2016年12月25日日曜日

Merry Christmas♪

聖夜も終わりを告げようとしていますね

イエスの誕生を祝う日

イエスの誕生を感謝する日

イエスへの愛を再確認する日

Merry Christmas!!


愛を込めて

「鋳型」の浄化方法 その2 1.内面の観察

つづきです

「鋳型」、カルマ、トラウマ、ブロック
それらを浄化するにあたって、
非常に重要なことが2点あります

前回のブログで、
まずはそれらであることを認識することが初めの一歩であると書きましたが、
そのためには、
いつでも自分の内面をクリアに観察するということができなければなりません

浮上してくるパワフルな感情や感覚に無意識であると、
否応なく巻き込まれ、
それらにかき乱され、
常にコントロールされ、
コントロールされていることにすら気づきません

そして、すぐさま反応を返して、
お決まりのパターンを繰り返したり、
余計事態を悪化させたり、
自己正当化に躍起になったり、
あるいは、
無意識にその嫌な感情や感覚を抑圧したり、
それから逃れようと必死になったりします


もちろん、
誰だって、
自分がどんな感情を体験しているかはわかっています

悲しいのに悲しいことがわからない人も稀にいますが、
まあ、通常、人は自分が悲しいことは十分にわかっています

私たちが「意識的である」という時、
それは、単に悲しいとかつらいとかわかっている、という意味ではありません

それらを、「意識的に体験している」という意味です

「気づいている」「気づき」がある、とも言います

思考であれ、感情であれ、何であれ、
自分の内面に起こっていることを全て、
意識のスクリーンに映し出して、
観察しているのです

意識の光を当てている、とも言えます

よく、
白昼夢のように、潜在意識から大した脈絡もなく沸き起こる思考のチェーンにはまり、
ある時、突然、ハッと我に帰り、
「あ、ぼーっとしてた!」と気づく時がありますね

それは、無意識の状態から、
一瞬、意識的な状態にスィッチが入った時なのです

でも、また、次の瞬間には無意識に戻ってしまうのが通常の人ではありますが・・・(;´Д`)

そうやって意識のスィッチを入れたり、
意識的に観察しているのは、「知性」です

よく、内側に「もう一人の自分」がいて、
その「もう一人の自分」に自分がいつも見られている感じがしますね

それが「知性」であり、
最上位(わかりやすく表現すれば)のマインドです

一番精妙なマインド、という言い方の方がふさわしいかもしれません

それは、思考などの粗い振動数のマインドではなく、
微細で高い振動数のマインドです

日本語の感覚で言えば「精神」が最も近いのではないかと思います

「理性」という言葉も、
これを指し示している場合が多いかと思います

魂に非常に近いところに位置し、
魂と密接に関連しているものです

「知性」は、魂が認識するための器官そのものなのです

魂そのものは全てを「観照」していますが、
「知性」なくして、それを意識化したり認識することができません

全ての認識、意識化は、「知性」の役割なのです

内面の自己観察は、
その上位のマインドの働きであり、
魂の「観照」とは異なります

というのも、
実際に魂は、観察されるパーソナリティとは全く違う次元に属しているため、
それそのものだけでは「人間」の次元に関わることができないのです

魂の側から言えば、
「人間」として繰り広げられる全ては、
異なる次元にあるスクリーンに映し出される映像のようなものです

それを見る眼の役割をしているのが、
「知性」なのです

ついでにもうひとつ付け加えれば、
アウェアネスを目覚めさせるために必要なのがこの「知性」です

「知性」が向きを変えて、
「知性」を司る主人そのものに気づく

それが真の「気づき」です

これについては、
覚醒のワークについて書くときに詳しく書きます


この「知性」を発達させていくことが、
実はスピリチュアルな道において、非常に重要になってきます

「知性」が十分に育っていないと、
進化における理解がとぼしいものになり、
本当の洞察力というものを持つことができません

それは、利口であるとか知識が豊富であるということとは、
何の関係もありません

いわば、叡智とつながっているかどうか、です

それは、
ハートと深いところでつながっています

計算高い頭の良さではなく、
むしろ「真・善・美」を知っているものと言えます

「知性」は、
私たちが霊的にだけではなく、
人間として進化していくために不可欠なものでもあります

私たち人間を人間たらしめているのが、
この「知性」だと言えるでしょう

そうでなければ、動物と同じです

純粋な生命維持のため以外に他者を殺したり、他者から搾取したりしない分、
動物の方がまだモラルがあるかもしれませんね(;´Д`)


