2018年3月1日木曜日

アナディの教え~アナディwebサイトより その10 目覚めの地図 vol.9 魂のサマディ④

目覚めの地図
vol.9

「本質的なme」の垂直なサマディ            

「基本状態(ファンダメンタルステート)」               

「基本状態」は、「基底のme」の「絶対」への完全な明け渡しを通して到達される。それは、「基底のme」と「絶対のI am」の合一だ。「基本状態」の実現は、「純粋意識」の実現といくつかの点で同じだ。両方のケースで、I amへの通路が開かれている必要があり、その後、「純粋なme」が目覚め、体現され、I amと溶け合う必要がある。「基底のme」のサマディは、エネルギー的に頬骨の下の方で体験される。


絶対の純粋な意識的me(アブソリュートピュアコンシャスme)」      

 「基本状態」が一度確立されれば、「意識的me」は、「純粋な意識的me」のアイデンティティを通して、「不在」に間接的に結び付けられる。「意識的me」にとって、「不在」への道を開くためには、「純粋な意識的me」がまず初めに、垂直なサマディに到達するために、それ自身の純粋な主体のセンターから「源泉」へと明け渡し始めなければならない。ここで、それは「絶対の純粋な意識的me」へと変容する。このサマディは、前頭葉の底で到達される。そこで、「純粋な意識的me」は終わり、「基底のme」が始まる。



「the Inner knower(インナーノウワー 内なる知る者)」の内部のサマディへの進化                      

「絶対のKnower(アブソリュートノウワー 絶対の知る者)」        

 「the Inner knower(インナーノウワー 内なる知る者)」のアイデンティティである「意識的me」の明け渡しは、私たちの実存のまさにその核から深く手放していくプロセスだ。それは、明け渡す人の主体としての「意識的me」を絶えることなく体現し続けていくことによって、バランスを保たれなければならない。「意識的me」と「絶対のI am」との合一は、「意識的me」と「絶対の純粋な意識的me」とが溶け合うことによって、「絶対のKnower」と呼ばれている。ここで、「意識的me」自身は、「不在」の境地に入り、「絶対」とひとつになる。「絶対のKnower」へと変容するために、「the Inner knower」は「絶対の純粋な意識的me」と溶け合わなければならない。そのため、それは「純粋な意識的me」のサマディと同じ位置でエネルギー的に体験される。それは、前頭葉の底、眉毛のところだ。「絶対のKnower」を私たちが実現するためのツールは、「意識的me」の垂直な明け渡しと、主に、「the Outer knower」の自己吸収(私たちが自己吸収の2番目のレベルと呼んでいるもの)だ。

 ゆえに、「絶対のKnower」の実現は、「the Inner knower」が「純粋な意識的me」と溶け合い、「エッセンスme」の中にもっと深く彼自身を確立するということを意味している。「基本的なKnower」の実現のために、「絶対のKnower」はその後、「基底のme」と溶け合わなくてはならない。これに続き、私たちは「エッセンスーサマディ(本質―サマディ)」を持つ。そこでは、「基本的なKnower」はついに「エッセンスme」と溶け合い、そしてそのように、「エッセンスme」は「the Inner knower」のアイデンティティとなる。「エッセンスーサマディ」を通して、私たちは「原初のknower(プライモーディアルノウワー 原初の知る者)」を実現する。そしてついに、「内在する(イマネント)サマディ」を通して、「the Inner knower」は「エッセンスme」の秘された真髄に入り、「内在するI am」と溶け合う。ここで、彼は「内在するknower」となる。私たちの真の自己の実現だ。



「the Outer knower(アウターノウワー 外なる知る者)」のサマディへの進化                         

「半透明なknower(トランスルーセントノウワー 半透明な知る者)」   

 「意識的me」の2つ目のセンターである「the Outer knower」が完全に「本質的なme」の中へと吸収されない限り、それは妨げる影響を与え続ける。そんな普通のシナリオにおいては、たとえ「意識的me」が目覚めても、「the Outer knower」は統合されないまま、「観察者」の状態へと回帰してしまう。それは私たちの意識を弱め、極端な自己関与と、外向きの注意や相対的な意識、そして対象物との同化によってエネルギー漏れを起こしてしまう。「透明な(トランスペアレント)Knower」の状態では、人は「the Outer knower」と「本質的なme」の相対的な統合の地点に達している。しかしながら、究極的に、それらは完全に統合される必要がある。

 「the Outer knower」のサマディのための正しいベースを形づくるものは、「絶対のKnower」だ。それを私たちは「シールドステート(封印された状態)」と呼んでいる。「the Inner knower」における、サマディの中の「the Outer knower」、あるいは「シールドステート」は、私たちが「半透明のknower」と呼んでいるものだ。「半透明のknower」は、「絶対のknower」から生じる「エッセンスme」の2番目のセンターだ。「半透明のknower」は、私たちの魂と完全にひとつになり、私たちの純粋な本性の光とひとつだ。


