2018年3月1日木曜日

アナディの教え~アナディwebサイトより その3 目覚めの地図 vol.2 「純粋なme」の次元

目覚めの地図
vol.2

純粋なmeピュアme)」の次元              

意識の純粋なme(ピュアmeオブコンシャスネス)」          

純粋なme」を目覚めさせるためには、最初にI amへの入り口が開かれなければならない。それは、肉体の頭の後ろに位置している。この最初の開きが、私たちのmeを普遍意識につなげる。この開きは、常に霊的ガイドによるイニシエーションを通して起こる。しかしながら、稀なケースでは、正しいガイダンスを受け取ることで、ひらめき、突然同時に開き、その境地を認識することもある。それは、一人で自己探求しても目覚めさせることはできない。なぜなら、それは明け渡しの要素を必要とするからだ。一度そのスペースが開かれたら、私たちは自己想起と水平な明け渡しの絶えざる修行をする必要がある。それは、ピュアアテンション(純粋な注意の働きだ。目に見える知覚の場との両極性が必要とされるため、この修行は初め、目を開けて行われる。これができたら、次は坐る瞑想で練習する。そこでは、「純粋なme」を絶えず体現し、後頭部で垂直に安らぐことを学ぶ。

意識の純粋なme」は、最初、目を閉じている時は頭の真ん中と後ろの間で純粋な主体として体験され、目を開けている時は頭の後ろで体験される。それが成熟してくるにつれ、その主なセンターは後頭部にとどまりながらも、その状態は自然に頭全体を満たすように広がっていく(「本質的なme」の座である前頭部を除いて)。水平なサマーディが到達された時、「純粋なme」の核は目を開けた状態で肉体の頭の後ろで体験される。

純粋なme」は、ピュアアテンションI amへと水平に明け渡すことを通して目覚めさせられる。最初、その明け渡しが頭の中である程度の水平の深さを産み出しはするが、I amの閾を横切ることはない。この中間状態が、「アウェアネス」と呼ばれているものだ。ピュアアテンションがアウェアネスを体現している時、「純粋なme」が誕生するが、それはプレゼンス(存在の次元に限られている。これが、プレゼンスの「純粋なme」だ。しかしながら、「純粋なme」を完全に実現するためには、ピュアアテンションはその水平な明け渡しを続けなければならず、I amの中に深くそれ自身を錨のようにとどめ、「不在」の中へと渡っていき、「純粋なme」のベアアテンション(裸の注意を目覚めさせ体現しなければならない。

もし、「」が実現されていなければ、私たちは真に普遍意識(ユニバーサルコンシャスネス)と溶け合うことは決してできない。「意識の純粋なme」は、「エッセンスme」のI amの中への最も深い拡張だ。それが、普遍意識との合一に到達する者だ。I amにアクセスするまで、「純粋なme」は完全に体験されることはない。なぜなら、それは普遍的リアリティと合一する主体として実存の中に入っていくからだ。「純粋意識(ピュアコンシャスネス)」を手にし、それをまさに私たちのアイデンティティとして所有するために、私たちにI amを体現させてくれるのは、「純粋なme」だ。


純粋意識ピュアコンシャスネス」                 

 「純粋意識」は、「純粋なme」と普遍的I amの統合だ。私たちが水平の明け渡しを養っていくと、最終的に「不在」あるいは「普遍意識」の中のサマーディの境地に辿り着く。同時に、魂の意識として、「純粋なme」を体現していく。これが、「純粋意識」の状態だ。

 「普遍意識」の中への「純粋なme」の水平なサマーディを超えて、私たちの進化はI amの体現へと深まっていく。それを通して、「純粋なme」はI amのベアアテンション(裸の注意となり、「普遍の主体」はまさに私たちの自己として実現される。「普遍の主体」へのシフトの上で、「純粋なme」は「普遍me(ユニバーサルme)」に変容し、それによって魂の普遍的な側面が目覚める。

 「純粋意識」の完全な目覚めは、全体としてのコンシャスネスの進化の終わりを意味しているわけではない。それはただ単に、私たちの純粋な本性の一側面を表しているに過ぎない。そしてそれは、「エッセンスme」の目覚めや、人間としての意識と魂の統合を含んではいない。さらに、真の完成に到達するためには、「意識の純粋なme」が中心通路を通して「源泉」に、垂直に明け渡し、「不在」の状態に達しなければならない。

  


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