2015年6月13日土曜日

怒りを楽しむ♪ ~炎の浄化~

人は疲れが限界を超えると、怒りを生じるのですね

ここ3週間ほど、全く休みが取れない日が続き、
しかもここ数日はあまりの忙しさに躁状態となり、
ついに昨日は疲れを超えて、
身体に怒りがふつふつと湧いてきたのです

その怒りに乗じて、憤懣が爆発しました

「やっぱり、GIVE &TAKEがちゃんとわかってる人とじゃないと、その辺のバランスが取れてる人じゃないと、付き合ってられないよね!!」

「なんで、GIVE、GIVEしなくちゃならないの!!ずるいよ!そんなの理不尽じゃん!!( `ー´)ノ」

「なんでTAKEばっかりする人が報われて、私は報われないの!!(; `д´)ノ」

「それなのに、またしても私たちはそういう人のために、自分たちのお金をかけて、忙しい中時間を割いて、すごい労力をかけて手伝ってあげようとしているんだよ!!人がいいにも程があるよ!」

「そういう自分にも腹が立つし、だからといって、それをやらなかったら、やらない自分にも腹が立つんだよ!だからやるんだけどさ!あー、もうっ!!」

「神様!本当にずるいよ!!がう~っ!!」

ってな具合に、伊豆に向かう車の中で、
パートナーに吐きまくっていました(^_^)

自分で自覚していた以上に、
そういうことに怒っていたようでした

怒りをどんどん出してあげました

人との関係で出てきた怒りがひと段落した後も、
疲れによる肉体的な怒りがまだ残っていました

その怒りのエネルギーを内側で解放して感じていると、
身体にエネルギーが満ちてきて、
とても心地よくなっていきました

疲れを超えた時の怒りって、
肉体の生命保存のための働きなのかも、と思いました

怒りのエネルギーそのものは、
抑圧せずに内側で感じていると、本当に気持ちいいものです

ふっと、「不動明王の怒り」が浮かんできました

何か、自分の中に残っていたねばついたエネルギーを、
その「不動明王の怒り」の炎が焼き払ってくれるかのようでした

怒りを相手に投げつけるのと、
怒りのエネルギーそのものを内側で解放して感じきるのは、
全く違います

怒りというより、まさに「炎」です

気持ちいい~

こんな浄化の仕方は初めてです

本当に、人間って、神秘ですね(*´ω`*)









1 件のコメント:

  1. ご無沙汰しております。気苦労お察し致します。よしべい

    ということで、お察ししての私の衝動とお節介ですが‥。間違っていましたら、添削して、機会がありましたら、教えて下さい。<(_ _)>

    「気づき」→「気づきの内容」(気づきの内容を味わいに自己同一化が起こる)その視点・立場からの→更なる「気づき」→「気づき内容」(それを味わいその視点・観点からの探究)→更なる気づきなど… 

    ご承知の通り、これらが永遠に続くのが人間のみならず、「意識」と「意志」の活動、♥意識活動とも言えるでしょうか?

    一元、ワンネス、空の存在とは言えない存在、これ、在る、形容や表現を超えたもの、ものではないもの、バックグラウンド、源泉、真我、などなどから、

    一点からまたは、あらゆる視点から「気づき」が→その対象「気づきの内容」に対して、知覚として、起こるのでしょうが、

    そう成ると、二元以上であらわれることのできる観念や想像・創造などと呼ばれる現象が始まり、意識活動とその認識による“意志”活動等が行われ、

    あらゆる概念や世界観の意識が起こり、あらわれ、様々な世界の“固有の存在性・意識の活動”が行われるじゃないかと、→

    ♥私はイメージや一つ理解の仕方として→それらを基準にしている傾向があります。

    私たちも含め、あらゆる現象や世界観(各々の意識の通る習性・性質)は、色々なところに行っては、通り過ぎたり、戻ったり、或いは留まったりして、自己同一化したりもしていますが、

    それらが無限大な分離感の感覚
    ・分離観の認識を、各々の意識に植え付け、本来皆さん繋がっているし、ものごとが起こる原因も一つではないということに、気づけない?気がつかないように?

    している仕組みとも言えるとも思えます。

    これらが起こる現象は、或いはこの各々の“純粋な色付けされていない気づきの視点・プレゼンス”に、見させ続けさせられる現象は、

    アナディーが言うとおり、自然な流れで、あるがままでなのでしょうが、

    それを不快に感じれば、「嫌だ~!奴隷だ~!」という認識などが♥出て来るかも知れません?

    また、快さや快感との認識が♥出て来れば、不満や物足りなさのなどの認識が♥そうすぐには、湧き出ては来ないと思います。

    その気づきの視点・プレゼンスの前に湧き起こるのは、プレゼンスが、この源泉・魂(割り当て)からの“意識の流れ”が→この度使っているこの身体やその習性や特性、

    そして、習慣的な生活から形作っている概念などの各々各パートの性質やその“嗜好性”に従ってあらわれる♥“感覚”と→その♥“印象・認識”のされ方なので、

    その無限大に行われる“気づき”と“気づきの内容”を行ったり来たりする意識エナジーの流れ、→♥知覚的な行為・探究と言えども、純粋なプレゼンスの前に様々な固有の感覚とその印象、もちろん疲れの感覚やうんざり感がもたらされるのは当然たと思います。

    あらゆる意識や存在性はその対象♥“気づきの内容”への自己同一化とその固有の性質の機能の独自性ゆえに、

    常に自分にとって正・否を判断しながら、知覚行為をしていますし、目に見えない神経が張り巡らされていて、そこで味わった感覚を、

    ♥何事も無かった(ワンネスみたい!)とするか?

    ♥快感とするか?(分離感)

    ♥不快感とするか?好きか?嫌いか?(分離感)

    受け入れるか?受け入れないか?

    ♥好きか?♥嫌いか?

    正か?悪か?(自分というエゴにとって)

    などを勝手に判断しては、そのデータをこのプレゼンスの前に表示しています。或いは、プレゼンスから伸ばしている?神経を伝って、“感覚”というデータを味わっています。

    何のコメントをしたいのかといいますと、

    皆何が何でも探究の為の探求が行われているわけではなく、解放の為の探求も、その状態次第では、無意識的に行われているのでは?ないかということです。

    でも、どちらも起こるべきして起こっていると言えると私は思えます。

    解っている方にこのようなコメント変かもしれませんが、

    ふた月前ほどに、書店で、「これのこと」という自主出版の書を手にしたときに、まずフーマンがイメージであらわれ、次にともこさんのことが浮かびましたので、このようなコメントに至りました。

              ★吉平一成

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