さて、
この「知性」によって、
私たちは内面に起こることを観察する必要があります

自分の内側で何が起こっているか知らないと、
何も始まりません

「観察」を行う時に特に注意しなければならないのが、
起こっていることに「ジャッジをしない」ということです

通常、
認識と同時に、「ジャッジ」が行われています

感情が起こるか起こらないかの段階で、
すでに「ジャッジ」は起こっています

そして、即座にその「ジャッジ」の結果によって、
自分自身に対する「操作」が行われます

都合のいいように、
自己イメージに合うように、
ごまかしたり、
すり替えたり、
正当化したり、
あるいは、
なかったことにしようとしたり・・・

本当にそれを洞察できるようになると、
あきれかえるほど、あれこれと画策しています((笑)

例えば、
「全ての人を愛する私」という自己イメージを深くに持っていると、
怒りや嫌いという感情を持つことが許せなくなります
自己イメージに矛盾するからです

そのため、その怒りや嫌悪感を隠そうとしたり、
ねじまげて慇懃に表出したり、
あるいは、その怒りを正当化するために、
必要以上に相手を批判する気持ちになったりします
相手を完膚なきまでに悪者に仕立て上げるのです

なので、最初は「ジャッジをはずす」という行為が必要です

そして、何の「操作」もない、
本当の気持ち、本当の感情を知る必要があります

本音、ですね

純粋な感情

それを、

ただ、認識する

ただ、知る

ただ、受け取る

ただ、認める

それは、
自分への慈悲を持って行われるべきことです

といって、
それは自分を甘やかすこととは全く違います

自分を甘やかす人は、
都合のいいように「操作」したものを「本音」として捉え、
他者にそれを強要しがちです

怒りだったら、
相手にそれをぶつけて当然、と開き直り、
悲しみだったら、
相手にそれを癒せ、と迫るのです

「あたしの気持ちは正しくて当たり前でしょ!だから、あんたがどうにかしなさいよ!」
「あんたよりあたしの気持ちが大事なんだから!全部あんたのせいね!」
というニュアンスなのです

そうではなく、
何年も何年も奥底に抱えてきたその痛み、その苦しみを、
ただ、自分でやさしく抱きとめてあげるのです

そこで注意しなければならないことが、
もうひとつあります

自己憐憫に入らない、ということです

自分を甘やかす人は、
自己憐憫が大得意です

「ああ~、なんてかわいそうなわたしィ~」

それは、ねっとりとしたエネルギーを留めるばかりで、
何の進歩も生み出しません

そうではなく、


ただ、フラットに見る

ただ、シンプルに認める

ただ、素直にそのまま受け取る


これらを行っていくためには、
十分に成熟した「知性」が必要であることがわかるでしょう

言葉で言うのは簡単ですが、
実践は恐ろしく難しいのです

幼稚な「知性」では、
まともな観察さえできないのです

それ以前に、「観察」することすら、
しょっちゅう忘れてしまいます(;´Д`)

その重要性を理解できないからです

でも、逆に、
観察を続けることによって、
「知性」は徐々に成熟していきます


そのように、
まずは内面の「観察」から始まります

ごまかさず、
正直に、
自分自身に開いて、
自分自身を信頼して、
自分自身に慈悲の心を持って

これは、
心理だけではなく、
身体上の違和感や不快感にも当てはまります

身体と心はひとつです

心で感じられないがゆえに、
その分、身体がよく感じている人も多くいます

心で拒否できなくても、
身体が拒否する時、
本音は「嫌だ」ということもあります

身体の方が、実はよく知っているということも多いのです

そのどちらもよく観察して、
自分自身を深くよく知っていくこと

それが、
最初の一歩のための準備です


つづく














2016年12月24日土曜日

「鋳型」の浄化方法 その1

では、どのように「鋳型」を浄化していけばいいのか?

