すぎて「知ること」ができないからです。

「魂」の完全なる実現と、「神性」の実現は、
同時に起こりますが、
この2つは明らかに違うものです。

過去の教えから現存する教えの中で、
この2つを明確に認識している教えはあまり見当たりません。

もしかすると、
原始キリスト教ではあったかもしれませんが、
今は失われてしまっています。

仏教においては、
もしかすると「仏性」と「仏」として認識しているのかもしれません。

それは例えて言えば、
「ひとつの波」と「大海」のようなものです。

それらは切り離されていず、
同じものでできていますが、
「ひとつの波」は「大海」すべてを現わしている訳ではなく、
単に、一瞬沸き起こった「大海」の一部分でしかありません。

「魂」は、
「神性」と切り離されてはいませんが、
それを映し出すひとつのプリズムのようなものです。

ひとつの角度、と言ってもいいでしょう。

いかなる「魂」であろうと、
無限の「神性」の全てを現わすことはできません。

この地上に様々な教えがあり、
悟りを開いた人でも、
その教えや表現に様々な違いがあるのは、
映し出している角度が違うからなのです。

「神性」の全体を体験することができても、
それを全て「知る」ことはできませんし、
「魂」はある角度でしか、
「神性」を映し出すことができません。

ですが、
「魂」を通して、
「神性」のエッセンスが映し出されることは確かなことです。

それを理解できれば、
世界中に起きている宗教戦争も、
教えの違いによる抗争も起きないでしょう。


この教えは、
まず、「魂」を目覚めさせることから始めます。

よく、
「人はすでに悟っている」、
だから、「そのままでオッケーだ」という教えがあります。

あるいは、
輝く太陽を雲が隠しているだけだ、
だから、その雲を取り除けばいいだけだ、という教えがあります。

それは、真理の立ち位置からすれば真理ですが、
人間の立ち位置からすると、
事実ではありません。

なぜなら、
「魂」は眠りこけているからです。
太陽は、まだ東の空に上がってきていないのです。

なので、たとえ雲を取り除いても、
そこに太陽はまだありません。

たとえ心身を浄化し、
潜在意識をクリアにしたとしても、
それだけでは、
本当の意味で「魂」が現れることは、残念ながらないのです。

なんとなく、
それらしく感じることがあるかもしれませんが、
とても曖昧なものになってしまうと思います。

また、
「そのままでオッケー」と言って何のワークもせずにいれば、
今無意識である状態から何も変わることなく、
ただ無意識でい続けるだけです。

その教えの本当の意味は、
真に「私であるもの」に瞬時に悟るということです。

「私であるもの」は、ただ眠りこけているだけで、
存在していない訳ではないからです。

「魂」を目覚めさせるためには、
ダイレクトにそれにアプローチして、
エネルギー的に活性化させる必要があります。

同時に、
パーソナリティを浄化していく作業が必要になります。

太陽を昇らせ、
雲を取り払う。

その両方が必要です。


その例えによく使うのが、
シンデレラのかぼちゃの馬車です。

ちょっとオリジナルのお伽噺と違うのは、
ねずみが魔法をかけられて馬になるのではなく、
馬が魔法をかけられてねずみになってしまっている、ということです。

そして、
魔法をかけられて豪華絢爛な馬車になったかぼちゃが、パーソナリティです。

目覚めていない人の状態は、
ちっぽけなねずみが、
重たい豪華絢爛な馬車を引っ張ろうとしている状態だと言えます。

ちょっと想像してみてください。

重たい馬車はねずみの力ではコントロールできず、
どこにも行くことができません。

にもかかわらず、
人は馬車を飾り立てることにしか関心がありません。
黄金で作ろうか、
ダイヤモンドを飾ろうか・・・と、
どれだけ馬車を立派にできるかで、
人は競い合っています。
それは、物質的な所有だけではなく、
名誉や成功や人気、評価だったりします。

どんどん、どんどん、馬車は大きく重たくなり、
ねずみは押しつぶされて、ますます自由を失っていきます。

しまいには、
馬車が勝手に暴走を始め、
哀れなねずみは引きずり回されてしまうでしょう。

ねずみがちゃんと馬車を引っ張り、
行きたいところに行くためにはどうすればいいでしょう?

そう、ねずみにかけた魔法を解いて、
元々の姿に戻さなくてはなりません。

魔法を解かれて、立派な馬に戻った時、
馬は馬車を引っ張って、好きなところへ行けるでしょう。

でも、重たい馬車に馬はすぐに疲れて、
度々立ち止まってしまいます。
「もう、こんな重たい馬車なんか、捨ててしまいたい!」
「この馬車さえなければ」
そう、馬は思う事でしょう。

なので、馬車にかけた魔法も解いて、
元のかぼちゃに戻す必要があります。

そうすれば、
馬は自在に自由に、
かぼちゃを引っ張って駆けまわることができるでしょう。

でも、実はまだ先があります。

馬はまだ本当の姿を現してはいません。
時として、
かぼちゃすらお荷物に感じることでしょう。

もっと自由になりたい!

