2015年10月18日日曜日

2つの柱の例え話~シンデレラのかぼちゃの馬車~

霊的進化の「道」にとって、重要な2つの柱について、
昨日書きましたが、
それを例えるのに、よくシンデレラのかぼちゃの馬車を使っています(*´ω`*)

「シンデレラ かぼちゃの馬車 画像」の画像検索結果

かぼちゃがパーソナリティで、
ねずみが真の自分です

目覚める前の私たちは、
魔法をかけられて馬車になったかぼちゃのようなもの

それが最も大切なもののように思い込み、
どうやってそれを豪華に飾り立てようかと、
どうやってそれを立派に仕立てようかと、
苦心惨憺しています

でも、余計な飾りで重たくなったその馬車は、動かすのも大変です

ねずみがそれを引っ張ろうとしても、
ねずみのままではまるで動かせません

ちょっとでも坂に来ると、
それはその重さでわーっと坂を転げ落ちていき、
ちょっとでも上り坂になると、もうふうふう言って、登れません

そうやって、ねずみは馬車に振り回され続けています

まるで、人生の中で様々な縛りを作って身動き取れない私たちのようです

馬車をうまく動かすために、
私たちがやらなければならないことは、
まず、ねずみに魔法をかけて馬にすることです
その魔法が目覚めです

「シンデレラ ネズミと馬 画像」の画像検索結果

でも、本当は、
分離という魔法にかけられてねずみになっているようなものですけどね(*´ω`*)
その魔法を解いて、本来の姿に戻ります

「シンデレラ かぼちゃの馬車 画像」の画像検索結果


馬になったねずみは、馬車を引っ張って行けるようになります

パーソナリティに振り回されていた真の自分が目覚めると、
今度は真の自分が主導権を握れるようになります

パーソナリティを使うことができるようになるのです

それでもまだ、
かぼちゃの馬車は飾り立てられていて重く、
そんなに自由には動けません

今度は、その馬車の余計な飾りを剥いで、
シンプルにしなければなりません

馬車が軽く、シンプルになり、機能的になると、
馬はどこへでも自由にその馬車を引っ張って行けるようになります

この世界をあちこちと、馬は自由に飛び回ることでしょう

パーソナリティを浄化して、
本当にシンプルなありのままのパーソナリティになれば、
魂とともに、自由にこの世界で生きられるようになります

ほとんど、馬車の重さを感じずに、
馬は走り回ります

それでも時に、馬車は壊れたり、具合が悪くなったりして、
補修しなければならないこともあります

馬はまだ、馬車の世話をしなければなりません

真の自分が目覚めても、
しばらくはパーソナリティの世話をしなければならないのです

そして、より進化が進み、
いずれ馬車の魔法が完全に解ける時がやってきます


「シンデレラ かぼちゃ 画像」の画像検索結果

馬車はただのかぼちゃに戻り、馬は、解き放たれます

その時、馬はペガサスに変身し、
空へと高く駈け上っていくのです

「ペガサス フリー素材」の画像検索結果

2015年10月17日土曜日

ワークの2つの柱



私たちがシェアしている教えにおけるワークには、
2つの柱があります

ひとつは、
瞑想と日々のワークを通して、
ダイレクトにシンプルに「真の自分自身」へと向かい、
それを知り、深め、目覚めさせていくこと

よく、
「あなたはすでに悟っている」とか、
「太陽を覆い隠している空の雲が晴れ渡れば、太陽はそこに輝いている」というような、
私たちの魂がすでにそこにあり、
それに気づきさえすればいいのだ、という教えがあります

太陽 所有権

それは、ある意味イエスなのですが、
あくまでも「魂」側からの見地で言えばそうであって、
実際の目覚めていない人間側からすると、
「魂」はまだ種状態で、眠っている状態だとも言えるのです



