2014年10月13日月曜日

弥山下山の編  ~近畿五芒星レイライン巡礼の旅 4日目 ~

雨の合間を縫って、下山開始
9時を過ぎていたでしょうか

山頂から離れるにつれて、霧が薄くなり、
すぐにレインコートが暑くなって来ました

「山頂だけに降っていることが多い」という管理人さんの話の通り、
山頂からすぐ下あたりからは、さほど降った様子もありませんでした


とても幻想的です



途中で、蛙に出会いました♪

ちょうど、管理人さんと蛙の話をしていて、
見たいと思っていたので、ナイスでした

これは何という蛙なのでしょう?

山頂から程ないかなりの高度にいたことと、
側腹部の赤と黒と白のまだらラインと、背中のぼつぼつが特徴的、
後ろ脚も長く、水かきも発達していて、普通のヒキガエルより全体的にシャープな印象なので、
ナガレヒキガエルかなとも思うのですが・・・

ナガレヒキガエルなら、渓流で産卵する珍しい蛙で、
レッドリスト(絶滅の可能性のある種)の軽度懸念に指定されているようです

なんにしても、初めて見る蛙です

ということで、蛙さんと一緒に、しばし休憩~

下り坂の方が大変と聞いてはいたものの、
もう、すぐに身体がそれを実感・・・
膝がキシキシ、がっくんがっくん

膝への負担を減らすために、
どうしても歩幅を狭く、よちよち歩き
斜滑降しかできない初心者スキーヤーのように、
斜面を斜めに横切って歩きます

膝だけではなく、もう、足の付け根、腰、心臓までぎゅーっと痛くなってきます

でも、景色はきれい♪


もののけ姫の世界のよう
木の上の苔が龍神のようです

行きに写真を撮る余裕がなかったので、
帰りはなんとしても撮らねば・・・と思うものの、
スマホを取り出すのが大変で、たくさんのシャッターチャンスを逃してしまいました

実は、「大変だ」「大変だ」と言いつつ、
つい、枝の付け根のところが朽ちて流木のようになったもの
(こういうもの)


を見つけると、拾ってしまいます

以前、熊野に住んでいらっしゃる原さんという方の作品で、
熊野の湖から拾ってきたこういう流木で作ったナイフのようなものを
見てから、もう、この流木にはまってしまったのです

すごいでしょう?
いいでしょう?( *´艸`)

動物の骨のようでもあり、
とにかく、迫力があるし、生命力をそのまま表したようで、なんともいいのです

流木フェチにはたまりません♪

おそらく、枝が幹に食い込んでいる部分(材木でいうと、節のところ?)ではないかと思うのですが、
木の柔らかい部分は朽ちて落ち、固い部分だけが残り、こういう形になっています

でも、これ、結構、重い・・・
濡れて水をたっぷり吸い込んでいるし・・・

足、痛いんだけど、見ると拾わないわけにいかないし・・・
パートナーには「一番いいの、1個にしなさい!」と何度も怒られながら・・・
だって、どれもこれもそれぞれに素敵なんですもの( *´艸`)

皆へのお土産にしようと、いくつもいくつも拾って、
リュックは、ずっしりと重たくなってしまいました(^^;

自分の体重だけでも支えきれない膝なのに、
まったく・・・・です(;´Д`)
(いや、単に自分の体重があり過ぎ?)

でも、途中で根をあげたら、’優しい’パートナーが「まったくもう!」と言いつつ、
半分持ってくれました( *´艸`)
やった♪



途中、美しい木肌のひめしゃらの林がありました

ひめしゃら、一時期流行りましたね
東京の家の庭にも、シンボルツリーとして植えてあります(^_^)

ここのは1本立ちがほとんどでしたが、
一株の根元から出ている幹の数が多ければ多いほど、値が高いです

苔の緑にひめしゃらのオレンジがとても映えて、美しかったです


身体はしんどいながらも、そんな美しい風景の中を歩きながら、
弥山に思いを寄せて、そのコミュニケーションを楽しんでいると、
さーっと強い風が吹いてきて、そのとたん、
「ああ、もっと皆がこういう聖地を訪れてお参りすればいいのに」
という思いが胸に沸き起こり、
「それを、人との交流を、聖地の方も、そこに祀られている神々も待っているんだ」
とわかりました

そのとたん、
また、さーっと強い風が身体の周りを吹き抜けました
弥山が喜んでいるのがわかりました

「ありがとう」
と、龍神に言われたようでした

「ありがとう」と、
私も言い返すと、
ふわっと日が差し、キラキラと輝きました

聖地は、なるべく人が行かない方がその神聖さを保てるのかと思っていましたが、
人が祀り、そこを訪れ、お参りすることで、
ダイナミックな交流が起こり、
そのエネルギーをより開き、つなげていくのだとわかりました

その聖なるコミュニケーションを、聖地や神々の方も待ち望んでいるのです

そうやって、この世界はできあがっている

そのダイナミックな交流のエネルギーから、世界が形づくられてくる

人と神々とのコミュニケーションでこの世界はできあがっているのです

そういった理解がドーンと来ました

もちろん、そこを訪れる人のエネルギーや目的も大きく関係してくるのでしょう

富士山の2合目にある新屋山神社奥宮がそのいい例ですが、
元々、龍脈の上にあったその神社が、
日本一の金運エネルギー神社ということで、
ここ近年賑わったらしいですが、
そこに押し寄せたマインドのエネルギーによって、
地震が起き、龍脈がずれてしまったという話を聞きました