馬がその封印を解き、
本当の姿を現した時、
それはペガサスになるのです。

翼の生えたペガサスこそ、
完全な「魂」の現れです。

ペガサスは、
もはやかぼちゃからも自由になり、
空へと駆け上っていくことができるのです。


まさにこのお伽噺と同じプロセスを、
「魂」へと向かうワークの中で辿っていくことになります。

表層のパーソナリティとの自己同一という魔法を解き、
真の自分自身を目覚めさせ、
そこにシフトします。

一方で、
余計なもので膨らみに膨み、歪みに歪んだパーソナリティを浄化し、
シンプルにし、素のパーソナリティを取り戻していきます。

ただ、ここで気をつけなければいけないことは、
それはパーソナリティを操作するという意味では全くないという事です。

よく、悟った人は穏やかだから、穏やかでいようとする人や教えがあります。
穏やかなのは、単なる結果であり、
人によっては、もっとアグレッシブになる可能性だってあります。
そのため、逆に常識に当てはまらないマスターをまねて、
「いかに変であるか」を演じようとする人さえいます。

悟った結果を真似し、パーソナリティを操作することは大変危険で、
むしろ悟りから遠ざける効果しかありません。

パーソナリティの浄化と、パーソナリティの操作とは全く違う事であることを、
よく理解することが必要です。


この、ダイレクトに真の自分を目覚めさせることと、
パーソナリティの浄化は、
両輪の輪で、
どちらも欠かすことのできないワークです。

肉体を持って生きる以上、
ここで生きるための機能としてのパーソナリティを完全に無くすことはできません。

パーソナリティはそもそも悪いものではなく、
問題は、それが必要以上に飾り立てられて、
重く膨らみあがっていて、そして、
それと自己同一化している、ということなのです

パーソナリティが問題なのではなく、
真の「あなた」がまだいない、ということが問題なのです。

いるのかいないのかわからないようなちっぽけなねずみをペガサスに、
豪華絢爛な馬車をかぼちゃに・・・


完全な「魂」が実現した時、
パーソナリティも人生のストーリーも、
「魂」とは「全く関係していない」ことがわかります。

それらが、
ただ、そのはるか遠く、離れたところで流れている映像に過ぎないことがわかります。

実際に、大きな距離があります。

なぜなら、
全く次元が違うからです。

全く触れることができないほど、
それらはかけ離れています。

「魂」は、
何の障りもなく、
ただ、ただ、
制限のない「愛」の放射です。

つきることのない「歓喜」の放射です。

その放射に対象はなく、
同時に全てが対象です。

それが、
あなたであるものの、
真の姿です。

そしてまた、
あなたは全ての人の意識がひとつであること、
そのひとつの意識こそがこの世界を創造しているのだということを知ります。

あなたは、
「愛」であり、
「創造主」でもあるのです。

あなたは、
「創造の神」であり、同時に「人間」です。

その統合のプロセスの中で、
人間性の成熟が進んでいきます。

それらの懸け橋をしているのが、
「自我」「エゴ」の役割なのですが、
それについては、もっと長い説明が必要なので、
それぞれの本文の中で詳しく触れていきます。

この、「創造主」は「神性」そのものではありません。

「創造主」という意識の次元で、
この顕現された世界が創造されますが、
「神性」はそれを包含しながら、
それに一切関わらず、
完全に超越している次元、
次元という表現ですら当てはまらない不可知の領域です。

そこでは、何も起こっていません。

よく、「神の夢見」「神のリーラ」と例えられるように、
「創造の神」の次元で、創造はホログラムのように、
瞬時に多層的に、
その神意識のひとつの発令とも言える、
あるいは意識のひとつのゆらぎともいえる、
ある言葉、つまりあるバイブレーションの発動によって、
起こされています。

原初の意思と表現することもできるでしょう。


その「創造主」の次元を超えて、
全ての源へと帰還し、「無」の虚空へと消え去る。

それは、
量子力学で言う「対生成」「対消滅」であり、
真空の中で絶えず粒子と反粒子が発生し、
即座に合体して消滅する、
つまり、
瞬時に無(エネルギーの海のようなもの)から二元、あるいは対極の有が生じ、
瞬時に合体して無へと帰するということです。

その瞬時の意識のまどろみ、
それを私たちは人間の生として体験しているのです。

そして、
「神性」へと、その「無」へと回帰する時、
実はそれこそがとてつもない悦びの爆発なのです。

その爆発こそが、
ビックバンであり、
原初の意思の発令なのではないか。

そうして、
ビックバンと回帰が瞬時に繰り返され、
絶え間なく創造が起こっているのではないか。

それを知る時こそ、
人間としての「神性」の中への最大の拡大に至る時なのでしょう。


では、次回から、
霊的進化のプロセス、
「目覚めの地図」について書いていきます。








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