それは、芽吹きを待つ種です

「芽吹きフリー素材」の画像検索結果



太陽で例えれば、
まだ日の出前の状態なのです

なので、たとえ雲が晴れても、
そこにはまだ太陽が現れていないのです

「夜空 フリー 写真」の画像検索結果

私たちは、それを目覚めさせ、育てていかなければなりません

太陽は、水平線から上がってこなければならないのです


「日の出 フリー 写真」の画像検索結果

直接に「純粋な私」、「真我」を知り、
それとのつながりを徐々に深めていかなければならないのです

そうでなければ、
実際にはすぐにまたマインドの厚い雲に覆われ、
簡単に元の無意識に戻ってしまいます

そのために、
その「内なる太陽」「内なる光」とのつながりが強まるまで、
毎日瞑想し、
エネルギー的につながりを強めていく必要があります

瞑想といっても、
ただ漠然と坐ればいいというものではありません

禅のたとえ話にあるように、
「いくら煉瓦を磨いても鏡にはならない」のです

漫然と坐れば、ただ思考が好きなように沸き起こり、
それに巻き込まれ、ただの考え事の時間になってしまいます

とはいえ、
思考を停めることも不可能です

それに、本当の問題は、
そこに思考があるかないかではなく、
思考を超えているかどうか、なのです

そこには、進化の度合いに応じて、
瞑想の焦点があります

ヴィパッサナのように、呼吸に焦点を合わせる瞑想もありますが、
私たちの瞑想では、そのように対象物に焦点を合わせることはありません

ダイレクトに、「主体」そのもの、
「魂」そのものへと向かいます

私たちがシェアしている教えでは、
3つの側面から「魂」へとアクセスしていきます

まず、
「魂」の意識の側面であるアウェアネス、
頭のエリアにある「私」、その「主体」そのものを認識し、
そこにとどまることから始めます

それによって、マインドと完全に同化している無意識の状態から、
マインドを超えた意識的な状態へとシフトしていきます

lens-flare-1(2)


同時に、
私たちの存在のエリア、ビーイングという深みの中に入っていき、
存在の基盤となっている「源泉のエネルギー」へと拡大していきます

「魂」を超えた次元へと、
神の「存在」の次元へと深く入っていきます

14-Preview


そして、
まさに「魂」の座であるハートへと、
深く入っていき、
「魂」そのものとのつながりを深め、
神の「愛」の側面へと入っていきます





瞑想が深まるにつれ、
それらが統合し、
「魂」は徐々にその姿を現してきます

実際に、ハートに「内なる光」がともるのです

このワークに関しては、
各人が瞑想の実践を通し、
実際のその人の状態に応じて理解を深めていくものなので、
ここでは、それらの詳細については書きませんが、
これらの瞑想を通したワークが、
まず第一になされるべき重要なことです

これは、日々の瞑想と、
私たちとともに行う定期的なリトリートによって、
その人その人に沿った形で進めていきます




もうひとつの柱は、
パーソナリティの浄化です

「光フリー素材」の画像検索結果

それは、直接的なものではありませんが、
私たちの潜在意識の中にあるものを浄化していかない限り、
実際に瞑想を深めて行くことが困難になり、
あるところでスタックしてしまうため、
必ず、浄化が必要となってきます

そして、たとえ瞑想で深い境地に至ったとしても、
パーソナリティが浄化されていないと、
すぐにその暗闇へと引きずられ、
そこに巻き込まれ続け、
結局はこの地上の次元にフックされ続けてしまいます

これは、大切なハートのワークでもあります

パーソナリティが浄化されないまま、
霊的パワーを身に着けてしまうと、
とても危険な状態になりかねません

自分の利益のためや、
あるいは復讐や報復のためにそのパワーを使ってしまうからです

これは人に通常より大きな害を及ぼし、
本人にとっても大きなカルマになってしまいます

それは何も、かつてのオウム真理教事件のような大事に限りません

日常の中で、周りの人との関係性の中で、
私たちは無意識に潜在意識の中のカルマやブロックによって、
常に葛藤や小さな対立、苦しみを創り出しています

霊的パワーが強まれば強まるほど、
そのネガティブな影響もまた大きくなっていきます

なので、
本当に高次の次元へとシフトしていくためには、
パーソナリティの浄化が必須なのです

それはまた、人間としての完成ももたらしていきます

たくさんの条件付け、
信じ込み、
自分の中のネガティブな傾向、
人生において何度も繰り返し体験するもの、
自分の修行を妨げるもの、
人生を通してぶち当たる課題・・・