実際にお参りしてエネルギーを感じてみたことがないので、
何とも言えませんが、大いにありうることだとは思います

お金持ちになりたいという気持ちそのものが悪いとは決して思いませんが、
何か、聖地や神への思いを忘れ、ただ自分がお金持ちになるツールとして
利用しようというその荒いエネルギーが、
繊細なエネルギーを破壊し、
聖地を破壊してしまうのでしょう

祈りのエネルギーは、たとえ個人的な願いを込めた祈りであっても、
(呪いの類でなければ)
そこに何か純粋で神聖なものを含んでいます

ハートからの真摯な願いであれば、なおのことです

でも、がっついて搾取するようなエネルギーや、
計算づくのエネルギーといったものがそこに含まれていれば、
祈りとは全く違ったエネルギーになってしまいます

それは、そういう荒い世界を創り上げてしまうでしょう


やはり、聖地には、ただそことつながること、
真の祈りとは、開き、つながることだということを忘れずに、
神々にそのエネルギーをいただくお返しに、
神々への愛と「ありがとう」を捧げたいなと思いました

それは、美しく温かく、人にも優しく心地よい世界を創っていくことでしょう

そんな大切なことを弥山に教えてもらいました


・・・・・

さてさて、そんなこんなで、
半ばの緩やかな道をどうにか過ぎ、最後の急坂に辿り着きました
(ここまでですでに3時間以上経過・・・(涙)

最後の急坂、下っても下っても、着かない

途中でもう1本、杖になる枝を見つけ、
それまで使っていた枝をパートナーに渡しましたが、
パートナーの重みに耐えかねてその枝が折れてしまうくらい、
きつい下りでした

ついに、1歩歩くたびに膝が焼け火箸を突っ込まれているようにキーンと痛みだし、
それでも、歩いているうちに、
ついに、足が全く動かなくなってしまいました

胸も締め付けられて苦しい

さすがに、涙が出てきました

先を行くパートナーにやっとのことで「もう無理」と言い(口をきく元気もない)、
その場に座り込んでしまいました

パートナーが愉気をしてくれて、少し楽になりましたが、
全く動けない

やっぱり、身体の言う通り、下山だけで精一杯だったのです
八経ヶ岳の分、もちませんでした

担いで下ってもらうのも無理だし、
もう、天に任せるしかない・・・
このまま野宿でもするか、とも思うしかない状態でした

でも、夜までには熊野の那智勝浦まで行って、
熊野の旅を同行する友人をピックアップしなければならない

そのためには、とにかく、自分で下りるしかない

そのためには、もう、時間がない

その一念だけで、立ち上がり、また歩き出しました

でも、そうしたら、膝の痛みも薄れて、足も軽くなり、
残りの10分を歩き切ることができました

後、ほんの10分のところだったのです

友人との約束のおかげで、下りきることができました
友人との約束がなかったら、まじに野宿していたかもしれません

人間の意志って、すごいですね

限界を超えて、スペックアップさせてしまう

っていうか、やっぱり、修験?(;´Д`)



やっとのことで、つり橋まで辿り着きました
記念撮影♪ホント、記念すべきことでした(;´Д`)
後はもう、平坦な道を10分ほど行けば駐車場です

やったー!
駐車場です!
駐車場横にある滝を撮る余裕までありました( ̄▽ ̄)v
・・・う~ん、思いっきりぶれてる・・・


今回、つくづく日頃の運動不足を感じましたが、
ここまで『苦行』になったのは、たぶん、私の中に不純なものがあったからでしょう

というのも、今年1月に、京都に行くついでに天河と奥宮に行く計画を立てていたところ、
パートナーが前日にインフルエンザに罹り、断念

天河は、「呼ばれていないと行けない」と言われているので、
「私たちは呼ばれていないのか?」と、ちょっとショックだったのです

実際には、1月は雪で閉ざされて、奥宮である弥山には登れなかったので、
(1月に計画を立てた段階では、奥宮がそんな高い山の上で、
本格登山になるとはつゆ知らず、
車でちょっと山を登って…位に思っていたのです(;´Д`))
そのタイミングではなかったということなのかもしれません

本当は、自分の中に「5月頃に行く」という感覚があったので、
それが本来のタイミングだったのでしょう
それは、5月に護摩炊きの行があったと知って、ほぼ確信になりましたが・・・
どうやら、それに呼ばれていたようではありました

なんにせよ、今回は「絶対に行く!」と決めてはいたものの、
信頼しきれずに、「また行けなかったら・・・」と、一抹の不安が残っていたのでした

正しいタイミングを逃したためなのかもしれませんが、
不安を抱えたままだったため、行けることを「証明」しようとする心の働きが起きてしまい、
それが不純物となって、摩擦を生み、こんな苦行になってしまったのだと思います(;´Д`)

やれやれ、本当に、まだまだ未熟者です(;´Д`)

でも、そんな私に、弥山はとても大切なことを教えてくれました(*^-^*)

ありがとう!です♪















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