「鋳型」に限らず、
ネガティブな感情やトラウマ、ブロックなど、
いわゆるパーソナリティの浄化を、
どのように行っていけばいいのか、
参考までに少し書いてみようと思います

といっても、
不特定多数の人に文章で伝える場合、
どうしても一般的なものになってしまいます

本当は、
個人個人、その時その時、ケースバイケースで、
具体的にお伝えしたり、
一緒にやっていった方がいいのです

というのも、
一般的なことはすでに多くの方が情報を伝えていますし、
その一般的なことからどうやって自分の具体的なことに落とし込んでいくかが、
実はとても難しいからです

文章や情報として理解できても、
実際に、
実人生の中で、
具体的に自分を内観して浄化していくのは、
全く別ものであり、
そこまでの理解に到達するのは、
本当に大変なことなのです

私たちのところに通ってくれている方々にはそれが可能ですが、
そうでない方には、
なかなか伝えきれないものもあるとは思います

それを念頭に置いて、
読んでみてくださいね

人々が内側に溜め込んでいる、
潜在意識の中に蓄積され、
「分離」の状態に引っ張り続けているもの、
それらはカルマと呼ばれているものだったり、
トラウマ、あるいはブロックと呼ばれているものだったり、
その最もコアなものを私は「鋳型」と呼んでいるのですが、
それらをどのように浄化していったらいいのか?

それを書く前に、
それらがどのように浮上してくるのか、
どういったものをそれらと認識するのか、
そういったことについて、
簡単に確認しましょう

それらは通常、
周りの人との関係性の中で浮上してきます

誰かに否定的なことを言われたり、
怒られたり、
ネガティブな感情をぶつけられたり
喧嘩をしたり、
あるいは、
誰か身近な人に不幸なことが起こったり、
あるいは、
何か事故やトラブルなど、不幸なことが起こったりして、
自分の中に怒りや悲しみ、寂しさや罪悪感、恨みつらみ、妬みそねみ、
恐怖や不安など、
ネガティブな感情や感覚を感じたり、
もしくは「ちくっ」と痛みを感じたりします

その時、
普通、人は、それを引き起こした相手や状況に向かって、
それらの感情をぶつけます

マインドは、終わることなくぐるぐると、
「あいつが悪い」「あいつがこんなことするから」と相手をなじり、
「こう言い返してやろう」「こう復讐してやろう」とか、
自分が悪くないことを証明しようと、
あれこれ言い訳を考えたり、
次の手を考えたりと、
時がそれを風化させ、
それが再び潜在意識に沈殿するまで、
メリーゴーランドのように繰り返します

もうひとつのケースとして、
自分の身体に病気となって表れてくるものがあります

その時も、
普通、人は、その根源的な原因を探るより先に、
それを治そうと病院に行き、薬でなんとかしようとします
症状が収まると、それでおしまいです

どの場合も、
自分の内側を見て、
「なぜ、そういった感情が出てきたのか?」
「なぜ、自分はそういう反応を起こしたのか?」
「なぜ、これが起きたのか?」と、
その本質的な原因を探ることなく、
表面的にものごとを捉え、
ただ、外側にのみ、目を向けます

でも、
実は、きっかけは何であれ、
自分の中に浮上してきたネガティブな感情や感覚、痛み、
あるいは肉体に現れた異常、
それがまさに、
内側に潜在しているトラウマやブロック、カルマを顕しているのです

誰かが悪くて、あなたが怒ったのではなく、
何かが悪くて、あなたが悲しんだのではないのです

もともと、
それらが内側に潜在していたのです

怒りも、悲しみも、もともと私たちの内側に隠れて存在していたのです

心の奥底に、
押し込められていただけに過ぎません

きっかけとなった誰か、何かは、
そのボタンを押しただけです

相手は、内側にあるものを映し出す鏡に過ぎません

でも、
そのことを頭で理解できても、
感情が、心がそれを受け入れるのは容易ではありません

わかっていても、
「だって!」「そんなこと言ったって!」と、
またメリーゴーランドに乗り続けてしまうのです

なぜなら、
まさにそれが「ブロック」だからです

「引っかかる」のです

そして、私たちを引っ張り続けるのです

そうでなければ、
ただほんの一瞬の感情として、
ただ流れ去っていくだけです

なかなか忘れられなかったり、
何度も何度も思い出してはぐるぐる考え続けてしまうような、
しこりとなって残ってしまうような、
あるいは強烈な痛み、
あるいは地の底に連れていかれるような重い感覚、
あなたを巻き込み、
あなたに覆いかぶさり、
あなたがやられてしまうような、
あなたをその感情、感覚へと縛り付けてしまうような、
あなたを苦しめ続けるような、
そういったもの