そして、
私たちは誰しも、何らかのフィルターのようなもの、
あるいは下塗り、あるいは鋳型、
あるいはトーンのようなものを持っています

私たちは、本当に純粋に何の色づけもせずに、
物事を見たり感じたり体験できるわけではないのです

誰しもが、各人特有のそのフィルターを通して、
世界を体験しているのです

それらは、通常ネガティブな色合いを持っています

グレーな色合いのフィルターを持つ人は、
全てをグレーがかって体験します

「フィルター フリー 素材」の画像検索結果

悲しみ色のフィルターを持つ人は、
全ての体験の底に、悲しみを感じます

「悲哀 フリー 素材」の画像検索結果





そういったものから目を反らさずに直面し、
手放し、解放していくこと

そして、
シンプルな本来のありのままのパーソナリティへと、
軽くなっていくこと

それがもうひとつの大切な柱なのです

「魂 フリー 素材」の画像検索結果

このワークは、
日常の生活の中で、
実際の関係性を通して行われていきます

先生となるのは、
目の前にいる、まさに問題をあなたにもたらしているその人や物事です

「魂 フリー 素材」の画像検索結果

家族、友人、仕事関係の人などなど・・・

人生に起こること全てが、
私たちにとっては学びと、浄化の機会です

「相手は鏡である」というのは、
あなたの中の問題を、相手が映し出してくれている、ということです

「鏡 フリー素材」の画像検索結果



普通、私たちは何かの問題が持ち上がると、
「誰それが悪い」と相手の問題にして、
怒ったり、不平不満を相手にぶつけてしまいます

でも、本当は、相手に問題があるのではなく、
自分自身の中にその問題の種があるのです

人との関係性のベースは、
両親との関係にあるので、
その両親との関係を深く見て行くことも、
霊的進化の道においては必須事項です

それらを通して、
少しづつ、自分のフィルター、自分のトーンというものが見えてきます

そうなれば、
もはやひとつひとつの問題を解放していくのではなく、
そのフィルターごと外してしまうことができるようになります

ただし、そのためにはある段階以上の霊的進化が必要となります

マインドを超えて初めて、
そのマインドの色合いが見えるようになるからです

マインドに糊付けされている間は、
その色合いを見ることはできません

それは、
汚い水の中で暮らしている魚が、
その中にいる限り、
その水が汚れていることに気が付かず、
きれいな水の中に移動して初めて、
それまでいた水が汚れていたことを知るのと同じです

「魚 写真フリー 素材」の画像検索結果

私たちは、
純粋な「魂」に近づけば近づくほど、
そうでないものの姿をはっきりと見ることができるようになります

「魂 フリー 素材」の画像検索結果

このパーソナリティの浄化は、
目覚めた後も、
人間として生きている限り、続くことでしょう

目覚めたら、はい、終わり!でもなく、
目覚めたら、マジカルにパーソナリティが聖人君子に変わる訳でもないのです

逆に言えば、
本当の浄化は、目覚めて初めて起こると言っても過言ではありません

そして、
それは私たちのパーソナリティが何か自分の理想になっていくということでもないのです

むしろ、ただあるがままになっていくということなのです

だから、
私は私のままだし、
あなたはあなたのままです

けれどそれは、
私が私を生き切り、
あなたがあなたを生き切る、ということです

私たちが、
ひとりひとりユニークなパーソナリティを生き切り、
そこに神性の愛や内なる平安、静けさ、喜びの質を体現していくこと

それが宇宙を創り、宇宙を進化させていくのです

「宇宙フリー素材」の画像検索結果


このように、
2つの柱は、
螺旋状に進化し合い、
私たちを「究極」へと連れていってくれます

私たちは、
人間としての制限と不完全さを持ちながら、
なお、完全なる存在として、
完成していくのです

私たちは満ち足り、
完結し、
全ての仕事をやり終えた安堵へとくつろいでいきます

それでもなお、
私たちには人間として無限のチャレンジが可能であり、
その生をダイナミックに生きることができるのです

その存在となった暁には、
生はOSHOの言うように、「祝祭」となるのでしょう

私にも、あなたにも、
その可能性が約束されている

本当に、その日が楽しみです

「ブルーローズ 写真フリー」の画像検索結果



Blessings of  God!






