2016年6月20日月曜日

ババジの言葉

「日々の生活を完全に愛しながらも、無執着であること」




1970年から1984年の2月まで、インドのヘラカンを中心に顕現していたヘラカン・ババジの言葉です

ババジとは、シヴァ神の直接の顕現であり、
人間としての輪廻転生を経て神なる次元に到達した存在ではなく、
また、ダライ・ラマのように、同じ魂が違う肉体に転生してくるような存在でもなく、
肉体の死を体験しないまま、
ある時代、時代に、
特に人類が大きな変化や進化を迎える時期に、
突然肉体を持って出現し、
人々を導き、光を目の当たりに示してきた存在です

その、一番最近の出現が、
このヘラカン・ババジです

その教えは、まさに私たちがアジズとフーマンから受け取り、
シェアしている教えと、なんら違うものがなく、
改めて、この「道」がシヴァの道であることがわかります

そのヘラカン・ババジの言葉の中に、
冒頭の言葉がありました

この言葉で、
自分自身の生活が、なぜ今あるようにあるのか、
わかりました





社会での仕事を持ち、
普通の人たちとさほど変わらない生活をし、
普通の人たちとさほど変わらない感覚を持ち、
石とか花とか素敵なアンティークの家具や雑貨を見るたび、
「欲しい~っ♡」とか叫んでいる物欲まみれの私を見て、
友人が時にこう言います

「物欲あるのに、本当に悟ってるの?」

その疑問は、
悟る=清貧になる
悟る=欲がなくなる
という、悟りへの一般的なイメージから来ているのでしょう

もし、
「何か自分の中の欠損を埋めるために、これが必要」とか、
「私の身を飾り立てるために、これが必要」とか、
「私を大きく見せるために、これが必要」とか、
「安心、安全のため」とか、
何かそういったところ、
空いた穴を埋めるためとか保身とか自己顕示とか自己証明とか補償とか、
何かの代替だったり、
背後にそういった何らかの原因のあるところから、
その物欲が来ているのなら、
私は悟っているとは言えません

エックハルト・トールの著書の題名のように、
悟ると非常にシンプルになりますが、
それは、清貧ということとはちょっと違います

私は、それらを買い、身の回りに置いた時、
いつもそれを見るたびに「幸せ~♡」と豊かになりますが、
幸せになるために、
豊かになるために、それらを買う訳ではありません

何もなくても幸せだけど、
何もなくても豊かだけど、
あったら、それらとともにある幸せ、豊かさを、
分かち合うことができます

私は、シンプルにそれらが大好きなのです
それらに、美と、そして神秘を感じるのです

それらは、まさに友人なのです
それらは、美しく、純粋な友人たちなのです

そして、それらとともに、美しい空間と、
楽しい人生を演出していくことができます

そして、それで他の人たちも楽しませられることが、
大きな喜びとなります

でも、それらに執着はしていません

それらを手に入れるためにあくせくしたり、
手に入らないことでひどくネガティブな感情を体験することもありません

失えば悲しかったり、寂しかったりもしますが、
失うことへの恐れはありません

また、私には、
畑をやったり、
庭仕事をしたり、
家を改築したり、
やりたいことも山ほどあります

そのために、日々忙しく、
修験道の修行のごとく、
走り続けているような日々を送っています

もちろん、
手間暇をかけた花や野菜が鹿や猪に食べられてしまったりすれば、
かなりがっかり、心も折れかけますが、
そこでやめてしまうこともなく、
また性懲りもなく、手間暇をかけて作業をしていきます

忙しい中、味噌を作ったり、ジャムを作ったり、梅干を作ったり、
今度は家のどこそこに手を入れようとか、
何か霊的進化に貢献するような楽しいイベントを思いついたり、
絶え間なく何かやることを企んでいます( ̄▽ ̄)

そういう、やりたいことが尽きない私を見て、
パートナーさんも、「欲深だなあ」と、
いつも笑っています


なぜ、日々の生活に対して、私がかくも欲深なのか、
ババジの言葉で、
「ああ、私は日々の生活をこよなく愛しているんだ」とわかったのです

あるレベルで言えば、
私は人間の生にうんざりし、飽き飽きし、
もう、十分、というところにいます

けれど、それでもなお、
人間としての、この日々の生活がこよなく愛おしいのです

それを自分でできる限り、豊かに美しく創造していきたい

それを皆と分かち合いたい

そう思うのです
だから、欲深になるのです

それは、執着とは違う質のものです

それは、「生きる」ということなのです
「欲」は「生きる」ということなのです

それは、むしろ愛から来ているのだと、わかりました


「日々の生活を完全に愛しながらも、無執着であること」


ババジ、ありがとう♪
なんだか、とても大きな「YES」をもらったようです♡



ヘラカン・ババジは、
生の中で、勤勉に働くことを非常に強く強調していました

それこそが、神へと至る道そのものだと説きました


神へと至ることは、
人間としての生を否定するものではないのです

行為を通してこそ、神に至るのです

あらゆる行為を神への捧げものとし、
あらゆる不浄な想念を消し去って神の御名とともに行うこと

そう、ババジは説きました

それは、外側は活発に行為しながらも、
内側は無為で静かでいることでもあります
そして、常に神に明け渡している

そして、ババジは自らそれを体現して人々に見せました

真の聖者は、ただ静かに何もせずに佇んでいるのではなく、
むしろ、精力的に働く姿を見せてくれます


今まで、この走り続ける人生は、
修験のカルマかと思っていましたが、
案外、ババジのいうところの「カルマヨガ(勤勉に働き、仕事を神に捧げる行為とすること)」カルマだったのかもしれません(*´ω`*)

でも、「その行為全てを神に捧げる」という意識が私にはありませんでした

それで、身体がついてこなかったり、
身体との不調和を作りだしていたのかもしれません

なんか不格好で、美しさに欠けるなあ、と自分でもよく感じていました
なんだか、「サザエさん」なのです

ちょうど、深いところに蓄積していた疲れが表面に現れて、
三日三晩、全身の蕁麻疹とひどいだるさで寝込んた後に、
このババジの言葉に出会いました

これからは、全ての行為を「神に捧げるもの」という意識とともに行っていこうと思います(*´ω`*)

それは、私に歓びをもたらします

どう変わっていくのか、とても楽しみです♪




ちなみに、
こどもの頃から超焚火好きだったのも、
ババジの「火の儀式」とつながりがあるのかもしれません(*´ω`*)

ということで、
今、「火の儀式」をまたどこかでやろうと、
企み中~♪

毎朝、火の儀式ができる祭壇も作ろうっと♪(笑)










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