人生の中で、
何度も何度も繰り返し体験してきたもの

それこそが、
あなたの中に潜在するカルマ、トラウマ、ブロックであり、
「鋳型」なのです

それらは、
脳や心の中に刻まれているだけではありません

エネルギー体だけに刻まれているわけでもありません

実は、それらは、
肉体にも、エネルギーブロックとして刻み込まれています

最近の科学でも、
どうやら「筋膜」にもそれが記録されていることがわかってきたようです

凝りであったり、テンションであったり、
あまりにも長い間その状態であるため、
普段は当たり前になってわからなくなっている状態です

野口整体では、「硬結」という名前で呼んでいます
豆粒や米粒のように、ひどければひどいほど小さい塊のしこりになっています

それらがある年月を経たり、ある臨界点を超えたりすると、
病気となって顕れてくると言えるでしょう

あるいは、
私たちにそれと知らせるためかもしれません

いずれにしても、
それらはちょっとしたきっかけで表面に浮上してきては、
私たちを苦しめます

誰しも、
思い当たることがあるでしょう

何も特別なものではありません

人生の中で、
そういったものが浮上してきた時、
その時こそが、
それを浄化していけるチャンスなのです

金魚すくいのようなものですね(*´ω`*)

金魚が水面に浮いて来た時じゃないと、
なかなかすくうことはできませんが、
浮いて来た時はチャンスです

金魚キターーーーーー!と、
うほうほ、すくうでしょう?

カルマやブロックも同じです

「見たくない」
「触れたくない」と、
嫌がったり敬遠したりせずに、
向かいあうべきチャンスなのです

もちろん、
最も「見たくないもの」であり、
最も「触れたくないもの」であるからこそ、
苦しむのですけどね

でも、そうやって向かい合うことを避け続けている限り、
あなたはそれらに苦しめられ、
コントロールされ続けることになるだけです

だから、意識転換が必要です

まずは、認識することが重要です

そして、
「カルマ、キターーーーーーっ!!」と、
自分に言って聞かせるといいでしょう

あまりに「深刻」にならないことが重要です

「真摯」であること、「真剣」であることと、
「深刻」は全く違います

「深刻」には、
自己憐憫がつきまといます

といっても、
慣れないうちは、どうしても「深刻」になります

それほど、
カルマやブロック、鋳型は、
強烈であり、
パワフルだからです

でも、そこであえて、
「カルマ、キターーーーーーっ!!」と言ってみる

そうすると、
自分の中にスペースがちょこっと生まれます

向かい合う余裕がちょこっとだけ生まれます

「うわ~、きちゃったよ~(/_;)」でも構いません

何はともあれ、
まずは、
「これがそうなんだ」と、認識すること

それが第一歩です



長くなったので、
実際の浄化方法については、
その2にて~
















12月、1月は変容の月

ただいま、伊豆でのリトリート中です

年の変わる12月、1月は、
霊的変容が起こる確率の高い時期です

1年が12月で終わり、1月から新年が始まるのも、
単なる偶然でもなく、
ただカレンダーが変わるだけではなく、
何らかの内的変化が起こりやすい時期であることを、
昔の人々は敏感に感じていたのでしょう

この時期に悟りを開く人は、
歴史的にも多いとのことです

私が最初の目覚め、
アウェアネス目覚め(ステート・オブ・プレゼンスの確立)を得たのも1月でしたし、
ハートの悟りを得たのも、
1月の、雪景色の中でした

1月は、シフトが起こりやすい時のようです

12月には、大掃除をしますね

1年の終わりに、
そこで溜め込まれたゴミを綺麗に払しょくするのです

それは、家や部屋など、物質的なことだけではありません

部屋を掃除すると、
心もさっぱりと整うことに、
皆さんもお気づきのことだと思います

ほこりを取り除くだけで、
場のエネルギーもアップしますし、
物質的なほこりを取り除くという行為を通して、
実は、
心身に積もったほこりも取り除いているのです

意識的に大掃除をする場合だけに限りません

実は、
年末の物質的な大掃除に限らず、
12月は多くの方がさまざまな形で、
心身の大掃除をさせられる流れになります

会社や周りの人間関係の中で何かが起こったり、
身体の具合が悪くなったり、
様々なことが起きて、
自然に浄化せざるを得ない流れになることが多いのです

師走というように、
やたらめったら忙しくなるのも、
そのひとつでしょう

特に今年は、2016、
数秘から言えば、9の年です

9は、総まとめの数でもあり、
大掃除の数でもあります

今年、自分の古い課題に向き合わざるを得なかったり、
問題が次々に発生したり、
心身症になりそうなきつさだったり、
何かと大変だった方は多いのではないでしょうか?