2015年10月16日金曜日

シヴァの道


(フーマン所蔵のシヴァ神の絵)

私たちのシェアする「魂への道」は、
「シヴァの道」でもあります

どういう道かと言うと、
自分の足で歩んでいく道です

真の自己の実現、神との合一、神の体現を目指して、
自分で一歩一歩、修行をしていく道です

もちろん、最後のその手を引いて、
そこへと引き上げてくれるのは、
恩寵の力に他なりませんが、
ただそれを待っているのではなく、
自分のできることを最大限やり、
恩寵に協力していく道です

瞑想し、探求し、洞察し、浄化し、
常に「自分自身」へと向かい、
同時に、この現世でもワークし、
神性をこの現世へともたらし、
霊的完成、そして人間としての完成を目指して、
歩んでいく道です



山に登るのに、
自分の足で歩き、
道々に咲く花を見、その香りをかぎ、
木々の間をくぐり、
岩をよじ登り、
山頂に至るまでの道のりの全てを、
自分の身体で体験し、
自分で理解していくことを望んでいる魂の道です

山頂まで、ヘリコプターでただ連れていってもらうのでは、
満足しないのです
リフトやケーブルカーで行くのも嫌なのです

山道のひとつひとつ、
どこにどんな花が咲いていて、
どこに危険な場所があるか、
どんな坂があって、どんな眺望があるか、
そのプロセスもまた、全て熟知していたいのです



そういう魂は決して多くはないでしょう

多くの人は、できるだけショートカットして、楽をして山頂に着きたいと思うことでしょう

でも、この道は、
ある意味、超ショートカットでダイレクトでシンプルであると同時に、
とても多くの要素を含んでいて、
それらを自分でワークしていくことを要求されるため、
決して楽とは言えないでしょう

でも、だからこそ、
山頂に到達した時の歓びが大きいのです

そして、だからこそ、
実際に「道」を歩む人の手助けができるのです

そうやって、山頂に辿り着き、
そのはるか広大な景色に感動した魂は、
他の人にもそれを体験させたいと望んでやまないのです


***


シヴァは、インドの神話に出て来る神で、
ブラフマー、ヴィシュヌとともに三大神と言われ、
その中でも最強の神であるとされています

「破壊」を司る神であり、
ヒマラヤのカイラス山で瞑想の修行をしていた神です

カイラス北面(ウィキペディアより)

カイラス山は、チベット仏教、ボン教、ヒンズー教などの聖山で、
未踏峰の山です
いまだに近くに到達することさえ困難な山ですが、
巡礼の地としても多くの信仰を集めている山です



ヨガの聖地、インドのリシケシにあるシヴァ像です

瞑想で、サマーディーに浸っているシヴァの姿です
美しい像ですね(*´ω`*)

このたゆみない瞑想が、
この世界を創造し続けているともいわれています



シヴァは、「時を超えるもの」

「永遠」に住まうもの





シヴァ神は、そういった瞑想の修行者としての側面だけではなく、
「破壊神」としての側面、
時として恐ろしかったり、乱暴だったり、やんちゃだったり、
ヒマラヤを炎で焼き尽くしてしまったり、街を破壊して回ったり、
そして時として非常に優しく、
1000の名を持つと言われるほど、
いろいろな側面を持っています

今では願いを叶えてくれる神様として人気が高いそうです


そして、ダンシング・シヴァとして有名なように、
「破壊」と「再生」のダンスを踊り続けています

それはまさに、「生のダンス」です



「破壊」というと、
現代の日本語ではネガティブなニュアンスを持っていますが、
新しく再生するためには「破壊」が必要であるように、
それはとてもポジティブな「破壊」なのです

マインドを破壊し、
古くて重たいものを破壊し、
鈍ってどんよりとしたものを破壊し、
私たちをこの二元の世界に縛り付けているもの、
いえ、この二元の世界そのものを破壊し、
新しいところへと、
私たちを連れていく