「the Inner knower(インナーノウワー 内なる知る者)」のさらなる進化                           

「基本的な(ファンダメンタル)Knower」:「基本的なサマディ(ファンダメンタルサマディ)」 

 「絶対のknower」の実現は、非常に深遠だが、それはなお、「the Inner knower」と「エッセンスme」の間に残っている二元に関係し、不完全な「不在」の状態に関係しているという、重要な制限を持っている。私たちは、「絶対のI am」の中のサマディは完全な「不在」だと思うに違いないが、これは、見地の問題だ。それは確かに深遠な「不在」の実現だが、ここでの「不在」の浸透は、「the Inner knower」が「エッセンスme」と完全に溶け合うにはまだ不十分だ。この制限を打ち破るために、「the Inner knower」は「基底のme」と溶け合い、私たちが「基本的なサマディ」と呼んでいるものを顕さなければならない。「絶対のknower」と「基底のme」が溶け合う中で、「the knower」は「基本的なknower」に変容する。「基本的なknower」は、「絶対のknower」と「原初のknower」の間の段階だ。



「原初の(プライモーディアル)Knower」:「エッセンス―サマディ」と「I(私)」の実現                             

 
「エッセンス―サマディ」とは、その名前が含んでいるように、「エッセンスme」の中のサマディだ。「エッセンスme」は、ずっと「the Inner knower」のアイデンティティであるが、まさにその核は、その「the Inner knower」の到達を超えている。「エッセンスme」は、その周りで「意識的me」が形づくられ、そのセンターは、「意識的me」そのものより深い。「基本的な knower」は、「エッセンスme」の中での「the Inner knower」の自己吸収を通して、「エッセンスme」の核がついに浸透されるという、完璧な垂直の「不在」のプラットホームを提供する。この吸収の副産物は、「I」の実現だ。「me」に反して、「I」の中で、「エッセンスme」と「the Inner knower」の間の二元は、完全に超越される。ここで、「the Inner knower」のアイデンティティはついに「エッセンスme」そのものへとシフトする。そして、彼は「エッセンスme」のアイデンティティを想定する。


「内在する(イマネント)Knower」:
「イマネントサマディ」と「内在する(イマネント)I am」の実現      

 「エッセンスme」は、私たちの個人性の核だ。だが、それは、まさに私たちの始まりである「内在するI am」のそれ自身の本来の火花への通路でもある。「内在するI am」は、「原初のI am」の創造への最初の発散であり、魂が生じるためのベースだ。「内在するI am」に入るためには、「the Inner knower」のさらに深い自己吸収が要求される。「エッセンスme」の中へと、それを通ってさらに浸透していくことだ。私たちはこの最も深い自己吸収を、「内在するサマディ」と呼んでいる。「原初のknower」は「エッセンスme」のゲートを通り抜けて、「me」と「I」の両方を超えたアイデンティティの次元へと入っていく。私たち実存のまだ見られたことのないベースのアイデンティティ、「内在するI am」だ。それは、meでもIでもない。最も微細で、まだ見られたことがなく、本質的に超えている。それが私たちの本来の自己だ。「内在するknower」は、私たちの最も深い内在性を実現する者であり、「私は誰か?」という問いの最終的な答えだ。


超越は内在性(イマネンス)だ                      

 超越の概念を、「超えて」行くこと、あるいは私たちのmeが非個人性の状態の中へと消え去って行くことだと認識するのは普通だ。しかしながら、超越のための真の通路は、私たちである者の外側にはない。それは内側だ。「エッセンスme」の内側なのだ。私たちの「エッセンスme」が、創造の神の頭、「原初のI am」とそもそもひとつである私たちの個人性の本来の聖なる火花である「内在するI am」への入り口だ。



完璧な進化                          

 自由は、私たちの霊的感性の自然な開花だ。まさにmeと魂の溶け合い、魂とI amの普遍的で絶対の次元との溶け合いそのものだ。他のより深いエネルギー的な境地を達成することよりはるかに、それは私たちの抜本的な幻想からの超越であり、本来の家に還ることだ。愛の境地に至ることが、私たちのホールネスと超越への旅の終わりだ。というのも、ここで、私たちの魂はようやくその忘却の次元の中での輪廻転生の目的を成就するからだ。人間のアイデンティティと地上的意識の中で彷徨うことから解放され、魂は普遍的な知性という住居に戻り、本来の「不在」の深みから、彼女の原初の存在の光を再生する。だが、それは彼女の地上での旅の終わりではあるが、彼女の本来の自己を現実化することによって、魂はその進化と存在の新しい時代を始める―『彼方』の中で。彼女の新しい生は、もはや不完全さから自由を探すことではなく、愛と至福、そして真理の次元の中へと、終わることなく広がることだ。これが、完璧な進化そのもの、絶え間ない理解の目覚め、そして『最愛なるもの』のハートの中への明け渡しだ。

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