私も例外ではありませんでした

でも、それは、
溜め込んで山積みにしてきたゴミを、
一掃するチャンスでもあります

それに意識的に取り組むことによって、
得られる結果はより大きなものとなります

残りの一週間、
大変ではあるけれど、ほこりから目を反らさずに、
もう、全てきれいさっぱり片づけてしまう心づもりで、
意識的に取り組んでいけるといいですね♪

家も、
心も、
身体も♪

特に、
この前に書いた「鋳型」に類する課題に取り組んでいる人は、
きつさもひとしおだと思いますが、
ふんばりどころです

そこに身を投じて、
大いなる変容に向けて、
全身全霊で、大掃除をしてください

”時”が後押しをしてくれます♪

そして、
きれいに、新鮮に、純粋になって、
エネルギーもアップした心身と場で、
新年を迎えましょう

余計なゴミが取り除かれれば、
大きな飛躍も可能です

今年、2016年という全体の流れに乗って、
やるべきことをやり終えられたら、
2017年は、
1の年、
新たなステージが始まります

それがどのようになるかは、
今年どれだけ大掃除できたかによるかもしれませんね(*´ω`*)

もちろん、
新たな決意も重要です

自分が何を望んでいるのか、
新たに明確にしてください

クリアにする、
クリアに立つ、ということは非常に重要です

そして、来年の1月は、
そのことに専心する時間を自分に十分に与えてあげてください

2017年1月は、
とてもポテンシャルの高い時期のような気がします

でも、
ただ待っていてはだめです

私たちができうる協力を全てやり終えた時、
恩寵は入ってきます

できることは全力でやり、
そして、
後は完全に明け渡す

このチャンスを逃さないでください











2016年12月12日月曜日

「鋳型」とは 「プログラミングとインナーチャイルド」つづき

以前、「プログラミングとインナーチャイルド」というタイトルで、
パーソナリティといういわばコンピュータがどのようにプログラミングされているか書き、
そこで、
そもそも、そのプログラミングの傾向を決定づけるものとしての「鋳型」について、
言及したかと思います

「下塗り」と表現することもあれば、
「フィルター」と言うこともありますが、
その人のあらゆるアウトプットだけでなく、
インプットされる情報の全てをその「鋳型」によって色づけてしまうものです

つまり、
私たちはその「鋳型」によって、
あらゆることをコントロールされているとも言うことができます

これまでの人生を振り返って見てみてください

いつも、最終的に行きつく感覚
いつも、味わう同じ感覚

実人生の中で、
周りの人々との関係性の中で起こる、
様々な事象を通して、
いつも最後に辿り着く感覚です

それを感じ続けようとすると、
じわーっと全身を蝕むような、
それに取り込まれてしまうような、
なんとも表現しがたい、とても嫌ーな感覚に襲われ、
気を抜くと、ふっと身体のどこかが緊張して、
その感覚を感じないようにしてしまうようなものです

その感覚が浮上すると、
呼吸も浅くなり、ともすると息もできない状態になります
あるいは、
「もう生きていけない」とさえ、思うかもしれません

その事象の相手や細かな状況、つまり「ストーリー」は違っても、
自分の内側で出て来る感覚、
ハートの痛みなど、
内側で体験している感覚はいつも同じであることに気づいた時、
人はその「鋳型」に触れていると言えます

それは、
人によって、
深い孤独感だったり、
深い罪悪感だったりします

深い恐怖であるかもしれません

「深い」とつけたのは、
まさに、その人の中で、
「最も深い感覚」と感じるものだからです

この「鋳型」こそが、
私たちを苦しめているものであり、
同時に、
パーソナリティを形づくり、
私たちを「人間」にしているものでもあります

もし、この「鋳型」がなければ、
私たちは人間として肉体化することができません

正確に言えば、
「人間」として肉体化するために、
光の存在としての私たちは「人間」のイデアを通過しますが、
それが個性あるパーソナリティを形成するために、
さらに個々の「鋳型」を通過するといえるでしょう

それは、
輪廻転生という長い時間をかけて、
その人が鋳造してきたものでもあるのでしょう

もし、
人がある生において、その「鋳型」に気づくことなく、
ただ振り回されて終われば、
その「鋳型」はどんどんと強固なものになっていってしまいます

「鋳型」に意識的であろうと無意識であろうと、
それによってコントロールされ続けることに変わりはありませんが、
無意識であればあるほど、
実は、その影響を色濃く受けてしまうのです