私たちは、
私たち自身を破壊して、
より、純粋なものへと近づいていきます

永遠なるものの中へと、
私たちは溶け去っていきます

破壊と再生を繰り返し、
瞬間ごとに、
私たちは生を踊り、
その歓びを分かち合います

シヴァのダイナミックさは、
宇宙のダイナミックさであり、
進化のダイナミックさ、
生のダイナミックさそのものです













2015年10月15日木曜日

魂への「道」

私たちは、魂へと至る「道」の教えをシェアしています

それは、霊的進化の「道 The Path」です

それはもちろん、神へと至る「道」でもあります

それでもなお、私たちは「魂」の目覚めを人間としての最終地点としています

というのも、
「魂」が完全に目覚めるためには、
神と完全に合一し、
「魂」を超えたものの中へと溶け込んでいく必要があるからです

「魂」を超えて初めて、
「魂」の全体を知ることができます

もちろん、「魂」として目覚めた後も、
神の無限性、絶対性、完全性、全体性の中へと拡大していく「進化」は続き、
それに終わりはありません

なぜ、私たちが「魂」の目覚めを最終地点としているかというと、
神性とひとつになる体験をしてもなお、
その体験者である「魂」に気づかないことが往々にしてあるからです

よく、悟りの体験をした人の話の中で、
「私がいない」と言う人がいます

たとえば、それは非二元の道の人たちの決まり文句でもあります

それは、「私」を超えたものを体験していることに相違はないのですが、
パーソナリティとしての「私」、
つまり、感情や思考と自己同一化している「私」しか知らないために、
神と一体になっている時に、
そのパーソナリティとしての「私」、つまりマインドが消え去っているため、
「私がいない」ということになってしまうのでしょう

では、
「私がいない」という状態を体験しているのは、誰なのか?
「私がいない」と言ってるのは、誰なのか?

悟りの体験をしたのであれば、
そこにその体験の体験者が必ず存在します

神との合一を体験したのであれば、
その体験者が必ず存在するのです

体験者がいなければ、
何の体験も起こりません

神そのものに溶け去っていることを「知っている」誰かがそこにいるのです

でなければ、どうして後からその体験について語ることができるのでしょう?

その体験者こそが、「魂」なのです

それが、「純粋な私」、「透明な私」、「真の私」、「真我」なのです

感情や思考、感覚といったマインドとは全く関係のない、
全く違う次元に住している、
本当の主体としての「純粋な私」です

それは非常に微細で透明なため、
それを認識するためには、
感受性が成熟していなければなりません

いつも粗いマインドに同化し、チューニングしている感受性では、
「純粋で透明な私」を認識することができないのです

そして、「魂」の認識のないワンネスの体験は、
やはり完全とは言えないのです

もちろん、
神との合一、ワンネスの体験は、
私たちが通常、この二元の世界で様々なことを体験するのとは、
魂の状態というか、あり方、もしくは立ち位置が違っているので、
たとえば、
私たちがこの世界で何かの対象物や対象となる出来事を体験するように、
ワンネスを体験するわけではありません