ですから、
まずはその「鋳型」に気づけること、
それが重要です

でも、
それはその人にとって、
「最も嫌な感覚」でもあるので、
それを真正面から見て、感じ、開いていくことは、
言葉で言うほど簡単なことではありません

もう、それこそ無意識に、
身体のどこかを緊張させて、
その感覚をシャットアウトしてしまいます

人生の中で、
何か、問題が生じる

そして、その「感覚」がちらっと浮上してくる

でも、普通は、その感覚を感じたくないので、
怒ってみたり、
愚痴を言ってみたり、
あるいは、
カラオケに行ってみたり、
スポーツをしたり、
ありとあらゆることで気を紛らわせようとします

あるいは、ちょっとスピリチュアルな人は、
ポジティブなことだけに目を向けたり、
「私は大丈夫」「私はオッケー」と、
マントラを唱えたり、
「これが浄化されますように」と、
真摯に祈ったりします

そうすることで、
一時的にそれは去ったかのように感じられることもあるでしょう

でも、
残念ながら、
それはあくまでも一時的なものに過ぎません

本当に、その「鋳型」が取り去られたわけではないからです

その感覚がまた奥深くへと潜っていってしまうと、
私たちは「ふー、やれやれ」と胸をなでおろし、
そんなものがなかったかのように明るくふるまい、
忘れ、
そしてまた、
何かの問題が起こると浮上し・・・
と、繰り返し続けるだけです

精神衛生上は、
それも大切なことではあります
そうでないと、
本当に鬱になってしまうかもしれません

でも、
もし、あなたが本当に霊的進化の道を歩もうと思うのなら、
それで終わってしまってはだめなのです
進化はいつまでたっても起こりません

そこから逃げてはだめなのです

真にそれと向かい合い、感じきり、解放し、
そうすることによって取り除いていかなければならないのです

こうやって書いていくと、
「鋳型」は何かとてもネガティブなものに感じられてしまいますが、
実は、
同時にそれは、
私たちを「進化」へと押しやるものでもあるのです

言い方を変えれば、
私たちは進化するために、
わざわざそういう「負荷」を自らに与えた、とも言えるのでしょう

永遠に幸せで楽しい天上界の存在は悟れないと言うように、
そういう「負荷」があり、
そういう「苦しみ」があるからこそ、
そこから脱し、真の幸せに到達したいというモチベーションが強まります

実は、
悟るためには、
かなりのモチベーションを必要とします

情熱がいるのです

渇望がいるのです

そこに到達するだけの、
ものすごく強いエネルギーを必要とするのです

「ここ」で苦しくなかったら、
その「渇望」は起こるでしょうか?

「死ぬか、悟るか」というほどの決意がなければ、
どんなにワークしても、
悟りに到達することはないでしょう

逆に言えば、
本当に「死ぬか、悟るか」の本当の決意が起こった人は、
次の瞬間、
悟りを知るでしょう

「鋳型」は、
あなたをそこまで連れていきたいのです

そのことを知り得た時、
自分の内側に浮上してくるネガティブな感覚に対する態度が変わります

また、
そのきっかけとなった相手に対する態度も変わります

それでも、
もちろん、
マインドは納得せず、
「あの人が悪い、この人が悪い」「こうすればよかった、ああすればよかった」「あーだこーだ」と、
ぶつぶつ言い続けるかもしれませんが、
探求者であれば、
それに耳を貸さず、
内側に浮上しているその感覚に真正面から向かい合うべきです

体験したからこそわかりますが、
それは、
実際、超大変です(;´Д`)

誰にでもできることとは思いません

「そんなことできない」、それが普通でしょう

正直、稀有なことだと思います

でも、
もし、
あなたの「悟り」への渇望が本物であれば、
あなたが誠実に真摯にそれに向かい合おうとすれば、
それを成していくことができるでしょう

なぜなら、
そういう魂の叫びに、
神は必ず応えてくれるからです

存在達は、
それを待っているからです

私たちもまた、
そういう魂に心からの応援とサポートをしています

「道」は決してたやすくはありませんが、
あなたを真に、トータルに変容させていきます

今、
まさにそれと向き合っている方々、
「暗闇が濃ければ濃いほど、光は強く、近い」という言葉を糧に、
踏ん張ってくださいね

光は、
必ず訪れます

なぜなら、
それがあなただからです










2016年11月1日火曜日

肉体の振動数を上げる その2

つづきです♪

よく、「肉体は神殿」と言いますが、
「肉体」は単なる容れ物ではないのではないかと思うのです

「肉体」そのものも、
本当は神と等しいのではないかと思うのです

よく、「肉体」の振動数は低くて、
「魂」の振動数は高い、と言いますが、
それは、
「肉体」の本来の振動数が低い訳ではなくて、
低い状態にしてしまっている、だけなのではないでしょうか