それは、完全に違う体験です

二元の世界に生きるマインドで想像できるものを超えています

なので、
それを体験している間、
この二元の世界で何かを体験している時と同じような形で「魂」を感じている訳ではありません

神なるものと「魂」の間になんら境界線はありません

それでもなお、
私たちは「神」を知るのと同時に「魂」を知っているのです

「私は神」であり、同時に、
「神」=「魂」ではなく、
あきらかに「神」>「魂」であることがわかり、
「魂」が境界なく「神」へと拡大していることがわかります

この状態がこの二元の水平の世界に対して起こった時、
「すべては私」という体験になるのでしょう

そして、この「魂」に気づくということ、
「魂」として完全に目覚めるということが、
実は私たちを完全なる充足、完結へと連れていくのです

「私がいなくなる」ことは、
消極的な解脱ですが、
「私が私である」ことは、
ポジティブな超越なのです

それゆえ、
私たちは「魂の目覚め」を、人間としての最終地点としているのです

実は、
完全なる「神性の実現」と、
完全なる「魂の目覚め」は、
同時に起こります

それらを切って離すことはできません

「魂」が神への通路であり、
神なるものへの拡大によって、
初めて「魂」の全体を知ることができるのです

そこに至ることが、
私たちがシェアしている「道」なのです













2015年10月10日土曜日

リトリートと天候

リトリートと、それが起きている間の天候とは、
100パーセントとは言いませんが、
大抵いつもリンクしています

つまり、
リトリートによって浄化が起きている時は、
雨が降るのです

時には浄化の程度に応じて、
嵐や台風や大雪となり大変なのですが、
浄化がひと段落すると、
晴れます

以前も、
置いてあった非常にパワフルなクリスタルがボロボロになる位、
大きな浄化が起きた時は、
非常に強い台風が来ました

これは、不思議なくらい、
シンクロして起こります

雨は、浄化の雨

外の空気も木々も大地もきれいに洗い流されるように、
生徒さんも綺麗に洗い流してくれます

ところが、
ある生徒さんのリトリートの時は、
たいてい晴れるのです

毎日気持ちよく晴れて、
太陽の光が燦燦と降り注ぎます

様子を見ていると、
とても大きな浄化が起きているのがわかるのですが、
雨にならないのです

それも不思議に思っていたところ、
ヒーリングのセッションをして、
はっと思い当たりました

そういえば、
その人のセッションは、
何か「与える」セッションになるのです

たいていの人の場合、
ブロックやネガティブなエネルギー、テンションなどを
「取る」(もしくは「ほどく」)セッションになるのですが、
その人の場合、
「取る」のではなく、
「与える」セッションになることがほとんどなのです

先日も、
「生命エネルギー」を注いでいくというセッションになりました

そのリトリートの間、
毎日本当にお天気が良く、
太陽はその光を燦燦と注いでくれていました

それで、
「ああ、この人の場合は、雨ではなく、太陽のエネルギーが必要なんだ」と、
わかったのです

ちゃんと、天候はあるべきように、
リンクしていたのです

そういうことを体験していると、
大いなるものの計らい、
サポートって本当にすごいな、と思います

全て、わかっているのですね

さて、今日からリトリートです
すでに、雨が降っています

大きな浄化が起こるようなリトリートの前、
私たちの体調も最悪になります

つながっているのですね

どんなリトリートになることでしょう(*´ω`*)


2015年10月1日木曜日

7つの約束



7つの約束

「私は、自分自身に約束します

 1.いつどこにいても、私もその一部である絶対無限の存在に、心をこめて奉仕します。

 2.いつどこにいても、私には神聖なる計画に奉仕する準備ができています

 3.いつどこにいても、またどのような状況にあっても、私は「神聖なる贈り物」である思考と
   言葉を正しく使います。

 4.最も賢明なる神聖なる法則が与えてくれる、あらゆる試練と苦難に対して、私は不平不満を
   言うことなく、忍耐をもって受け入れます。

 5.私に対する人々の行動がどのようなものであっても、私は心と魂の奥底から、誠意をもって
   兄弟姉妹である隣人を愛し、彼らに奉仕します。

 6.私のあらゆる思考・願望・言葉・行動が神聖なる法則と完全に一致することを目的として、
   毎日絶対無限の存在について瞑想し、熟考します。

 7.私のあらゆる思考・願望・言葉・行動が神聖なる法則と完全に調和したものであるかどうか
   毎晩、確認します。」
  


これは、世界的なヒーラーかつ霊的な教師であったダスカロス(スティリアノス・アテシュリス)の著書『エソテリック・プラクティス』の中に載っている、「7つの約束」です 



ダスカロス自身がヨハナン(聖ヨハネ)から授けられた約束で、
霊的進化の道を歩む人々にも薦めているものです

私自身、道を歩む上で、この約束を知っていて、
意識的にそれを行ってきた訳ではありませんが、
ずっと以前から心のどこかで知っていて、
特に霊的進化の道を歩むようになってからは、
常にこういった姿勢で自分自身に向かい合い、
そのパーソナリティの浄化をしてきたように思います

それゆえ、
よく人から「まじめすぎる」とか、
「まじめなのはいいけど、馬鹿が上につくよね」とか、
「固いなー」とか、
「人に甘すぎる」とか
「ともちゃん、○○さんに優しすぎるよ」」という意味合いのことを言われてきました