低い状態が当たり前になって、
それが「肉体」というものだと思い込んでいるだけなのではないでしょうか

その上に、
振動数をさらに下げるような食べ物を食べ続け、
そういう生活習慣を続け、
そういう思考回路を強化し、
私たち現代人はますます肉体の振動数を下げ続けています

そういう「肉体」しか知らない私たちにとって、
本来の「肉体」の振動数がどれほどのものか、
知ることはかなり難しいものになってしまっています

でも、思うのです

私たちは「肉体」を自分のものだと思っていますが、
自分で作ったものなど、
何ひとつなくて

「肉体」が命として活動しているその働きのどれひとつとして、
自分で考え出したものはなくて

この「肉体」こそが「奇跡」だと思うのです(*´ω`*)

本当の「肉体」の振動数は、
とても高いのではないでしょうか


では、そうやって低くなってしまっている「肉体」の振動数を、
どうやって上げていけばいいのか?

いい波動の食べ物を食べ、
瞑想をし、
自然の中で暮らし、
「肉体」のケアをし、
神と一体の体験をしても、
それだけでは「肉体」の光への変容は起こりません

そう思っている時に、
友人から「チベットの若返りの方法」を思い出させてもらったのです

修行時代、
この「チベットの若返りの方法」を毎日修していた時期がありましたが、
いつのまにか忘れてしまっていました(;´Д`)

両手を肩の高さに上げて、右回りに21回転するという方法です

これだけで、身体の振動数が上がるということです

これを毎日続けているというその友人は、
確かに、実に若々しく身軽な身体を維持しています♪

他にも、ヨガのアーサナのようなポーズが何個かあったような記憶がありますが、
詳しくは、実家の押入れの奥の段ボールから本を取り出さないとわかりません(;´Д`)

でも、この「回転」にはなにかピンと来るものがあり、
合わせて、
スーフィーダンスもやってみることにしました

ワーリングとか、回旋瞑想とか言われている、
あの、スーフィーのくるくる回る瞑想法です




以前、OSHOのアシュラムで体験したことがありましたが、
このスーフィーダンスは、
至福と恍惚感と、そして、
身体は回り続けているにも拘わらず、
完全に静止した「自分自身(真我)」をクリアに体験できる、
世にも美しい瞑想法でした

本当に、こんなに美しい瞑想があるのかと驚いたものです♪

初心者がそこまで達するには、
数十分回り続ける必要があると思いますが、
回り続けるには相当の体力を要するほど、
実はハードな瞑想でもあるのです

私も、初めてやった時は、
途中で足が疲れてもつれ、かっ跳びました(;´Д`)

これは、リトリートの時にもやってみたいとずっと思いながら、
なかなかそのチャンスがやってこなかったものでもありました

今、ようやくそのチャンスがやってきたと思い、
リトリートでできるよう、
呼吸法で準備をし、
秘蔵の音楽を使って、
短くアレンジしてやってみたのです

やってみると、予想以上に超パワフルでした♪

1回か2回、やってみただけで、
身体がものすごく軽くなり、
以前は何度も休まなければ登れなかった坂道も、
普通に休むことなく登れるようになったのです

回り終わった後、
肉体の何かがものすごい勢いで調整されていくのを感じます

この回旋瞑想の真の目的は、
静止している真我に出会うことではありますが、
肉体をも変容させていくパワーがあるようです

秘蔵の音楽のパワーも大きいでしょう♪

このスーフィーダンスだけで「肉体」を光に変容させていけるかどうかは、
まだわかりませんが、
少なくとも、
本来あるべき「肉体」の状態に戻していく力はありそうです♪

生徒さん達にも、
明らかな効果を感じられています

私も、この長雨にも負けず、
以前より活力が増してきました(*´ω`*)

ということで、
ここしばらくは、スーフィーダンスのお世話になりそうです♪





肉体の振動数を上げる

今年の気象などの異常ぶりには、
ガチガチに鈍くなっている人はともかく、
多くの方が何かしらの不調を感じているのではないでしょうか

アマテラス系であるからかどうかはわかりませんが、
とにかくお日様の光がないと生きていけない私にとっては、
この長雨に続く長雨には本当に参ります

いつもなら、もうしおしおに萎れて、
すっかり生気を失っていたでしょうが、
ここのところの私は、
ちょっと違います(*´ω`*)

今年後半に入ってからのテーマが、
「肉体の振動数を上げる」
というものでした

寄る年波もあり、
去年あたりから肉体の翳りが激しく、
あまりの体調の悪さ、
それに加えて、
右膝の痛みと、リウマチの疑いが浮上

そういった肉体の不調に非常に引っ張られて、
エネルギーがどうしても落ちてしまうため、
「これは肉体自体の振動数も上げていかないとならないな」と思うようになりました(*´ω`*)

私が歩んできた「道」において、
やはりどうしても「肉体」は二の次になってしまいがちでした

もともと、私の「肉体」に対する態度は非常に悪く、
全くケアをすることなく、
「ついてこいやーっ!」とばかりに、
酷使しまくってきました(-ω-)/

「肉体」の声には全く耳を貸さず、
本当に動けなくなって始めて、
「休む」ということをするだけではなく、
「道」に入るまでは、
「肉体」に向かい合うことを避けてきたのです

そんな状態ですから、
もちろん、「肉体」は悲鳴をあげ、
様々な症状を起こし、
死の淵に2回ほど行きましたし、
一応、癌なども体験しました(・∀・)

「道」に入ってからは、
そんな「肉体」に向き合い、
どうにかこの「肉体」を産まれた時の完全な状態に戻して、
きれいにしてから死ねたらと思い、
西洋医学ではなく、
自らの治癒力で戻していけるよう、
様々なことをしてきました

その浄化の過程で、
死の淵まで行き、癌にもなったのですが、
(それらそのものが、まさに浄化のプロセスでした)
自分の中で「まだ完全に悟ってないから死なない」という、
妙な安心感があったため、
いずれの場合も恐怖は全くありませんでした(*´ω`*)


そんなこんなで、
自分なりに精一杯「肉体」に向き合い、浄化し、
無事に悟りも得ることができましたが、
痛めに痛めつけてきた「肉体」が元に戻るには、
まだまだ、といった状態でした

また、
私の母は「病気辞典」のような人で、
救急車に乗った数知れず、
切った貼ったの数知れず、
患った病気の数知れず、
いまや薬で身体ができているんじゃないかという位の有様ですが、
遺伝的な体質や気質の問題だけではなく、
どうも、私に課せられていたのは、
母の患ったのと同じ病気を患い、
それを対処療法である西洋医学に頼っている母とは違う方法で浄化し、
そのカルマ自体を浄化していく、ということであったようです

そのため、今まで、
母の患ったのと同じ病気(複数)を、
本当に大変な思いをして経過してきました

もう、これ以上病気を背負うのは勘弁願いたい(;´Д`)

それなのに、ここにきて、またしても母と同様、右膝が悪くなり、
母ならず、祖母の罹ったリウマチの疑いまで出てきたとあっては、
これまで行ってきた方法だけではなく、
何か根本的に変えていかなければならないのではないか、と
思ったのです

今までは、
治癒力という観点や浄化やヒーリングという観点から「肉体」に働きかけてきて、
もう十分に浄化し癒し、十分に自己治癒力は高いにも拘わらず、
私の「肉体」の問題は去らない

何が足りないのか・・・
何が根本的に違うのか・・・

そう思うようになった時に、
「肉体」の振動数自体を上げていく、
という道が私の前に現れたのです♪

「肉体」の振動数が低いと、
どんなに意識が高い振動数に至っても、
どうしても、その低い振動数の「肉体」に引きずられてしまうのです

自己治癒力や浄化力が高いということは、
ある意味、いい波動だということであり、
振動数が高いと言うこともできるのかもしれませんが、
「肉体」の振動数自体を上げていくということは、
何かもっと根本的なことであり、
何かもっと精妙なところのもののようです

意識と「肉体」をもっと同調させる、
と言い換えることもできるかもしれません

それは、
いわゆるヨガをしたりして、
肉体を柔軟にし、整えるというだけのことでもないようなのです

真のヨガを極めたことがないのでわかりませんが、
何かもっと質が違うことのような気がします

いわば、
肉体を構成している物質を、
光の振動数まで上げていくということです

今でも、私の身体の中では、
霊的な眼で視える内なる光は輝いていますが、
それだけではなく、
肉体そのものも光になっていく、ということです


どうすれば、
それが可能になるのか・・?

まだ、明確にその方法に出会った訳ではありませんが、
そう思い始めた頃、
そこに向かっていくためのある方法に出会いました♪

長くなるので、
続きは次のブログにて!