また、
「正しくあろう」として、苦しくなってしまうことも多々ありました

相手にとっても、正しい人が楽とは限らず、
むしろ逆で、
正しさ故に敬遠されてしまうことも多々ありました

そんな時、痛みの中で、
より深く自分の中を見て行ったものです

熱心な仏教徒の家庭に育ったこともあり、
「正しくあらねばならない」という条件付けがきつくて、
人にもそれを無意識に要求してしまうこともあり、
それを外していくことも、プロセスのひとつでした

それにもちろん、
他の人や、自分の置かれた状況に不平不満を感じたことなど、
数知れずあります

そして、それを無意識に相手にぶつけたところで、
問題はより悪化していくだけだということもいっぱい体験してきました

でも、人間として生きていくことの「道」として、
つまり、「人としての道」として、
ダスカロスの言うところのこの7つの約束、
このように自分自身に向かい、
このように他者に向かい合い、
このように神に向かい合うことが、
やはり、私たちが目指すところなのだと思います

このダスカロスの7つの約束を読んで、
それが改めてはっきりとわかりました

私は、間違った道を歩んで来ていたのではないと(*´ω`*)

存在によって、
自ずとそのように導かれて来たことがわかりました

そして、本当に有効で深い道とは、
この点に関して重要性を持って言及している道のことであると、
確信を持てました

ダスカロスの示す道はキリストの道ですが、
自己探求のシヴァの道でもあると思います



私たちがシェアしている「トータル・パス(まだ仮称ですが)」は、
まさしくシヴァの道であり、
言うまでもなく、この点も非常に重要視しています

直接に魂に向かう瞑想がまず何より重要ですが、
2輪の馬車のように、
このパーソナリティの浄化も重要なもうひとつの車輪です

それをしないと、
どこかで必ずスタックしてしまうし、
その浄化されずに重さを持っているパーソナリティが魂の軽さを引っ張り、
この重たい地上にフックし続けてしまうからです

だからこそ、
毎日の生活の中で、
周りの人々との関係性の中で起こる一つ一つのことを通して、
そこに起こる自分自身の内側を洞察し、
それを浄化し、昇華させて行くことが必要なのです

マインドは、とても巧妙なため、
自分自身をも欺きます

どれだけ誠実に正直に、
自分自身の内側にあるものを直視して理解していけるか

何か「ザワザワするもの」が自分の中にあるかないか
何か「苦い味わい」が自分の中に残っていないか
本当に自分で「OK」なのかどうか

そして、それを批判的にするのではなく、
自分自身に対する愛と慈悲を持ってできるか

ジャッジを手放し、
愛をそこにもたらす

それは、「まあいっか」と自分をごまかし、
見ない振りするのとは違います

それは、言葉で言うのは簡単ですが、
毎日の中で、それを成し遂げていくのは、
本当に強い意志力と、誠実さと、
そして、
飽くなき『全体性』への情熱を必要とします

でも、
霊的進化が進めば進むほど、
それは容易にできるようになっていきます

自分をフックしている重力が軽くなっていきますし、
洞察力も磨かれていくため、
気づきへの時間も短くなっていきます

また、
恩寵とのつながりも太く強くなっていきます

たくさんの存在がサポートしてくれるようになります

あなたは、きっと一つクリアする毎に、
自分がより軽くなり、より楽になり、
より透明になっていくのを感じられるでしょう

そして、
人間としての成熟と完結に向けて、
一歩一歩、進んで行くことに、
喜びと自信を持つようになるでしょう

それが、真の探究者です

その数は決して多くはないかもしれません

でも、
自分の足でその道を歩んできたからこそ、
そのプロセスを熟知し、
だからこそ、
その道を行く人たちのサポートをすることができます

そして、それは私自身の大きな喜びです(*´ω`*)

人生で無駄なことは何一つないのですね♪
















神の愛



神の愛に満たされる

 私は充足し、
 完全な存在となる

  足りないものは何もなく、
  欠けているものも何もない



神の愛に包まれる

 私は安らぎ、
 無垢な存在になる

  痛みは全て癒され、
  赤子のように母の腕の中でまどろむ



神の愛とひとつになる

 私は歓喜し、
 光輝く存在となる

  全てが愛おしくてたまらず、
  全てに惜しみなく捧げる


  
  
あなたがあなたであること

全てはそこから始まる